第23話 小泉工作とレイラさん
【前回のあらすじ】
叔父のマーカスが危篤状態であることを告げられたレイラは、生まれ故郷のブラジルに一時帰国することに。
工作は映画好きのマーカスの為に何かできることはないか? と考え、レイラと共にMEOGの小説版を作り、彼に朗読させることを発案。
工作が書き上げた小説をレイラがポルトガル語に翻訳。そしてブラジルに出向き、病床のマーカスの前で朗読を行った。
マーカスは諦めていたMEOGの物語を楽しむことが出来たことに加え、姪の成長ぶりに感動。その後彼は人生に絶望することなく、穏やかな気持ちでこの世を去ったのだった。
叔父さんが亡くなってからは、あっという間だった。
ブラジルで葬儀を上げて最後のお別れを告げてやや時間が経った後、私はパパとママ、親子三人が久々の再会を果たした現状をようやくハッキリと実感できた。
その後、2日ほどブラジルで一緒に過ごして私だけが単独で日本に帰ることになった。
マーカス叔父さんの看病の疲れが一気に身体にのしかかったママには、まだまだ日本で三人一緒に暮らすことは難しそうだ。
「私のコトは気にしないで。パパがこっちにいてくれるから大丈夫よ。レイラは先に日本に戻りなさい。お仕事あるんでしょ? 」
そのママの言葉にたっぷり甘えさせてもらい、私は今こうして我が麗しのボロアパート「威風荘」へと無事帰宅。数日ぶりに嗅ぐ自室の臭いは、閉まりっぱなしだったタンスの引き出しを久々に開封した時の臭いに似ていた。
「つかれた……」
小説を翻訳したこと、5時間もぶっ続けで朗読したこと、叔父さんとの別れ……およそ一月の間に詰め込む内容ではない、様々な出来事に触れた濃い時間を過ごしたことに加え、片道20時間以上にも及ぶ旅路によるシンプルな肉体的疲労がのしかかり、私はそのまま埃っぽいベッドに吸い込まれるように寝ころび、そのまま夢の中へと誘われた。
夢の中には、台本を片手にマイクに向かってアフレコしている私がいる。魂が肉体から離れたかのように、私は第三者の目線で声を張り上げている私の姿を見ている。
よく見ればその私は、デビューしたての初々しい頃の私だった。初めて人前でいやらしい演技をすることになり、足をがくがくと震えさせながら涙目で一生懸命演技をしている。
緊張が激し過ぎて正直言ってプロの仕事とは思えない有様だ。こんな光景を見せられている私は一体なぜこんな羞恥プレイを受けなければならないのだ? と思わず目をそらしたくなる。
だけど同時にその当時の私は、恥ずかしさの中にも今こうして声でお仕事が出来ていることに大きな充足感や達成感を覚えていたこを思い出した。
ボイトレ、演劇、研究……長年積み重ねていた努力が今こうして形になったことに高揚を感じていたハズだ。涙目になっているのは恥ずかしさからではなく、達成感による感涙だったのかもしれない。
そしてどうにかディレクターからOKをいただき、アフレコが終わる。額には玉のような汗が流れ、今にも崩れ落ちそうなほどに足を震わせている。まるでフルマラソンを走りきったのかと思うほど憔悴しきっている。
「お疲れッス! レイレイ! 」
スタジオから出ると一人の女の子が私の元へと近寄り、軽くハグをしてくれた。それは他ならぬ親友であり声優仲間の稲益由香だ。
「由香ァ……! 何とかなったよ、めちゃ緊張した……」
ハーフということで周囲から浮いていた自分に対して、気さくに話しかけてくれた由香。いつも由香がそばにいてくれたから、いつも由香と一緒に頑張ったから、私は声優の仕事を続けられた。
そんな彼女と、どうして私は溝を作ってしまったのだろう。
この業界は実力が全ての弱肉強食の世界だ。キャリア30年以上のベテラン声優でさえ、オーディションでデビューしたての新人声優に仕事を奪われることだってザラにあるのだ。
例え先生が梯子をかけてくれた作品でその役を奪われたとしても、それは単に私が実力不足だったというだけで、誰のせいでもないのだ。
でも……どうしても「原子記号マテマティカ」の一件以来、由香とは今までと同じように接することが出来ずにいた。というよりも、いざしっかりと対面した時に、嫉妬の念が湧いて出てしまうのではないか? と恐れていた。
