表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

パナケイアの絆

作者: 蒼猫


「ノア、レッドベルベールと、メギの蕾、それとC+RY-3錠持ってきて。」


「え、えっと…はい!」


ノアと呼ばれた少女が薬品棚に駆け寄り漁る。頼まれた薬草、それと錠剤の詰まった瓶を手にし、それを指示した人物、ノアのルームメイトであり、上級生であるケイリーに渡した。


「ん、ありがとう。よし、これで…熱処理を済ませれば…。」


「か、完成ですか?先輩!」


「うん、ありがとな、ノア。お前がいると課題がはかどるよ。」


「光栄です!学年一の先輩のお手伝いが出来て!」


彼女に撫でられノアはくすぐったそうに眼を瞑る。そんなノアをまるで妹を見るようにケイリーは温かく微笑んだ。


「お前も実技であれば、学年一も目じゃないのにな。」


ぽつりと零したケイリーの賞賛はノアの顔を曇らせた。


「魔法薬師は実技と筆記…両立出来なければ、意味がない…この間、先生に怒られてしまいました…。」


ノアの夢。それは魔法薬師になること。魔力を持つ者が扱うことを許された魔法に対し、魔力を持たずして生まれた者たちが見出した文化の希望、それが魔法薬学。


特定の材料を集め、手順を踏み調合することにより魔法と同等の力を発揮させることが出来る魔法薬学は今では人の暮らしには不可欠なものだ。


電気を作り出すのも、車を動かすのも、作物を育てるのにも、飲み水を作るのも、人の病や怪我を治すのも、全てが魔法と、そして魔法薬で成り立っている。


しかし近年、魔力を持たずして生まれる者がほとんどだった。現にノアとケイリーの通うこの学び舎“シビル魔法薬学校”にはたくさんの生徒がいる。


魔法薬師は、魔法学を駆使し、人々の暮らしを助ける職業。魔法薬師となれば、自分がやるべき仕事を立ち上げることが出来る。


ノアは魔法薬師となったら、学校を作りたかった。貧しかったり、親のいない子供たちにも魔法薬学を勉強する機会を与え、人々のために魔法薬学を役立ててほしかった。


そのためにも、魔法薬師になるためにこの学校で魔法薬学を学び、実技と筆記で良い成績を取り、卒業課題として、自分が作り出した新たな魔法薬を作ることが必須だった。


「ケイリー先輩は、ご両親の病院を継ぐため、でしたか?」


「あぁ…まぁな。」


ノアの持つ夢のようにケイリーにも夢があった。ケイリーのように両親が魔法薬師であり、開業した職業を継ごうとする子供も少なくない。


ケイリーはこの街でも一番大きい病院の一人娘だった。跡継ぎがケイリーしかない為、必然的な夢になったともいえるが、ケイリーは両親を誇りに思っていた。


「父さんと母さんが立ち上げて大きくした病院だ。みんなの信頼が集まったあの病院は私が守る。」


男よりも男前なケイリーは頼もしい性格の持ち主となり、言葉や対応にもそれは現れていた。


ノアはそんなケイリーを先輩として女性として、そして人間として、心から尊敬していた。


「素敵です、先輩!」


「ノアの夢も素敵だよ。早く、薬品名、覚えられるといいな。」


「はい…。」


夢はあっても、努力しなければいけない問題、それがノアにはあった。


どうしても薬品名が覚えられない。古来よりある薬草の名前や効能はわかるのに、人工的に作られた薬品だけが記憶することが出来ない。


「確かに、C+RY-3錠なんて覚えにくい名前してると思うけど。なんだろうな。」


「自分でもさっぱり…。」


「記憶力も悪いわけじゃないのに。」


ケイリーがおかしそうに笑う。ノアは苦笑いを浮かべることしか出来ない。


本来、魔法薬学とは自然の恩恵である薬草や魔物の体の一部を材料としてきた訳だが、文明が進むにつれ、危険を冒さずともそれと同じ効能を生み出す薬品を作ることに成功した。それが、ノアが苦手とする魔法人工錠だった。


それらは短くひとまとめにされた名前で、簡単な文字の羅列と受け取れるのに、ノアはどうしても覚えられなかった。ケイリーの言う通り、記憶力が悪い訳ではない。


薬草学に関してだけは一度だが、トップを取ったこともあるのに、いつも近代魔法薬学総合という筆記を受ければ彼女は悪め目立ちしていた。


その噂は教師だけでなく、生徒の間にも広がっていた。


いつか、後から入ってきた生徒にも薬品の名前一つも覚えられないことを馬鹿にされた日もあったし、今もそういう視線は絶えなかった。


「気にするなよ、ノア。」


「はい。」


ノアの実力を分かってくれているケイリーがいる。それがノアの支えだった。


筆記でいくら成績が悪くとも実技では薬品名の書かれた錠剤を渡すことが出来る。むしろ、薬草の方が名前など書いていないのだから、これだけでも救いと思わねば、ノアは前向きな姿勢でい続けることで自分を奮い立たせた。


