「君を愛することはない」と言った旦那様、離縁した妻に今さら恋をしても遅いです
結婚式の夜、夫になったクライヴ様は寝室の扉を開けなかった。
「エルナ。君を愛することはない」
廊下の燭台が彼の横顔だけを照らしていた。整った眉、薄い唇、礼装の襟元。昼間はあれほど大勢の招待客から祝福を受けた人が夜になると私の前で石像のような顔をしている。
まあ、石像でももう少し愛嬌のあるものは庭にございますけれど。
「承知いたしました」
私がそう答えると、クライヴ様はわずかに目を動かした。
「驚かないのか」
「驚いております」
「そうは見えない」
「泣き崩れた方がよろしいでしょうか。今なら少しならできます」
クライヴ様は眉を寄せた。初対面から三度目に見る顔だった。昼間の誓約、晩餐の席、それから今。つまりこの方は困るとすぐ眉間に皺を寄せるらしい。
私はその皺を見ながら、自分の胸がちゃんと痛んでいることを確かめていた。
政略結婚である。そこに夢を詰めすぎるほど幼くはない。けれど夫となる人から、最初の夜に愛さないと告げられて、胸のどこも痛まないほど枯れてもいない。
ただ、痛みをそのまま顔に出すにはこの家の廊下は寒すぎた。
扉の下から冷たい風が入っている。壁際の花台には昼の花がそのまま置かれ、花弁の端が少し黒ずんでいた。床の磨きは悪くないが、人の手が追いつかない場所がいくつもある。新婦を迎えた屋敷というより、しばらく主の目が届いていない家だった。
「私は君に妻としての務めを求める。だが、期待はしないでほしい」
ほら来た。
愛は渡さない。務めは果たせ。言葉にすると随分と厚かましいが本人はたぶん厚かましいつもりもない。こういう人が一番厄介ですわ。悪人の方がまだ扱いやすい場合がございます。
「妻としての務めとは、具体的にどこまでを指しますか」
「侯爵夫人として家を保つことだ」
「寝室は含まれますか」
クライヴ様は息を詰めた。
「含まない」
「では、そのように」
私は一礼した。礼の角度は昼間と同じで背筋も曲げなかった。こういう場面で姿勢が崩れると、あとで自分に負けた気がして悔しい。
クライヴ様は何かを言いかけ、結局何も言わずに去った。
遠ざかる足音を聞きながら、私は閉じたままの寝室の扉を見た。白い花の飾りが結ばれている。昼に侍女が嬉しそうに用意してくれたものだ。
あの子には明日の朝、花がしおれる前に外してもらおう。
泣くのはそれからでも遅くない。たぶん。
翌朝、私は予定通り泣き損ねた。
朝食の席に出る前、厨房で砂糖壺の蓋が合っていないことに気づいたからだ。客用の銀器は曇り、玄関の花は香りが強すぎ、若い下女は来客の名前を覚えていない。家令のベルマンは実直そうだったが、私が質問するたびに返事の前にほんの少し目を伏せた。
隠しているというより、叱られる準備をしている目だった。
「誰が悪いかを聞きたいわけではありません」
私が言うと、ベルマンは驚いたように顔を上げた。
「足りないものを知りたいのです。人手ですか。時間ですか。それとも、誰に何を任せるか決まっていないのですか」
「奥様、それは」
「奥様と呼ぶなら、仕事をさせてくださいませ」
結婚二日目の新妻として、もう少し初々しくしている手もあった。けれど初々しさで砂糖壺の蓋は閉まらないし曇った銀器も光らないのだ。
私はまず、使用人たちの持ち場を聞いた。古い客室を一つ閉じ、手が足りない場所へ人を回した。庭師には季節に合う花を選ばせ、侍女には来客名簿を読み上げてもらった。夫の親族の誕生日、苦手な料理、好む席、気難しい叔母の許せる冗談の範囲まで書き留めた。
それから三年、私は侯爵夫人として働いた。
クライヴ様は私を愛さなかった。
朝食で同じ卓について、夜会では隣に立って、親族の前では妻と呼ぶ。けれど私が雨に濡れて帰っても、彼は暖炉の火を強めるようなことは決してしない。私が熱を出して欠席した晩餐でどの料理が残ったかは聞いても、私が何を食べられたかは尋ねなかった。