この前深夜にコーヒーショップでばったり遭遇してしまった時は、自分自身翻訳のコトで頭がいっぱいだったことと、突然の巡り合わせで気が動転してしまったことで、その時の心理が曖昧になってしまっていたことが幸いだった。
次に会った時……今夢の中で見ている時のような、彼女と24時間一緒にいたいと思う気持ちが戻ってくれるかどうかがとにかく心配だった。
出来れば、由香に謝りたい……一時でもあなたのことを激しく嫌悪してしまった自分が許せない……
そして、原子記号マテマティカの大役に抜擢されたことを目一杯祝福したい……おめでとう、由香! 私も嬉しい! 公開を楽しみにしてくるから……って……
『ピピピピ! ピピピピ! 』
スマートフォンから発せられる電子音のアラームが私の意識を夢から現実へと引き戻した。
「う……うん? 」
意識が混濁した中、手探りでスマートフォンを探して手に取り、時刻を確認すると現在夕方6時。帰宅が正午だったので、まるまる6時間熟睡していたことになる。疲れは相当たまっていたようだ。
目覚まし機能で起きたものの今日はオフの日だ、せっかくならもう一眠りしようと、アラームを止めて毛布を被ろうかと思ったその時、自分の部屋に違和感があることに今頃気が付いた。
今は夕方6時……もう外は真っ暗になっているハズなのに、部屋は明るい……蛍光灯が点いている。帰宅した時にはしっかりと消えていたハズなのに?
二度寝の欲求が吹き飛んでしまった私は、布団を吹っ飛ばす勢いで上半身を跳ね起こして狭くてボロイ部屋を見渡した。
誰かが今この部屋にいる? もしかしたら先生が私が帰国したことを知ってここに来てくれたのだろうか? と期待したが、その予想は見事に外れていた。
「おはよッスレイレイ。すっごい気持ちよさそうに寝てたね」
「ゆ……由香? 」
先生だったらこの状況を「瓢箪から駒」と例えるだろうか? どういうワケなのか親友の稲益由香が今まさに、私の目の前でシミだらけの汚いカーペットの上にあぐらをかいて座っている。
「どうして? 由香がここに? 」
「ごめんレイレイ、帰国したことを知ったからちょっと顔でも出そうかなって思って……鍵開けっ放しだったから勝手に上がらせてもらったッス」
「え? 鍵掛けてなかったの? 」
「不用心ッスよレイレイ。防犯意識はしっかり持ちましょうぜ」
施錠していなかったのは迂闊だった。空き巣だとかそういうモノにはしっかり警戒する方だと自覚はあったのだけど……ブラジルでの一件はそれを忘れてしまうほどに身体を疲れさせていたのだと再認識することになった。
「それにしても、由香も来るんだったらメッセかなにかで連絡してくれれば良かったのに」
「ごめんねレイレイ。久々にちょっとびっくりさせたかったから。でも、びっくりしたのは逆にワタシの方だったんだよね」
「びっくり? どういうこと? 」
はじめは由香が何のことを言っているのかさっぱり意味が分からなかったけど、彼女の膝の上に置いてある大学ノートとボイスレコーダーが視界に入った瞬間。全身の血流が目まぐるしく動き回る感覚と共に、全てを察することができた。
「それ……見ちゃったんだ」
「ごめんレイレイ……いけないとは思ってたけど……どうしても気になってしょうがなかったんス……だってコレ……」
「由香が吹き替えした……MEOGの小説……だもんね……」
他人の仕事を奪い取ったかのような気まずさから、由香だけにはこのコトはずっと秘密にしておこうと思っていた。でも、こんなコトであっさりバレてしまったことにショックを受けるかと思っていたが、不思議と気持ちは落ち着いていた。むしろ今由香にバレたことで心の荷がスッと下りたような心地があったからだ。
「これ……レイレイが全部? そして多分コレ、ポルトガル語だよね? この翻訳も? 」
「違うよ、私がしたのは翻訳だけ。元の小説を書いたのは私じゃなくて……」
「小説家の小泉工作先生…… ッスよね」
由香は私の言葉に被せるようにそう言った。雪が降った日にどんなイタズラをしようかと目を輝かせている子供のような顔だった。
「そこまでバレてたんだ……」
「レイレイ、ワタシを甘く見てもらっちゃ困るッスよ。ワタシが去年小泉先生とバッタリ会った時、レイレイも偶然そこに居合わせたよね? その直後の反応を見れば、二人が特別な関係だってコトはバレバレッス」
由香のその言葉に、恥ずかしさと情けなさで顔が真っ赤になってしまった。そして続く彼女の言葉に、私は二度目の衝撃を受けることになる。