「そういえば。」


ケイリーが思い出したようにつぶやいた。


「特別講師が来るらしいな。」


「あ、知ってます。なんでも天才魔法薬師だとか。」


ケイリーの口から出た話題は今、学校内でも持ちきりの話題だった。元々この学校の卒業生であり、当時から天才と謳われた生徒だったという。


「去年、人工的に精霊とコンタクトを取る魔法薬学を発見したんですよね?」


「そう聞いているな。」


「すごいなぁ…本当に魔法と同じくらい、夢みたいな事が叶うんですね…。」


「それが魔法薬師、だからな」


うっとりとノアは夢心地だった。同時に自分にも出来るようになるのだろうか、そんな不安になる気持ちにそっと蓋をした。




***



「それじゃあ、青薔薇の蕾が開く前にはこの場所に戻ってくること、解散!」


薬草学の課外実習。一般市民は立ち入ることを許されないその森には魔法薬学生しか入ることを許されない。


実習内容は指定された薬草を集めること。また、生息地の場所、状態をまとめレポートにして提出することだ。


まだ未開の地もあるそこへは慎重な行動が要求される。故に二人一組のペアとなって行動するはずなのだが、生憎、ノアのペアは体調を崩し、実習に参加出来ていなかった。


「ノア、一人でも平気?」


それは、教師からの信頼と期待に聞こえた。ノアは唯一の得意分野であることを理由に、その期待に応えたくて頷いた。


「はい、大丈夫です。」


「そう。じゃあ気を付けてね?森の深い道には決して入らないこと。時間内には帰ってくること。」


「はい!」


安堵した教師を背にノアは森の奥を目指した。実習は初めてではない。ノアにとっても、指定された薬草の生息地にも見覚えはある。


迷うことなく進むノアの行く先に他の生徒は見えない。恐らくまた別の場所を探しているのだろう。


「えっと…サルビアなら…日向よりは日陰…涼しい場所だから…もう少し開けた場所かな…。」


レポートにまとめるまでもなく、薬草の生息地までを理解しているノアは辺りを観察しながら、森の中を進んだ。


この森の中は入るたびに景色が変化する。ノアは子供の好奇心を磨いたように目を輝かせ、辺りを見回した。


普段ならあまり人も立ち入らない場所。緑も豊かであるこの土地なら、ノアには見えないのだが、精霊や妖精がいるかもしれない。そう思うとノアの胸は高鳴るばかりだった。


そんなことを想像していた時だ―――


ミギャア、と獣の悲鳴が聞こえた。


「!?」


甲高くノアの耳に確かに届いたその声。場所はそう遠くない。だが少なくとも安全は保障されていないと思われる。頭ではそう理解していても、彼女の足は駆け出していた。


多い茂った草場を駆け抜け、沼地に出た。間違って足を踏み入れればもう浮かんでこれないだろう、足場の広がるそこに悲鳴の主はいた。


「あっ!」


小さな黒猫が大きな丸太にしがみつき、今にも沈みそうになっている。体の半分は沼に沈み、必死に爪を立て、丸太に縋る黒猫は悲鳴は上げ続けている。


「(助けなきゃ…!)」


小さな命が散りゆくのを見過ごせなかった。ノアは腰のホルダーを漁り、必要なものを取り出した。


何種類もの薬草がノアの手から溢れんばかりに乗せられている。乱雑に取り出した様のように見えるが、それぞれの葉、一枚一枚の使い道を把握しているノアには何の問題もない。


取り出した薬草たちを風に運ばせるようにばら撒き、立て続けにノアは蓋付きの試験管内の液体を撒く。


「天つ風に、我願う!」


指の構えにて狙いを黒猫に定め、ノアは唱えた。ノアの呼び声に応えるようにして、液体に触れた薬草たちが空気中に溶け消えると、一陣の風が吹き、呼応し、風が集まった。


風たちは黒猫の元に集い、その体をそっと沼から救い上げる。そしてノアの目の前にそっと着地させた。


役目を終えた風はあるべき場所へ還るようにノアの髪を揺らし、そのまま消えてなくなった。


緊張から一息をつき終えたノアはハッとなり、見下ろした。ぐったりとした黒猫を慌てて抱きかかえた。


「大丈夫ですか!?黒猫さん!」


黒猫の耳がぴくりと動く。無事救えたことにノアはほっと息をつくも、あたりを見回した。


「今、綺麗にしてあげますね」


沼地に浸かっていた黒猫は泥まみれ、もちろんノアの服も汚れたが、本人はそれを気にしていない。


黒猫を抱き、綺麗な川のある場所を見つけるとノアは手頃な切り株を見つけ、腰のホルダーと靴をそこへ置いた。


ノアの白い足がそっと小川の水に浸かり、腰を屈めていく。心なしか、黒猫の体が固くなるのを感じ取り、にっこりと微笑んでみせた。


「大丈夫ですよ、怖くありませんからね。」


ノアの言葉を理解するかのように黒猫はじっとノアを見上げた。初めて、黒猫の瞳を見つめたノアはついその瞳に見惚れた。


「(翡翠みたい…綺麗な緑…)」


純度の高い翡翠石を思わせる黒猫の瞳にノアはうっとりと見惚れた。どれくらいそうしていたか、時を忘れさせた沈黙は唐突に破られた。


「下ろしてくれ。」


ノア以外の人間の声。辺りを見回しても人一人いない。目の前の黒猫だけ。ともなれば、答えは一つだ。


「……えっ?」


「助けてくれたことには礼を言う…だが、いい加減泥を取りたい…下ろしてくれ」


「…えええ!?」


声の主は間違いなくノアの目の前にいた。黒猫の口がまるで人間のように動くのを見届けた時にはノアは驚いて、思わず手を離していた。


バシャッと水音が立ち、黒猫が小川へ落とされた。


「ぶはっ…!?い、いきなり下ろすか?普通…。」


浅い水に体全体が浸かったため、汚れがすっかり落ちた黒猫は早々に小川から上がって身を震わせた。


それをまだ頭が追いついていないノアは目をパチパチとしながら見ている。


「しゃ、喋った…?」


信じられないと顔に書いたノアの表情に黒猫はしれっと答えた。


「……ケットシーだ、知らないのか?」


「ケットシー…?人の言葉を話す猫…?」


「そうだ。」


「え、えと…それに、あの“流れ者”の使い魔と聞きますけど…。」


「…そうだ。」


流れ者、それはこの世界で魔力を持って生まれ、魔法を自分の欲望の為だけに使う者を差すようになった言葉だ。彼らは力を持ったが故に暴挙に走った。その結果、国を追われ、様々な土地に流浪することから“流れ者”と呼ばれるようになった。


