第5話 バスタブフィッシュ
【登場人物紹介】
・小泉工作[34歳 独身]
サスペンス・ミステリー作品をメインとする小説家。代表作である「ダブルフィクション」は10万部のベストセラー。現在は原心社出版「月刊エクリプス」にて「痛みの要求」という作品を連載中。好きな食べ物はスパム。
・レイラ[1?歳]
ファーストネーム以外が全て謎に包まれている女性。褐色の肌にウェーブが掛かった黒髪が特徴。最近ミステリアスなメッキがはがれかけている。好きな食べ物はポン・デ・ケージョなのだとか。
・マスター[50代後半?]
喫茶店「展覧会の絵」のマスター。チャップリンのような口髭がチャームポイント。無口。工作に対しては冷淡な態度だがレイラとはよく喋っている。好きな食べ物はカレーライスらしい。
執筆の仕事が滞ってしまった小説家・小泉工作は、自宅アパート1Fテナントにて営業している喫茶店「展覧会の絵」に逃げ込んでいつものようにレイラにからかわれつつコーヒーを嗜み休憩を図っていた。
時刻は夕方6時30分。工作は1時間程の休憩を終えて仕事を再開させるべく、アパート4階にある自室へと帰還する。
「全く……いつになったらレイラさん、コーヒーをオレンジジュースに変えた秘密を教えてくれるんでしょうかね……」
工作は一人で愚痴をこぼしつつ、まずは風呂に入って清潔感を取り戻してから仕事に戻ろうとバスルームのガラス戸を開けた。昨日掃除したから今日はこのままお湯を張ればいいや。などと呑気な考えを浮かべて浴槽を覗き込んだ彼だったが、そこに映り込んだ「奇異」な状況に自分の目を疑った。
「え……? 」
小泉家の浴槽には先客がいたのだ。20cmほど溜められていた水の中を体長50cm程の「魚」が悠然と泳いでいる。
なぜ……なぜ魚が風呂に……!? 僕が家を出る前は何もいなかったハズ……一体どこから……どうやって……?
動揺している工作など気にするもんかとばかりに、魚は浴槽の中をスイスイと行き交い続ける。まるで彼がうろたえている姿を見て楽しんでいるかのように。
「へー……先生、お風呂場でお魚飼ってるんだ? 変わった趣味をお持ちなんですねぇ」
工作が狼狽する姿を見て楽しんでいたのは魚だけではなかった。音を立てずに彼の背後に忍びより、呆れるような口調で声を掛ける一人の女性……
「レッ……レイラさんっ!? 何故僕の部屋に!? 」
彼は突然来訪した彼女の姿に驚き、さらには何故誰にも教えていないハズの自宅の場所が分かったのか? という点にも驚き、ダブルサプライズでうっかり尻もちをついてしまった。
「先生、展覧会の絵に携帯置き忘れたでしょ? だから追っかけて届けに来たの」
「携帯電話……あ、そういえば……」
「はい、どうぞ! 」と泣く子も呆然とするほどの笑顔で忘れ物を手渡された工作はもはや住居不法侵入の点で注意する気も起きなくなってしまい、「罪な人だ……」と彼は心の中で呟いた。
「あ、ありがとうございます、レイラさん」
「どういたしまして!……で、そのお魚は何なんですか? 」
レイラはそう言いいながらしゃがみ込んで浴槽を覗き込んだ。工作は隣で興味津々になって魚の動きを追い続ける彼女の顔を横目で見ながら『休憩の為に部屋を出た時にこの魚はいなかったこと』『玄関ドアの鍵はしっかりと掛けられていたこと』を説明した。
「ふーん……それじゃあこのお魚はどこから来たんだろうね? 」
「謎です……それともう一つ気になる点がありますね」
工作は浴槽の排水口に風呂栓がされていないのにも関わらず、水が流れずに溜まり続けている点にも注目した。本来あるはずのゴム製の栓は工作が5日前にチェーンを強く引っ張り過ぎてちぎってしまったので、普段は洗面所の棚に保管しておき浴槽にお湯を張る時にだけ取り出して使っていたコトをレイラに説明した。
「それじゃ排水口に何か詰まってるのかな? 」
レイラさんは手を伸ばして排水口の中に指を差し込むも、何かが詰まっているような手応えを感じられなかったらしい。これはまるで、排水口から水が逆流して溜まったようにしか思えない状況だった。
「あ……先生! ちょっと待って」
レイラは何かに気が付いたらしく、突然自分の指をペロリと舌で舐め始めた。工作は他所の風呂穴に突っ込んだ指を躊躇なく口にする彼女の思い切りの良さに少し驚くも、たった一人で青木ヶ原樹海に乗り込んだ前例もあるので、これくらいはして当然か……と一人で納得してしまった。
