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3.「おぬしが思い出すまで、秘密だ」

 妖美に微笑んだネージェの錫杖が男たちへ向けられた瞬間、冷たい風が路地を吹き抜けた。目を開けていられないほどの突風に、思わず手で顔を塞ぐ。閉ざされた視界の先で、ざくりと何かが切れる音がする。とたんに寒気でぶるりと身体を震わせて青ざめる男たちの耳元に、「クスクス」「キャハハッ」とせせら笑う子どもの幻聴が反響した。


「な、何が……」

「ヒィッ⁉ ふ、服が!」


 彼らが恐る恐る目を開ければ、寸前まで着ていたはずの衣服が細かく切り刻まれ、足元に散らばっているではないか。それも、下着まで! 寒気は悪寒ではなく、物理的に寒かったというわけだ。


 突然全裸にさせられた男たちは慌てふためき、汚れた尻を丸出しにしながら路地の奥の暗がりへ一目散に逃げ去った。馬糞に顔を突っ込んで伸びている仲間を置き去りにして。


 静けさを取り戻した路地に「ンブフッ」と堪えきれない笑いが漏れる。テオは呆れた様子でネージェを見やった。神々しかったエーテルの発光は収束し、今は肩を震わせてせせら笑う悪趣味な男がそこにいるだけ。


「クヒヒヒヒッ! 見たかテオ、吾輩の言った通りだったろう!? デカい図体なのにアレが縮こまりすぎて、まるで小指みたいだった!」


 綺麗な顔を不細工にして、涙を浮かべながら腹を抱えてヒィヒィ笑う。どうやら最低なツボに入ったらしい。


 天遣(あまつかい)は自身のエネルギー機関でもあるエーテルの力で、天唱術と呼ばれる、いわゆる魔法を繰り出す。それは彼らを神聖な存在と知らしめるための特別な御業だ。決して男たちの服を切り刻んでからかう幼稚な行為に使うものではない。


「ネージェ、天唱術はやりすぎだって。あれじゃあの人たち、露出狂扱いされて守衛に捕まっちゃうよ」

「いやいや。人身売買で片道切符の監獄送りになるより、公然猥褻で牢屋にしばらくぶち込まれたほうがまだ更生の余地があるぞ。それとも四肢まで切り刻んでやればよかったか?」

「そんなことしたら監獄送りになるのは俺たちじゃん……って、それどころじゃなかった!」


 この騒ぎでも意識が戻らない少女のそばに膝をつくテオに、ネージェは楽しそうにしていた美貌を一瞬でムッとしかめた。


「なんだ、その小汚い娘は」

「さっきの奴らに追われてケガしてるんだ。教会に連れて行かないと……」

「ファトゥム教会に? 冗談はよせ、献金でいくらぼったくられると思っておる」


 星を司る女神ファトゥマティアを信仰し、祈るだけであらゆる傷や病を治す特別な癒しの力を得たファトゥム教会。その扉は身分に限らず開かれているが、治療には献金が不可欠だ。決められた料金はなく、いくら払うかによってどこまで治療できるかが変わる。あとはその街の教会を治める司祭の采配にもよるとか。

 ファトゥマティアの奇跡とは、金で起きるのだ。


「でも酷いケガなんだ、放っておけないよ!」

「そうやって目についた困窮者を片っ端から救ったところで、おぬしに何の得があるのだ」

「損得なんて考えてない。困ってる人がいるのに見ないふりをしたら、ずっとその人のことが頭から離れなくなって、きっと俺、自分を許せなくなる」


 記憶はないが、本能がしきりにそう訴えかけるのだ。人助けこそが、自分の根幹だと。それは強烈な自己統制、あるいは強迫観念にも近い気がする。

 でも、目の前の傷ついた女の子を助けたいと思ったのは、間違いなく自分の意思だ。


 神妙に語るテオをしばらく無言で見下ろしていたネージェは、彼の気が変わらないのを察して深く息をつく。それはもう、地の底へ届きそうなほど深く、深く。


「はぁ~~~~……まったく。何も覚えてなくとも、度が過ぎるお人好しは健在か。そのうち善意につられた無責任な俗物共にその身を食い荒らされるぞ。蟻に群がられた砂糖のようにな」

「怖いこと言うなよ」

「同じ過ちを繰り返して後悔ばかりしている救いようのない愚か者になりたくないだけだ、吾輩は」


 ネージェはテオを見据え、スッと目を細めた。

 表情が抜け落ちた彼は、名のある職人が手掛けた人形と表したほうが納得できる。無機質で、冷たくて。この世のものとは思えないほど美しいだけに、ゾッとしてしまう。


「……後悔って、何のこと?」


 人外じみた末恐ろしい美しさを正面で浴び、テオは少し緊張気味に問う。だが当の本人はすぐにいつもの飄々とした笑みを浮かべ、薄い唇に純白のグローブをはめた人差し指を押し当てた。


「……おぬしが思い出すまで、秘密だ」


 不本意だが、本当の本当に心の底から不本意だが、見惚れてしまうほど綺麗だ。


 同時に、深追いさせる気がないことも察した。ネージェの不可解な態度に引っ掛かりを感じつつも、それを追求する資格が自分にあるのかわからない。記憶がないのだから。


「それに、綺麗なお兄さんの助言は素直に聞いておくべきだぞ」


 テオの葛藤を知ってか知らずか、ネージェはいつもの調子で軽口を叩いた。いつもの人をおちょくる軽妙な調子に戻ってくれたことに、テオはほっと安堵する。だが何も教えてくれないくせにこちらの気持ちを気取られるのも癪なので、黙っておこう。


「はいはい、うさんくさくて変わり者の綺麗な天遣(あまつかい)おじいさん」

「おい、誰がじいさんだコラ。こんなピチピチな天遣(あまつかい)、そうそうお目にかかれぬというのに!」

「ネージェの年齢とか知らないし。その口調も老けて聞こえるからやめたら?」

「威厳があって良いではないか。それに吾輩はまだ二百歳と少しだ! どうだ、若々しいだろう?」

「あーうん、若いねー」


 テオは見事な棒読みで返すしかなかった。長命種の感覚って、なんというかこう、わからない。


 腰に手を当てて得意げにふんぞり返るネージェを無視し、骨と皮だけの少女を抱きかかえて立ち上がる。そのあまりの軽さに驚き、同時に胸が締めつけられた。


「ところでテオ。教会に連れていくのは百歩譲って良しとして、肝心の金はあるのか?」

「……ネージェ、貸して!」

「やはりかっ! おぬし、この旅で吾輩にいくら借りを作るつもりだ!」

「いいだろ、どうせネージェなんだから」

「雑ぅ! 万人に良い子ぶってる超弩級のお人好しのくせに、吾輩の扱いだけ雑ぅ!」


 天遣(あまつかい)は浮世離れした美貌と天唱術により、一般的には近寄り難い存在と思われがちだが、ネージェはこの通りとにかくやかましい。

 だが文句を言いながらも最後は財布の紐を解いてくれることを、テオは知っている。これまでの短い道中、同じようなことが何度もあったからだ。それこそネージェがふしだらなことをしにいくのと同じくらい。


 テオは思う。お人好しの自分に付き合ってくれるネージェのほうがよっぽどお人好しではないだろうか、と。

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