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第九章 答えのない約束

この物語はどこかに着地するのではなく、「答えを出さない」という選択で締めくくったその勇気と覚悟を持って書き上げました。

ボーイズラブの恋愛を書いていたつもりが、いつのまにか僕自身がのめり込み、物語の本質を「答えのない約束」に宿しました。


夏休みの学校。


誰一人いない校舎は、まるで時間が止まったように静かだった。

美術室には、「静寂」という名の緊張が張り詰めていて、僕の鼓動の音さえ、筆音のように空間に響いた。


窓から射す午後の光が、白いキャンバスを神々しく照らし、

その影は、僕の裸の背中にゆっくりと落ちた。


矢崎先生のまなざしは、凍るように冷静だった。

僕が服を脱いだとき、その羞恥や高鳴りなど、まるで通じない。

先生の目には、ただ「ひとつの光景」としての僕しか映っていない。


“光と影が織りなす構図”。それだけ――


「……最高のモデルに出会った」

彼は静かに言った。


「君を、いつまでも描いていたい」


その声は、まるで深い井戸の底から響いてくるようで、

遠くて、冷たくて、哀しかった。


もし美優が今の僕を見たら、きっと怒るだろう。

全部、さらけ出しているから。

航じゃない相手に。


でも――違うんだ。


この気持ちは、そういうことじゃない。


これは恋ではない。

けれど確かに、心の一部がほどける瞬間があった。


……航なら、きっとわかってくれる。


僕は、矢崎先生にも知ってほしかった。

この能登の町を満たす、あの静かなせせらぎの音を。

光と風がふと混ざる瞬間に、耳を澄ませば聞こえてくる――海が人の心を洗う音。


きっと、先生はその音を探して、東京から来たんじゃないだろうか。


傷ついた過去も、言葉にできない孤独も、

すべてを包み込むような――日本海の、あの音を。


「……今の僕の心を、覗いてごらん」


先生、聞こえるでしょう?

ほら……ほら……


そのときだった。


夏の風が、窓のカーテンを優しく持ち上げた。

白い布が空に舞い上がり、風は僕のシャツの隙間をすり抜け、肌をそっと撫でた。


先生の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。

静かな水面に、淡く波紋が広がるように。


そして彼は、低く囁いた。


「雪哉……明日、もう一度ここに来てくれないか」


「……どうしたの?」


「もう……完成だ」


そう言って、先生はそっと僕の肩にシャツをかけてくれた。

その仕草はまるで、絵の具を最後にひと筆、キャンバスへ乗せるような、優しい手だった。


彼の瞳は、とても穏やかで、どこか寂しかった。

それはまるで――

夏の終わりの波打ち際で、誰かを見送るときの海の色だった。


「ありがとう」


「先生……やめてよ。

そんな、もう会えないみたいなこと言わないで……」


先生は、何も言わなかった。


ただ、遠くを見つめていた。

それが、余計につらかった。


僕は、その胸に顔をうずめ、声もなく泣いた。

海が、引いていくような静けさの中で。


先生も……たぶん、泣いていたと思う。


その夜、僕は一睡もできなかった。


もし先生がいなくなってしまったら——

そんな思いが、ぐるぐると頭の中を駆け回る。

寂しさが胸の奥を締めつけた。


僕は、航から「愛」というものを教わった。

けれど、「恋」はもっと複雑だ。

まるで測れない。

定規なんかじゃ到底わからない、形のない感情。


——愛を知った者は、恋をしてはいけないのだろうか?


答えはわからない。

ただ、あのとき先生の指先が唇に触れた感覚は、今も僕の中に熱として残っている。

あれは、先生が勝手にしたことじゃない。

僕が、望んでいたことだった。


だから、あれもきっと——恋だ。


でも、同時に二人を愛することはできない。

そんなことはわかってる。

それなのに、僕は——どうしてしまったのだろう。


ようやく見つけたはずの愛。

それを胸に抱いて、静かなせせらぎのように穏やかに生きたいと思ったのに。

僕は今、また危うい波に惹かれている。


なぜ?