「そして、原子記号マテマティカを書いた清水舞台って脚本家さんの正体も、小泉工作先生なんでしょ? 」
「……え? ……なんで? なんでそんなことまで? 」
一瞬呼吸が止まるかと錯覚した。制作スタッフの中でも一部の人間にしかその正体を明かしていないハズなのに、なぜ由香がそのことを知っているんだろう? そしてそれを知っているということは……
「やっぱり当たってたッスね! ワタシ、小泉先生作品の大ファンなんスよね。今まで発表した作品は全部読んでるんスよ。だから、ストーリーの作り方のクセだとか、キャラの言い回しだとか、そんな癖から清水先生は小泉先生だと検討がついちゃったんス。そしてもちろん……」
由香は一度言葉を切って私の方へと改めて顔を向き合わせた。その声と同じく、綺麗で澄んだ瞳……
やめて、そんな純粋な目で私を見ないで……
「ごめんレイレイ……わかってた……ワタシが担当することになったヒロインの森崎ハルナが……」
次の言葉を絶対に言わないで……お願いだから……
「あなたをモデルにしてるってこと」
その声が耳に入り意味を租借した瞬間、条件反射的に涙が止まらなくなってしまった。続けて慟哭、嗚咽……今なぜ泣いているのか自分自身でもよくわからなかった。ただその時、私は泣くことしかできなかった。
そんな私を、由香は慰めるワケでもなく、抱きしめるワケでもなく、ただじっと黙って見つめていた。私の気持ちが落ち着くまでジっと……ただジっと……
「レイレイ……」
「う……うん……? 」
「正直な話をすると、ワタシ……今日までレイレイのコトがちょっと憎かった。あなたが仕事を取る為にアレやコレやしてたんじゃないか? って最低な想像すらしちゃってた……悔しかった。マテマティカのオーディション用の台本を目を通した時、レイレイに嫉妬した。大好きで憧れの小説家の先生に、ここまで贔屓にしてもらってるあなたが羨ましかった」
「………………」
「だから、絶対にこの役は勝ち取ってやろうと思った。勝ち取れなくとも、何らかの爪痕は絶対に残してやろう。そう思った……そして勝ち取った」
私はただ伏せって無言で由香の話を聞き続けた。言葉の一つ一つが鋭い針となって私の心に突き刺さった。彼女がそう思うのは仕方がなかった。自分はそれだけ特別な庇護を受けていたのだから。
「レイレイ……幻滅したっていいよ。ワタシ、その時メチャクチャ嬉しかった。憧れの作家が手がけた作品に関われるなんて夢みたいだ……って思った。あなたを蹴り落としたことに高揚感を覚えてた。絶対に勝ち取れないと思っていたから尚更嬉しかった……」
由香の言葉には思いやりだとか情けだとか、そういう気遣いは一切なかった。ただ自分自身が思ったことを正直に口にだしているだけだ。
ただ、そうやって遠慮なく全てを吐き出してくれているということは、彼女のなりの気遣いとも感じ取れた。先に本音を晒したことで、私自身にも心の奥をさらけ出すキッカケを作ってくれた。そう感じ取った。
「……由香、それは私も同じだよ。オーディションでヒロインが由香に決定して、清水舞台の正体が先生だとわかった瞬間、心の中で由香の顔が何度も浮かんだ。なぜ? って思っちゃった。私の方こそ幻滅するべき人間だよ……病魔で苦しみながらも応援してくれている家族がいるのにも関わらず、そうやって自分の失態を他人のせいにして、何度も声優を辞めようかと思った……私、卑怯で弱っちい人間なの……」
「そうだね……ワタシもレイレイも卑怯で弱っちい人間だよね……でもね……」
突然由香は私の手をとってお互いの指を絡ませた。柔らかでちょっと冷たかったけど、ぬるま湯に浸かっているような安心感があった。そして私の鼻と鼻がぶつかり合うほどに顔を近付け、ぶつかる吐息と共に話を続けた。
「……そんな弱っちいあなたが、一人の人間を救った。努力とその声でレイレイは成し遂げた……」
「マーカス叔父さんのことまで知ってたの? 」
「ボイスレコーダーの初めの方、レイレイと誰かが話している音声が録音されてたよ……ポルトガル語で何を言っているのかはわからなかったけど、たった一人の大事な人の為だけに、この小説を翻訳して読み聞かせたってことだよね」
「すごいね由香は……そこまでわかっちゃうんだ」
