第6話 モーゼス・ライブラリー
【前回のあらすじ】
ある日、帰宅した小泉工作は風呂場の浴槽に見知らぬ魚が海水と共に放たれていることを発見する。一体誰が? と疑問に思う工作は、勝手に自室に入り込んできたレイラと共にこの魚がどこから来たのかを考えるも答えは出なかった。
そんな中、レイラはこの状況をヒントに新たな話のネタを作ろうと提案。工作は自分が考えることが面倒だったので彼女に話作りをさせてみたところ、予想外の下ネタ展開に持っていく流れに焦ってしまった。
そして色々あってズブ濡れになったレイラは工作の上に伸し掛かる体勢になり、鼓動高まる状態に……しかし、そのタイミングで謎の女性「楓恋」が突如浴室に現れて場の空気を凍らせてしまう。
彼女の手には包丁が握られていた……。
【登場人物紹介】
・小泉工作[34歳 独身]
サスペンス・ミステリー作品をメインとする小説家。代表作である「ダブルフィクション」は10万部のベストセラー。現在は原心社出版「月刊エクリプス」にて「痛みの要求」という作品を連載中。左手の平にシャーペンの芯が埋め込まれている。
・レイラ[1?歳]
ファーストネーム以外が全て謎に包まれている女性。褐色の肌にウェーブが掛かった黒髪が特徴。最近ミステリアスなメッキがはがれかけている。中指と薬指の長さが同じ。
・マスター[50代後半?]
喫茶店「展覧会の絵」のマスター。チャップリンのような口髭がチャームポイント。無口。工作に対しては冷淡な態度だがレイラとはよく喋っている。指毛の処理には毛抜きを使っている。
・楓恋[年齢不詳]
工作と親しい間柄のようだが……?
時刻は午後6時49分、小泉工作とレイラの目の前に突如謎の女が現れた……その名は楓恋。これより3人は「血」のしたたる惨劇を目撃することになる。
「よく見てなよぉ……」
楓恋はその右手に握られていた包丁を容赦なく振り落とし、煮詰めたワインのようなドス黒さを帯びた血液を飛び散らせる。
「ひっ!! 」
「これしきで驚かないでよ……ハハッ! 大事なのはここからだよ! 」
鈍く光る刃先を柔らかな肉に突き刺して一気に引き裂いていく楓恋、その動作には一切の迷いが無かった。まるでこれまで何度も同じような事をしてきたのかと思うほどに躊躇が無い。
「ハァーッハッハァーッヒッ! 死ね死ね死ねぇぇぇぇッッッッ!!!! 」
「楓恋さん! 」
怒り・怨念・憎しみ……ネガティブな言葉だけが相応しい楓恋の形相にレイラは恐怖すら覚えた……一体何が彼女をここまでさせるのだろう? どうしてここまで感情を爆発させることが出来るのだろう……しかし、ただひたすらに肉を削ぎ落とす包丁の手つきは細やかで美しくもある。レイラはそのギャップに困惑するばかりだった。
「レイラァ! 次はあんたの番だからねぇッ!! 覚悟しときな! 」
「はいぃっ……」
「……あのさ、楓恋」
「何だよ工作! 横から口をだすんじゃねぇ! 」
「もうちょっと普通に出来ないかな……その……魚捌くの……」
楓恋が包丁を振り下ろしている相手、それは先ほどまで元気に小泉宅の浴槽で泳いでいた魚、種類はスズキ目スズキ科の「スズキ」である。
「ごめんごめん、包丁持つとちょっと嫌なコト思い出しちゃってさ。そんじゃレイラ、あんたはこっちの身を切ってみて」
「すみません、私魚を捌くのって初めてで……」
「大丈夫、大丈夫。落ち着いてやりゃ簡単だから」
メゾンおせっかい4階405号室。小説家・小泉工作宅にて和気あいあいとスズキを捌くレイラと楓恋、それをダイニングテーブル越しに見守る工作。3人がこの状況にいたるまでを少し振り返ろう。
□ □ 20分前 □ □
シャワーの水に打たれてずぶ濡れになった2人を目の当たりにした楓恋。彼女の訪問に驚いた工作は上手く言葉を発することが出来ず、魚のように口をパクつかせていた。
「工作ゥ……お前、こんな若い子に何をしようとしてたんだ? アァ!? 」
楓恋はゆっくりと浴室に入り込む……右手に新聞紙の鞘に包まれた包丁を握ったまま……。
「ごめんなさい! これは誤解です! 」
レイラはシャワーの放水を止めつつ、楓恋に誤解を晴らそうと詰め寄った。