そしてケットシーとは流れ者の傍にいる愛玩動物。害はないとされているが、人の言葉を話し、狡猾で闇を具現化した生き物と言われていた。


「…俺が怖いか?」


「………いいえ。」


歴史が正しければノアは今、とても危険な状況にいる。聞かされた資料の通り、人の言葉を話し、ケットシーなのだと認めた。だが、ノアに訪れるべき恐怖はなかった。


「だって、そんなに綺麗な瞳をしているんですから、黒猫さんが悪いことをするようには見えないんです。」


「…瞳?」


「はい。翡翠みたいにとっても透き通っていて綺麗です。」


初めて見たものにはしゃぐ子供のようにノアは楽しそうだった。そんな姿に黒猫は気まずそうに視線を逸らした。


「変な奴だ……けど、都合がいい。」


「何か言いました?」


「いや、なんでもない。」


尻尾を左右に振り、黒猫はノアを見つめた。


「見たところ、お前、魔法薬師見習いか?」


「はい。この先にあるシビル魔法薬学校の生徒です。」


ノアも川から上がり、濡れた裾をぎゅっと絞りながら黒猫に応えた。


黒猫は「へぇ…」と興味ありげにつぶやき、ノアの指した方角を見つめていた。


「黒猫さんはどこから来たんですか?」


「…俺?」


ノアからの質問に黒猫は戸惑う。視線をノアから外しながら、辺りを見回し、やっと口を開いた。


「…さぁな。気づいたらここにいた。」


「え?」


「…“流れ者”に捨てられたんだ、この森に。それで、迷っているうちにあの沼に落ちてお前と出会った。」


「そんな…。」


黒猫の経緯を聞いたノアは落ち込み、頭を下げた。


「なんだか…ごめんなさい。」


「気にするな、お前は悪くない。俺が勝手に話したことだ……お、おい、顔を上げろ…。」


黒猫は自分の代わりに落ち込むノアにかける言葉を探しあぐねているようだった。饒舌であるはずのケットシーにしては珍しい態度である。


「あの…黒猫さん。」


「なんだ?」


ノア自身からのまさかの助け舟に黒猫は自分との葛藤を止めた。


「お名前、聞いてもいいですか?」


ケットシーというのはあくまで種族の名称である。名前があるはずだとノアは思った。いつまでも“黒猫さん”と呼んでいては失礼かと思ったのだ。


「…ネロだ。」


何を言われるのかと思えば、黒猫もとい、ネロは少々呆気に取られながら名乗った。ノアはネロの名を繰り返しつぶやいた。


「素敵なお名前ですね。」


「…そうか?」


「はい!あ、ちなみに私はノアって言います。ネロさん。」


猫の名前を褒めるなんて、ネロはまた呆れる。にこにこと自分を見下ろすノアをとことん不思議に思う。


そして、ノアの自己紹介に特に反応を示す訳でもなく、ネロは尻尾を揺らした。


「…なぁ、助けてもらったお礼に良い事を教えてやるよ。」


「?」


これ以上ノアのペースに巻き込まれまいとするネロからの話題にノアは首を傾げた。ネロはノアの薬草の入ったホルダーが置かれた切り株の上に上り、ノアとほぼ視線を合わせ、口を開いた。


「俺が流れ者とまだ一緒にいた時の話だ。魔法にも勝る秘説の万能薬がこの世には存在する。」


「魔法よりも、すごい…?」


「ああ、その名も“パナケイア”。あらゆる難病、傷をも癒し、この世の万物全てを操れると言われている。」


ネロの話にノアの瞳は輝いていく。魔法よりも強力な魔法薬が存在する、その事実はあまりにもノアの好奇心をくすぐるものだった。


「すごい、すごいです!パナケイア…そんなものが存在しただなんて!」


「興味出たか?」


「それはもちろん!」


目にかかれるのならぜひ、そう顔に分かりやすく書かれたノアの表情にネロは口端を上げる。


「お前にも作ることは出来るぞ。」


「………………え?」


たっぷりの間を空けてノアはかろうじての返事をした。ネロの言葉が脳裏で反復し、聞き間違えでない事が分かった頃、叫んでいた。


「え、えええ!?む、無理ですよ…!そんなすごいもの、私なんかに作ることなんてっ…!」


「魔法薬は材料と調合法さえ分かれば誰にでも作れる。ましてやお前は魔法薬学生だろ?」


「でも…。」


ネロのいう事はもっともだった。しかしノアには不安が過る。魔法薬錠をひとつも覚えることも出来ない自分が、はたして万能薬など作れるのだろうか、と。


「嫌なのか?」


「え?」


ネロの声はどこかイラついていた。


「作りたくないのかと言っているんだ。」


「そんなこと!作れるものなら作りたいです…けど、」


ノアの堂々巡りの言葉にネロはため息をついた。猫がため息をつくところなど、ノアは初めて見た。


「自信がなくてやれないと思うのと、お前の意思でやりたくないと思うのは全くの別物だ。なぁ、もう一度聞くぞ。」


ネロの翡翠色の瞳が細まり、ノアを捉える。その視線にノアは生唾を呑みながら、心臓にネロの言葉を巻きつけられていくのを感じていた。


「やるのか?やらないのか?」


夢を追いかけながら、どこか無理かもしれない、そう思っていた自分が目の前の翡翠色に埋め消されていく。


「…やり、ます。」


ハッと肩を揺らし、ノアは気づく。自分は今、なんと言ったのだろうか。ノアの無意識の決意にネロは尻尾を振る。


「よし、よく言った。」


「え?え?あの…?」


「俺が材料と調合法を教えてやる。大丈夫だ、絶対出来る。」


不思議とネロの言葉はノアの心にストンと落ち、そうなることが当たり前になるような自信を与えた。


「よ…。」


「…?」


ノアの言いかけた言葉にネロの耳がぴくりと動く。耳で拾った続きの言葉はネロを初めて優しく微笑ませた。


「よろしくお願いします…!」


「任せろ。」


ネロはご機嫌に尻尾を振り、切り株から降りて、ノアに近づいた。


「集める材料は3つ。まずは簡単なブルーセボリーから採りにいくぞ。」


「ま、待ってください!ブルーセボリー?レッドではなくて、ですか…?」


進みだすネロを引き留め、ノアは首を傾げる。薬草に関しては得意だと自負していたが聞いたことのない品種に納得がいかなかった。


「ブルーセボリーはレッドセボリーが朽ちる寸前の状態のものをいう。一般的な魔法薬学にはほとんど使われないから薬草学書には書かれていないケースが多い。お前が知らなくても無理はない。」