私はようやく由香に笑顔を向けるコトができた。それに由香も深いえくぼを作って返してくれた。
「やっぱりね……ワタシ、何があってもレイレイのコトが嫌いになれないんだ。スゴいよ……こんなこと普通はできない」
その言葉に、どれだけ救われただろう。その言葉に、どんなに心が軽くなったのだろう。
気が付いたら私は、由香の身体がひしゃげてしまうかと思うほどに強く強く抱きしめていた。シャンプーの香りが鼻の奥をくすぐった。
「私も……由香のことが大好き。どんなコトがあっても一緒に仕事をしたいよ……」
由香も力強くハグを返してくれた。
「レイレイ……あなたは仕事の為に打算を働かせるような人間じゃない。弱くもあり、強くもある、やる時は必ずやり遂げる……小泉先生はそんなところを気に入ったんだと思うよ」
「やめて……そんなに褒めれた人間じゃないよ……私はただ……」
「ただ……? 」
「一生懸命生きて、声の仕事がしたいだけ……ただ、それだけ」
「……ワタシと同じだね。弱くて卑怯で、この仕事が大好きな、ただの声優……ただ、それだけ」
「そうだね……ホントそれだけ……」
そのまま私達はしばらく抱き合ってお互いの心の氷塊を体温で溶かすように、一分一秒を尊く抱きしめた。
嫉妬したっていい。嫌悪しあっていい、それが人間だし、それが生きるってこと。そんな自分を、相手を受け入れて何か間違いがあった時はお互いに正していけばいい。
私達は声優。声と言葉で人の心を動かすことが仕事。そしてそれ以外は、ただの人間。それでいい……
「そういえば、しっかりまだ伝えてなかったね。由香、オーディション合格おめでとう! 公開楽しみにしてるよ! 」
「ありがとッス! 気合い入れてくから楽しみにしててよ。……で、一つワタシの方からもレイレイに一言伝えたいんスけど……」
「なに? 何でも言ってよ」
「うん……その……そろそろ逆転ゴーグルを返してくれるッスかね? 」
「ああ……それ……それはその……」
私はその後、樹海で起こった一連の出来事を由香に包み隠さず全て打ち明けた。
2人の殺人鬼を相手に先生と一緒に奮闘したこと、そして例の逆転ゴーグルが警察に押収されてしまったかもしれない旨を伝えると……
「レイレイ……失くしたのなら正直にそう言って欲しいッス……」
と、結局は信じて貰えず、ネット通販で同じ物を弁償することとなった。
■ ■ カーテンコール ■ ■
小泉工作は小説家である。
月刊誌での連載を抱えている彼は、仕事が行き詰まった際に決まって「とある店」へと逃げ込む癖がある。
その店の名は「展覧会の絵」
フローリングの床、石調のタイルで内装された、いわゆる「自然派カフェ」で、無口なマスター「功刀透」が厳選された豆を使ったペーパードリップのコーヒーを飲ませてくれる。
普段はゆったりとしたR&BのBGMと共に、静かに読書や談笑を楽しむ客が店内をにぎわせているが、今夜はいつもとは違う賑わいを見せている。
「楓恋さん! 彰さん! 改めて、結婚おめでとうございます! 」
レイラのよく通る声を合図に、パーティクラッカーの紙テープや紙吹雪が店内を虹色に彩る。
「ありがとうレイラ! あんたの司会、最高だったよ! さすがプロ声優だわ! ハハーッ! 」
「楓恋……ちょっと落ち着いてくださいよ、飲み過ぎですよ? 」
「何言っとるんだこのハッタリわがままボディ野郎!! そのナリと図体で下戸ってのはどういうコトだよ! 」
「はぁ……先が思いやられるなぁ……コレは」
本日展覧会の絵は、的場楓恋・的場彰夫妻を祝福する結婚式、その二次会会場として抜擢され、ごく少数の身内だけでささやかなパーティが催されていた。
「おめでとう、お二人さん! 」
「オメデトーネ! 」
酒が入って少し陽気になっているマスターの功刀透。そしてその横では褐色で南米系の顔立ちをした一人の女性が的場夫妻に拍手を送っている。
「レイラ! アンタのトキもここツカッテよね! 」
「や、やめてよママ! まだその気はありませんから! 」
その女性は他なるレイラの母親である、サンディ功刀。彼女も一月前に日本に戻り、レイラと透と合流。この展覧会の絵のウェイトレスとして働いている。
「レイラ、その肝心の旦那はどこに行った? さっきから姿が見えんぞ? 」
「旦那って! パパもやめてよ! 先生ならお酒の飲み過ぎでホラ、あそこで凹んでるよ」
