4.「もしや、吾輩を誘っておるのか?」
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マムートの太い足が、丘の頂上をズンズンと目指す。
牽引される荷車に並んで腰かけたテオとネージェは、朝焼けが残る丘の向こう側から吹く風を肌で感じた。ほんのり海の匂いがする。
「この辺りは南端の海から年中一定量の南風が吹く。すぐ近くを流れる運河の水害を防ぐのにも、風車はうってつけだ」
白髪と真っ白なローブを乾いた泥と汚物まみれにした酷い有り様で、ネージェがげっそりとした顔で語る。
昨夜、女子の天幕でハーレムを作っていたところをカーラに捕まり、ついさっきまで例の刑に処されていたのだ。そう、「マムートのケツの前に逆さ吊りの刑」である。
剛毛に覆われたマムートは旅続きで水浴びをしていなかったのか、独特な獣臭がした。そして動物なので、食べたら出すものがある。尻の前に誰かがぶら下がっていようと関係ない。ネージェの凄惨な悲鳴は、日が昇るまで野営地に響き渡った。
「ネージェ、水浴びでもしてきたら?」
「言われなくとも」
荷車に立って錫杖をしゃんと鳴らせば、頭上のエーテルが光る。短い呪文を唱えると、足元から現れた水の膜が全身を包み込み、やがて弾けた。
天唱術で染みひとつない純白を取り戻たネージェは、さっぱりとした顔でふるりと首を振る。
「はぁ、どえらい目に遭った」
「自業自得だろ」
「ダーリンってば冷たい……。吾輩、ただ人肌が恋しかっただけなのに」
両手で自身を抱き締めて狂おしげに身を捩るふざけた男を、テオは呆れ混じりの半眼でジッと突き刺す。
「そもそも、ネージェはなんでそんなに節操なしなの? ひとりだと眠れないなんて、子どもじゃあるまいし」
ふらりとさまよう蝶のように、ネージェは夜になると移り気に身を任せる。しかも相手を選ばないから厄介だ。適当に見繕ったワンナイトの相手がたまたま反社組織のボスで、そのまま愛人にされかけたことまであるのだから笑えない。
破滅願望でもあるのだろうかと勘繰ってしまうほど、時に彼がとても危うく見えるのだ。
問われたネージェは、立てた片膝の上で頬杖をつき、麗しい小首をかしげて微笑んだ。
「ひとりで過ごすには、この世の夜は長すぎると思わぬか? そういう時ほどろくでもないことを考えてしまう。だから快楽が必要なのだ。時間だけでなく理性すら忘れて、頭を空っぽにできる」
言葉通りに受け取るなら、思考に溺れる夜が恐ろしいと感じるほど、ネージェが何かを抱えている、ということになる。彼のことだから、ただの軽口の可能性もあるが。
それでも、テオは澄んだ青い瞳で真摯に見つめ返した。
「俺が一緒にいるんだから、別にひとりじゃないだろ」
不思議なことに、二人で過ごす夜にネージェから迫られたことは一度もない。いや、迫られたいという意味ではなくて。
貞操観念のネジがぶっ飛んでしまっているように見えて、実は絶対に越えない一線を引かれている気がする。もちろんテオから境界線を越えることも許されていない。それがなんというか、こう……もどかしい。
一方でネージェは、虚を突かれた顔でぱちりと瞬きを繰り返し、テオをまじまじと凝視していた。
「……もしや、吾輩を誘っておるのか?」
ポッと頬を染めてローブの襟を寄せたネージェから意味深な視線を向けられ、テオはがくりと肩を落とす。ふざけているな、これは。
「ち、が、う! 話くらい聞いてやるから、あんまり自分を粗末にすんなって言ってんの!」
とたんにネージェが「はぁ~」とつまらなそうにする。「ため息をつきたいのはこっちだ」と、テオは内心でぼやいた。
「なんだ、そんなことか。天遣は優れた自己修復能力を備えているから、誰と寝ようが病気にはならぬ。これで少しは安心したか?」
「そういうことじゃなくて……はぁ、もういいよ。せっかく人が心配してやってるのにさ」
軽妙な笑顔で「そんなこと」と一蹴され、ふくれっ面でそっぽを向く。
