第八章 海の底で、愛に触れた
第八章をリニューアルしました。この章は雪哉と航が愛について語るシーンが続きます。
是非、読んでみてください。
夕暮れの七尾駅。
ホームの端、古びた木製のベンチに、僕は一人座っていた。
制服の袖をなでる風が、どこかひんやりしていて、まるで春の名残が最後の言葉をささやくようだった。
もうすぐ夏が来るというのに、僕の中ではまだ、季節は立ち止まっている。
18時48分発の電車。
何度も乗ったはずなのに、今日は胸の奥が妙にざわついて、どこか遠くへ流されていく気がした。
ただ俯きながら、時間だけをやり過ごすように、電車に乗り込む。
ガタン、ゴトン。
レールの音が、いつになく遠く、鈍く響く。
心の奥に何かが沈んでいく音と重なった。
「乗車券を拝見します」
その声に、はっと顔を上げた。
そこに立っていたのは、航だった。
制服姿のまま、変わらない穏やかな瞳で、だけど確かに、僕の何かを見透かすように見つめていた。
「雪哉……何かあったの?」
優しい声だった。けれど、返事をすることはできなかった。
代わりに、一筋の涙が頬を伝った。
何も言えないまま、終点・穴水駅に着いた。
乗客が降り、静かにドアが閉まると、電車はそのまま車庫へと進む。
夜の海風が、車窓をかすめた。
やがて電車が止まり、誰もいない車内に静寂が満ちていく。
航は僕の隣にそっと腰を下ろし、言葉もなくハンカチを差し出した。
その手が、あたたかかった。何も言わなくても、全部を受け止めてくれる手だった。
「航に……告白されたとき、本当に嬉しかったよ。でも……」
僕の声はかすれていた。
「でも?」と、彼は静かに促す。
僕は唇を噛んで、それでも言葉にしようとした。
「……もう、会えないかもしれない」
一瞬、空気が凍ったような気がした。
けれど、航は取り乱さず、ただ僕を見つめる。
「どうして?」
「僕……もう一人、心が揺れてしまう人がいるの」
吐き出すように言った。僕の声が震えていた。
「……そうか」
その一言に、彼の影がふっと揺れた。
「その人のこと、好きなの?」
僕はすぐに答えられなかった。けれど、やがて、ぽつりと口にした。
「……わからない。でも、その人を救いたいって思う。彼の痛みが、どうしようもなく胸に刺さって、放っておけないんだ」
言い終えると、航は少しだけ目を伏せ、そしてゆっくりと、微笑んだ。
その笑顔には、優しさと、ほんの少しの哀しみがにじんでいた。
「僕は、待つよ。たとえ、雪哉の心が誰かに向いてしまっても」
「そんなの……恋じゃないよ」
思わず、叫びたくなる気持ちで言っていた。
「強引に奪ってくれないと……僕、きっとまた迷ってしまう」
「雪哉……何も言わなくていい。今は、それでいい」
航の言葉は、あまりにも静かで、だからこそ胸に深く沈んでいった。
……もう、ここにはいられない。
そんな衝動に駆られて、僕は無意識に開閉ボタンに手を伸ばした。
電車を降りようとした瞬間――
背中に、夏の風が吹いた。
振り返る間もなく、航の腕が僕を引き寄せる。
唇が触れた。
穏やかで、優しいキスだった。
それは、矢崎先生への想いを責めることも、無理に拭い去ることもなく、ただ静かに洗い流してくれるようだった。
心の奥に、ほのかな熱が灯る。
「航……」
声にならない思いが滲んでいた。
彼は、ゆっくりと頷いた。
「雪哉、
僕の思う恋はね、奪い合うものじゃないんだよ」
ふたりは、並んで座席に腰を下ろした。
静かな車庫の中、日本海の波の音だけが遠くから聴こえていた。
それはまるで、海の底から響いてくるような、優しい子守唄だった。
「雪哉の笑顔が、ずっと好きだったよ」
航の声は、夜の海に落ちる星のように静かで、美しかった。
「窓辺で花びらを追いかける横顔も、日本海に向かって天気を当てようとする姿も……
その全部が、僕の毎日を救ってくれた。どんな風景よりも、君の仕草のひとつひとつが、僕には宝物だった」
僕の胸の奥で、小さくなっていた何かが、ぱちんと弾けた。
「定期券を見つけたあの日、不思議と"これは運命だ"って、そう思ったんだ。
他愛もない偶然に見えて、でも……僕の心は、たしかにその瞬間から、君に引かれていた」
目を閉じると、航の声が遠くの波音に溶けていく。
その音は、深い海の底から浮かび上がってくるようで――僕を光の中へ連れ出してくれる。
「雪哉、君は……知らないうちに、僕の世界の中心になっていたんだよ」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
手を伸ばした。
そして、彼の唇に、そっと指先を重ねた。
まるで祈るように。
「僕……ずっと航の手を放していた。でも……遠回りして、たくさん迷って、ようやくわかった。
どんなに時間がかかっても、どんなに揺れても……僕が還る場所は、航しかいないんだって」
航の瞳が、海のように深く、優しく揺れた。
「恋は、どんなかたちでも間違いじゃないよ。でも――"愛"は、ふたりで育てるものなんだと思う。
僕がこうして、ここでずっと待っていられたのはね……雪哉のことを信じていたからだよ」
僕はもう、言葉が出なかった。
彼の胸に顔をうずめると、そこにある鼓動が、波のように僕を包んでくれた。
熱く、確かに響くその音が、
今まで迷っていた僕のすべてを、やさしく洗い流していく。
恋は、嵐のように僕をかき乱した。
でも、愛は――静かな潮のように、僕を抱きしめてくれる。
そして、ようやく気づく。
これは終着駅なんかじゃない。
ここから、愛という列車が本当に走り出すんだ。
今夜――僕は、愛に生きる覚悟を持った。
矢崎先生にも、教えてあげたい。
長い闇に閉ざされていた彼に、
この優しい潮騒の音を、どうか聴かせてあげたい。
この音は、
誰かを心から愛した人だけに聴こえる……日本海の、せせらぎの調べ。
――ねえ、航。
確かに僕には、今、聞こえるんだ。
あの海の彼方から吹いてくる、
君と僕を包む、永遠の音が。
第九章がラストの章です。雪哉自身がどんな答えを導き出すのかに焦点をあてて書き上げます。もうしばらくお待ちください。