ひどい暴言を浴びせられたほうがましだったのかもしれない。だからこそ、痛みは小さな針のように毎日一本ずつ増えていった。
社交界でランセル侯爵家の評判は上がった。
「クライヴ様はご結婚なさってから、ずいぶん落ち着かれましたわ」
「今年の夕食会は見事でしたね」
「ランセル家の招待状なら安心ですもの」
夫はそう言われるたび、控えめに微笑んだ。
「家の者がよくやってくれている」
家の者。
便利な言葉ですこと。使用人も妻も絨毯も燭台も、まとめてその中へ入れられる。私だけを見なくて済むから、夫にとってはさぞ都合がよかったでしょう。
三年目の冬、私は書斎の戸棚から婚姻契約書の写しを出した。
最初から、その条項は知っていた。政略結婚とはいえ、父は娘を捨て荷のように出したわけではなかった。三年間、夫婦としての実体がなく、双方の間に子もなく、妻側が離縁を望む場合は持参金の返還とともに婚姻を解くことができる。
我が父ながら、なかなかよい仕事をしている。生きていたら紅茶に焼き菓子を三つ添えたところです。
私は離縁状を用意し、クライヴ様の帰宅を待った。
その夜、夫はいつもより少し機嫌がよかった。王都の夜会で、ランセル家の名が上がったらしい。私が一月かけて席順を整え、苦手同士の夫人を離し、寄付先の顔ぶれを揃えた会である。
「エルナ、来月の舞踏会も頼む」
「……来月は私はもうこの家におりません」
クライヴ様は手袋を外しかけたまま止まった。
「どういう意味だ」
「離縁をお願いいたします」
机の上に紙を置くと、部屋の空気がすっと冷えた。
「冗談を言うな」
「夫婦の寝室が三年間空いたままですので、冗談よりは契約に近い話ですわ」
「契約だと?」
クライヴ様はその言葉を嫌そうに繰り返した。お気持ちは分かる。愛を与えない時は都合がよく、妻が去る時だけ冷たく見える言葉ですものね。
「私は君を粗末にしたつもりはない」
「愛さないとおっしゃいました」
「傷つけたくなかった」
「傷つきました」
静かに言うと、夫は黙った。
私は続けた。
「私はあなたに愛されようとしました。朝食の好みも、親族の機嫌も、雨の日に痛む古傷も覚えました。けれどあなたは私の好きなお茶も、寒い日に痛む指先も、何一つ知ろうとなさらなかった」
「言ってくれれば」
「愛してほしいと、妻が毎朝申し上げればよかったのでしょうか」
クライヴ様の顔が歪んだ。
少し前の私なら、その顔を見ただけで慌てて言葉を和らげただろう。夫を困らせないように。場を荒らさないように。明日の使用人たちが働きにくくならないように。
でも、もうやめた。
「明朝、母方の伯爵家へ参ります。舞踏会の準備はベルマンへ引き継ぎました。招待客の覚書も置いてあります」
「待て。君がいなければ困る」
「困るのですね」
愛している、ではなかった。
やはり、そこですのね。
「それでは、なおさら離れます。私は困った時だけ名前を呼ばれる妻でいるには少し疲れました」
翌朝、私はランセル家を出た。
ベルマンは玄関で深く頭を下げた。侍女のリーナは泣きそうな顔で私の手袋を差し出してくれた。
「奥様、本当に」
「リーナ、泣くなら馬車が出てからにして。私まで泣きたくなります」
「もう泣いております」
「まあ。では私の負けですわね」
リーナの口元が少しだけ緩んだ。
クライヴ様は階段の途中に立っていた。昨夜より顔色が悪い。私と目が合うと、一歩下りかけた。
私は礼をした。
「お世話になりました」
「エルナ」
名前を呼ばれた。
三年前ならそれだけで胸が熱くなったかもしれない。今は、馬車の扉を閉める音の方が大きく聞こえた。
母方の伯爵家、ウェストン家はランセル家ほど大きくない。けれど玄関に入ると、暖炉の火がちゃんと燃えていた。伯母のアデライン様は杖をつきながら現れ、私を見るなり眉を吊り上げた。