身体は無事でも、心は擦り減るものじゃないか。だから何か不安なことがあるなら支えになりたいと言っているのに、やはりネージェはのらりくらりと立ち回るばかりだ。今も「そう拗ねるな、愛い奴め」とへらへら笑って、テオの頭を撫でている。
(やっぱり、記憶を思い出さないとネージェは何も教えてくれないんだ)
流星を見て記憶を取り戻したら、自分たちの関係は何か変わるのだろうか。
そう無性にヤキモキしている間に、荷車が丘を登りきった。雲間から朝の太陽がうっすらと顔を出す。
「ほら、見えてきたぞ」とネージェの細い指先が差す先に、川沿いに等間隔で並ぶ巨大な風車群と、季節の花に覆われた美しい丘陵の光景が広がった。
「わぁ……!」
「風花丘。セプテントリオ十景の一つだ。どうだ、圧巻だろう?」
十字の骨組みに帆を張った車翼が風を受け雄大に回る様子は、文句なしに心が躍る。ここまでの困難な道のりを思い返すと、感動もより大きい。さっきまでの焦燥感も吹き飛んでしまった。
旭光を浴びて蕾が開いた花々も、水面を風に撫でられてキラキラと反射する運河も、本当に綺麗だ。
「あの丘上にある円形の城壁に囲まれているのがウェントゥスだ。吾輩の見立て通り、やはりヴァレンティア部隊も来ているな」
得意気に言ったネージェの視線の先で、城門を挟む壁に掛けられた緋色の垂れ幕が風に翻る。
描かれているのは剣と盾、そして七つの星を線で紡いだセプテントリオ王国の紋章。そのすぐ下には勇者候補生のヴァレンティア部隊を表す七芒星の青い旗が掲げられていた。
テオの脳裏に浮かんだのは、やはり乗車券を盗んで消えたあの少女のこと。
「よかった。じゃああの子、もう仲間と合流できてるかな」
「さぁな。窮地を救ってやったのに盗みを働かれたと、お仲間の勇者候補生たちにチクってみようか」
ネージェはおどけて言っているが、目が笑っていない。ここまで来てまだ根に持っているらしい。
テオは呆れた様子で「大人げないからやめなって」とたしなめた。
そんな二人の背後に、音もなく人影が立つ。
「セプテントリオ王家にヴァレンティアまでお揃いとは、ずいぶん景気がいいな。さすがは百年ぶりの星降祭ってところか」
「マルティスさん」
テオが振り返って背後を見上げる。
「よっ」と軽く手を振って返したマルティスは、グレーの瞳で望遠鏡を覗き込んだ。
「ヴァレンティアの奴らが城門で検問してるみたいだ。さてはウェントゥスで何かあったな」
「えっ、じゃあ街に入れないってことですか⁉」
「安心しな。こっちにはウェントゥス興行組合から発行された営業許可証がある。お前らの愛の逃避行の邪魔は誰にもさせないさ」
「ああ、はい……」
キリッとしたキメ顔とかっこいい声で言われ、テオは口角を引きつらせてどうにか苦笑を返す。どこかで誤解を解かなければ、そろそろ挙式の日程まで尋ねられそうだ。
「そうだ、お前らにこれを」
望遠鏡をしまったマルティスは、思い出したように二人へ紙を一枚ずつ手渡した。
「なんです、これ?」
「ショーの台本。って言っても全部ナレーションベースで進むから、上手と下手のどっちから出るかくらいを把握しといてもらえりゃあいい」
「え、えええぇ……?」
テオは懐疑的に眉をひそめて唸った。
こっちはずぶの素人なのだが、こんなにざっくりとした感じで本当に大丈夫なのだろうか。
そんな不安を察したマルティスが「俺も一緒に出るから任せとけ!」と白い歯を見せて笑う。頼もしいが、かなり不安だ。
「おい、吾輩も出るのか? 初耳なんだが」
目を細めたネージェが台本をひらひらと振る。
「そういえば説明してなかった」と、テオは今になって思い出した。まぁ、お世話になっている一座でハーレムを作って刑に処されていたのだから、仕方ないだろう。
「言っておくが拒否権はねーぞ。しかもうちの演出家直々のご指名だ。お前ら二人とも、今回の役にぴったりだってな」
マルティスの話に、二人は改めて紙に書かれたタイトルを確認する。
そこには「討魔星勇録・未完の章」とあった。