「………。」


ノアはネロの話に夢中だった。本に書かれていないことを知っているネロの知識に感服の一言だ。


「ネロさんは、博識なんですね…。ケットシーだからですか?」


「……いや、ああ、まぁ、そうだ。」


言葉を濁しながらネロは歩き出す。その足はセボリーの生息地に向かっているのだろう。ノアは切り株の上のホルダーを腰に巻きつけ、その後を追ったのだった。




「このセボリーで、良かったんですか?」


「ああ、根本が紫がかってるだろう。それは朽ち始めのサインだ。日が暮れる頃には完全に紫になってブルーセボリーに変化する。」


「へぇ…!」


ネロの言う通り、セボリーの生息地にて簡単に採取することの出来た。


パナケイアの一つ目の材料、ブルーセボリーになる前のそれをノアはキラキラとした目で見つめた。


いちいち感動するノアにネロはため息をこぼす。


「楽しそうだな…。」


「はい、とっても!だって私、自分だけだったら一生かかっても出来ないことをしてるんですから!」


「……。」


ノアの眩しいほどの笑顔。ネロの知識、そして秘説パナケイアまでの旅路に子供のようにはしゃいでいた。


「ネロさんのおかげです。」


「…まだ気が早いぞ。」


笑顔のノアから視線を逸らし、次なる材料アイアンフラワーを目指してネロは足を進めていく。小さな猫の足だというのに、速い足取りにノアは慌ててまた追いかけた。


アイアンフラワーは水気の少ない岩場に生息する。その為、二人は森を越え、ペドロの丘と呼ばれる岩場に来ていた。


「アイアンフラワーは聞いたことがあります。その名の通り、鉄のように硬い花なんですよね?」


「鉄分を多く含む植物だから言うまでもなく、硬い。だから少し厄介かもしれない。」


「え?」


ネロの言葉にノアは足を止める。乾いた地面から砂埃が立ち、二人の間をすり抜けていく。


「採取するときに道具がないとその硬さで地面から取りにくいってことだ。」


「あ…なるほど。」


「俺は手伝ってやれないからな、もし見つけてもお前一人で取れるかどうか…」


「大丈夫です!」


ネロの心配を余所にノアが拳を作って見せた。


「こう見えても私、結構力持ちなんですよ!」


「…そうか。」


あまり当てにはしていないネロの返答。その上視線はノアにさえ向けられていなかった。そんなネロの態度にノアは頬を膨らます。


「信じてませんねっ?ふふ、ちゃんと見ててくださいよー。」


アイアンフラワーを探すネロはノアに目もくれていない。


「ネロさーん!」


しかし、次の瞬間、翡翠色のネロの目はさらに丸くさせられることとなった。


「…なっ…!?」


自分を呼ぶ声に仕方なく振り返ればネロは驚いた。ネロの見た光景とは大岩を片手で持ち上げるノアの姿があったからだ。


「お、おお、おま…!」


「えへへー!力持ちでしょう!?」


「い、いいから!分かったから!早く下ろせ!」


「何で慌ててるんですか?よいしょっと。」


ズドーン…とノアが岩を下ろすと地響きが鳴る。その音が岩の重さを十分に伝えてきた。


手を叩き、埃を落とすノアをネロは信じられないものを見るような目で見ていた。


その視線に気づくと、ノアは悪戯っこのように舌を出した。


「冗談ですよ、えっと、今のは魔法薬を使ったんです。」


「魔法薬…?」


「はい。学校の図書館にあった本を借りたときに試しに作ったことがあって。」


ネロはもし手が自由に動くのであれば人でいう頭を抱えるという仕草を取りたかった。ノアの意外すぎた行動にしてやられた気分だ。


「驚きました?」


「サプライズなら大成功だと思うぞ。」


「やった!」


喜ぶノアは子供そのものだ。純粋で素直、その言葉がノアには似合っていた。ネロもつられて絆される。


「あ。」


「どうしました?」


「お前が上げた岩のあった場所だ、見てみろ。」


ノアが振り返って見てみる。するとそこにはアイアンフラワーが咲いていた。


「わ!これがアイアンフラワーなんですね!?」


「あぁ。まだ力は残っているか?」


「はい!」


まだ怪力の能力が継続しているノアが花をぷちりと摘みとった。


「2つめの材料、ゲットです!」


「あぁ、そうだ――な……?」


喜ぶノア、だがネロの耳は微かに拾った音に呼応するようにピクリと動く。何かが迫っている。


特定することが出来ないネロはもどかしく、辺りを警戒するのだが、殺風景な景色がより一層不安を掻きたてた。


「ネロさん…?」


「…何か、来る…!」


気づいた時には、遅かった。ネロとノアの頭上に大きく響いた羽音と唸り声。


大きな影が落ちると同時に姿を現したのは古の竜だった。


「コスモドラゴン!?何故こんな場所に…!」


「グギャァアア!」


「……!」


ドラゴンの翼により起きる風がノアの髪をかき混ぜる。怒気が含まれる熱風が頬を乱暴に叩く。感じる恐怖は心臓を早鐘のように鳴らす。


「逃げるぞ!」


「…は、はい…!」


ネロが駆け出そうと姿勢を低くしている。ノアもその後に続こうとするが、視界の隅に捉えたものに、足を止めてしまった。


「えっ…?」


「おい!」


自分の後を追ってこないノアに気づき、ネロは大声を上げた。次の瞬間、信じたくない光景が目に入った。


振り上げられたドラゴンの尾がノアに迫っていた。


「ノアッ!」


自分でも信じられないような大声を響かせ、ネロは後先考えずに砂埃の立って視界が悪くなったそこへ飛び込む。


轟音が反響し耳鳴りを起こしている。ノアにもし直撃していたのなら無傷ではない。


最悪の事態が頭に過ぎる。小さな黒猫が無謀にも砂埃の中を駆ける。そして視界が開けた時、ネロは信じられない光景を見た。


「…!!」


ノアがドラゴンにそっと触れている光景。夢を見ているようだった。


あれほど獰猛だったドラゴンはすっかり大人しくノアの前に降り立ち、体を縮まらせていた。


「どうして…。」


「ネロさん!」


ネロに気づいたノアが呼ぶ。ハッと我に返り彼女の元まで走る。


「無事か!?」


「はい。この通りです。」


無傷のノアにネロはようやく一息をついた。


どういうことなのかノアに説明を求めようとするとノアの言葉がそれを遮った。


「それよりも、このドラゴン、怪我をしているみたいなんです!」


「…は?」


「ほら、足のところ。血が出ていますよね?」


確かにノアが指差す場所からは血が流れていた。致死量ではないが、流れる血は痛々しい。


「お前…それで、まさか、足を止めたと?」


「…え?その、気になって。」


「(馬鹿、だ)」


ネロは思わず叫びそうになるのをなんとか抑えた。まさかの窮地に自分に襲ってきた敵を心配する者がいるだろうか、いや、実際にはネロの目の前にいるのだが。


深く長いため息をつくことによって、何とか自制したネロは「…で?」とノアを見る。


「手当てしてあげても、いいですか?」


「…好きにしてくれ。」


反対する気にもなれなかったネロはもう一度ため息をこぼすのだった。










「これでもう大丈夫ですよ。」


ノアが手当を施し終えるとドラゴンは大きく鳴いた。その姿は礼を言っていると非科学的な光景にも見えた。


「コスモドラゴンが人に懐くところを見たら学者たちは驚くだろうな…。」


「そうなんですか?」


「当たり前だ。」


ネロの中でノアの印象が段々と変わってきていた。少し弱気ではあったが、面倒事に首をつっこむお節介、お人好し。ノアのそれぞれの面はとても厄介だった。


魔法薬学をかじっているからこそ、ネロはノアを誘ったというのに。


今ではすっかりノアのペースに巻き込まれ、ネロは振り回されてしまっている。


先程の出来事がいい例だ。ドラゴンの尾でノアが攻撃されそうになった時、ネロは生まれて初めてあんなに大声を出した。


そして初めて、砂埃の中から無傷なノアを見たとき、心の底から安堵した。


新たな自分の一面を改めて振り返ると、ネロの決心が揺らぐ。これ以上、続けることに意味はないのかもしれないと。


「あ、いっちゃった…。」


ネロが一人、深く考え込んでいる間にノアの元からドラゴンは去ってしまった。大空高くへ羽ばたいていくドラゴンを見送るとノアが振り返った。


「さて!アイアンフラワーも手に入りましたし、いよいよ最後の材料ですね!」


わくわくと隠しきれない高ぶりを見せるノアにネロは直視出来なかった。


「…最後は“エキドナの鱗”」


「エキドナ…ってなんですか?」


首を傾げるノアは無理もない。ネロは淡々とした口調で語った。


「エキドナは未だ解明されていない未知の生き物だ。唯一、その姿を見た者はこう言った…“見たこともない蛇だ”と。仮説としては大男一人飲み込むのも容易いだろうと言われている。」


