2.「吾輩に心なんてものを与えるから、こうなったのだ」
「は? 年?」
予想外の質問に、ノヴァは訝しげに片目をすがめる。
「重要なことです。返答によっては右肩の傷だけでなく、潰れた左腕も一緒に治して差し上げます。メル、こう見えて神官なんですよ」
不敵に微笑むメルクリオは、とても敬虔なファトゥム教会の神官には見えない。明らかに怪しい。
が、左腕が元通りになるというのはノヴァにとっても僥倖だ。献金を積まないとファトゥム教会の奇跡の治療は受けられない。ナイフで司祭を脅しても、屈強な聖兵でもある彼らに返り討ちに遭うのが目に見えている。生ぬるい平穏に浸かって腐りきったヴァレンティアを相手にするより、よっぽど厄介だ。
だからノヴァは、ごくりと生唾を飲み込んで答えた。
「……十九」
「それは本当か? さすがに発育が悪すぎるだろう」
どう見ても十五歳前後の見た目をしているノヴァに、ネージェが疑いの目を向ける。
「三年もダンジョンの底にいてどうやって成長しろってんだ、クソが」
十六歳で日の当たらぬ魔窟へ落とされ、育ち盛りにろくな栄養も取れずに三年も過ごせば、こうなる。
それもそうかと納得し、ネージェはバーカウンターの椅子に座って面白そうに頬杖をついた。
「クックックッ、よかったのぅ、メルクリオ。十九なら問題あるまい」
「はい、安心しました。いたいけな未成年相手だと、さすがにメルも気が引けちゃいますから」
何やら不穏な会話をしている。それに、祈りに年齢が関係あるなど聞いたことがない。やっぱり断った方が無難か。
だがノヴァが思案する猶予もなく、メルクリオは両手を組んで祈りを捧げる準備に入った。
「ちなみにメルが仕える神はファトゥマティアではなく、闇の王テネブラエでして」
「は?」
「傷を癒す力はファトゥム教会と同様、というかそれ以上なのですが、副作用で患者に強力な催淫作用を及ぼします」
「は?」
「つまり、びしっと治る代わりにとってもえっちな気分になっちゃうんです」
「……は?」
ノヴァは言葉を忘れてしまったかのように、ただ呆然と疑問符を繰り返した。
古代神である闇の王テネブラエの信仰は、ファトゥマティアが降臨してファトゥム教会が国教に制定されてから固く禁じられている。神官がいるなど聞いたことがない。だからそんなふざけた副作用があるなんてことも初耳だ。
「十九歳ならもう立派なレディですもんね。ああでも、その反応だとハジメテですか? 大丈夫です、メルが責任を持って手取り足取りお相手いたしますから、ご安心を♡」
「いや、ちょっと待て――」
「あと、驚かないでいただきたいのですが」
そう言うと、メルクリオは青褪めたノヴァの頬に指先を滑らせた。
そのあまりの冷たさに、ノヴァは血管が凍りついてしまったような錯覚に陥る。
「メル、実は死人なんです。身体が冷たくてお相手によくびっくりされちゃうので、先に言っておきますね」
「し、びと……?」
「はい。いろいろあって、一度死んでます♡」
とんでもないことをけろっと暴露され、ノヴァは意識が遠のく。
なるほど、死人。テネブラエは冥界の王とも言われているし、死人のメルクリオが信仰しているのもうなずける。すんなり受け入れられるかは別として。
「……クソッ、治療は止めだ! お前らみたいなヤベェ奴らと関わりたくねぇ!」
「ああんっ、そう怖がらないでくださいな! 治療が終わったら奥の部屋で一緒に楽しみましょう? 大丈夫ですよ、みなさんとっても紳士な方たちですから……♡」
『Close』の札がかかった扉へ、メルクリオがちらりと熱っぽい視線を送った。
扉を開けなくてもわかる。きっとアンデッドに体温と精気を奪い取られた憐れな男たちが折り重なっていることだろう。
(何も、何も大丈夫じゃねぇ……!)
