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3. 「まさか、ノヴァ・リヴレストなのか?」

 酸素不足で視界を朦朧とさせながら、テオは若い隊員の一人が少女の肩を蹴り、仰向けにさせるのを見た。


 小さな手からナイフを蹴り飛ばし、「どうしてあいつを殺した」「いいやつだったのに」と、涙の滲んだ罵声を浴びせている。殺された隊員と仲が良かったのだろう。

 矢じりが残ったままの傷口を、金具のついた固い爪先で何度も蹴る。何度も、何度も、何度も――。


「――は、ハハ……くふっ、あは、あははハハッ!」

「ッ⁉ こいつ……!」


 何の前触れもなく、少女が笑い転げた。耳の中を這いまわるような邪悪な笑い声だ。


 傷口を蹴っていた隊員は怯んでとっさに後退ろうとするが、少女が足を素早く横に払って彼を転ばせるほうが早かった。獣に似た動作で馬乗りになり、ギラついた鈍い光を深淵から覗かせる青い瞳で、周囲の勇者候補生たちを見渡す。


 涙目で両手を上げ降伏のポーズを取る隊員の首には、血を浴びた矢じりが当てられている。少女の肩を射抜いた矢だ。彼女は出血するのもいとわず、それを引き抜いたのだ。


 人質を取られて騒然とする隊員を掻き分けて、険しい顔をしたフェルナンドが駆けつける。


「フェルナンド隊長、助け――」

「……フェルナンド?」


 その名前が引き金だったとでも言うように、少女は助けを乞う喉笛に向かって、掴んでいた矢を無感動に振り下ろした。

 ドツンと重すぎない音を立て、仰向けになった首を矢じりが貫通する。あらぬ方向へ眼球がぐるんと巡り、やがて口の中で血を泡立てて、ぴくりとも動かなくなった。


 しん――と一瞬、静まり返る。


 ゆらりと背後を振り向いた少女の青い瞳が、フェルナンドを映した。足元に死体があるとは思えないほどあどけない表情で。


 彼女の顔を視認した瞬間、常に冷静だったフェルナンドの切れ長の瞳がぴくりと見開かれた。


「……ノヴァ?」

「…………」

「まさか、ノヴァ・リヴレストなのか?」


 逆光を背に、愕然とした表情のフェルナンドが少女に問う。ふたりを隔てるように日陰と日向の差す路地で、青い瞳同士が交差する。


 すると、フェルナンドの背後から副官のキアラがゆらりと歩み出た。ヴァレンティアに支給されている剣を握って――。


「なんで、あんたが生きてんのよ……」


 血の気の引いた青白い顔で絞り出した声が震える。彼女を襲う震えの正体は、怒りでも憎しみでもなく、畏怖だった。


 カタカタと小刻みに揺らぐ剣先が少女――ノヴァへ向けられる。


「三年前、確かにあんたは、ダンジョンの底に落ちて――」

「あっは。すごい、クソッタレのキアラまでいる。今日は九十三期生の同窓会だぁ!」

「ッ、ひ……⁉」


 狂喜に口角を吊り上げたノヴァは死体が身に付けていた剣を抜き、地面を蹴った。


 一息で距離を詰めた殺気に、キアラは身体を強ばらせて引き攣った悲鳴を上げる。検問所で見せていた勝気な微笑みは消え失せ、幽霊でも見たかのように驚愕した表情を凍らせたまま、一歩も動けない。


 ノヴァの迷いのない殺意がキアラへ届く寸前、剣を抜いたフェルナンドがふたりの間に割って入った。鍔迫り合いで火花を散らし、交差する鋼越しに青い瞳が至近距離で見つめ合う。


「剣を置け、ノヴァ! なぜお前がこんな――」

「あー……なぁキアラ、優等生のフェルナンドはどうせ知らないんだろ? 不幸な事故だったとか言って、お前らクズ共全員で泣きついたんだろ?」


 フェルナンドの背後で腰を抜かすキアラをせせら笑って、ノヴァが憎悪に濡れた声で吐き捨てる。

 矢に射抜かれた右肩からは絶えず血が滴ったが、痛覚などとっくに忘れてしまった。地獄に落ちた三年間で、痛みに慣れ過ぎたのだ。


「お前たち、さっきから何を言って……」

「ああ……何も知らない可哀想なフェルナンド……ねぇ、自分が殺した魔物の死体を積み重ねたことはある? 人間の死肉がどんな味か、知ってる?」

「は……?」


 眉を寄せたフェルナンドの精悍な顔へぐっと鼻先を近づけたノヴァが、かさついた唇に微笑を浮かべてささやいた。

 その口調はそれまでと打って変わり、寝物語をせがむ子どもに語り聞かせる慈母のように穏やかで、気品すら感じられた。これがフェルナンドの知る本来の彼女なのだろう。だが――。


