5.「忘れたくないって、思ったんだ」
◆――☆*☽*☆――◆
空を覆う赤黒い雲の中は夏の乱気流のごとき暴風を伴い、絶え間なく稲光を走らせた。少しでも触れたら即感電死してしまうだろう。
激しく明滅して侵入者を拒む雷を、グリフォンはスピードを保ったまま竜巻のように回転して避け、星が瞬く天空をひたすらに目指した。
白い羽がばたばたと風を切る首へ必死にしがみつくテオが、暗闇の中で目を凝らす。
どれだけ上昇しても果てが見えない暗黒。おとぎ話なんかじゃない本物の災厄――人々が魔王と呼び畏れる存在が自分の中に潜んでいるなんて、今も実感がわかない。
自分が誰なのかもわからないまま、多くの人を巻き込んで、大切な人たちを危険に晒して。
(きっと俺、目覚めちゃいけなかったんだ)
あのまま眠り続けていれば、こんなことにはならなかった。百年でも二百年でも平穏は続き、人々の記憶から魔王が消え去る未来もあったかもしれない。
自分のせいで誰かが傷つくくらいなら、あの廃村で朽ち果てればよかった。そんな風に自分を責める言葉がひっきりなしに思い浮かぶ。
それでも、自分が何者かもわからない空っぽの自分へ手を差し伸べてくれたたったひとりが、あまりに寂しそうに笑うものだから。
その人のために、流星を見ようと決めたのだ。
脳裏に真白の美しい姿が思い浮かんだ瞬間。
どこまでも続くようだった黒が、唐突に弾けた。
「……っ、ぁ……」
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息を呑む。黒を振り切って冷たく澄んだ風を浴びる前髪をなびかせ、空の写し鏡のような丸い瞳がこぼれ落ちそうなほど、めいいっぱい見開かれる。
――星にはな、誰かが失くしてしまった記憶が宿るのだ。
楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。
日々の積み重ねで忘れ去られた、確かにそこにあった時間。
望まずどこかに落としてしまった、かけがえのない思い出。
きっとそのどれもが光り輝いていたはず。果てのない夜空に広がる、この星々のように――。
「いつもよりずっと近いのに、全然届かないや」
思わず伸ばした指の先に、一筋の星が流れた。
一瞬の光芒は、テオを意識を無意識のその先へと導く。
『見事な光景ですなぁ……! これで我々勇者パーティーの縁は不滅です!』
感嘆をたっぷり含んだ声色で語るのは、筆頭剣士のダンカン。
王国軍の紋章が刻まれた眩しい鎧に負けないくらいグレーの瞳を輝かせ、たくましい腕を組んで夜空を見上げる。
『不滅かどうかは知らないけど、確かに綺麗だね。勇者パーティーとしてじゃなくて、ただの行楽で見にきたかったなぁ』
第三王子のセオドールがつれないことを言うが、母親譲りの淡い水色の髪がさらりと風になびく端正な横顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
彼の隣では、鼻先で両手を組んだ神官のメアリがブツブツと何かを唱え、熱心に祈りを捧げている。さすがはエリート神官なだけあって、かなり絵になる。だが……。
『無事に魔王をぶっ殺して謝礼金をたんまり貰えますように。この旅の中でがっぽり稼げますように。くそったれマザーたちの寿命が千年縮みますように。それから、それから……』
吸い込まれるような薄紫色の瞳を長い睫毛の下に伏せ、物騒なことを全身全霊で祈っていた。
『メアリ殿、先ほどから何をしておられるのですか?』
『邪魔しないでダンカン。流れ星に祈れば願いが叶うって話、知らないの? 信仰と献金にがめついファトゥマティア様が珍しくタダで願いを聞いてくれる、いわば出血大サービス歳末大感謝祭よ。今祈らないでいつ祈るのよ!』
『相変わらずファトゥム教会の神官とは思えない発言だねぇ』
仲間たちの楽し気な笑い声を背中越しに聞きながら、小柄なネビュラスカの肩へふざけて回した腕に、無意識に力がこもる。
後ろから抱き締めるような形になったが、若い天遣は空を埋め尽くす流星群に夢中らしく、振りほどく気配はない。
無心で天を見上げる白い後頭部を淡く照らすエーテルと、瞬く間に流れる星々。
夢でも見られないほど刹那的で美しいこの光景は、きっと一生忘れられない。いや、そうじゃない――。
「――……忘れたくないって、思ったんだ」
天へ伸ばした手を握り締め、テオは流星を掴んだ。
それをもう二度と失くしてしまわないように、胸の前まで大切に引き寄せる。取り戻した記憶を一番大事な場所にしまい込もうと、両手を重ね合わせ、深く息を吸う。
それと同時に、テネブラエの手首輪ががっちりと回されたうなじにジリリと熱が灯った。自分が何者か、ようやく思い出したのだ。
「……グリフォン、戻ろう」
「クルルッ、キュルワーーーッ!」
それまでと違う意志を宿したテオの呼びかけに応じて、グリフォンは嬉しそうに甲高く鳴いた。
ひたすら上昇していたのを鳶色の翼をひとつはためかせて、勢いを緩める。一瞬だけふわりと宙を漂い、そのまま頭から暗雲へ突っ込んだ。