工作は「展覧会の絵」の壁際にセッティングされたテーブル席にて、この世の全ての災厄を一身に背負ったかの如く、顔を真っ青にして突っ伏していた。
「う……う……これは……まずいですよ……これは……」
「大丈夫ですか? 先生……原稿は明後日までですよ? こんな状態で書けるんですか? 」
工作と同じテーブルに付いた担当編集の黒崎シゲルが、グラスに注がれてキンキンに冷えた水を片手に、情けない姿の小説家の背中を原稿の催促をしながらゆっくりとさすっていた。
「黒崎君……どうにか締め切りを延ばせませんかね? 今の僕は作家じゃありません、ただの酔っぱらいです……執筆なんて逆立ちしたって無理ですよ……」
「前々から俺はその言葉に疑問を抱いているんですよ。逆立ちしたら余計に出来なくなるんじゃないか? ってね……まぁ、とにかく締め切りは守ってもらいますからね。楓恋先生は前もってハネムーン休暇の間の原稿も全て出してくれましたからね。妹さんを見習ってください」
的場楓恋は、原子記号マテマティカの設定イラストを描いたことをキッカケに黒崎に才能を見いだされ、今では月刊エクリプスの作家として人気を博していた。
そのタイトルは「ウチの旦那はわがままボディ」
夫でありミュージシャンである彰と共に過ごしている日常風景を、デフォルメの利いたイラストで描いているエッセイ4コマ漫画である。木訥な旦那といい加減な妻のカレンが生み出すコントラストがウケ、今ではSNSを中心に大きな話題を生んで人気を博している。
「結婚式の準備で忙しかった楓恋先生が出来たんですから、先生に出来ないことはないんですよ」
黒崎はそばにあったワインのボトルを手に取り、席を立ち上がった。
「じゃ、ちょっと失礼しますね。楓恋先生と彰さんにはハネムーン中の出来事もネタにしていただきたいのでね、ちょっと話をしてきます」
そう言って黒崎は的場夫婦へ再度の祝福兼打ち合わせをする為に工作の元を離れていった。
「黒崎君……最近僕より楓恋と打ち合わせすることの方が多いじゃないか……」
と、工作は一人担当編集に軽いジェラシーを抱き、グラスに入った水を一気に喉に流し込んだ。
「ねえ先生……少しは自分のコンディションを考えてお酒を飲みましょうね」
そんな二日酔い確定の最悪な状況の工作の目の前に、突如一人の女性の姿が舞い込んだ。
「あ? ああ……そうですけどね……いけないのは楓恋ですよ……飲め! 飲め! ってしつこく催促するから……」
「なんでも妹のせいにしちゃいけませんよ」
「そんな、今日はレイラさんまで厳しいですねぇ……」
今にも嘔吐しそうなほどに顔色の悪い工作だったが、レイラはそんなコトはお構いなしとばかりにブラウンの瞳で工作の顔をじっと覗き込みながら、こう言った。
「小説家さん、面白い話知ってるんでしょ? 何か聞かせて? 」
「え? レイラさん……? 」
工作は一体なにを言っているのか? とばかりに目を丸くしてレイラと向き合った。
「このテーブル、私と先生が初めて会った時と同じだよ」
「あ~……そう言えばそうですね」
レイラとこのテーブルで出会い、すでにちょうど2年の月日が流れていた。
ちなみに工作は36歳……未だ独身。今年になって初めて腸内を内視鏡で検査したらしい。
小泉工作と丸形テーブルを挟んで向かい合うレイラ。彼女の手にはコーヒーがなみなみ注がれたマグカップが握られている。
そのコーヒーを一口流し込み、もう一度彼を惑わすような目つきでこう言った。
「先生……いいこと教えてあげようか? 」
「い……? いいこと? 」
「そ! それじゃ、ちょっと5秒だけ目を閉じてくれる? 」
いいこと! これは一体どういうことなんでしょうか? 高鳴る期待が工作の全身に回っていた酔いを一瞬で覚ましてくれた。意味深な言葉を深読みし、わずか5秒の間に考え得る妄想をいくつも膨らませていた。
「ハイ! いいよ先生! 目を開けて! 」
「はい! って、ええっと……」
動揺する工作、なぜなら目を開いても特に大きな変化はなにもなく、ただ本当に5秒瞳を閉じただけで終わっていたように見えた。
「レイラさん? 一体コレは……? 」
「わからない? 」
反応の鈍い工作にレイラはやきもきしながら、手元に置いたマグカップに指を差した。
