3.「あの雲を払って流星を見る。ネージェ、手伝え」
◆――☆*☽*☆――◆
カジノバーに流れついて三時間は経った頃。
固く閉ざされていたテオのまぶたがぴくりと動いた。
「う……?」
「お、ようやくお目覚めか、ねぼすけめ」
いつかの廃村でのやり取りを思い出すセリフだ。
違うのは、星が見えないこと。窓ガラスは強風に震え、ガタガタと不穏な音を立てている。
未だにぼんやりとした視界を振り払うように頭を振って、テオはゆっくりと身体を起こした。
「ここは……?」
「街のカジノバーだ。少し間借りさせてもらっている。ところで具合はどうだ?」
「ん、大丈夫……――いや、それよりも!」
テオはハッとした様子で床に両手をつき、ネージェに詰め寄った。
青い瞳に宿っていた禍々しい赤は消え失せ、代わりに動揺と混乱に染まっている。
「一体なんだったんだよ、さっきの! 俺は何を吐き出したんだ⁉」
「何って、あれだ」
ネージェは淡々とした口調で、テオの蒼白な顔面から窓の外に視線を映す。
日が暮れたウェントゥスの空には、星など一つも見えない分厚い暗雲が渦を巻いていた。渦の中心は赤く光り、まるで地上を見下ろす邪悪な目のようだ。
すると突然、鼓膜が破れそうなほど激しい音を立て、轟雷が店の外に落ちた。
煙が立ち込める中、焦げた石畳から角を生やした人型の魔物――オークがぬっと立ち上がる。
オークはネージェの天唱術で隠された店を一瞥することなく、人の気配が多いほうへ立ち去った。それからすぐ誰かの悲鳴が聞こえ、テオは乾いた喉をひゅっと引き攣らせる。
「あれも魔王の力の一端だ。このまま放置すればより強力な魔物が街に解き放たれるだろう。だが魔王本体はまだおぬしの中に残っておる。あの状況で出し渋るなんて、大した理性だ――っと。……なんだテオ、危ないではないか」
簡単には理解できないことを飄々と語られて募った苛立ちが、拳に乗せて叩きつけられた。澄ました美貌のすぐ横の壁を抉り、木片がパラパラと音を立ててネージェの肩へ崩れ落ちる。
「つまり、俺が吐き出したのは魔王の一部なのか?」
「この状況を見れば明らかだろう」
「どうしてそんなのが俺の中にいる」
「言わずとも、星詠みを続ければいずれ思い出す」
「なんで、そんな大事なことすら教えてくれない」
「前にも言っただろう、おぬしが自分で思い出さなければ、教えても意味がないと」
ああ、言った。確かに言われた。納得もした。だから流星を見たいと思えた。
「だからって、こんなことが許されるはずないだろ!」
自分のせいで、今この瞬間も関係ない人々が魔物に襲われているのに。
自分がウェントゥスに来たせいで。
記憶を取り戻したいと思ったせいで。
だがネージェは、混乱するテオにひたすら冷めた眼差しを向ける。
「あれを封じていたテネブラエの手首輪を解いたのは、ノヴァの憎悪に感化されて善性を食い破ったおぬし自身だ。もっとも、吾輩はこれでよかったと思っておる」
「あんなのを外に放っておいて、よかっただって……⁉ 馬鹿なこと言うな! 魔物がたくさん押し寄せて、人が襲われてるんだぞ⁉ おかしいよ、そんなのおかしいって!」
テオは血走った目尻に薄っすらと涙を滲ませると、ネージェの薄い両肩を痛いくらいの力で掴み、前後に激しく揺さぶる。
この男はいつもそうだ。
雲のように軽い言葉と態度でのらりくらりと世を渡り歩き、実態を掴ませない。挙句、何も覚えていないテオを導くふりをしながら、こんな事態を引き起こした。
避けられる犠牲を無視して。ただ己の理屈だけで物事を選択して。失われる命に対して良心の呵責など微塵もないかのように振る舞う。
「ネージェのこと、いつもふざけてるけど本当はいい奴だって……友だちだって思ってたのに……!」
絞り出した声には、憤りと失望が滲んでいた。
すると、それまで凪いだ水面のように静かだったネージェの表情が、わずかに揺らぐ。
「――友だからだ」
「え……?」
「友だから、吾輩は決めたのだ。おぬしが望もうと望むまいと、もう一度おぬしと違う結末を探す。もう二度と、何を犠牲にしてでも、おぬしを諦めないと」
淡々と語り、ネージェはテオの強張った右手をそっと両手で包む。
壁を抉って傷ついた拳には、血が滲んでいた。だがネージェは汚れることも構わず、慈しむように何度も親指で傷痕をなぞる。
それがあまりに愛おしそうな、そして寂しそうな表情をしているものだから。
テオは忘れてしまった記憶を惜しんで、無性に泣きたくなってしまった。奥歯をギリッと噛みしめて、込み上げる涙をどうにか堪える。
友と言ってくれる人にこんな選択をさせるほど追い詰めるなんて、過去の自分は本当に何をしてしまったのだろう。
その答えが、あの赤黒い空の先で待っている。
結局、やるべきことは当初と何も変わらない。
「……あの雲を払って流星を見る。ネージェ、手伝え」
少々強い声色と口調になってしまったのは、まだ彼への不満が消化しきれていないからだ。
不機嫌そうなテオに睨みつけられたネージェは、ぽかんと口を開けた無防備な表情を見せた。
「なんだよ、その顔。文句あんのか?」
「ふ、不覚にもキュンとしてしまったではないか」
「は?」
テオは一瞬、自分の耳がおかしくなってしまったのではないかと疑った。
眉を寄せて怪訝そうに睨めば、ネージェは無駄に綺麗な顔をほんのり染めて、妖美に身悶えはじめる。
「普段からいい子ぶってるおぬしの強引で横暴な言動などレア中のレアだ。まだ体内に残っている魔王の力の影響か? やさぐれた優等生とか、こ、興奮する……!」
しまいには吐息交じりに「もう少し強い言葉でなじってみてくれぬか?」などと言い出す始末。
テオは熱っぽい手を振りほどいて立ち上がり、変態から距離を取った。
それまで胸の内に渦を巻いていた焦燥感や憤りを呆れが一瞬で覆い尽くす。「もうほんとやだこいつ」と。
するとタイミングよく、伏魔殿の扉が内側から開け放たれた。
「し、しぬ……」
右肩と左腕が完治したノヴァが、治療前より重症な様子で床を這って出てきた。
大人の事情で理由は伏せておくが、喉をカラカラにさせた弱々しいデスボイスが妙に艶めかしい。
髪と衣服が乱れた屍と化した彼女の後に、肌艶をピカピカにさせた上機嫌なメルクリオが続く。頬をしっとりと染め、肉厚な唇の端を赤い舌でチロリと舐めながら。
「ノヴァさん、ハジメテとは思えないくらい最高でしたぁ♡ お姉さんっぽく優しく手ほどきしてあげるはずだったのに、メルのほうが満足させられちゃうなんて♡」
「――……いやどういう状況⁉ ていうか、誰⁉」
ヴァレンティア絶対殺すマンなノヴァの惨状と綺麗で刺激的なお姉さんの意味深な登場に、テオは起き抜け一発目で見事なツッコミを入れたのだった。