とんでもない悪徳商法にひっかかってしまった。
しかもメルクリオが「ネージェ様もご一緒にどうです?」と恐ろしいことを言い出したので、ノヴァはさらにぎょっとしてしまう。
「吾輩は遠慮しておく。一度に複数人と戯れるのは疲れるから好かん」
そうあっさり返すも、ネージェに助けてくれる様子はない。
結局、ぱぱっと祈りを終えたメルクリオによって、ノヴァは扉の奥へ引きずられていった。
ばたんと閉じられた淫らな部屋の奥から甲高い断末魔が響く。まさに伏魔殿である。活きの良い処女が相手で、背徳神官はずいぶん楽しそうだ。
(あの娘、頑丈そうだしな。ちょうどメルクリオの遊び相手もほしかったところだ)
何せ彼女は物持ちが悪い。いたいけな乙女ではすぐ壊されてしまう。その点、ダンジョンの底で三年も生き延びたノヴァなら安心だ。
くつくつと喉を鳴らして、ネージェはカウンターの椅子から立ち上がった。足を向けたのは、床に転がったまま気を失っているテオのもと。
壁に背を預けて床に座り込めば、手持無沙汰な束の間の時間が訪れた。
ネージェはおもむろに錫杖を宙へ横薙ぎにすると、亜空間の裂け目を出現させた。そこから漏れ出た光の粒子が集まり、一瞬だけパッとまばゆく輝く。
現れたのは、通常の本を四つ並べたのと同じくらいの大きさの、巨大な一冊。
黒革が貼られた表紙は錠前付きのベルトで頑丈に閉じられており、中身への関心をいっそう引き立てる。サイドのペンホルダーには使い込まれた付けペンが装着されていた。見事な銀細工の美しい軸が、薄暗い部屋できらりと光る。
見ただけでずしりと重さを感じる本が、ふよふよと宙を漂う。
錫杖を軽く振れば、鍵が解錠された小気味良い音が響いた。太いベルトが解かれ、歴史を感じさせる厳かな装丁の表紙が開くと、パラパラと乾いた音を立てながらページがひとりでに捲られる。
どこまでも続く、びっしりと書き記された細かい文字。
ページによって筆跡が違うことから、複数の作者による合作であることが察せられる。さらには各章におけるインクの劣化の変遷が、それぞれ違う年代に書かれたものだと言葉なく物語った。たまに小さな挿絵もあるが、どれもおまけ程度のものだ。
未だ目覚めぬテオの頭を膝に乗せ、冷や汗でぐっしょり濡れた前髪を指で遊ばせながら、ネージェは全てのページへ愛おしそうに目を走らせる。
だがあるページを境に、本の中身は黒いインクで塗り潰されてしまっていた。意図的にページが破られていたり、ナイフを突き立てたような跡もある。
明らかに様子がおかしい箇所が数十ページ続き、やがてまっさらな白紙が現れて、本は閉じられた。
ネージェは箔押しされた重厚な背表紙を名残惜し気に指先で撫でると、再び錫杖を横に振って本を亜空間へ戻す。
「この空を見たら、おぬしは嫌がるだろうな」
薄笑いを浮かべてどこか自嘲気味に囁く声は、立ち込めた分厚い雲間から走った雷鳴に掻き消された。
無感動に空を見るネージェの頭上には、いつの間にか二輪のエーテルが浮かんでいる。認識疎外の天唱術、見知らずの羽衣で店の周囲を包んだのだ。これでしばらくは魔物が押し寄せることもないだろう。
だが店の外はそうもいかない。ヴァレンティアが集まっているとはいえ、今は星降祭で人が多い。ファトゥム教会の連中も加勢するだろうが、少なからず被害は出る。
テオはきっと、この事態を招いた自分を責めるだろう。
それでも――。
「吾輩に心なんてものを与えるから、こうなったのだ」
人に似て、人ならざる者。
ファトゥマティアより遣わされた天塔の主マルアークが手がけた、美しい被造物。
人の感情を知った天遣にとって、ひとりぼっちの百年は、あまりに長すぎたのだ。




