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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第一章 スリオルト 
1/18

一 「小説家の僕」は喫茶店で

「先生、今回はまた、何故少年を主人公に?」

「そう、ですね」

 言葉を切った僕と彼との間を、ウェイトレスの運ぶコーヒーの香りが柔らかく包み込む。

「こちらホットコーヒーとアイスティーになります」

 目の前で白いソーサーとカップが、かちゃりと小さな音を立てた。持ち手の部分が絡みつく蔦のように細工されている、凝った作りのカップだった。

「ありがとうございます」

 僕は顔を上げずにウェイトレスへ礼を告げた。テーブルの向いに座る打ち合わせ相手は、彼女の目の方を見て笑顔で軽く頷いた。

「以上でご注文の品はお揃いでしょうか」

「はい」

「では、ごゆっくりどうぞ」

 彼女の淡白な声音、その素っ気ない口調が、過去の友人の声と少し重なった。

 去っていくウェイトレスの後ろ姿を追うように振り返る。腰に巻かれた白いリボンが彼女の歩調に合わせてふわりと揺れた。

 清潔そうな白、それは僕の好きだった色だ。

「ミデルフォーネさんは、先の戦争の際はどちらに?」

 唐突な僕の質問に、彼は帽子の褄に軽く触れてから肩を竦めた。

「私ですか。親戚揃って、海外へ高飛びですよ、大声では言えたもんじゃありませんがね。知人が南にいまして。あそこは幸い、大戦には中立でしたから。そちらにしばらく居りました」

「そうでしたか。海を渡るのには随分苦労されたでしょう」

「まぁ、あの時代ですからね。逃げるにしろ残るにしろ、苦労しなかった人なんか居なかったでしょう」

「そうでしょうね」

「先生は、ずっとこの街に?」

「いえ、生まれはずっと西です。家族親戚も大戦初期にほぼ失って」

 淡々と情報を提示しながら、彼の目をじっと見つめた。

「大戦終結はノモモギで迎えました」

 ミデルフォーネの眼の色が、面白い程に変わる。

「の、ノモモギ、ですか、あの終わった都市の……」

「えぇ」

「で、では、今回の作品は、その頃の思いをモチーフに?」

「モチーフ、と言いますか。実体験を基に書いて行くつもりです」

「実体験……ですか。ノモモギの生き証人である先生の。なるほど、それで先生が十代半ばの頃が舞台に。ああ、つまりそれが主人公が少年である所以ともなる訳ですか」

 漸く自身が投げ掛けた質問の答えが返って来たとばかりに、彼は大きく何度も頷いた。そして思い出したように、革の大きな黒鞄からペーパーバックを数冊取り出した。

「いつもそんなに持ち歩いておられるんですか?」

「いやいや、今回はちょっと特別に。ええと、これと、これと……」

 中から選び出された二冊が、僕の前にすっと差し出される。

「著者であられる先生は、ご覧になるまでもないとは思いますが」

 彼はこめかみを掻きながら、アイスティーで唇を濡らした。

「先生の作品は、単体で書籍化されているもので過去六冊。あ、勿論。編集を担当させて頂く前のものも、全て拝読しております」

 店内の蓄音機から流れる音が止み、一瞬の静寂が訪れた。そして再び上品なクラシック曲が控えめに流れ出す。

「そして、あの賞の候補作として特に際立った作品はこの二点」

 二冊の題字、『廃屋に風船を浮かべて』と『嘴に緑のオリーブを』が目に留まる。どちらも僕が数年前に雑誌へ寄稿し、後に本として出版された小説だ。

「受賞こそ逃されましたが、素晴らしい作品でした。私は今でも、こちらの嘴にの方が審査員の得票数自体は上回っていたと信じていますよ」

「高く評価して頂いていることには、深く感謝します。でも買い被り過ぎですよ」

「いやいや、本当に」

「大賞を獲られたミノワ先生の作品は、表現が豊かで、本当に心に沁み入るものでした。描かれる少女の髪の質感までが、現実に触れているように感じられる程の圧倒的な没入感。僕には到底真似できません」

「確かにミノワ先生の技量は認めます。情景の描写は一流ですし、起承転結がしっかりしていて分かりやすい。これといった非は無い。しかし、どうしても私は……」

 彼は拳に力を込め、テーブルをこつんと叩いて沈黙した。ミデルフォーネの濁した言葉を僕自身が引き継ぐ。

「……おっしゃりたいことはこうですね」

 コーヒーカップの持ち手に指を絡ませ、陶器の感触を味わった。

「僕の作品が戦争を描いていたから選ばれなかったのだ、と」

「そうです」

 一段と声のトーンを落とし、彼はさらに拳を強く握った。

「今や言論の自由は保障されています。勿論、戦争をテーマにした作品は既に幾つも出版されています。それでも、全くもって足りない、認識が。戦争があったことを、多くの人間が忘れようとしている」