「――……殺した魔物の死骸の上を歩いて、たまに足を踏み外して落ちてくる馬鹿な冒険者のクソ不味い死体を食ったことはあるかって聞いてんだよ!」


 人間の皮を内側から食い破って魔物が姿を現わしたかのごとく豹変し、ノヴァは交差していた剣を押し崩して叫ぶ。


 ビリビリと肌を刺すような怒気が周囲に放たれ、喧騒の後方で蹲っていたテオが「かひゅっ」と喉を引き攣らせた。テネブラエの手首輪は今もギチギチと絞まり続けている。


 そのすぐそばに膝をついたネージェは白いグローブを外すと、震える栗色の前髪を細い指で払い、冷や汗まみれの頬をなぞった。

 それまで苦し気に伏せられていたテオのまぶたが薄っすらと開いて、導かれるがままネージェを見上げる。


「ネー、ジェ……」

「テオ……」


 目が合った瞬間、ネージェは唇を恍惚に綻ばせて「ほぅ」と感嘆の吐息を零した。


 青空と同じ色をしていたテオの瞳が、血の色に染まっている。


 赤い瞳は、魔の瞳。

 魔王と、同じ赤だ。


「ネージェ、俺、おか、しい、んだ……」

「……どんな風に?」


 頬を撫でる冷たい指先に縋るように手を重ね、カラカラになった喉から言葉を絞り出す。


「俺の中に、何か、いる……俺じゃない何かが、あの子の怒りに反応して、首輪が絞ま――……ぐ、ガァッ⁉」


 揺らぐ視界の片隅で、ノヴァが獣のように獰猛な雄叫びを上げて剣を振り回した。負傷した片腕で繰り出しているとは思えない重い連撃が、フェルナンドを追い立てる。


「もうやめろノヴァ! これ以上悪行を働けば、女神の怒りに触れて咎に堕とされる!」

「ハッ! くだらねぇ教えをまだ信じてんのか、フェルナンド! んなの、ヴァレンティアに首輪をつけたい王家の連中が考えた作り話だろうが!」


 フェルナンドの制止も虚しく、負傷した肩から鮮血を撒き散らすノヴァの猛攻は止まらない。


「本当に罪を犯した勇者候補生に女神の裁きがあるなら、ダンジョンの底にあたしを突き落したこいつらは、なんで今ものうのうと群青色を着ている⁉」

「突き落とした……⁉」

「貴族上がりの世間知らずな女が気に入らねぇってな! なぁキアラ、テメェそう言って、足場にしがみついたあたしの指を踏みつけたろ? おい、無視してんじゃねぇぞ、なぁ!!」


 ノヴァの憎悪に満ちた叫びで、フェルナンドはガツンと側頭部を殴られたような衝撃に見舞われた。


 星型の痣を持つ赤子は貴賎を問わず生まれ、その誰しもがいずれ勇者となるべくヴァレンティア部隊へ招集される。一度入隊してしまえば、その生涯を世界のために捧げることになるのだ。


 だが実際、跡継ぎを失いたくない貴族は多額の寄付金を国へ払い、兵役を免れている。その現状に不満を持つ平民の勇者候補生は多い。「なぜ自分たちばかりが戦わなければならないのか」と。


 そんな者たちにとって、家の事情でヴァレンティア部隊に入隊したリヴレスト子爵家の長女ノヴァは、憂さ晴らしのかっこうの的だったのだ。彼女が高潔な精神で勇者候補生として真っ当にあろうとし、平民出身のフェルナンドと並んで高く評価されていたことも、不本意に徴兵された者たちの神経を逆なでた。


 でも、だからと言って……。


 フェルナンドは今も起き上がれずにいる背後のキアラを凝視した。だが彼女がフェルナンドを見ることはない。寄る瀬のない不安の海を漂流するように、キアラの青い瞳がぐるぐると泳いでいる。それはノヴァの言葉が真実だという証明に他ならなかった。


「何が群青のヴァレンティアだ……何が世界の救世主たる勇者候補生だ……お前ら全員、腐ってやがる」


 まるで呪詛を紡ぐように、かさついた唇でノヴァがささやく。


 仲間にダンジョンの奈落へ突き落された優等生の少女は、魔窟の底で襲い来る魔物をなぶり殺し、三年もの月日を費やして積み上げた魔物の死体を踏みつけて外へ出たのだ。


 自分を地獄に突き落としたかつての仲間たちへ、復讐するために――。

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