「この水しょっぱいよ! 海水だよ先生! 」
「本当ですか!」と工作も彼女にならって水を味見し、確かに塩分を含んでいるということを確認した。
「まさか海水が我が家の風呂に流れ込んでこの魚も一緒に泳いで来たってコトですか? 」
工作のその言葉に対し、レイラは何か悪戯を思いついたかのような表情を作って彼の額に頭突きをするかと思うほどに顔を近づけた。
「な、どうしたんですかレイラさん!? 」
「先生! これはオモシロの原石ですよ! 」
「へぇっ!? 」
「何おマヌケな声上げてるんですか先生! いつもみたいに……ホラ! 」
工作は理解した。レイラは期待しているのだと。今までやってきたように、目の前の事象をネタに新たなストーリーを生み出すその瞬間を目の当たりに出来るコトを。
「う~ん……」
だが今日の工作はそれには気が向かなったようで、その旨をくせっ毛の髪をクシャクシャとかき乱す行為でレイラに伝える。彼は「脳力」を中断した仕事にとっておきたかったのだ。
「え……駄目なの? 先生」
「今日はちょっとですねぇ……頭の中を仕事に専念させたいんですよ」
「そーなのぉ……?」と露骨に残念な顔を浮かべるレイラ。彼は期待に応えられなくて申し訳ないと思いつつも、彼女の膨れた横顔を見て少し意地悪をしてみたくなったらしい。
「……そうだ! 今日はレイラさんが話を作ってみたらどうです? 」
「ふえっ? 」と予想外の提案に目を泳がせるレイラ。どうやら彼女は「攻め」は得意だが「受け」に回るコトは苦手のようだ。
「ちょっと興味ありますねぇ……レイラさんはこの状況から一体どんな話を作ってくれるのか? 」
「ちょ……ちょっと待って……」
いつもとは打って変わり、自慢の黒髪を捩じったり握ったりして明らかに挙動が怪しい。工作はそんな彼女を微笑ましく眺める。彼もだんだんと彼女の面白い扱い方を心得てきたようだった。
「どうですか? やっぱり無理ですかね? 」
「分かったよぉ! 聞かせてあげますよ! 日頃の成果を見せてやるんだから! 」
「日頃の? 」
「え!? いや、何でもないよ」
彼女の言葉に多少のとっかかりを覚えるも、乗り気になったレイラが一体どんな物語を聞かせてくれるのか、工作は楽しみで仕方がなかった。
レイラさんはゆっくりと語り始めた。
■ ■ ■ ■ ■
ある男が怪我で入院し、1ヶ月ぶりにアパートに戻って風呂掃除をしようかと思ったその時、奇妙な光景に我が目を疑った。
バスタブに2匹の魚がいるのだ。それも金魚だった。
バスタブの栓はしていないのにも関わらずしっかりと水は張られている。「水道の故障かな? 」と思って大家に連絡を取るも、業者が来るまで2~3日掛かるらしい。そしてこの奇妙な事態が起こっているの男の部屋だけだったことを知る。
しょうがないのでしばらく浴槽で魚を飼いながらシャワーだけで我慢することにした。成り行き上飼うコトになった金魚にも餌を買い与えることにした。
奇妙な金魚との生活を送りながら次の日を迎えた男は、何か妙な声が風呂場から聞こえることに気が付いた。
その声は風呂場の排水口より聞こえていて、男は「もしや? 」と思いクローゼットに直行、洋服を吊るす為のステンレスの筒を取り外して排水口に突っ込み、耳を当てて筒先からその声を聴き取ろうとした。
男は息を殺して筒の中を通り来る空気の振動を感じ取り、女性の声を微かに聞き取ることに成功した、10代~20代の若い女声だった。
間違いない「この浴槽は不思議な力で別の場所へと繋がっている」と男は理解した。
男はそれに気が付いた時、翌日に居ても立っても居られなくなって秋葉原の防犯グッズ専門店へと足を運び、マイクロスコープカメラ(防水)を購入。排水口に突き刺したステンレス筒の中にそれを通して向こう側の世界を覗き込んだ。
「うおおおっ! 」
思わず男は声を漏らす。どうやら自宅の風呂場は見知らぬ住宅の水槽に繋がっていたのだ。風呂場に迷い込んだ金魚の仲間と思われる魚影が何度もマイクロスコープの画面を行き交った。
「凄い! 凄いぞこれは! 」
丁度その時室内には誰一人姿はなかったので、男はカメラを巧みに上下左右に操作してその水槽のある部屋を隅々まで観察した。そしてその内装からして女性が一人で生活を送る部屋だと察した男は、さらにアドレナリンを分泌させ「ある期待」を胸にまだか! まだか! と家主の帰還を待った。そして数時間を費やし頃、ついにその時を迎えたのだ!
