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百年幻夢のネビュラスカ  作者: 貴葵音々子@カクヨムコン10短編賞受賞
第6話 塗り潰されたページの先へ
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1.「まーたパンツを履いておらぬではないか!」

 ネージェたちを飲み込んだ影の沼は、文字通り影だ。影と影とを行き来して移動する闇の能力である。つまり、終着点がある。


 平衡感覚を失うほどの暗闇と浮遊感に身を任せて、瞳を閉ざしたネージェは影の中を移ろっていた。右腕に気絶したテオを抱き、左手で錫杖とノヴァを繋いだ光の縄を持って。


 どれだけの時間そうしていたのか。やがて、波打ち際へ打ち上げられるようにして唐突に影から吐き出された。


 床板の上を転がり、久々の明かりに白いまつげを眩しそうに瞬かせる。

 仰向けになって見上げたのは、少し埃っぽい派手な色のシェーディングライト。カード遊戯用の洒落たテーブルに、酒瓶の転がったバーカウンター。壁には矢が刺さったままのダーツ台がある。どこかの娯楽用のバーのようだ。


 気になったのは、暗がりにある『Close』の札がかかった見るからに怪しい扉。奥から複数の人の気配を感じる。そして酒と煙草、それに体液の匂いも。物音や話し声はしないので寝ているか気絶しているか、もしくは、事切れている可能性も――。


 むくりと上体を起こしたネージェは、やれやれと肩をすくめる。


「まったく……吾輩が探し回っていたというのに、今度はどんなイケナイ遊びをしていたのだ、メルクリオ?」


 ネージェがウェントゥスに来て探していたその人は、背後のバーカウンターの上で足を組み、肉厚な下唇を舌先でぺろりと舐め上げた。

 扉の奥で味わった淫蕩な時間を思い出したのか、組んだ足の間をムズムズとさせて、恍惚の吐息を漏らす。


「ネージェ様がまだいらしてなかったようだったので、つい……。でもとっても楽しいくてキモチイイことです。きっとネージェ様も気に入りますよ」

「楽しいことも気持ちいいことも大歓迎だが、たとえ世界の終末で二人きりになろうと、絶対におぬしとだけは寝ないと決めておる」

「んもぅ、ネージェ様の意地悪!」


 甘ったるい声を上げて完熟の果実のように瑞々しい身体をくねらせたメルクリオに、ネージェは一歩ずつゆっくりと近づいた。


 遠ざかる天遣(あまつかい)の白い背を、ノヴァがぐったりとした様子で見つめる。

 光の縄はいつの間にか解かれていたが、ヴァレンティアとの戦闘の疲労が今になって押し寄せ、床に転がったままぴくりとも動けずにいた。矢に射抜かれた肩が鉛のように重い。

 だから今は体力温存のために大人しくしているつもりだったのだが……。


「メルクリオや」

「はぁい、ネージェ様」


 メルクリオは薄紫色の瞳を熱で潤ませ、白い天遣(あまつかい)を従順に見上げた。

 上機嫌な彼女をじっと一瞥したネージェは、絵画のような美貌をスンとさせて短く息をつく。そしてむっちりとした白い太ももに黒いガーターベルトが見え隠れする魅惑のスリットの端を掴み、それを何の前置きもなくガバッと捲り上げたのだ。


