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1.「あのネージェだしなぁ……」

 夜が深まっても宿場街には明かりが灯り、どこも賑やかだった。陽気な音楽や笑い声がそこら中から聞こえる。


 街の規模はそれなりだが、今はどの宿も旅人でごった返している。この街道のずっと先にある凱風の街ウェントゥスで、百年ぶりに星降祭(アストラ)が催されるのだ。


 ウェントゥスはセプテントリオ王国南部に位置する風の街。常に海から丘を撫でる穏やかな風が吹き、空に雲がかかることはない。そこには王国で最も美しい星空が広がる。


 夜空を埋め尽くす百年ぶりの流星群を眺めに行く者。その者たちを相手に出稼ぎする者。理由は様々だが、王国中の人間が今、ウェントゥスへ向かっている。


 満席の酒場の外で樽ジョッキを煽る男たちの横をとぼとぼと力なく通り過ぎるこの旅装束の青年も、その中のひとりだった。


「はぁ……お腹減った……」


 覇気のない声でぼそりと呟く。首にぐるりと巻いた薄汚いマントに包まれた背は丸まり、履き潰されて底がぺたぺたになったレザーブーツの足取りは重い。年齢は二十歳前後くらいだろうか。癖のない栗色の髪は鮮やかな青い目にかかり、少し無精気味だ。腰には一応剣が差してあるが、よく見れば刃のない儀礼剣である。しかしこの様子では、本物の剣であっても使い物になるか怪しい。


「半日並んでようやく買えたパンだったのに。しかも定価の三倍……!」


 眉間にぐっとしわを寄せ、物苦しい様子で声を絞り出す。だがすぐ、自分に言い聞かせるようにこう続けた。


「だけどお腹空かせたあの子たちを見殺しにもできなかったし、仕方ない、仕方ない!」


 要するに、想定以上の人混みでパンを買うのも一苦労だったのだが、腹を空かせた物乞いの子どもに分け与えて、結局自分は一口も食べていないという状況なのだ。悪い人間ではないのだが、お人好しが過ぎて自分が損をするタイプである。


「こうなったらせめてネージェの宿探しが成功してることを祈るしかないけど、あのネージェだしなぁ……期待するだけ無駄だな、うん」


 柔和そうな丸い目を極限まで細めた脳裏に旅の連れを思い浮かべて、すぐに大きく息をついた。

 憎らしいことに、連れは大陸屈指の大国セプテントリオをしらみ潰しに探してもなかなかお目にかかれないほど顔がいい。顔だけは。

 肝心の中身はというと、街に着いたとたん宿探しの名目で女遊びに出かけ、この街について何も知らないテオをひとり置き去りにしたろくでなしだ。期待なんてしてはいけない。


「えーっと、たしか待ち合わせ場所は道具屋がある通りの……あれ?」


 連れと落ち合う約束をした場所へ向かっている途中、青年のお人好しセンサーが過敏に反応を示す。


 狭い路地裏の暗がりに、誰かが倒れている。


 よく見えないが、この騒ぎに乗じたただの酔っ払いかもしれない。酔っ払いだとしても、あんなところに放っておけば風邪を引くかもしれないし、馬に蹴られて死んでしまうかもしれない。

 そんな果てのない「かもしれない」の連鎖に突き動かされ、青年はほぼ条件反射で路地裏へ踏み入った。


 通りの酒場の光がかろうじて照らすのは、壁際に散らばったゴミや馬糞。そんな掃き溜めの中にうつ伏せで倒れていたのは、ボロ布をまとった金髪の少女だった。


「き、君、大丈夫⁉」


 青年は慌てて膝をつき、彼女の肩を揺する。だが気を失っているらしく、反応がない。ボロボロなのは服だけでなく、額と背中には血の滲んだ真新しい傷痕が見られた。

 とっさに口元へ手を近づける。かすかだが、弱々しい呼吸を感じた。


「よかった、生きてる……! 早く、教会に連れていかないと――」

「おいいたぞ、こっちだ!」


 路地の奥から物騒な声が響く。忙しなく現れたのは、顔に古傷のある、見るからに荒くれ者の男たち三人。全員が大柄な巨漢で、今にも少女の首を圧し折りそうなほどご立腹の様子だ。


「ったく、手間かけさせやがって」

「おいお前、そのガキこっちに寄越しな」

「どうして?」


 青年は少女を庇うように立ち塞がり、凄む男たちへ毅然と問いかける。多勢に無勢だが、怪我をしているこの子を置いて逃げるのは彼の矜持に反する。


 大人しく渡す気がないと察し、男たちは苛立たしげに舌打ちした。


「そいつは俺たちが先に拾ったガキだ」

「金髪は貴族共に高く売れるからな」

「……この傷は、あんたたちが?」


 冷えた声色で問えば、好戦的なひとりが「躾けてやったんだ」とナイフをちらつかせて得意げに語る。

 身勝手な言動に、一方的な暴力。つまりは絵に描いたような人でなしというわけだ。となればもう、青年のお人好しセンサーは発動しない。腰に提げた儀礼剣の柄に手を置き、青い目を据える。


「はんっ。そんなおもちゃで何ができ――」

「おっ、いたいた。おーい、テオ~!」


 間延びした緊張感のない声が青年を呼ぶ。青年――テオは、不思議なほどよく響く声の主を振り返った。


「ネージェ」


 待ち合わせしていたテオの旅の連れは、足元までをすっぽりと隠す白いローブをまとった長身痩躯の両肩に、若い女性ふたりをぐっと抱き寄せた。彼女たちは夢でも見ているような恍惚とした表情で、ネージェと呼ばれた人物を熱っぽく見つめる。


 水晶玉のように透き通った瞳を細めて妖しく微笑むその人は、性別を超越した美貌の持ち主だった。

 夜風に吹かれてなびくのは、首の後ろで結ばれた月白の長髪。旅人とは思えないほど色白で、テオの格好とは対照的に汚れ一つない真白のローブが妙にしっくりくる。

 彼を構成する全ては、この世の白の中でもいっとう白い。薄暗闇が支配する路地裏に差すわずかな光を反射し、彼自身を光源としてまばゆく見えるほど。

 ……というより、()()()()()()()()()()()()()()()()


 それまで気色ばんでいた荒くれ者共は、ネージェを一目見てさらに醜悪な顔つきに変わった。

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