「私、レイラっていいます! 先生のファンで、たまたま忘れ物を届けにこの部屋に来ただけなんです! それで私が石鹸で足を滑らせて先生を押し倒しただけで……すみません! 先生の彼女さんに……なんか……スグ帰りますんで! 」
「ちょっと待った! 」
急ぎ足で浴室から出ようとするレイラ、しかしその逃走経路を塞ごうとばかりに楓恋は彼女の前に立ちはだかった。
「ごめんなさい……」
レイラはこの時、軽率に工作宅へと赴いたことを激しく悔やんだ。「何で考えなかったんだろう……先生に恋人と言える存在がいるってことを少しでも考えなかっただなんて……」と。そして誤解とはいえ、その女性を怒らせてしまってそれに怯えている自分がひたすら情けないと感じていた。
「レイラ……だっけ? 」
「はい……」
「こんなズブ濡れで外に出るつもり? 風邪ひくよ」
レイラの不安とは裏腹に、楓恋は小動物に語り掛けるような優しい口調で彼女の身を案ずる言葉を投げかけた。その瞬間、心を張り詰めていたレイラの緊張は一気に解け「ふぇっ? 」と間の抜けた返事をしてしまう。
「工作、乾燥機使わせてよ。あとバスタオルも」
「お……おう……」
困惑するレイラ。その心を悟ったかのように楓恋は彼女の両肩に手を置き、こう言った……
「私は小泉楓恋30歳……そこにいるアホ小説家・小泉工作の妹です。よろしく」
楓恋は兄の若きファンを手厚く歓迎し、彼女が風邪をひかないように自分の着替え(上下紫色の派手なルームウェア)を貸してあげた。
□ □ □ □ □
「それにしても……どうやって僕の部屋に入ったんだ? 鍵はちゃんと閉めてたのに」
工作は濡れた髪の水分をタオルで拭き取りながら妹に質問をする。
「ああ……そりゃあ、何年か前にここに来たことあっただろ? そん時に鍵をこっそりコピーしといたからね。ホームセンターに持ってけば1時間も掛からなかったわ」
「なんで勝手にそんなコトを!?」
「まぁ、万が一の時の為にって思ってね。実際こうやって万が一の時が来たワケだし」
「な……何があったんだ? 」
「それは飲みながら話そうか? どう、レイラ」
「こんな感じですか? 」
慣れない食材の扱いに戸惑いながらも、レイラはどうにか「スズキの造り」を作り上げることに成功していた。テーブルの上に置かれた丸形の皿には大輪の花のように盛り付けられた新鮮で弾力のある身が蛍光灯の光を強く反射させた。
「上出来。それじゃ始めようか、レイラはお酒飲める? 」
「いえ、まだ飲めないんです」
まだ飲めない? 工作はレイラのこの発言から彼女が10代であるという予想が的中したことに心の中でほくそ笑んだが、それと同時に先ほど彼女に対して危うげな行為に及びそうになったことに対して焦りを覚えてしまう。
そんな兄のコトなど尻目に、楓恋は予め工作の部屋の冷蔵庫にて冷やしておいた缶ビール、そしてスーパーのビニール袋からポテトスナックといったつまみの類を次々にテーブル上に並べ、酒宴の準備を取り行う。
「ビール買ったらつまみを買う分が無くなっちゃってね、せめて刺身が食いてぇなと思ってねぇ」
「だから近くの海で釣ってきて僕の風呂場で泳がせてたと……」
浴槽の魚も楓恋の仕業だった。彼女は近くの海で釣りあげたスズキを海水ごと大きなビニールに入れて留守中の工作宅に上がり込み、生簀代わりとして浴槽に泳がせておこうとしたが、水を貯める為のゴム栓が見つからなかった。そこでしょうがなくビニール袋を風呂栓に広げておいて栓の代用としていたところ、排水口の奥の方まで吸い込まれてしまっていたようだ。(詰まったビニールは工作が針金ハンガーを解いた物で引っ張り出した。)
さらに工作宅には包丁の類が小さな果物ナイフしか用意されていなかったので、工作とはすれ違う形でアパート1Fの喫茶店「展覧会の絵」に単身赴き、理由を話してマスターから手頃な包丁を借りて戻って来たというコトらしい。(工作とレイラはエレベーターを使い、楓恋は階段で昇降したので偶然にも鉢合わせるコトがなかったのだ! )
「さて工作、今日はお祝いだからとことん付き合ってもらうからな! あ、レイラはコーラでね」
「え? お祝いって何なんですか? 」
楓恋はグラスにコーラを注ぎながらレイラの質問に答える。
「ああ、私結婚すっから」
