5.「記憶を失う前の俺にも、今みたいに忘れたくない景色があったのかな」
「これって……」
「見てのとおり、百年前にあった最後の魔王討伐がモチーフの創作劇だ。ちょうどその頃も星降祭があったから、今回の演目にぴったりだろうって」
器用にウインクをするマルティスから発せられた勇者と魔王の単語に、テオは密かに鼓動が跳ねた。やはり、どこか懐かしさを感じる。
「しかもあの旅の結末にはいろんな噂があるし、話題性もばっちりだろ?」
「噂って、なんです?」
恐る恐る尋ねたテオに、マルティスはきょとんとした顔で返した。
「なんだテオ、知らないのか?」
「ド田舎出身なんで」
これくらいの作り話は許してほしい。それに山奥の廃村で目覚めたのだから、あながち嘘ではない。マルティスもうんうんと頷いて納得してくれたようだ。
「なるほど、自然豊かな田舎の片隅で密かに育まれた異種族純愛物語……」
「そ、その話はいいんで、噂のことを……」
辟易とした反応から「フッ、照れ屋だなぁテオは」と盛大に勘違いされた。
まったく、油断も隙もない。マルティスの妄想癖には困ったものだ。
「百年前の旅で勇者は魔王と刺し違えて討伐を完遂した、ってのがセプテントリオ王家の言い分だが、本当のところ何があったのかは誰にもわからない。勇者パーティーにいた天遣が討魔星勇録の執筆をすっぽかしてやがるからな」
「討魔星勇録……」
口にすれば、胸の奥がざわざわする。嫌な感じではなく、好きなものを前にしたむず痒さに似ていた。忘れているだけで、本当は知っているのだ。そのことが今は無性にもどかしい。
そんなテオの葛藤を感じ取ったのか、それまで不思議なほど静かだったネージェが薄い唇をそっと開く。
「討魔星勇録とは、歴代の勇者と魔王の戦いを後世に残すために書かれた、セプテントリオ王家公認の正史書物だ。勇者パーティーに選出された天遣によって代々書き足されている」
ネージェの声は淡々としていたが、どことなく覇気がない。
水晶玉の瞳はテオに向けられることなく、悠然と回る風車群よりもずっと遠くを眺めているようだった。
音もなく、感情もなく、ただ、遠くを。
普段と違うネージェの様子に、テオはわずかに目を見開く。
しかし追及する間もなく、マルティスが続けた。
「そうそう。んで、どういうわけか前回の旅が終わってもそれが更新されないもんだから、実は魔王は姿を変えて今もどこかで暗躍してるとか、勇者が魔王と一緒に魔界へランデブーしたとか、好き勝手言われてんのさ。旅から戻った他のパーティーメンバーにも色々あったしな」
それまで飄々と語っていたマルティスの声色が、「色々」の部分でわずかに固さを帯びる。怪訝そうな顔をしたテオの追及を振り切るように、マルティスはすぐ人の良い笑みを向けた。
「ま、真相を知っているのは今じゃもう例の天遣だけってことだ。さっさと討魔星勇録を書いてくれりゃあいいのに、何やってんだか」
「たしかに、妙ですね。今までと違うことがあったなら、それこそ書き記しておくべきなのに。ネージェは何か知ってる?」
テオの真っ当な疑問に、ネージェはようやく視線を合わせた。
作り物のように綺麗な顔にいつもの軽薄な笑みを浮かべ、フッと息を吐く。
「さぁな。単に筆が乗らんのではないか? どんな文豪でもちょっとしたきっかけでスランプになったりするだろう? それかとんでもなく遅筆か、目も当てられないくらい文才がないとか」
「ははっ。だとしたらゴーストライターでも雇った方がいいかもな。さっさと真相を世に出さないと、俺らみたいな奴らが好き勝手に書き下ろしちまうからな!」
マルティスは冗談っぽく言って肩を揺らす。そして改めて台本の紙を指さした。
「テオが勇者で、ネージェは当然天遣、俺は剣士だ。王子と神官もうちの舞台俳優がつくから安心しな。ステージで敵役がイイ感じに攻撃してくるから、テオは普段通りの剣技を披露してくれ。ネージェは突っ立ってるだけで絵になるから問題ない。あとはナレーションに合わせて動いてくれればいい」