「…え、えっと…人を食べるんですか…?」


「…野生動物であれば、自分よりも小さな弱者は恰好の獲物だと思わないか?」


「そ、そうですね。」


ノアの頬に冷や汗が伝う。未知の生物に辿りつけるのだろうかという不安、何よりも遭遇してしまったとき、無事に帰れる保証など、どこにもない。


「…諦めるか。」


「え?」


その意外な言葉を発したのはネロだった。出会った時から毅然としていた声色が初めて弱弱しく聞こえた。


「提案した俺が言うのも何だが、危険すぎる。さっきのような出来事がまた起きて助かる保障なんてない。」


「でも…。」


ネロのいう事は正しかった。しかしノアは思い留まる。せっかく集めた材料があと一つで揃うというのに。ここまで連れてきてくれたネロにも申し訳なかった。


そんなノアの心を見抜いたかのように、ネロは心を決め、口火を切った。


「お前が悩む必要なんてない。」


「ネロさん…。」


「正直に言おう。パナケイアは万能薬なんかじゃない。」


ネロの言葉にノアは目を丸くした。ネロはただ、ノアの瞳から目を逸らさずに話した。


「パナケイアの真の効力とは流れ者のかけた魔法を解くというもの……それが俺にはどうしても必要だった。」


「どういうこと…ですか?」


「俺は…。」


ノアの問いにネロは一度、口を固く結び、そしてゆっくりと開いた。


「俺は…元は人間。流れ者によって黒猫に姿を変えられたんだ。」


「!」


「だからケットシーでもない。ただお前を唆して元の姿に戻ろうとした狡猾な人間だ。」


ネロの告白にノアは口元を手で覆う。隠しきれない驚きで言葉を失った。


「こんな姿じゃ材料集めどころか、薬の調合さえ出来やしない。路頭に迷った挙句、沼に落ちてお前に助けられた…。」


ネロは自嘲気味に言い放った。毅然とした態度の裏に抱えていた彼の悲しみが垣間見えた。


「お人好しなお前に俺は嘘をついて、利用した。分かっただろう?本物のケットシーより性質が悪い…今ならまだ日暮れまでには学校に戻れ……。」


続くはずの言葉は止められた。ネロは温かい腕に抱かれていた。


自責の念を打ち消されるようなノアの行動にネロは目を丸くする。


「もう、大丈夫ですよ。」


ハッとして彼女を見上げると、ノアの優しい瞳と目が合った。


それは沼から助けられた時と同じ体験だった。


「そういう事情だったら、尚更、最後の材料、手に入れなくちゃですよね。」


「……お前。」


「ねぇ、ネロさん。ネロさんは私を騙していたかもしれないけれど、私、とっても楽しかったんですよ。」


騙していたのに、信頼を裏切ったというのにネロの戸惑った瞳がノアを見上げ続けている。


そんなネロをそっと膝の上に置き、ノアは微笑んだ。


「言ったかもしれないけれど、私、普通だったら出来ないことをネロさんと一緒だったから出来たんです。もし、あの時、ネロさんに会わなかったら、私は一人じゃ何も出来ないって落ち込むだけだったと思います。」


だから、ありがとうございます。まさか騙した相手に感謝されるなんて誰が予測出来ただろうか。ネロは呆れ、そして笑ってしまった。


「…お前はとんだ、お人好しだな。」


「そうだとしたら、ネロさんはもっともっとお人好しですよ。」


行動で勝てなければ、口でも勝てるはずがない。ネロはノアと向き合ったことで、胸の隙間を埋められた気がした。




「ここだ。ここでエキドナが発見されている。エキドナの住処は洞窟。だから洞窟周辺で張り込んで奴が獲物を狙いに外に出てきた時を狙う。」


「なるほど…なら、あの崖の上はどうですか?」


「…そうだな。あそこなら気づかれにくいし、視界もいい。」


未知の生物を求め、森を越え、丘を越え、崖に囲まれた洞窟へとやってきた二人。


日が傾き、木々が茂った奥は暗く見えない。崖の上にさえいれば、いざという時逃げられるし、相手の動きを把握しやすかった。


洞窟からエキドナがいつ出てくるのかは分からない、ノアとネロはその時を待った。


どれくらいの間、そうしていただろうか。日はすっかり暮れていた。気分転換にと、ノアが口を開いた。


「ネロさんは…人間に戻れたらまず、何をしたいですか?」


「…戻れたら…?そうだな。やりかけの研究に没頭したい。」


「研究…?あ、魔法薬のですか?」


ノアがそう思ったのはネロの知識の豊富さだ。今やケットシーでないと知ったネロの魔法薬のいろはは並大抵のものではない。本にも書いてないことを彼は知っていた。


「あぁ…今一番の山場を邪魔されたからな…そもそも、あんな依頼さえなかったらこんなことにはならなかったのにな…」


「…?」


ネロはいつからか愚痴をつぶやき、嘆いていた。ノアは首を傾げるだけに留めておいた。そして彼の気を紛らわせるために、また別の話題を振った。


「そういえば、ネロさんはおいくつなんですか?」


「十九だ。」


「えっ!」


ついノアは声を上げてしまった。ネロが不思議そうにノアを見上げる。


「なんだ?俺の年齢がどうかしたか?」


「い、いえ。もっと年上だと思ってました…。」


ネロの知識、冷静な対応にまだ成人していない年齢なのだと知り、ノアは驚いた。


「そういうお前は?」


「私ですか?十七ですよ。」


「十七!?」


今度はネロが驚く番だった。


「な、なんですか?」


「いや…もっと、年下かと思っていた…。」


「…よ、よく言われますけど…!」


まさかネロが驚くとは思わなかったノアはため息をつく。童顔の所為か、はたまた言動の所為か、年若く見られることは少なくなかった。


「そんなに驚かなくても…。」


「悪い……って、お前も俺に対して変わらない態度だったじゃないか。」


「…あ。」


ネロに指摘され確かにそうだと、二人の目が合わさると次の時には揃って笑っていた。不思議なことに、黒猫の姿であるネロが笑えるはずもないのに、ノアには何故かそう感じ取れた。