あまりにもあっけらかんと、まるで「棒アイスを買ったら[当たり]だった! 」くらいの軽い口調で重大な報告をする楓恋。レイラは「スゴイ! おめでとうございます! 」と素直に祝福し、工作はただただ茫然自失となり、自分でグラスに注いだビールが溢れ出しているコトに気が付かないでいた。
「工作ゥ! 何こぼしてんだよ汚ねぇな! 」
「……楓恋……お前が……結婚……? 面食いで男をことごとく尻に敷いて失敗し続けていたお前が……相手は誰なんだ……? 確か前まで漫画家志望の年下と付き合ってただろ? そいつなのか? 」
「実の妹にボロクソ言いやがって。違うよ、そいつとは別れた……っていうか振られた。まぁ、私が悪いんだけどね」
楓恋は兄がだらしなくこぼしたビールを布巾で拭きながら答える、その表情はどこか自嘲的だった。そして自分のグラスにもビールを注ぐとポケットから携帯電話を取り出し、一枚の画像をその液晶画面に映し出させる。
「これが夫。どう? 『的場彰』って言うの」
得意気な顔の楓恋は、熊のように太った大柄でヒゲを生やした男の写真を2人に見せつけた。
「男らしい人ですね、凄く頼れそうなカンジです」
「何だかお前の趣味とはちょっと離れた感じだな……いつ知り合ったんだ? 」
「う~ん……先月かな? 」
「「先月!?」」
少しのコトでは動じないレイラも流石にこの時ばかりは工作と一緒に声を裏返らせて驚きの声を上げた。
「先月ってお前……一体どこでどんなキッカケで付き合ったんだ? 何がそこまで急がせたんだ? 」
工作は思わず額に滲ませてしまった汗を自分のハンカチで拭う。そんな絵に描いたような焦り方をする兄の姿を見て楓恋は笑ってしまう。
「ハハッ! そこまで驚くほどのもんじゃないよ、ただ屋上で一緒に綺麗な月を眺めてね……そんな気持ちになっちゃっただけ。こういうのはその時の勢いが大事ってもんよ! さぁグラス持って! 」
楓恋は半ば強引に乾杯の流れに持っていき……「「「乾杯(かんぱ~い)」」」と3人でグラスを突き合わせてささやかな祝宴の幕を開けた。
一杯、また一杯、またまた一杯。と次々に缶ビールを流し込む楓恋、その光景に少しばかり危機感を覚えた工作はレイラにそっと「隙を見て帰った方がいいですよ……楓恋は酔っぱらうと下品という言葉が上品に感じるくらいに酷い有様になりますので……」と忠告した。
「うん……」と、とりあえず返事をするレイラだったが彼女は今、楓恋から借りた部屋着のままだったのでこのまま帰るワケにもいかない。たとえこの服を借りたまま帰ってもいいと言われても、まるでアメリカ直輸入のお菓子みたいな紫色をしたルームウェアのまま外に出るコトはちょっとした罰ゲームだ。そう、彼女は自分の服が乾くまでの間は決して外に出られない……いわば人質を取られた状態なのだ。
「うひぃ~……気持ちいいなぁ~えぇ? 工作ゥ~飲んでるかぁ? このムッツリ女タラシもじゃ毛メガネェ? 」
「楓恋、人聞きの悪いコトを言わないでくれよ! 」
早い! もう酔っ払ってる!? レイラは目の前で顔を真っ赤に染め上げた楓恋の姿に戦慄した……酒の味は知らない彼女も、楓恋がものの15分ほどでここまで酩酊することがいかに異常かは理解できた。
「うぉい! おめ、全然飲んでねぇじゃねぇかよ! ホラ一気一気! 」
「よせよ! 僕がアルコール強くないの知ってるだろ」
「あー、そんなこという、そう……そんじゃあねぇ」
と言うと楓恋は突然ブラウスのボタンを外し始めた、その仕草に工作は[ヤバイ予感]を察知し彼女の両手を抑えようとした。
「楓恋お前脱ぐ気だろ! やめてくれ! レイラさんだっているんだぞ! 」
「触るんじゃねぇ! おめーがなぁ一気したらやめてやんよ~、ホレホレ一気! 」
妹の破廉恥な姿を10代のうら若きレイラに見せるワケにはいかない! と責任感に燃えた工作。ここは背に腹は代えられないと感じ、楓恋から手渡された水割りと思しきモノが注がれたグラスを手に取る。
「分かった! 僕はコレを一気に飲み干す! だからお前は大人しくするんだ! 」
「大丈夫なの? 」と心配するレイラを振り切り「コレでいいんですよ! コレで! 」とサムズアップを作り、グラスの中身を一気に流し込んだ工作。鼻を抜ける甘味を帯びた芳香。喉を焦がすようなアルコールの刺激。彼は液体を全て体内に流し込んだ時にようやく気が付いた……
これは……水割りじゃない……?
