4.「勇者候補生?」
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場所を路地から教会に移したテオとネージェは、当たり障りのないそれっぽい言葉で遠回しに請求された初診料と夜間料金を上乗せした多額の献金を払い、真新しいチャーチベンチに座っていた。
ファトゥム教会の建物はたいていがそうなのだが、小さな町に見合わぬ立派な作りだ。末端の教会まで潤沢な資金が行き渡っていることが見て取れる。祈るだけでどんなケガや大病もたちまちに治るとなれば、献金は後を絶たないのだろう。
「あまねく星々を統べる神よ、敬虔なる我が祈り聞き届け、この者に癒しと安らぎを……」
チャーチベンチが均等に並ぶ礼拝堂の奥に佇むサファイアの瞳が埋め込まれたファトゥマティア像の真下。そこに誂えられた祭壇に少女を横たえ、若い男性司祭が両手を組んで祈りを捧げる。
すると、夜にも関わらず教会の天窓から光が差し込み、少女へ降り注いだ。月光よりも明るく、太陽よりも柔らかな光が祭壇を満たす。見た者に祈りの奇跡を信じさせるには十分な御業だ。だが……。
「なぁにが敬虔なる祈り、だ。空の上にいるファトゥマティアが金など欲しがるものか」
「ネージェ、ちょっと黙ろうか」
祭壇近くの真新しいチャーチベンチに座って祈りの儀式を緊張気味に見守っていたテオは、隣で悪態をつくネージェに小声で告げ、冷や汗が浮かぶ強張った笑顔を向ける。
やがて降り注いでいた光は収束し、両膝をついて祈りを捧げていた司祭が立ち上がって、振り向いた。
「祈りは無事聞き届けられ、傷は癒されました」
「ありがとうございます、司祭様!」
柔和に微笑む司祭へ、テオが小走りで駆け寄る。祭壇を見れば、少女の額をざっくりと横断していた傷が綺麗に消えていた。
「いえいえ。善良な民を救うのは聖職者の義務ですから。しかも見ず知らずの浮浪者のためとは、今どき稀に見る隣人愛。あなた方の献身に私も大変感銘を受けましたので、今回は特別料金にさせていただきました」
「ほう。吾輩たちの路銀を搾り取っておいて、特別料金か」
「……不服そうですね、天遣の御方」
司祭はにこやかな笑顔のままだが、周囲の温度がぐっと下がったような。
見えない火花をバチバチと散らすふたりの間に、テオがすかさず割って入る。
「全然! ぜーんぜん不服じゃないです! なっ、ネージェ!」
「フンッ」
テオは慌ててへたくそな作り笑いを浮かべ、唇をへの字に曲げたネージェの肩をバシバシ叩く。
本当はテオだって、司祭へ言い返してやりたい言葉が山ほどあった。が、今はそれをぐっと腹の奥へ押し込むしかない。
というのも、国教でもあるファトゥム教会は崇高な信仰を守るため、セプテントリオ王家から武装許可が下りているのだ。信仰に少しでも異を唱えれば、速やかに排除される。たった今、清廉な笑顔で善良な民から法外な金を巻き上げた司祭の背後の壁にも、交差した槍が二本飾られていた。もちろん観賞用でないことは明らかだ。
「ならよかった。ああそれと、見たところ他にも身体中に酷い古傷があるようでして」
「古傷って、もしかして虐待されてたとか……?」
「いえ、人為的なものではありません。おそらく魔物に負わされた傷かと。特に左腕は肩から下が潰れていたので、もう使い物にならないでしょう」
血がこびりついた少女の顔を水に濡らした布で拭きながら、司祭が淡々と語る。テオは土と血で汚れていく布を視線で追いながら、表情を苦悶に歪めた。
背格好だけで見れば、この少女は十五歳前後だろうか。だが昼間にパンを分け与えた物乞いの子どもよりも痩せこけている。きっと想像を絶するような劣悪な環境に置かれていたのだろう。血の気を失った痛々しい寝顔を見下ろし、胸が軋む。
「そちらの治療もご希望なら、別途寄付が必要になりますが」