なぜ、こんなにも心が揺れるんだ。


僕はベッドの上で、一人、声にならない叫びを上げた。


航に会いたい。

でも——先生にも会いたい。


どっちかなんて、決められない。

どちらか一方だけじゃ、僕の心は完成しない。

世間はきっと言うだろう、「どちらかを選ぶのが正しい」って。

でも、僕にはそのどちらもが必要なんだ。

その想いが、間違っているとは思えなかった。


先生、いなくならないで——!


今すぐにでも、美術室へ駆け出したい。

明日までなんて、待てない。


翌日、美術室の扉をそっとノックした。

返事はない。

静寂だけが、僕を迎え入れた。


その瞬間、もう涙がこぼれていた。


ふと目をやると、窓際に一枚の絵が飾られていた。

開かれた窓から、夏の光と潮の匂いを含んだ風がカーテンを揺らしている。

いつもは薄暗かったこの部屋が、今日は眩しいほどに明るかった。


絵の中には、僕と先生が砂浜に腰を下ろし、日本海を見つめていた。

耳を澄ませば、せせらぎの音すら聞こえてくるような静けさ。

それはきっと、先生が感じ取った僕の心の音。


――先生。

やめてくれよ。

こんな絵、一度も見せてくれたことなんて、なかったじゃないか。


ほんの少し前まで、この場所で筆を動かしていたはずの先生の気配が、まだ空気に残っている。

僕は声にならない叫びを、震える喉から搾り出した。


描かれた絵は、水彩の淡い光に包まれていた。

昨日までの痛みも葛藤も、もうそこにはない。

その中の僕は、ただ静かに、光の中で微笑んでいた。

……この絵を、もっと早く見ていたら。


傍らには一冊のスケッチブック。

ページをめくるたびに、心の軌跡が浮かび上がってくる。

初めは荒れた線だった。孤独、痛み、迷い。

でも、進むごとに、筆跡は優しさと祈りに変わっていった。


最後のページには、手書きの言葉。


「雪哉、ありがとう。

君は、僕の希望だった」


涙が、頬を伝った。


僕は七尾駅まで、ただ夢中で走った。


プラットホームの端に、先生の姿があった。

その一瞬で、足が止まる。


「先生……」

「雪哉……」


先生は、静かに微笑んでいた。

能登鉄道のローカル列車が、ゆっくりとホームに滑り込む。

運転席には――航の姿。


7時33分発。

僕は、始発で美術室に向かっていたのだ。


航と目が合う。

彼は、軽くうなずいた。


「雪哉、乗りな」


「航……」


「雪哉は、この電車の窓に舞い降りる花びらのように自由で、だからこそ、愛おしい」


電車に乗り込むと、

先生が、僕がいつも座っていた席に腰かけていた。


僕は、そっとその隣に座った。

先生は、何も言わなかった。

ただ、少しだけ目を伏せて、窓の外を見つめていた。


窓には、あの日と同じように、

夏のアジサイの花びらが一枚、ひらりと舞い、そっと止まっていた。


電車がゆっくりと動き出す。

花びらは、風に吹かれて空へ舞い上がる。


それはもう、答えを出すというより――

答えを出さないという、ひとつの約束のようだった。




この結びは、読者に“自分なりの答え”を委ねる静かな余韻を残し、「恋」と「愛」の間にある揺らぎ、そして**“共にいること”の意味**を深く感じさせるものになっています。


物語全体を通じて、雪哉の揺れる心、先生の不器用な愛、そして「航」ではなく「先生」を選んだことへの決意と未練――それらすべてが、静かなラストの中で、確かに息づくように描きました。


この小説を読んで、誰かの心を震わせることが出来ればそれは僕にとっての小説を書くというエネルギーとなります。 最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。

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