彼が飲み込んだ飲料はアルコール度数25度の焼酎、それも一切水で薄めていないストレート。酒が苦手な工作がソレを流し込んだとなればその結果は火を見るよりも明らかだった。
「ふげゅっ……がえ……? 」
工作は意味不明の言葉を発しながら、ふらふらと歩きだしてそのまま電池が切れたかのようにフローリングの床に寝転んでしまった。
「せんせぇ-ッ!!」
「なっさけねぇなあコイツは……」
ぐっすり寝てしまった工作を揺さぶりながら「先生! 先生! 」と声を掛けるレイラだったが、「レイラさぁ~ん……おやすみぃ~……」と一言だけ緩み切った口からこぼしたと思ったらそのままスヤスヤと眠り込んでしまった。
「起きてぇぇぇぇ! 先生ぇ~! 」
クレイジーな妹を野に放ったまま別世界へと旅立ってしまった工作の体を揺さぶるレイラ。その背後からはゆらゆらと着実に魔の手が近づいていることに気が付いていない。
「捕えたりィィィィ!! 」「ギィヤァァァァ!!」
楓恋はレイラの背中から抱き付くようにして彼女の衣服の中に両手を突っ込み、その下着すら付けていない無防備な双丘をまさぐり始めた!
「何するんですかぁぁぁぁ!? 」
「大きすぎずぅ……小さすぎないぃ……いやぁ~いいモノをお持ちですねぇお嬢さん! ヒヒッヒッ! コレぐらいがいんですよぉ! コレが! いやぁ……さすが10代だねぇ、この揉めば手の平に張り付くかってくらいのハリ! ずっと触ってたいなぁ……いいねぇいいねぇ!!」
これ以上はマズイ! と真剣な危機感を覚えたレイラは、半ば強引に楓恋の呪縛から逃れてすぐそばにあったドアを開いてその向こう側へと非難した。
幸いそのドアは内側からロックを掛けるコトが可能で、レイラは躊躇なくドアノブのサムターンを捻って隔絶の障壁を作り上げた。
「ふう……」と一息ついたレイラ。ペタリと床に座り込んでこのまま楓恋が潰れるまでやり過ごそうと思った瞬間、今自分が避難したこの部屋が妙に重い空気に包まれていることに気が付いた。
現在7時50分、日も完全に落ちて暗闇に包まれた部屋で確かに感じ取れるのは異質な[臭気]だった。
何だろう……? この独特な匂い……? 何かが酸化したような……まるで廃屋を歩いているような……。
レイラは恐る恐る手探りで蛍光灯のスイッチを探し、室内に温白色の光を灯した。
未明の空に朝日が照らされて薄闇が切り裂かれるように現れた部屋の全貌。レイラはただただ[圧倒]されて言葉を失ってしまった。
この部屋は工作の[書斎]だった。鉄格子のようにも見えた小さな窓が一つ。その壁際にポツンと置かれた飾り気の無い北欧デザインの木製デスクが置かれ、その両脇にはオレンジの果肉の数に匹敵するほどの様々な本がぎっしりと詰め込まれた本棚が床から天井まで雄大にそびえ立っている。まるでモーゼが二つに割った海の底を歩いているような壮大な圧迫感をレイラは感じた。
「すげーでしょ? この部屋」
完全にロックしたはずのドアを難なく開けて楓恋がこの書斎に入り込んできた。レイラはそれにもう驚かない。
「まさか、この部屋の鍵も作っていただなんて……」
「当たり。さすがレイラちゃん、工作が見込んだだけはあるわ」
楓恋はもう酔っ払って正気を失っている様子ではなかった。彼女ですら久々に訪れるこの部屋の空気により、一気に酔いを覚ましてしまったのだ。
「凄い……こんなに沢山の本がぎっしり……」
「驚くには早いよレイラ、何でもいいから一冊適当に取って読んでみなよ」
レイラは楓恋に促されるまま、目の前にあった赤い背表紙の本を引っ張り出してパラパラとページをめくった。
「うそ!? 」
