4.「これは、おぬしのために吾輩が始めたエピローグだからな」
真相を垣間見た瞬間、怒りで荒れ狂うノヴァに感応したテオの深淵を、先ほどよりも存在感を強めた禍々しいものが這いずり回った。
(なん、だよ、それ……!)
そんなの、殺してやりたいと思ってしまっても、仕方ないじゃないか――!
赤く染まった意識のクリアな部分にそんな考えが浮かび、テオは冷や汗が止まらない顔でハッと息を呑んだ。
彼女の復讐心を一瞬でも肯定してしまった自分に驚き、苦悶に歪んだ目の端にうっすらと涙を滲ませる。
こんなことを思ってはいけないのに。それでも彼女がされた仕打ちを思うと、「殺してしまえ」と唱えてしまうおぞましい自分がいて。そんな自分が信じられない。許せない。あり得ない!
「う゛、ぐぁッ……!」
それを好機と見たのか、テオの中に潜んでいた何かが喉をせり上がる。地中から手を伸ばして這い出す不死者のように、テオの中から出ようとでもいうのか。
「だ、めだ……出て、くんなっ……!」
出しては、いけない。忘れてしまった記憶が頭の中でガンガンと警鐘を鳴らしている。テネブラエの手首輪もそれに応じるように、首を絞める力を強めた。
だが不意に、テオの視界を眩しいほどの純白が包み込んだ。
「だめなことなどあるものか」
「ネー、ジェ……?」
痙攣する背中に回された右腕。
石畳を削って血が滲んだ指の付け根に重ねられた華奢な左手。
ぴたりと合わさった頬と、耳元に押し付けられた唇。
深紅に染まった瞳が、頬をくすぐる真白の髪を凝視する。
「そんなものをおぬしひとりが内に留めておく必要はない。残さず吐き出してしまえ」
「で、も……」
「どのような結果になろうと、吾輩が許そう。誰にも咎めさせたりはせん。それでもおぬしを責める者がいれば、吾輩がそいつの息の根を止めてやる」
「何、言って……」
使い込まれた儀礼剣がよく馴染むごつごつとした指の付け根をツツ……と指先でなぞりながら、テオにだけ聞こえる声が囁く。
「おぬしは十分世界に奉仕した。だからもう、自由になっていい」
耳から直接吹き込まれる言葉は熱っぽく、甘やかで。脳へ直接響くようにして、混濁するテオの意識を包む。それは過ぎたる献身にも、身を滅ぼす甘言にも思えた。
外に出すにはあまりに憚られるこのどす黒い感情を吐露してもいいのだと、言われているような気がして。
必死に正しく善良であろうとしている自分が、壊されてしまいそうな気がして。
これ以上彼の言葉に耳を傾けていると、頭がおかしくなりそうだ。しっとりとした唇が押し当てられた反対側の耳から、誰かが「聞くな!」としきりに訴えかける幻聴まで聞こえる。このままでは自分が真っ二つに引き裂かれてしまいそうで、恐ろしい。
気が狂いそうなほどの白を振りほどこうと身動ぎすると、耳元から唇が離れ、代わりにコツンと額同士が重なり合った。
お互いのまつ毛が触れそうな至近距離で、何色にも染まっていない無色透明な澄んだ瞳が、テオの瞳の色を映して赤くきらめく。
「これは、おぬしのために吾輩が始めたエピローグだからな」
「――!」
赤く染まった目を見開いたテオが息を呑んだその時。
テネブラエの手首輪が、わずかに緩んだ。
とたんに背筋をぶるりと震わせ、内臓物が飛び出そうなほど大きく咳き込む。とっさに口元を押さえた手の隙間からあふれ出したのは、暗黒の霧――。
テオが吐き出した禍々しい黒を正面から浴びたネージェは、青褪めた頬を両手で包み、心底嬉しそうに口元を綻ばせた。
「青い空でも赤き地底でも、おぬしとなら楽しめよう」