「…!」


穏やかな時も一時。ネロの耳が何かの音を拾った。


「足音が聞こえる…けど、これはエキドナじゃない…。」


「どういうことですか?」


「エキドナであれば奴は蛇だ。蛇なら体を引きずる音がするはず…今聞こえるのは四足歩行…それに、音源は…!」


ハッとネロが振り返った瞬間、二人の後ろの茂みが揺れた。ネロは姿勢を低くし、警戒体勢を取る。


茂みを揺らし、日が暮れ、月明かりに照らされ、出てきたのは荒い息遣いをしたウルフだった。


影からそろりと出てくれば鋭い爪、牙が光った。


思わぬ事態に二人の体は固くなりながら一歩一歩とウルフから距離を置く。しかしウルフは低い唸り声を響かせ近づいてくる。


「…っ!」


カラッとノアの背後で小石が崩れ落ちた。それが逃げ場がもうないことを告げている。


「くそっ…!」


ネロが唸る。ノアの善意に甘えた結果がこれだ。結局、彼女を巻き込んでしまった。自分の所為で、ノアを危険にさらしている現実に怒りと情けなさで頭が沸騰しそうだった。


だから、無駄と分かっていながら、体は動いていた。


「ネロさん…!?」


ノアを守るようにして前に立つネロ。ノアはその小さな猫の背中に叫んだ。


「俺が囮になる、少しでも隙が出来たら逃げろ!絶対に後ろは振り向くな…!」


「そんな!」


「頼むから!」


ノアの拒否はネロの懇願する声にかき消された。初めてネロが感情を露わにした声色にノアはびくっと竦む。


「お前にもし何かあったら、俺はこの先、二度と人間に戻りたいとも思えなくなる。」


「え…?」


どういう意味なのだろうか、ネロの言葉の真意が分からないノアは戸惑う。


ネロはノアの戸惑う様子に当然だと思う。自分でさえ口にした言葉の真意に確信が得られないのだから。しかし、ここで彼女を失うことだけは出来なかった。


「…人間に戻れたら教えてやる!」


そう言うと同時にネロは駆け出した。小さな黒猫が自分より大きな体躯を持つウルフに敵う勝算がない事などノアでも分かる。


「ネロさ…!」


ウルフも最後の唸りを上げ、ネロという黒猫を獲物に駆け出す。


「や、やだっ…ネロさんっ!」


ノアの叫びと共に、二匹の牙と爪が交わろうとした時、強風がその場を包み込んだ。


「!?」


この風は一体、ノアが反射的に閉じた目をそろそろと開くと、そこには見覚えのある姿があった。


「コスモドラゴン…?」


「グギャアアア!」


まるで二人のピンチに駆け付けたのだと言いたげにドラゴンは吠えた。当然、強者であるドラゴンを前にウルフは背を向け森の闇の中へ溶けていった。


勝利の雄叫び、ドラゴンは再び吠える。その響きにノアはハッと肩を揺らした。


「ネロさん!無事ですか!?」


ドラゴンを隔て、向こう側にいるネロの元へと回り込むと、ぐったりと倒れたネロを見つけた。


形容しがたい絶望を無理やり無視し、ノアはネロを抱き上げる。


「やだっ…!ネロさん…!死んじゃ嫌です!!」


涙が溢れ、零れだしていた。熱いとも冷たいとも分からない涙が頬を流れて止まらない。


必死に願う。あの翡翠色の瞳を見せてくれ。自分を勇気づけてくれた彼の言葉が聞きたいのだと。


それに応えるかのような小さな奇跡が響いた。


「…勝手に殺すな。」


「…ネロさん!?」


小さかったが、確かなネロの返事にノアの涙で歪んだ視界は一気に開けた。


涙は引っ込み、安堵が溢れだす。ネロは自分の顔や体に落ちてきたノアの涙を前足で擦り、顔を洗いながら舐めていた。


塩辛いはずの涙は猫である所為か、ネロには甘く感じられた。


「よかったぁ…!」


「グギャアア!」


ネロの無事に喜ぶノアにそれに続くようにして騒ぎ出すドラゴン。危機が過ぎ去ったその時だった。


「ここだ。ここでエキドナが発見されている。エキドナの住処は洞窟。だから洞窟周辺で張り込んで奴が獲物を狙いに外に出てきた時を狙う。」


「なるほど…なら、あの崖の上はどうですか?」


「…そうだな。あそこなら気づかれにくいし、視界もいい。」


未知の生物を求め、森を越え、丘を越え、崖に囲まれた洞窟へとやってきた二人。


日が傾き、木々が茂った奥は暗く見えない。崖の上にさえいれば、いざという時逃げられるし、相手の動きを把握しやすかった。


洞窟からエキドナがいつ出てくるのかは分からない、ノアとネロはその時を待った。


どれくらいの間、そうしていただろうか。日はすっかり暮れていた。気分転換にと、ノアが口を開いた。


「ネロさんは…人間に戻れたらまず、何をしたいですか?」


「…戻れたら…?そうだな。やりかけの研究に没頭したい。」


「研究…?あ、魔法薬のですか?」


ノアがそう思ったのはネロの知識の豊富さだ。今やケットシーでないと知ったネロの魔法薬のいろはは並大抵のものではない。本にも書いてないことを彼は知っていた。


「あぁ…今一番の山場を邪魔されたからな…そもそも、あんな依頼さえなかったらこんなことにはならなかったのにな…」


「…?」


ネロはいつからか愚痴をつぶやき、嘆いていた。ノアは首を傾げるだけに留めておいた。そして彼の気を紛らわせるために、また別の話題を振った。


「そういえば、ネロさんはおいくつなんですか?」


「十九だ。」


「えっ!」


ついノアは声を上げてしまった。ネロが不思議そうにノアを見上げる。


「なんだ?俺の年齢がどうかしたか?」


「い、いえ。もっと年上だと思ってました…。」


ネロの知識、冷静な対応にまだ成人していない年齢なのだと知り、ノアは驚いた。


「そういうお前は?」


「私ですか?十七ですよ。」


「十七!?」


今度はネロが驚く番だった。


「な、なんですか?」


「いや…もっと、年下かと思っていた…。」


「…よ、よく言われますけど…!」


まさかネロが驚くとは思わなかったノアはため息をつく。童顔の所為か、はたまた言動の所為か、年若く見られることは少なくなかった。


「そんなに驚かなくても…。」


「悪い……って、お前も俺に対して変わらない態度だったじゃないか。」


「…あ。」


ネロに指摘され確かにそうだと、二人の目が合わさると次の時には揃って笑っていた。不思議なことに、黒猫の姿であるネロが笑えるはずもないのに、ノアには何故かそう感じ取れた。