司祭がにっこりと微笑み、当たり前のように追加の献金を促した。テオは心を痛めていたところに冷や水を浴びせられた気持ちになり、作り笑いを浮かべたまま固まってしまう。
そこへ、空になった金貨袋をひっくり返していたネージェが溜め息混じりに言い放った。
「とりあえず、命に別状がないなら問題あるまい」
「そうですか。なら私の仕事はもうありませんね」
そそくさと教会の奥へ立ち去ろうとした司祭が、最後にテオを振り返る。
「ああ、そうだ。もし泊る場所がないなら、朝までここで休んでお行きなさい。心優しく献身的なあなた方に、ファトゥマティア様のご加護があらんことを」
「あ、ありがとう、ございます……」
テオが恭しく頭を下げると、司祭はにっこりと笑って奥の扉に消えた。ずいぶん高い宿代になってしまったが、後悔はしていない。ネージェにだっていつかちゃんと借りを返すつもりだ。……いつになるかはわからないけど。
ややあって、テオは女神像の下で未だ眠り続ける少女を見やる。石の祭壇の上では寝心地が悪いだろうと思い、彼女を抱き起こしてチャーチベンチに横たえた。
(何か力になれることがあるかもしれないし、この子が目を覚ましたら話を聞いてみよう)
そんなことを言ったらまたネージェからねちねちとお小言を食らうだろうから、腹の中にそっと収める。
だがテオの考えなど、ネージェにはもうお見通しらしい。重そうな長いまつ毛を伏せて目を細め、ちらりと意味ありげな視線を寄こすと、少女がまとっていたボロ布の端を錫杖の先で軽く捲った。
「……胸元に箔押しされた七芒星……血を吸って全体的に黒ずんでいるが、間違いない。この隊服は勇者候補生で構成されたヴァレンティア部隊のものだ」
「勇者候補生?」
気になる単語に、テオは眉を上げて大きく瞬きをする。
「この世界には、魔王と呼ばれる邪悪な存在が定期的に現れていてな。そしてなぜかこのセプテントリオ王国にだけ、彼奴と渡り合える退魔の力をファトゥマティアから与えられた人間が生まれるのだ。その者たちは王国各地から招集され、ヴァレンティア部隊として常時訓練されている。魔王が出現すると、その中から勇者が選定されるという仕組みだ」
「へぇ。だから勇者候補生って呼ばれてるんだ。それにしても魔王に、勇者に……なんか、あんまり現実味がないね」
「最後の魔王討伐はもう百年前になる。今は魔王がいない平時であるから、何も覚えておらぬおぬしがそう思うのも無理はない」
なんでも見通すような水晶の瞳がステンドガラスから差し込んだ月光に照らされ、頭上のエーテルと一緒にきらりと光った。ネージェは冗談が好きだが、これはおそらくそいういう類じゃない。それにどうしてだろう。魔王や勇者といった現実味のない響きが、テオはひどく懐かしく感じる。剣技と同じように、身体や魂に刻み込まれているような……。
「星降祭には王家の連中も訪れる。護衛として王国軍の花形であるヴァレンティア部隊を引き連れて来るはずだ。そやつらにこの娘を引き渡せば、あとはどうとでもしてくれるだろうて」
「じゃあ、ウェントゥスで仲間の元に送り届けるまでは……」
「青臭い小娘は吾輩の好みではない。全ておぬしが面倒をみるのだぞ」
「……! うんっ!」
猫を拾った子どもへ言い聞かせるように言うと、ネージェは錫杖を抱いてチャーチベンチにごろんと寝転がった。
何だかんだ言いつつ、やっぱりネージェもテオと同じくらいお人好しだ。
「ありがとう、ネージェ」
小さく礼を言うが、ぴくりとも返事はない。きっと照れて寝たふりをしているのだろう。温かい気持ちのまま、テオもチャーチベンチに背を預けてそっと目を閉じる。
だが朝になり、ふたりは衝撃的な光景にあんぐりと口を開いたまま固まってしまった。
死んだように眠っていた勇者候補生の少女が、こつ然と姿を消したのだ。やっとの思いで確保した、ウェントゥス行き臨時乗合馬車の乗車券と共に。