「果たしてそれはいけないことでしょうか」

「悪いと言うつもりは私にもありません、積極的な意味を持つ場合にはです。かさぶたはやがて剥がれ、傷はいずれ癒えていく。それ自体は自然なことです。人は絶えず前進する。しかし傷を負った事実、それをもたらした己の恥ずべき真実が消えてなくなるわけではありません。それを隠し、あまつさえ無かったこととして葬れば、いずれ同じ過ちは繰り返されます、そうでしょう? そして世間はその過去を、消し去りたい過去を掲げて歩く者に、正しい評価を下そうとしない。直視しようとしないんです!」

「戦争を……本当に憎んでいらっしゃるんですね」

「勿論です!」

 力強い即答だった。

「先生もそうでしょう」

 ガラス窓の向こうを歩く人々の姿が目に入る。重厚なコートに身を包み、北風をはねのけて歩む者と隅々まで暖められた喫茶店でアイスティーを楽しむ者。

 僕は答えなかった。

「先生の作品は社会批判文学として注目されつつあります。この二作品はどちらからも、あの大戦への批判がひしひしと伝わって来る」

「……批判を、込めるような書き方はしていません。そういう捉え方もあるのかもしれませんが」

 あくまで平坦にかわす僕の言葉に、彼はあからさまに眉を顰めた。僕は一度息を吐いてから、口を開いた。

「ミデルフォーネさん。以前から、この点についてはお話しなくてはと思っていました」

 店の奥、柱時計が時を知らせる鐘を打っている。

「僕は勿論、編集者としてのあなたを高く評価しています。あなたが担当して下さった作品はほぼフィクション。言ってしまえば誤魔化しのきく世界観のものでした。それでも、あなたは時代背景や作品内の時間の流れに矛盾が無いよう、丁寧に資料にまとめて下さいました。誤字脱字は見逃さないし、執筆締め切りに間に合うように絶妙なタイミングでの催促も欠かさない」

 普段ならば、「そんなお世辞はよして下さい」と顔を赤くするタイプのミデルフォーネに、何の変化も見られない。これはいよいよ僕の言葉に気が回らないほどに、彼を熱くする何かがあるらしい。

「それでもです、ミデルフォーネさん。僕たちが同じものを目にしても、同じものを見ることはできない。一読者としてのあなたのご意見には、書き手として賛同しかねる場面が多い」

「私はね、先生。先生にはこれからも、こうした作品を書いて頂きたいのですよ」

 案の定僕の言葉とは無関係に、彼の語調はどんどんと強まっていく。

「戦争をテーマにしたものを、ということですか」

「そうです。いや実際には、何も先の大戦にこだわらなくてもいいんです。こういう、人々が目を背けている、気付かないふりをしている現実を形にし、世に送り出せる人間は絶対に必要なんですよ」

 彼は汗をかいているアイスティーのグラスを掴むと、勢いよく飲み干した。溶けかけた最後の氷が、底に張り付いて、やがて消える。

「それを編集長は!」

 急に張り上げた怒声と、振り下ろされたグラスの底が奏でた打撃音に、喫茶店の奥の席の老人がこちらへ首を伸ばしている。グラスが割れてはいなかったからか、ウェイトレスはやってこなかった。

「バルフォン編集長に何か言われたんですね。彼は何と?」

「『賞を獲って頂くために、スリオルト先生に戦争物はご遠慮願いなさい』と」

「なるほど、それで」

 今朝からの彼の苛立ちは、あの編集長の圧力から来ているのか。

 僕はテーブルに両肘をつき、指を組んだ。

「確かに先生には是非とも賞を獲って頂きたい、その気持ちは私とて同じです。でもそこで戦争物は避けろなんて、あんまりじゃないですか。それを歴史ある我が出版社の編集長が口にする。それじゃああんまりだ、あからさまだ」

 頭に血が上ってしまい、上手く言葉にならない様子の彼を前に、僕は組んでいた指を解いた。そして右手を伸ばし、彼の鼻の高さでぱちんと音を立てた。急に毒気を抜かれたようにぽかんとする彼に、僕は静かな物言いを保ったまま告げる。

「まず、最初にお断りしておきます。僕は今回の作品の内容を、変更するつもりはありません」

「それでは、こ」

 瞳を輝かせる彼の続く言葉は手で制した。

「ただ、ミデルフォーネさんのご期待に添えるかと言うと、そうも行かないと思います」

「それはどういう……」

「確かに僕は次の作品の背景として、戦争を選びました。登場人物の一人は当時の僕自身です」

「自伝、ということですか」

「どうでしょうか。お恥ずかしながら、自伝作品に触れた経験があまりないもので、そういったものにあたるのか判断しかねますが。いずれにせよ、十代の少年少女の言動が、戦争を否定するものに繋がるとは言い切れません」