「痩せたわね。まず座りなさい」
「ご挨拶を」
「挨拶は座ってもできるわ。疲れたでしょう」
その一言で私は危うく泣きそうになった。
そこへ、伯母の甥であるレナード様が盆を持って入ってきた。淡い茶の髪を後ろで束ね、深い緑の目をしている。派手な美貌ではないが、立っているだけで部屋の中の音が少し落ち着く人だった。
「紅茶です。濃さは分からなかったので薄めにしました。足りなければ差し湯を」
「ありがとうございます」
「砂糖は入れずに置きます。ご自分で選びたいでしょうから」
私はカップに伸ばした手を止めた。
ご自分で選びたい。
たったそれだけの言葉が胸の奥に深く入った。選ばせてもらえることが、こんなに温かいとは知らなかった。
ウェストン家での暮らしは穏やかだった。私は伯母の頼みで春の慈善市の手伝いを始めた。手紙の返事を書き、出店の場所を決め、足の悪い夫人のために玄関に近い席を空ける。やっていることはランセル家にいた頃と大きく変わらない。
ただ一つ、決定的に違うことがあった。
誰かが必ず礼を言ってくれるのだ。
「助かりました、エルナ様」
「この席なら母が楽に座れます」
「去年より歩きやすいですわ」
これだけでよかったのに。私は三年間、針ばかり集めていたのだと初めて知った。
一月ほどして、王都で舞踏会が開かれた。
主催はランセル家。けれど協賛者にウェストン家も名を連ねている。伯母は私を連れて行くと言い、レナード様は当然のように馬車の手配をした。
「行きたくなければ、断れますが」
出発前、レナード様が言った。
「行きます」
「強がりでなく?」
「半分くらい強がりです」
「では残り半分は」
「自分の仕事がどう扱われるか見届けたいのです」
レナード様は少し笑った。
「分かりました。帰りたくなったら扇を閉じてください。私が伯母上の腰痛を口実にします」
「伯母様を口実にしてよろしいのですか」
「本人が一番喜びますよ」
困った家ですこと。優しい人たちはときどき堂々と共犯になる。
舞踏会場に入ると、まず違和感があった。
花が多すぎる。香りが重なり、入り口近くの夫人が扇で口元を押さえている。音楽家の席は暖炉に近すぎ、年若い令嬢たちの控え席は人の流れから外れていた。寄付品の台には誰が何を出したか分かる小札がない。
ベルマンが私に気づき、目だけで深く詫びた。
責める気にはなれなかった。私が置いた覚書は読めば動けるものではある。けれど人の機嫌や体調は、紙の上で完結しない。去年、夫人が香りに酔った時の青ざめ方。足元を気にする令嬢の視線。寄付品の前で自分の名を探す老伯爵の癖。そういうものは、その場で見てきた人間にしか分からない。
「エルナ様」
声をかけてきたのは、王都でも顔の広いモールデン侯爵夫人だった。
「ウェストン家のお手伝いをなさっていると聞きましたわ。春の慈善市、評判でしたのよ」
「ありがとうございます」
「今日も少し見ていただけるかしら。ランセル侯爵には申し訳ないけれど、去年までと何か違うの」
周囲の視線がこちらへ向いた。
クライヴ様も少し離れた場所でこちらを見ていた。
私は一度だけ息を吸った。
「差し出がましくならない範囲でよろしければ」
「まあ、助かるわ」
それからは早かった。
香りの強い花を奥へ下げ、入り口には緑の枝を置く。音楽家には暖炉から離れた場所へ移ってもらい、若い令嬢の控え席を壁際から中央寄りへ変えた。寄付品の小札はベルマンに頼み、持ち主の名だけでなく、品に添えられた一言も書かせた。
たったそれだけで、会場の空気が変わった。
夫人たちの扇がゆっくり下がる。令嬢たちが笑い出す。老伯爵は自分の寄付した銀の燭台の前で、孫に何かを話し始めた。
「やはり、エルナ様がいらっしゃると違いますわ」
誰かがそう言った。
その声は大きくない。けれど社交界では小さな声ほどよく届くことがある。
クライヴ様の顔から血の気が引いた。