「ううう……本当に大丈夫かな……?」
「心配すんなって。せいぜい十分くらいの前座だ、むしろ楽しめ!」
不安で丸まったテオの背中をマルティスが力強く叩いて激励した。
そして近づいたウェントゥスの街を眺めて「そろそろ時間か」とつぶやき、車輪が回る荷台から軽やかに飛び降りる。革のベストを着た厚い胸がより大きく膨らむくらい、清廉な丘の空気を吸い込んだ。
「お前ら、鐘を鳴らす準備はできてるかぁあああ!」
遠くまでよく通る呼びかけに応じて、野太い雄叫びが一座の大行列から次々と上がる。前方を突き進むマムートも嬉し気に咆哮を轟かせたので、テオとネージェも弾かれたように顔を上げる。
見ると、櫓にいた側仕えの男が鐘と繋がる紐を柱からほどき、片腕を突き上げている。今か今かと待ち侘びる仲間たちを存分に煽るように。
そして櫓に立ったカーラが、一番高い場所から一座の全員を神々しく見下ろした。
「さぁて、ようやく会場のお目見えだ。ハルディン・デ・カンパーナが来たと、ウェントゥスの連中に報せてやらないとね。――……鳴鐘!」
華奢な金のブレスレットをたくさんつけた腕が真っ直ぐ掲げられた。
合図に応じて紐を持っていた男が手元を力強く引けば、天井に吊り下げられた鐘が大きく揺れる。澄んだ鐘の音が風花の丘の果てまで響き渡った。
『鐘が鳴ったら庭へ出よう』
『時計と帽子は家に忘れて』
『夢の続きは、起きなきゃ見れない』
鐘の音が合図だったのか、息の合った歌声がそこら中から聞こえる。
後方の荷車に乗る楽団がバグパイプを奏で、打楽器を軽快に打ち鳴らす。設計図とにらめっこしていた両腕丸太おじさんたちも、この時ばかりは肩を組んで陽気に歌った。
歌声に目を瞬かせたテオの視界の隅で、ネージェにべったりだったという踊り子たちが荷台から飛び降り、旋律に乗った華麗なステップで風車と花の丘を駆け巡る。朝焼けを透き通す彼女たちのベールが風を捕らえて、まるで妖精が踊っているようだった。
家族の歌と音楽に気分が高揚したマムートも長い鼻をくねらせ、伸びやかに高く吼えて朝を告げる。
やがて、城門の向こう側からも返礼の鐘の音が響いた。
残星が消えかけた曙の空に日が昇る。
寝てる間に見る夢の続きが両手を広げて迫るような圧巻の光景を前に、テオはどうしようもなく胸が高鳴った。
「ネージェ、俺さ……――旅に出て良かったって、初めて思えたかも」
正直に言うと、ネージェから星詠みの旅に誘われた時、本当は少し怖かった。
誰もいない廃村で目覚めた自分は、きっと普通じゃない。
思い出した記憶が、忘れてしまいたいほど酷いものだったら。
忘れたままの方がいいことだって、あるんじゃないか。
そう思ったら、どうしてもこの旅に積極的になれなくて。
でも、今は――……。
「失くした記憶のことばかり考えてたけど、今を生きてるこの時間も、これからの俺の記憶には変わりないもんな」
風の匂いも、夢みたいな光景も、賑やかな音楽も、いつかは全て記憶に変わる。魔物がうじゃうじゃいる森をくたくたになりながら歩いたことだって。
そのどれもをずっと覚えていたいと、テオは蒼天の瞳を眩しいくらい輝かせて、心の底から強く思った。
「記憶を失う前の俺にも、今みたいに忘れたくない景色があったのかな」
自分も知らない自分へ、初めて想いを馳せる。
どうして記憶を失ったのか。
手練れのマルティスに驚かれるほどの剣の腕前で、いったい何と戦っていたのか。
目覚めてからずっと隣にいるネージェが、自分にとってどういう存在なのか。
――今はただ、早く流星が見たい。
「吾輩も流星を見た後、おぬしに聞いてみたいことがある」
黎明に広がる夢のような光景を眺めながらうっとりと目を細め、ネージェがそう囁いた。
その声は穏やかで、真っ直ぐで、無垢で。テオは思わずごくりと息を呑む。
(てっきり全力でからかわれると思ってたのに、調子狂うなぁ)
月白の長い髪を風に踊らせ、ネージェが涼し気に微笑んだ。朝日を浴びて光る天輪が、美しい彼を淡く照らす。
悔しいが、忘れたくないと思うほど綺麗だ。