「そのカップがどうしたって……あ! 」
ここでようやく工作は気が付いた。さきほどまでそのマグカップには9分目までコーヒーが注がれていたハズだが、それが一瞬にして陽気な橙色のオレンジジュースへと変化していたのだ。
「レイラさん! もしかしてこれは! 」
「そう、先生が何度も知りたがった『コーヒーをオレンジジュースに変える方法』だよ! 」
工作はテーブルから身を乗り出してレイラのカップを確認した。中には紛れもなくオレンジジュース。彼女の許可を経てその中身を味わってみるも紛れもなくオレンジジュース。
「ど、どうやったんですか! これ! 」
工作は念願の疑問解決の日が遂に訪れたコトで激しく興奮し、レイラの両肩をテーブル越しに思いっきり掴み掛かった。
「ちょ!? 先生! 落ち着いて! このマジック……って言っていいのかわかないけど、このカラクリを明かすとね……ホントに簡単なコトだったんだよ」
そう言ってレイラはポケットからビニール包装された一枚の丸いクッキーを取り出した。それは生地にチョコを練り込んだチョコチップクッキーだった。
そして彼女はおもむろにそれを一枚、カップに注がれたオレンジジュースの水面に浮かばせる。クッキーの大きさはちょうどマグカップの直径とピッタリで、計算されて作られたかのように隙間無くはまってしまった。
「はい! これが先生の知りたかった『コーヒーをオレンジジュースに変える方法』だよ」
「へ? 」
工作は一瞬その言葉に呆気にとられてしまったが、改めて自分の席に戻るとあら不思議、店内照明と視線の角度の影響により、チョコチップクッキーの浮かんだマグカップが、あたかもコーヒーが注がれているかのように錯覚してしまったのだ。
「はぁ……タネを明かせばこんなに簡単なコトだったんですね……なんというか、かんというか……」
「私、たっぷりのオレンジジュースにクッキーを浸して食べるのが大好きなの。このマグカップは私物。特別にパパの店に置かしてもらってたんだ」
「で、たまたまクッキーがカップにすっぽりハマってしまい……」
「それを見た先生が勘違いしたってこと」
「はは……まさに偶然の産物だったってことですね」
「でもそのおかげで、先生と私は知り合った」
「ですね……運命ってのはホントに面白い形で巡るもんですね……」
工作はカップに浮いたクッキーを摘んでそれを頬張った。オレンジジュースが染みてさわやかな酸味とチョコのほろ苦さが口の中で混じり合い、ハーモニーを奏でた。
「レイラさん」
「なに? 先生」
「小泉工作とレイラさん……僕たちはオレンジジュースとチョコチップクッキーのように、どこか子供じみているけどお互いの相性は抜群……そんな2人だとは思いませんか? 」
「え? 急にどうしたの? 」
「いや、なんというか……ちょっと言ってみただけです……」
工作は青魚のようだった顔を夕焼けのように真っ赤に染め上げ「言わなきゃよかったかな……」と青臭いセリフをうっかり呟いてしまった自分を一人で責めた。
「ま、とりあえずですね……」
「とりあえず? 」
「このオレンジジュースとチョコチップクッキーのおかげで面白い話を思いつきました」
「ホントに!? 」
「ホントにホントですよ、聞かせましょうか? 」
「聞かせて! そのお話! 」
よし! それじゃあ、話を始めようか」
小泉工作はゆっくりと語り始めた。
[小泉工作とレイラさん] THE END
【登場人物紹介 その後……】
・小泉工作[36歳 独身]
サスペンス・ミステリー作品をメインとする小説家。代表作である「ダブルフィクション」は10万部のベストセラー。現在は原心社出版「月刊エクリプス」にて「痛みの要求」という作品を連載中。新作の長編小説「樹海のコクシム」清水舞台名義の作品「原子記号マテマティカ」も好調である。
その後、虹野ムラサキ名義でのアダルトゲームのノベライズ作品「ホーマン学園X☆ときめきバイタリティーズ」を元にOVA化されることとなり、すでに引退してしまった原作声優の後釜としてレイラが抜擢され、図らずも念願だった二人の共作が実現した。
その1年後に工作はレイラにプロポーズするも、その当時美少女ゲーム声優として人気を博していた彼女に「今は仕事に専念したいから」という理由でお預けを喰らってしまう。二人が晴れて結婚できる日は来るのであろうか?