「うひょーっ! たまんねぇぜ! イエス! イエス! 予想通り! 」
帰宅した女性は男の期待通り官能的な雰囲気をこれでもかと発散させるほどの妖艶な美女だったのだ。そして「歩くフェロモン」とも言える彼女は、男に観察されているとは知らず無防備にその身に纏う衣を1枚、また1枚と脱ぎ捨て、ついにその恵まれた肢体を露わにし、まさに生まれた瞬間の姿を男に見せつけた。
「こんなゴージャスなモノ見せつけられちゃ……も……もう……我慢できねぇぜ!! 」
男は筒から映し出される映像を凝視しながら下半身を露出させ、さらには自らの滾る「筒棒」をステンレスの筒穴へと…………
■ ■ ■ ■ ■
「レイラさん! ちょっと待った……」
レイラが熱く語る中、工作はそのストーリーを中断させるべく、彼女の両肩を掴みながら声を挟んだ。
「え、何? 今からいいところなのに……」
彼女は何故工作が自分の創作を中断したのかを理解していなかった。あっけらかんとした表情で焦りで額に汗をかいている彼と向き合った。
「レイラさん……確かにいいところであるコトは分かります。実際同じシチュエーションに陥ったら大抵の男は同じようなコトをするでしょう。ええ、分かりますよそれは……分かりますよ……グラマラスな美女を一方的に観察出来るなんてそりゃあどんな男もテンションも上がりますよ……」
「そうでしょ? その辺のリアリティを重視してみました」
まるで自作カレーの隠し味について語るような得意げな笑顔で彼女は言った。
「レイラさん! 違うんです! 何というか、僕が期待してたのと違うんですよ! まさかこんな……君が茶色の紙カバーを付けてコソコソ隠れ読む官能小説じみた展開に持っていくだなんて埃一粒たりとも思ってなくて……」
工作の顔はトマトジュースで洗顔したかと思うほどに真っ赤に染まっていた。
「先生、なんでそんなに照れてるの? 大人なんだからこれくらいで恥ずかしがらないでよ、こっちまで恥ずかしいじゃん」
「違うんです! その話が恥ずかしいんじゃないんです! 君がそんな話をするから僕が動揺しているんですよ! なんですか『滾る筒棒』って! それを『筒穴』にってあなた! 一体どうしてそんなマニアックなコトを思いつくんですか! 」
レイラは工作の言葉になぜかしたり顔を作って無言のサムズアップで答える。
「何ですか! その立て親指は!? 」
彼はどう受け取っていいのか分からないその反応に混乱し、さらに声を荒げた。
「ついでに言いますけどね、マイクロスコープカメラ(防水)を秋葉原で購入とかイチイチ生々しいんですよ描写が! 『ゴージャス』だとか『歩くフェロモン』だとか表現が少しオヤジ臭いのも何なんですか! それに、もしかして金魚が2匹って『アレ』ですか! 『金』が2つで『アレ』てコトですか! わいせつなダブルミーニングってコトですか!? 」
「……バレたか……」
「ええええええッ!? 」
違う! 僕の知っているレイラさんはこんなコトを言わないハズです! 工作は心の中で叫び散らした。しかし、それと同時に自分自身がレイラについて一体どれだけのことを知っているのだろうか? という自問にも行き着いた。彼女のフルネームも知らない、年齢も、誕生日ですら。レイラが学生なのか? それとも社会人として働いているのか? そんなコトすら分からない……そんな自分が彼女のコトをどうこう言う資格はあるのか……? と……。
工作は風呂場の水面に映る自分の顔と見つめ合い、レイラについて何も知らない自身を恥じ、彼女を自分の中で勝手に作り上げたイメージにはめ込もうとしていたコトに嫌悪した……一体僕は何様なんだろう……と。
そんな工作の悩む顔が面白かったのか、それを水中より見ていた魚は笑い声を表現するかのように「ピシャン! 」と飛び上がって海水の飛沫を工作の顔面に撒き散らしてしまった。