その本にはほぼ全てのページに渡り、元の文章が読めなくなるほどビッシリとの[書き込み]が残されていた。重要な箇所には付箋も張られている。そして彼女は「まさか」と思いつつも別の場所から一冊、また一冊と取り出してページをめくる。
どれもこれもレイラの予想通りだった。その書籍一冊一冊、1ページ1ページに文章の作りにおいて気になった点、参考になった部分、良いと思った表現や技法に関する書き込みが記され、さらに何度も読み返した形跡としてどの本も手垢塗れになって茶色がかっている。部屋に充満する臭気の正体は酸化した書籍が放つ工作の執念にも似た魂の証だった。
「アイツが27の時にイキナリ小説家になる! だとか言って会社辞めちゃった時はね……私も両親も大反対したんだ……でもね、この部屋を見た瞬間に私はそれが出来なくなっちゃった……」
楓恋は床に座り込み、工作についてを語り始めた。レイラも同じく座り込んで真剣に耳を傾ける。
「アイツって意外と昔から女にモテてね……人生で彼女がいなかった時期の方が少ないってくらいね。婚約寸前だった相手もいたんだけど……でも、アイツが小説家になるってコトで別れちゃったの」
工作の少し意外な過去を語る楓恋に対し、レイラは思わず前のめりになった。
「その時の彼女も、最初は工作の夢に協力的だったんだけど……結局駄目だった。アイツについていけなくて自分の方から逃げるように別れちゃったらしいの」
「何でですか……? 先生……何か彼女さんに酷いことでもしたんですか? 」
「違うよ……むしろ、[何もしなくなった]んだよ。工作が小説に夢中になっちゃってからはもう執筆のコトばかり考えてね、まるで新しいおもちゃを買い与えられた子供みたいに毎日毎日……本を読むか書くか……それ以外のコトに一切の興味を失っちゃったの。ちょっと異常ともいえたね、あの時の工作は……目が純粋過ぎて本当に子供に戻っちゃったんじゃないか? って思ったほどだった。そんな中……ベストセラー作品を生み出しちゃったから……」
その先のコトはレイラも良く知っていた。工作の書いた「ダブルフィクション」は社会現象とも言える大ヒット作品となり映画化もされて商業的にも大成功を収めたことを。そしてその想定を超える成功により、彼がモチベーションを失っていたということを。
「去年のお盆にアイツに会った時ね……抜け殻みたいになっちまった顔をしてたのをよく覚えてる……もう駄目かなコイツって正直思ったよ……でもね……」
楓恋はゆっくりとレイラと瞳を合わせた。さっきまでアルコールに溺れていた表情とは全く違う、兄を想う妹の清廉な顔だった。
「今日アイツの目を見て安心した。多分今まで見てきた工作の表情の中で……今一番いい顔をしてると思うよ。子供っぽさの中に、大人としての責任感も併せ持ったっていうか……一番いいバランスって言えばいいかな? 」
レイラはその瞬間、胸が大きく高鳴っているコトに気が付いた。工作のコトを褒められ、どういうワケだか嬉しくなっている自分に少し驚いてしまっていた。
「まぁ、風呂場であんたとズブ濡れになってるところを見た時は私より干支一周分は離れてそうな子を呼び込んで何しとんじゃー! って思ったけどね。あ、若いって意味だよ」
「楓恋さん……あれはもう忘れてください」
レイラは忘れかけていた自分の恥ずかしい場面をほじくり返され、酒を飲んだかと思うほどに顔を赤く染めた。
「ハハッ! ごめんごめん……それとねレイラ。私のことはもう呼び捨てでいいからさ、楓恋でいいよ」
楓恋はそう言ってレイラに手を差し伸べた、先ほどのようなワイセツな手つきではなく、誠実な握手の要求だった。
「それじゃ……楓恋……あらためてよろしく」
レイラは楓恋の手を強く握り返す。歳が離れてお互いに知らないコトだらけだったが、小泉工作という共通の絆が2人の友好を難なく受け入れさせているコトを、二つに割れた書物の海は知っていた。