「…!」


穏やかな時も一時。ネロの耳が何かの音を拾った。


「足音が聞こえる…けど、これはエキドナじゃない…。」


「どういうことですか?」


「エキドナであれば奴は蛇だ。蛇なら体を引きずる音がするはず…今聞こえるのは四足歩行…それに、音源は…!」


ハッとネロが振り返った瞬間、二人の後ろの茂みが揺れた。ネロは姿勢を低くし、警戒体勢を取る。


茂みを揺らし、日が暮れ、月明かりに照らされ、出てきたのは荒い息遣いをしたウルフだった。


影からそろりと出てくれば鋭い爪、牙が光った。


思わぬ事態に二人の体は固くなりながら一歩一歩とウルフから距離を置く。しかしウルフは低い唸り声を響かせ近づいてくる。


「…っ!」


カラッとノアの背後で小石が崩れ落ちた。それが逃げ場がもうないことを告げている。


「くそっ…!」


ネロが唸る。ノアの善意に甘えた結果がこれだ。結局、彼女を巻き込んでしまった。自分の所為で、ノアを危険にさらしている現実に怒りと情けなさで頭が沸騰しそうだった。


だから、無駄と分かっていながら、体は動いていた。


「ネロさん…!?」


ノアを守るようにして前に立つネロ。ノアはその小さな猫の背中に叫んだ。


「俺が囮になる、少しでも隙が出来たら逃げろ!絶対に後ろは振り向くな…!」


「そんな!」


「頼むから!」


ノアの拒否はネロの懇願する声にかき消された。初めてネロが感情を露わにした声色にノアはびくっと竦む。


「お前にもし何かあったら、俺はこの先、二度と人間に戻りたいとも思えなくなる。」


「え…?」


どういう意味なのだろうか、ネロの言葉の真意が分からないノアは戸惑う。


ネロはノアの戸惑う様子に当然だと思う。自分でさえ口にした言葉の真意に確信が得られないのだから。しかし、ここで彼女を失うことだけは出来なかった。


「…人間に戻れたら教えてやる!」


そう言うと同時にネロは駆け出した。小さな黒猫が自分より大きな体躯を持つウルフに敵う勝算がない事などノアでも分かる。


「ネロさ…!」


ウルフも最後の唸りを上げ、ネロという黒猫を獲物に駆け出す。


「や、やだっ…ネロさんっ!」


ノアの叫びと共に、二匹の牙と爪が交わろうとした時、強風がその場を包み込んだ。


「!?」


この風は一体、ノアが反射的に閉じた目をそろそろと開くと、そこには見覚えのある姿があった。


「コスモドラゴン…?」


「グギャアアア!」


まるで二人のピンチに駆け付けたのだと言いたげにドラゴンは吠えた。当然、強者であるドラゴンを前にウルフは背を向け森の闇の中へ溶けていった。


勝利の雄叫び、ドラゴンは再び吠える。その響きにノアはハッと肩を揺らした。


「ネロさん!無事ですか!?」


ドラゴンを隔て、向こう側にいるネロの元へと回り込むと、ぐったりと倒れたネロを見つけた。


形容しがたい絶望を無理やり無視し、ノアはネロを抱き上げる。


「やだっ…!ネロさん…!死んじゃ嫌です!!」


涙が溢れ、零れだしていた。熱いとも冷たいとも分からない涙が頬を流れて止まらない。


必死に願う。あの翡翠色の瞳を見せてくれ。自分を勇気づけてくれた彼の言葉が聞きたいのだと。


それに応えるかのような小さな奇跡が響いた。


「…勝手に殺すな。」


「…ネロさん!?」


小さかったが、確かなネロの返事にノアの涙で歪んだ視界は一気に開けた。


涙は引っ込み、安堵が溢れだす。ネロは自分の顔や体に落ちてきたノアの涙を前足で擦り、顔を洗いながら舐めていた。


塩辛いはずの涙は猫である所為か、ネロには甘く感じられた。


「よかったぁ…!」


「グギャアア!」


ネロの無事に喜ぶノアにそれに続くようにして騒ぎ出すドラゴン。危機が過ぎ去ったその時だった。


『ありがとうねぇ、お嬢ちゃんたち。』


第三者の女の声に一同は驚く。声がした方を見れば、そこには信じられない展開が待ち受けていた。


『毎夜毎夜、うるさくて敵わなかったんだよねぇ、あのウルフ。これでまた静かに暮らせるよ。』


エキドナの住処とされる洞窟を囲う崖、そこに浮かんでいる女。性格に言えば、崖から見えているのは女の上半身。


『それにしても、こんなところにニンゲンがやって来るなんて珍しいねぇ?あぁ、それを言ってしまえば、魔法の匂いがする黒猫に地上じゃ滅多に見られないコスモドラゴンがいるのもか。』


女がさらに浮上し、崖から這い上がるようにしてノアたちに近づく。ようやく見えた女の下半身、それは大蛇の出で立ちだった。


上半身が人間の女、下半身が蛇。自由な思考であるノアが直感で物申した。


「…貴方が、エキドナさん…ですか?」


「何言って…。」


馬鹿なことを言い出すノアにネロが口を挟むが、すぐに答えは告げられた。


『おやぁ。私を知っているのかい?人間にしては珍しいねぇ。』


証拠などない。ケットシーのように狡猾な意思を持つ魔物のように人を騙そうとしている可能性も捨てられない。しかし、ノアの問いに答えた女をエキドナではないとネロはどうしても思うことが出来なかった。


同時にエキドナの目撃情報について思い出す。


“見たこともない蛇だ”それを勝手に単に体が大きいだけだという先入観に囚われていただけで、確かに上半身と下半身が異なる姿であれば、見たこともないという定義に見事一致する。