・功刀レイラ[22歳]
褐色の肌にウェーブが掛かった黒髪が特徴。喫茶店「展覧会の絵」のマスターである功刀透とは親子関係であり、「山東恋空」という名前で声優として活動している。趣味は仮装。
「ホーマン学園X☆ときめきバイタリティーズ」がOVA化され、工作との共作が実現。その後、積極的にファンイベントやSNSでの活動を広げ、人気美少女ゲーム声優として注目を浴びることとなる。工作のプロポーズには悩みに悩みぬいた末「保留」という形でお茶を濁した。
さらに3年後「蜜柑ちよこ」という名義で一般作品への活動も増え、念願だったアメリカンドラマの吹き替えを担当することに。これを一つの区切りと考え、今度は彼女の方から工作に逆プロポーズ。見事に婚約を果たし夫婦となる。※その時、その結婚を惜しむ彼女のファンから工作に向けての誹謗中傷が絶えなかったらしい。
・的場楓恋[32歳]
旧姓「小泉」。工作の妹でつい最近「的場彰」という男性と結婚。美人で聡明な印象を抱かせる風貌だが、少し抜けた性格で怒ると何をするか分からない。漫画が大好き。レイラとは仲が良く、彼女の私生活については工作以上に詳しい。
黒崎シゲルの誘いから、エッセイ4コマ漫画「ウチの旦那はわがままボディ」を手掛けるようになり、SNSを中心に人気を博す。その強烈なキャラクターが受けメディアにもたびたび登場、たちまち人気漫画家の仲間入りを果たす。
・的場彰[30歳]
的場楓恋の夫で、熊を思わせる巨漢。事故で右足を失い義足を付けている。プロのドラム奏者であり、歌手としての復帰を狙っていた。
漫画家になった楓恋の作品「ウチの旦那はわがままボディ」のキャラクター「アキラ」として有名になり、その流れで彼が義足のドラマー&シンガーであることに注目を浴びることとなった。
その後、一枚のソロアルバム「トリプルレッグ」を手掛けるが売れ行きがイマイチ。しかし楓恋が漫画内でそれをネタにしたことで逆転大ヒットを博し、彼はより一層楓恋に頭が上がらなくなるのであった。
・功刀透[61歳]
喫茶店「展覧会の絵」のマスター。チャップリンのような口髭がチャームポイント。小泉工作の大ファンだったことが発覚。無口だが酔っぱらうと非常に饒舌になる。愛車はプジョー208Gti。再来日した妻のサンディと共に展覧会の絵を切り盛りすることとなり、サンディの明るく陽気な性格が多くの常連客を生み出すこととなり、大繁盛。
工作とレイラが結婚することに決まった時は、嬉しさのあまり失神してしまった。
・黒崎シゲル[27歳]
原心社、月刊エクリプスにおける小泉工作の担当編集。若いが決断力と才覚を持ち合わせ、工作とはエクリプス創刊時からの付き合いである。業界内での強いコネクションを多く持ち合わせ、その能力で何度も工作を導いてきたキレ者である。さらに楓恋を漫画家としてデビューさせた手腕を買われ、20代の若さで編集チーフに昇格。ゆくゆくは編集長として君臨することとなる。
■■■■ 小泉工作とレイラさんの物語はこれで終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 感想・コメント等、お気軽にどうぞ(^ω^)■■■■