「ぬわぁぁぁぁ! 目が! しみるゥゥゥッッ!? 」
塩分を含んだ水は工作の眼球を刺激させ、彼をパニック状態へと誘った。
「先生! 目を洗って! 」
レイラは緊急事態の彼を救う為に蛇口から水を出して洗面器に溜めようとした……しかし、彼女はここで初歩的なミスを犯してしまう。
「うわぁぁぁぁ! シャワーですよそっちは! 」
レイラはハンドルを逆方向に捻ってしまい『カラン』ではなく『シャワー』を起動させてしまい、2人とも高所に備え付けらえたシャワーヘッドより冷たい水の洗礼を浴びてびしょ濡れになってしまう。
「先生ゴメン! タオル持ってくるね! 」
スコール状態のバスルームから急いで離脱しようとしたレイラだったが、彼女はその時足元をよく見ていなかった……固形石鹸がタイル床の上に放置されていたコトに気が付いていなかった。
「ぐえぇっ! 」「うわっ! 」
石鹸の上に足を乗せて摩擦係数を奪われてしまった彼女は、アマチュアレスリングのタックルのような姿勢で工作の腹部に激突! そのまま押し倒してしまう。
「……いててて……」
背中に伝わる痛みにより涙腺をさらに刺激されたからか、工作は目の痛みが消えているコトに気が付き、その封印されていた瞼をゆっくりと開いて視界を復活させる。
あ……。
工作は目の当たりにした光景に言葉を失った。そこには……ある種の神秘的な趣すら感じさせる事象があったからだ。
自分の上にまたがり、透明な水を吸い込んで衣服が肌に密着させたレイラの恥じらう表情……次々と彼女の黒髪を伝って滴り落ちる雫を顔に受けながら、工作はそれに魅入ってしまっていた。
「先生……目……大丈夫? 」
「……うん……」
僅かな言葉のやり取りの後は、細かな水の粒が次々と2人の体にぶつかって弾け飛ぶ音だけが浴室を支配した。
工作はこのロマンチックな情景に、先ほどレイラが語った『男』と同じような感情を抱いてしまい、必死にその劣情を抑え込もうとした。
彼女はまだ10代(多分)の女の子だぞ……! 対して僕は34歳のしがない小説家……! ダメだ! こんなコト! 色々と許されないコトだ! 抑えるんだ小泉工作! この気持ちを! 邪な情熱を! 沈まれ!2匹の金魚よ! そして治まれ!! 筒棒よ!
「おーい! 工作ゥ~! いるのか~!?」
それは青天の霹靂だった。総動員させた脳内の理性を急停止させるかのように、1人の女性の声が玄関より聞こえてきたのだ。
「工作ゥ~! どこだ~! 風呂場にいんのか~? 」
その声に驚きを隠せなかったのはレイラも同じだった。その声の主の足音が徐々にこの浴室へと近づいて来る気配に恐怖すら覚えていたようだ。
「おう工作ゥ! 今帰ったぞー! 」
威勢のいい声と共に浴室のガラス戸が開かれ、勝手に工作の部屋へと上がり込んできた女性が姿を現した。
真っ白なブラウスに聡明なイメージを抱かせるタイトスキニーパンツ、やや茶色がかったセミロングの髪……その姿を見たレイラは第一印象で「マジで怒ったらヤバそうな人」と思ったらしい。
そしてそんな彼女は、目の前で繰り広げられている事態を察したらしく……
「工作……こりゃあ一体どういうことだ……」と口を震わせた……。
工作の名前を呼ぶこの女性……その慣れ親しんだ口調から、明らかに彼とは深い関係であることが分かる。レイラは「まさか……」という言葉を何度も頭の中で連呼した。
「『楓恋』どうしてここに!? いや……違うんだ…………これは」
「ほ~う……何がどう違うんだ……? 」
こめかみをピクつかせた『楓恋』と呼ばれた女性……その右手には新聞紙で刃を包まれてはいるが、明らかに[包丁]と分かる代物が握られている……。
まさに一触即発の事態。浴槽の魚はこれから起こる惨劇のコトなど露知らず……優雅にスイスイ狭き海を泳ぎ続けていた。
[バスタブフィッシュ] 終わり
→次回[モーゼス・ライブラリー]へと続く。