 予想外すぎる行動にノヴァはぎょっとして、思わず身体を起こす。


「おい、クソセクハラ天遣(あまつかい)! テメェ何して――」

「おぬし、まーたパンツを履いておらぬではないか! 腹を冷やすぞと何度言ったらわかるんだ、この馬鹿者っ!」

「きゃあぁんっ! メルったらまたうっかりしてました、ごめんなさいぃぃいい!」

「……は?」


 ノヴァは眉を吊り上げたまま、口角をぴくぴくと痙攣させる。

 うっかりで済むのか、それは。それに世話焼きな母親が娘に説教をしてるようなこの空気感は、なんだ。


「だいたいなんだ、このふしだらな格好は! うら若き乙女がこんなに肌を露出させて!」

「で、でもぉ! スカートは膝下ってネージェ様からの教えはちゃんと守ってますもん!」

「こ~んなにざっくりスリットが入っていたら丈など関係なかろう! どうせおぬしのことだ、何もないところでノーパンですっ転ぶなんてことも日常茶飯事だろうからなっ!」

「どうして知ってるんですか⁉ あっ、おっぱいがこぼれちゃったりもよくありますっ」

「こぼれない服を着ろ! あと、サイズの合った下着をつけろ‼」


 あのネージェが至極真っ当なことを叫んでいる。その姿はやはり、いくつになっても手のかかる娘を叱る母親のように見えた。父親っぽくないのは外見のせいだろうか。


 ノヴァは騒がしい二人にめまいがしてきた。そもそも血が足りてないのだ。

 ふらつく視界に、小さな黒い影がそそそっと音もなく近づく。獣の本能とも言うべきか、ノヴァは条件反射でそれを足で思いきり払った。影は「ビャッ」潰れた声を上げ、ネージェの背中へ飛んでいく。


「……うん? ああ、ブー様か」

「ケケケッ。キンぱちゅ、キャワいいッ、しゅキィッ!」


 鼓膜に爪を立てられたような、甲高いしゃがれ声だ。

 見た目はウサギの耳を生やしたリスのようではあるが、拙い人語を喋るということは魔物の類いだろうか。平らな前歯の隙間からだらだらと涎を滴らせて長い舌をチロチロ見せる邪悪なリスモドキに、ノヴァはひゅっと息を詰まらせる。


「あんな汚い小娘を食べたら腹を壊すぞ。腹が減ってるなら吾輩の髪でもしゃぶっておけ」

「おマエ、こノみ、ジャなイ」

「おい、それだと吾輩の魅力があの泥棒猫に負けているようではないか」


 好みというのは人(?)それぞれであるし、そもそもどこで張り合ってるつもりなのか。ノヴァは呆れた視線を白い背中へ向ける。

 だがネージェは真顔で振り返ってノヴァを一睨みすると、黒い体毛に覆われたブーの首根っこを拾い上げた。


「ちょうどいい。メルクリオ、テオが目覚めるまでまだかかるだろうから、そのあいだにあやつの治療をしてやれ」

「あ?」


 ネージェの提案に、ノヴァは訝しげな声を上げた。

 ついさっきまで殺し合っていた相手を治療してやれとは、どういう了見だろう。


「ふざけんな、誰がンなこと頼んだ」

「どれだけ馬鹿だろとさっきの騒動でわかったと思うが、テオはヴァレンティアではない。だからもうおぬしが殺す理由もあるまいて」

「だとしても、目を赤くしたヤベェ奴なのは変わりねぇだろ。だいたい、なんでそいつの中からあんなのが出てくるんだよ」

「詳しい説明は流星を見てからだ。テオよりも先におぬしへ事の顛末を話すのは無粋だからな」

「この状況で流星って、正気かよ」


 ノヴァの剣呑な青い瞳が、埃とヤニで曇った窓ガラスを見やった。


 テオが吐き出した黒い霧は空を覆い尽くし、赤い落雷と共に魔物を街へ放っている。ヴァレンティアたちが抑え込んでいるだろうが、雷鳴は未だ鳴り止まない。突然の魔物の襲来で半狂乱になった人々の悲鳴も街中から聞こえる。


 この騒ぎでは、もう星降祭(アストラ)どころの話ではないだろう。

 そもそもあの空に立ち込めた邪悪なものを祓わないことには、星の光も届くまい。


 だが目の前の天遣(あまつかい)にとっては、外の騒乱はまるで些末事のようだ。


「ウフフ、ネージェ様ったら一途なんですね、可愛らしいです♡ 治療するのはもちろん構いませんが、その前に……」


 カツンとヒールを鳴らして近づいたメルクリオが、ノヴァの前で膝を折る。

 膝の上にたゆんと乗った胸の間から、いやらしい笑顔のブーがひょこりと顔を覗かせた。


「ノヴァさん……でしたっけ? 年はおいくつです?」

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