2.「どこにおるのかな、メルクリオや」
検問の物々しい雰囲気にあてられたのか、どうにも気分が乗らない。
だが俯いていた頭上からひらひらと舞い散る紙吹雪に気づいて、テオはようやく顔を上げる。そして大きく目を見開いた。
「わぁ……!」
円を描いた城壁の中にぎゅっと密集したオレンジ屋根の石造建築。風花丘の風車塔と同じ白い石を積み上げた建物の間で、流れ星が刺繍された星降祭のフラッグが手招きするように風に踊る。
隙間なく並んだ露店の一角で、焼きたてのパンに塩漬けのハムを挟んだ朝食を買い求める人々。
革製品の工芸品をじっくり眺める異国の観光客。
大玉に片足で乗って観客を盛り上げる陽気なピエロ。
そのどれもが目に鮮やかだ。
街の裏に広がるなだらかなブドウ畑からも、特産品であるワインの大樽を乗せた荷車がどんどん押し寄せてくる。きっとあの樽も、流星が降る頃には空っぽになっていることだろう。
賑やかなお祭り騒ぎの街に一歩踏み出したとたん、テオは沈んでいた気分がふわりと浮上するのがわかった。
「すっごぉ……!」
「おいおい、これで圧倒されてるようじゃ、本番の夜は腰抜かすぞ~?」
街へ入っただけで目を輝かせていたら、後ろから歩み寄ったマルティスに笑われてしまった。
そう、祭りの本番は流星群が訪れる明日の夜。きっとさらに人が集まって、誰もが時間や瞬きを忘れて空を見上げるはず。百年ぶりの大流星群への期待がぐっと高まった。
すると、物珍しそうに周囲を眺めていたテオの頭上へ、不意に影が差す。
太陽の下に雲でもかかったのかと思いきや、ウェントゥスを薫風が吹き抜けた。
「見て、グリフォンだぁ!」
「グリフォンがお空を飛んでる!」
子どものはしゃぐ声にいざなわれ、テオは顔を上げる。見上げた晴天と同じ色をした瞳に映った存在に、思わず息を呑んだ。
「は~っ。普段は神殿にいるはずの風の星獣が出迎えてくれるなんて、珍しいこともあるもんだ」
額に手を添えたマルティスが同じように空を見上げ、感嘆を滲ませた声で言う。
鋭い鉤爪が光る猛禽類の顔と上半身に、たくましい獅子の下半身。鳶色の翼をはためかせて飛ぶ巨体はマムートと同じくらい大きい。
雄大な姿をしたグリフォンは、テオの遥か上空をぐるりと周遊した。
太陽を思わせる輝かしい黄金の瞳と目が合ったのは気のせいだろうか。
「キュルワアアアアアア――ッ!」
大きく開いたくちばしの奥にある鳴官から、歌うような甲高い鳴き声が空いっぱいに響き渡った。多くの人々が足を止め、その幻想的な光景を記憶に残そうと空を見つめる。
それからほどなくして、グリフォンは風花丘の果てまで吹き抜ける風を起こし、街の中心地にあるドーム状の屋根が特徴的な聖堂へ飛び去った。
爽快な風に栗色の髪をなびかせ、テオが呆然とつぶやく。
「今のって……」
「ウェントゥスで祀られている星獣、グリフォンだ。あやつめ、わざわざ姿を見せるなど、お礼参りでもしに来たつもりか?」
「お礼参り?」
どこか懐かしそうに語るネージェを振り返り、テオが尋ねる。
彼は二百年も生きているわけだし、グリフォンと何か接点でもあったのだろうか。
「クククッ。昔、いろいろとあってな」
「……明日の流星群を見ればわかるって言いたいんだろ?」
「そういうことだ。楽しみだろう?」
「まぁね」
ふたりはどこか得意げに微笑み合い、くすりと肩を揺らす。このやり取りも、もうずいぶん慣れたものだ。
「それじゃあ、吾輩は少しばかり野暮用を済ませてくるでな」
「は?」
ネージェは何食わぬ顔で一座の列を抜け、人混みへ向かう。
テオはそれまで和やかにしていた顔色を変えて、白い背を睨んだ。
「ネージェ、どこ行くんだよ!」
「言っただろう、野暮用だ」
「どうせ女の人のところに行くんだろ!」
「さてなぁ。男かもしれぬぞ?」
「どっちでもいいよ、この節操なし!」
「クックックッ、そう案ずるな。いい子にしておればちゃ~んと帰ってきてやろう、吾輩のダーリン♡」
芝居がかった仕草と表情で情感たっぷりな、やたら大声の「ダーリン♡」の破壊力たるや。通りすがる人々から興味深げに向けられる視線が痛い。
ニヤニヤと意地悪く笑うネージェに、テオはこんこんと怒りが込み上げた。検問所でのやり取りの仕返しのつもりなのだろうか。
すると、一部始終を見守っていたマルティスがテオの震える肩に腕を置き、したり顔で問う。
「なんだ、星降祭を前に痴話喧嘩か? よく聞くマリッジブルーってやつ?」
「ち・が・い・ま・す・!」
どすの利いた声で言い返し、テオはふんすと息巻いて一座の列に連なる。「あんな奴もう知らん」とでも言うように、ドタドタと足音を立てながら。
その絵に描いたような怒りっぷりに、ネージェは「クヒヒヒヒッ」とひとしきり高笑いした。せっかくの美人が台無しだ。
しばらくそうして気が済んだのか、笑いすぎて涙が滲んだ目元を指で拭い、鼻歌を奏でながら人混みへ足を向ける。
真っ白な出で立ちに浮世離れした美貌は雑踏で否応なしに目立つかと思いきや、行き交う人々がネージェを気にする素振りはない。
「彼の者はここに在りてここに在らず」
そう囁いた刹那、錫杖でしゃんと音を鳴らしていた六つの金の輪のうちのひとつが光となって抜け、ネージェの頭上に浮かぶ。それは元ある天輪と組み合わさり、エーテルの光を二重に迸らせた。
「――二輪、見知らずの羽衣」」
周囲を認識阻害の見えざる膜で包み、人目を逸らす天唱術。数秒でかなりの力を消費する高度なものだが、ネージェはさして影響がないのか、涼しい顔で軽やかに歩いた。
天遣には、複数のエーテルを持つ個体が少数存在する。
エーテルの数はそのまま天唱術の強さに準じるため、高位の天遣ほど多くのエーテルを冠するものだ。その数は全ての天遣を総べる天塔の主マルアーク直属の最高位の者で、五輪とされる。
ネージェの頭上で光るふたつの天輪。
そして錫杖に繋がれて揺れる、五つの金の輪。
底知れぬ雰囲気をまといながら、ネージェは人混みに紛れて喧騒の街を歩く。
「さてと……どこにおるのかな、メルクリオや」
それはテオの名を呼ぶ時とは少し違う、だが明確な愛着を含んだ、柔らかな声色だった。