その瞬間、霧は空気に引火した炎のように爆発的に周囲へ広がり、狭い路地を暗闇で満たす。そのまま細く渦を巻いて空へと舞い上がると、星が降り注ぐはずだったウェントゥスの晴天を貫いた。
突然の事態に唖然としていたヴァレンティアたちの青い瞳が、曇天に走る赤い稲光を映す。
ノヴァとフェルナンドでさえ剣を振るう手を止め、愕然と空を見上げた。
「あの禍々しい空、まさか……」
「――魔王」
ノヴァがぼそりと呟いた後方で、とうとう意識を手放したテオの肢体がぐらりとバランスを崩す。
それを片腕で抱きとめたネージェの白い背中に、フェルナンドの険しい視線が突き刺さった。
「あの男と天遣を拘束しろ! 絶対に逃がすな!」
邪悪な霧の発生源である二人めがけて、隊員たちが鞭を打たれた駿馬のごとき勢いで迫る。
「やれるものならやってみろ、ひよっこどもめ」
錫杖を片手に構えたネージェが応戦しようと、エーテルに力を込めたその時。足元の影に波紋が広がった。
風に吹かれた湖面のように揺らいだ影から、無数の黒い手が糸を引いたように伸びる。それらはネージェとテオの足や腰に絡みつき、ふたりを泥濘へ引きずり込んだ。
「――来たか、メルクリオ」
微笑みを浮かべて囁くネージェを、背後の屋上の陰から一対の視線が見下ろす。
その人物は黒い空に吹く湿った風に水色の髪を靡かせ、透明感のある薄紫色の瞳をうっとりとさせた。黒衣からこぼれ落ちそうな胸の間から、「ケケケケッ」と邪悪な鳴き声を響かせながら。
影の沼に呑まれる寸前、ネージェのエーテルが光り輝く。
「ついでだ、おぬしも一緒に来い」
「あぁ゛⁉ ――うわぁッ⁉」
捕縛しようとするフェルナンドの剣を躱していたノヴァの胴へ、ネージェの錫杖から光を編んだような縄が伸びる。光の縄は彼女を器用に絡め取り、問答無用で引き寄せた。
「ンだよこれ! 離せ、離しやがれ、クソ天遣!」
「やかましい。いいから黙ってついてこい、泥棒猫」
吠えるノヴァをうっとうしそうに睨んだあと、ネージェは気を失ったテオの頭にこてんと頬を預けて目を閉じて、影に身を任せる。
ノヴァは拘束を振り解こうと最後まで藻掻いたが、この状況でネージェが天唱術を解くはずがない。
ものの数秒で、三人は影にずるりと飲み込まれてしまった。
「なん、だったんだ、今の……」
予期せぬ展開に呆然と立ちすくむ勇者候補生たちの頭上から、突如、赤黒い落雷が落ちた。隊員が数名吹き飛び、悲鳴が上がる。
衝撃波から腕で顔を庇って踏ん張るフェルナンドは、怒号のような雷鳴を轟かせて落ちた雷の中心を忌々し気に睨んだ。肩に生まれつき刻まれた星型の痣が、ジリリと焼けつくようにうずく。
焼け焦げた匂いと黒い煙が立ち込めるその場所に現れたのは、魔界の住人。
魔王の配下である醜悪な魔物たちが、落雷と共に次々と顕現していたのだ。それは訓練で何度か潜った低難易度のダンジョンで見た魔物よりも大きく、遥かに凶悪に見える。
「――……全員、抜剣して散開。街を守れ!」
絶望を呼び寄せる雷鳴が鳴り止まない中、鋭い声で指示を飛ばすフェルナンドの長剣がまばゆく光り、手近にいた魔物の首を切り落とした。頭を失ってのたうち回る胴体ごと浄化の青い炎にぼうっと包まれ、次の瞬間には灰と化す。
それまで動けずにいた隊員たちは、立ち上る青い炎を見てハッと我に返った。真新しい剣を握る手がガクガクと震える。それでも涙を帯びた雄叫びで自身を奮い立たせ、未だかつて対峙したことの無い数の魔物の軍勢へ突撃した。