「レイラ、良かったらあんたのコトもっと教えてくれる? 」
「はい」
■ ■ 翌日の昼 ■ ■
小説家・小泉工作は喫茶店「展覧会の絵」にて、大きく頭を抱えながら二日酔いによる激しい頭痛の荒波と戦っていた。
「うわぁ……まだ頭が痛みます……結局昨日は仕事が出来なかったし……散々ですよ」
「よく確かめないで飲んじゃうからだよ」
同じテーブルに座っているレイラは、そんな苦しみ悶える彼を尻目にレモンスライスを浮かべた温かいコーヒーと共にホットサンドを頬張る。それに対し工作は少しでも二日酔いの症状を和らげようと、ぬるめのアイスコーヒーをチビチビとストローで啜る体たらく。
「あいつと結婚する奴の気がしれませんよ……先が思いやられます……」
「そんなコトないよ、美人だし感じのいい人だよ」
自分が寝ている間に、妹と妙に親密になっていることが少し気に掛かった工作だったが、それによりレイラとの距離がより一層縮まったことに少しだけ嬉しさも感じていた。
「お! 」と何かを感じ取ったレイラはポケットから携帯電話を取り出した。どうやら彼女は誰かからSNSアプリからのメッセージを受け取ったようだ。
「先生、楓恋から伝言がきてるよ」
「ええええっ! 」と重い頭を持ち上げて驚く工作。思わず大声を上げてしまったので周りの客からの視線も集めてしまった。
そんな、僕だって未だにレイラさんとの連絡先を交換してないってのに……くそう! ずるいぞ楓恋! 兄を差し置いて彼女とアドレス交換しているなんて! と心の中で愚痴りながら「すみませんっ! すみませんっ! 」と周囲に軽く頭を下げる。
「えーとね、先生。楓恋の旦那さん、しばらく仕事の関係で山梨に行くコトになったんだって。だからその間ちょくちょく先生ん家に厄介になるからよろしく! とのコトです」
なんてこった……と再び頭を抱える工作。ただでさえ忙しいのにトラブルを巻き起こしかねない妹が自宅に襲来するだなんて……彼の頭痛はより一層激しさを増して額に汗をにじませてしまったので、ポケットからハンカチを取り出して拭き取る。
「先生、それと追伸。『工作! 昨日酔っ払ったどさくさでお前のズボンのポケットに面白いモンを詰め込んだままにしてたの忘れてた! 処分はお前に任せる! 』だそうです」
一体何のことやら……と思いつつハンカチで汗を拭き取りつつも、何やら再び周囲からの視線を感じとり、嫌な予感が頭をよぎった。目の前のレイラも急に呼びかけられた猫のように目を丸くした驚きの表情で自分を見ていることに気が付いた。
「まさか……」
「先生……ソレ早くしまって! また……」
自分がハンカチと思い込んでいた布切れを広げて改めて見直すと、それは案の定ハンカチとは大きくかけ離れた代物だった。
「ゲゲェッ! これは……これはァァァァッ!! 」
それは摘みたてのブルーベリーを思わせる紫色で、布の総面積がクレジットカードのサイズ以下とも思われる極小サイズのショーツだった! 彼はさっきまで公然と女性用の下着、それもキワドイ代物を顔にこすりつけていたのだった!
「キサマァッ! 白昼堂々とこんなコトしやがって!」
工作は再び変態行為に及んでしまったと誤解を受けてしまい周囲の客からバッシングを受けてしまうのであった……。
「ひぃぃぃぃ……! 助けてぇ! レイラさぁぁぁぁん! 」
[モーゼス・ライブラリー] 終わり
→次回[ゾンビ・イリュージョン]へと続く。
今回登場した楓恋が的場彰との結婚に至ったいきさつは
「屋上のチェリーズ」にてお確かめになれます!
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