舞踏会が終わりに近づいた頃、彼は私を回廊へ呼んだ。レナード様が横に立ったまま、私にだけ視線を向ける。
「一人で話せますか」
「ええ」
「無理ならすぐ戻ってください」
クライヴ様はそのやり取りを見て、唇を引き結んだ。
回廊には冬の花が飾られていた。三年前、私がランセル家で最初に替えた花と同じ種類だった。
「君がいなくなってから、何もかも変わった」
クライヴ様は低い声で言った。
「招待への返事が遅れるし、親族は私に直接不満を言う。使用人たちは忙しなく動いているのに客人が落ち着かないんだ。私は、君が何をしていたか知らなかった……」
「はい」
「今日、分かった。君は家を、いや違うな。君が家を支えていたんだな」
「家だけではありません」
彼が顔を上げる。
「私は……あなたを支えようとしていました」
その言葉を口にすると、胸が痛んだ。まだ痛むのか、と少し驚いた。痛みは消えたわけではなく私の中で場所を変えて残っているらしい。
「エルナ」
クライヴ様は一歩近づいた。
「戻ってきてほしい」
「戻りません」
「今なら、君を愛せる」
私は思わず笑いそうになった。ひどく滑稽だったからではない。三年前の私がその一言をどれほど待っていたか知っているからだ。
「今なら、ですか」
「あの頃の私は愚かだった」
「ええ」
素直に頷くと、クライヴ様は苦しげに目を伏せた。
「やり直したい」
「私はあなたが私を愛せなかったことだけで離れたのではありません」
回廊の向こうで舞踏の音が柔らかく響いている。私はその音を聞きながら、ゆっくり言葉を選んだ。
「私が笑っても、疲れても、熱を出しても、あなたは私を見ませんでしたね。あなたが今ほしいのは失って困った現状をどうにかしてくれる人間ですよ。私自身ではありません」
「違う」
「それを証明するために、私の人生をもう一度差し出すつもりはございません」
クライヴ様の手が伸びかけた。けれど彼は途中で止めた。
それでいい。三年かかって、ようやく一つ覚えてくださったのですから。
「私は君に恋をしている」
「もう遅いです」
自分でも驚くくらい感情のこもっていない声だった。
胸の奥で何かがほどけた。勝った気も負けた気もしない。ただ、長く握っていた冷たい鍵をようやく机の上に置けたような気がした。
「私はもうあなたに選ばれる場所にはおりません」
私は礼をして、回廊を戻った。
入口にはレナード様がいた。何も尋ねない。ただ、私の歩幅に合わせて半歩下がってくれる。
「帰りますか」
「伯母様の腰痛は」
「今から痛くなるでしょうね」
「便利な腰ですこと」
レナード様が笑った。派手ではないが、灯りの下でとても温かい笑い方だった。
馬車に乗ると疲れが一気に出た。窓の外でランセル家の灯りが遠ざかっていく。私はその光を見ながら、三年前の寝室の扉を思い出した。
あの扉はとうとう開かなかった。
けれど今の私には、閉じた扉の前で待ち続ける理由がない。
「エルナ様」
向かいの席でレナード様が膝掛けを差し出した。
「眠っても大丈夫です。着いたら起こします」
「舞踏会帰りの淑女が馬車で眠るのは褒められたことではありませんわ」
「では、私は見ていなかったことにします」
「それは紳士として正しいのですか」
「今日くらいは、正しさより休息を優先してもよいかと」
私は膝掛けを受け取った。柔らかく、少しだけ暖炉の匂いがした。
「では、少しだけ」
「ええ。少しだけ」
目を閉じる前、私は自分の手を見た。三年間、誰かの席を整え、手紙を選び、花を替え、扉の前で自分の気持ちを後回しにしてきた手だ。
これからは、この手で自分のカップに砂糖を入れる。
愛されない妻だった私はもうあの家にはいない。
今さら恋をしたと言われても、もう遅い。
私は帰る場所のある馬車の中で、ようやく眠った。
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