「しかし、現実に戦争に巻き込まれた子供達の様子を描かれるのですよね? 読者は自然と、そういうことを感じ取るのでは」

「あの時、あの場に居た僕達の感覚を一言で表す、適切な表現が見当たらないのですが……どうあってもミデルフォーネさんの思っておられるものとは異なる気がします」

「それでも、今回の作品のテーマを変えるおつもりは無いと」

 彼はあごに手を当てて黙り込んだ。僕の発言の意味を考えているのか、説得の手段を探しているのか。構わずに僕は続ける。

「大規模な戦闘、戦禍に巻き込まれる子供。確かにこの響きだけを取り出せば、世間は戦争批判を思い浮かべる。立ち直り切れていない今の社会に出すには、傷が新しすぎるのでしょう。でも僕はここで、このタイミングでどうしてもこの作品に取り掛からなければなりません」

 僕は自分の鞄から一枚の紙を取り出してテーブルに置き、彼の前にすっと滑らせた。

「これは?」

「十年ほど前の、手紙、のようなものです」

「お読みしても?」

「はい」


 親愛なる友に捧ぐ

 まず謝らなくちゃいけない。ごめん。

 僕にはどうしても、あの日々を英雄譚としては書けそうにないんだ。

 でもきっと、ナナらしいって、いつか言ってもらえると思うから。

 僕らしく、最後まで書き通すと、僕らの神の名にかけて誓うよ。

 ナナ


「この“ナナ”というのは?」

「当時の“僕”の名前です」

「名前……ナナ?」

 彼は何か古い記憶を呼び覚ますように遠い目をした。

「僕らは当時の仲間たちと約束をしていました」

「約束、ですか」

「はい。この戦争を生き延びた者が、僕達の英雄譚を書こうと」

「英雄譚、ナナ……まさか先生! ……あの“メメントモリ”の?」

「そういうことです」

「はぁ、それで終結時はノモモギに……」

 彼は驚きを隠せない様子で、口を手で覆って震えた。

「それならば、あぁ、いや、そうですね」

「僕はどうしてもこの作品を書き上げたい。ご助力、お願いできないでしょうか」

 深く深く頭を下げる。僕は、どうしても、約束を果たさなければならなかった。

「勿論お引き受けいたします。いや、ご満足頂ける程お力添えできるかどうかは分からないのですが……」

 戸惑う彼の次の言葉を、頭を下げたままじっと待つ。

「……そうですね、編集長の方は、私から説得してみます。彼もこの話題には、必ずや興味を持つはずです。言論思想を扱う者の端くれとしてこれ程名誉なことも無い。ですが……」

 言いたい事は分かっていた。

「正直、どう言っていいのか。本当に、こんな、ご本人にお会いできるなんて、えぇ」

「すみません」

 動揺を隠せない彼の額には大粒の脂汗が浮かんでいる。

「僕自身、それほど肝の据わった人間ではありません。ですから、ルポルタージュというより、限りなくフィクション作品に近い形を取らせていただくつもりです」

「そうですね、そうしていただけると出版社としても……」


 カラン。

 喫茶店の扉が開くのと同時に、上部に取り付けた鐘が鳴る。

 僕らはそこでお互いに深く呼吸をした。

「この先の詳しいお話は、出来れば僕の書斎で聞いて頂きたいと思います」

「はい、それは、そうですね」

「僕の家の住所は分かりますか?」

「えぇ、以前車で先生のご自宅前を通りかかった際に、編集長から」

「では、お出迎えに上がらなくてもお越しいただけますね」

「このままお伺いする、というのは?」

「いえ、僕の方は構いませんが」

 僕は少し笑い出しそうになるのを堪える。真っ青な顔の担当編集者の膝が小刻みに震えていることに、気付いているのは僕だけの様だ。

「ミデルフォーネさんには、少しお時間が必要かと思いまして」

「そう、ですか……」

「明日の昼ごろは空いておられますか?」

「はい、勿論。私の方は何時でも構いません」

「お昼のご用意もできますが、僕の用意した食事では安心して召し上がって頂けないでしょうから」

「と、と、と、とんでもない!」

 我ながら意地悪な冗談だと思ったが、彼は真に受けてしまったようだ。

「では明日の十三時に。軽食をご用意しておきます」

「はい……」

 ちょうど横を通りかかったウェイトレスに目配せをして右手を上げる。

「伝票をお願いします」

 呆気にとられている彼を無視し、二人分の会計を済ませる。何時もは編集部が持つ飲食代を僕が払った事にも、彼は気が回らないようだった。

「ミデルフォーネさん、あなたがもしこのまま然るべき所へ駆け込んだとしても、僕は決してあなたを恨んだりはしない。これは神の名に懸けて絶対です」

「そ、そ、そ、そんなことは!」

「では、明日、お待ちしています」


 カラン。

 僕は喫茶店を後にした。

 残された彼の思考が正常に動き出すまでにどれくらいを要したのか、僕は知らない。

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