ネロはノアの直感、というよりは柔軟な思考に感服するのだった。




***



迷惑していたウルフから解放されたエキドナは快く鱗を提供してくれた。


これで材料は揃った。一刻も早くネロを元の姿に戻そうとノアはエキドナの洞窟を借りて、夜通し、ネロの指導の元、魔法薬の調合に取り掛かった。


火を起こし終え、耐熱性のある木の皮で即席で作られた土台の上に同じ素材の器を乗せる。


ブルーセボリーを細かく千切り、アイアンフラワーを砕いたものを煎じ合わせる。粉末に近くなったそれを器に入れると熱された部分から、淡く光りだす。赤から紫へ、紫から青へ、色は常に変化していた。


「エキドナの鱗に呪文をかけてくれ。さっき教えた通り、ゆっくりでいい。」


ネロの指示にノアは頷く。虹色に輝きながら向こう側が見える透明感を持つエキドナの鱗を指でつまみ、額の前に祈るように構えた。


「累々せし力よ、彼の者の真実の姿を我の前に現したまえ。」


閉じていたノアの目がかっと開かれれば鱗は虹色に輝きだす。銀色に溶けきった液体の光と混じり合い、光はネロに向かっていく。


「……!」


ネロの体を包みこむ光、辺り一面に走る閃光。


眩しすぎた光が消えた。いつの間にか明けた空から朝日が洞窟に差し込んでいた。ノアが目を擦り、ネロがいた場所を見れば見知らぬ男が一人、しかし一目瞭然だった。


鴉を濡らしたような黒髪に、汚れのない翡翠色の瞳、褐色の肌。猫ではなく、ノアよりも背の高いその青年こそが本当のネロの姿だった。


「…戻った、な。」


自由に動かすことの出来る手のひらを見つめ、ネロと目が合う。ノアは大きく頷いた。


「はい!」


「…二度目だな、お前に助けてもらうのは…いや、もっと助けられているか…。」


ネロが情けなさそうに、それでいて嬉しそうに笑っていた。初めて目にすることが出来たネロの笑顔にノアは顔が熱くなるのを感じた。


「…!?」


両頬を隠すようにして手で押さえるノアにネロは首を傾ける。


「…ノア?」


「えっと、あの、よかったですね…!ネロさん!」


名を紡がれ、猫の時とは違いくすぐったくなる。ノアは慌てるようにしてネロに背を向けていた。そして誤魔化そうとした態度が、重要なことを思い出させた。


「ああ!?」


「どうした?」


「が、学校…!」


本当に今更だが、ノアは思い出してしまった。日付を越え、ノアは無断外出をしている。その上、授業の最中に姿を消しているのだから行方不明だ。


目に浮かぶのは慌てる教師たち、心配するルームメイト。そして最後には経験のしたことのない叱咤が待っているだろう。


頭を抱えどうしようと考え込んだノアの肩にポンと頼もしい手が乗った。


振り返るとネロだった。


「それについては俺が何とかする。」


「え…?」


ネロが一体何を考えているのか、そして同時に何者であるか未だ分からないノアには予測していなかった助け舟だったが、ネロならばどうにかしてくれるという信頼があったのは確かだった。






「クレバネスくん、この度は我が校への特別講師の件、引き受けてくださった事、誠に感謝するよ。」


「恐縮です。若輩者ですが、母校の繁栄にお力添え出来ることを私も嬉しく思います。」


コスモドラゴンの背に乗り、ネロと共に学校に戻ったノアは更に驚かされることとなった。


入学式以来、初めて見るシビル魔法薬学校長と対峙している、礼儀正しく知的聡明な男性。この人物は誰なのだろうか。いや、頭ではそれが何者なのか分かっていた。


淡々と感情を閉まいこんだ口調が普通で、社交辞令の中に笑みを混ぜる芸当なんてまるで似合わない、ネロ・クレバネス。


数時間前までは魔法にかけられ小さな黒猫だったネロ。


彼の正体は、ノアと同じシビル魔法薬学校の卒業生にして、天才魔法薬師と謳われた有名人だったのだ。


「とにかく、道中散々な目に遭ったようだが無事で何よりだったね。」


ネロは学校長より頼まれていた特別講師という立場を使い、ノアを連れて学校長に面会を許されていた。事の次第と、ノアの弁解を図るためだった。


よってノアの授業放棄、及び無断外泊のお咎めはなしとなった。


学校長室を後にした二人はネロに宛がわれた執務室にて、長い溜め息をついた。


「ありがとうございました…ネロさんのおかげで退学は免れたようで…。」


「何を言う。お前がいなかったら俺は元には戻れなかったんだ、お前には感謝し……。」


「ネロさん?」


感謝の言葉。ネロに似合わないと言えば失礼だが、途中で途切れたネロにノアは呼び掛ける。


ネロはノアから顔を背け、口元を手で覆い、完全に表情を隠していた。


「(…別にただ礼を言うくらい……なんだ、この羞恥心は…)」


ノアの事がまともに見れない。


ネロは気づいていなかった。彼は幼い頃から天才児と持て囃された。誰よりも長けた才能、聡明な彼が誰かに礼を言うなど片手程の経験だったということを。


その相手がまして、ありがとうにありがとうを返す奇想天外、また言い換えれば、天真爛漫な少女であれば調子を狂わせられない訳がない。


ネロとノアはまるで対極に立つ者同士だった。だからこそ、互いに足りないものを補い、持ち合わせていたものを分け与えられた。


それは魔法薬のような関係。ネロの知識とノアの心がパナケイアという奇跡を生んだ。


魔法薬パナケイアが魔法よりも強力である由縁、それは無意識の中、心を必要とする絆が産み出される想いの力によるものなのだろう。


「………ノア。」


「……え?は、はい。」


名を呼ばれる幸福を知り、名を呼ぶ喜びを味わう。


ネロがこの感情に名前をつけるのはまだ早い。だが、そう遠くない未来、胸に閉まっておくことが出来なくなることに今は気づくはずもない。


「……ありがとう。」


「…どういたしましてです!」


ただ、生まれて初めてのありがとうと、名を伏せた感情を彼女に送った。


そして、ノアもまた胸を高鳴らせている。


彼と過ごすであろうこれからの時間と、重なっていく想いの意味を。


「ネロ…さん。」


「なんだ?」


ネロの傍にいる充実感、同時に賑やかさが目立つ胸の動悸。


これを治す魔法薬は、この世にはきっとない。恐らく天才であるネロも作れない。


いや、作らないでほしい。ノアが初めて魔法薬を拒んだのは、魔法にも魔法薬にも負けない恋をしたからだった。


「これからよろしくお願いします!」


「……こちらこそ。」




end

連載で言えば一話という扱いですが、短編として載せさせて頂いたので、これで終了という形になります。アドバイスや感想などありましたら受け付けておりますのでどうぞよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