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第七章 キスと、水彩の記憶

第7章、夏休み前の矢崎先生の授業…。放課後の美術室…。恋に積極的な雪哉に対して恋とは奪うものだと強引に引き寄せながらも突き放す矢崎先生…。翻弄される雪哉‥‥。



季節が夏へと移り変わろうとしていた。

一学期も後10日ほどで夏休みに入る。


矢崎先生の授業が始まる。

いつものように、生徒たちは退屈そうにしている。眠っている者、スマホを弄る者、外を眺めてぼんやりしている者――。


けれど、僕は違った。

もう、2カ月近く先生との会話がない。

モデルの話も先生はしてこない。

先生は僕を諦めてしまったのか。

心を見透かす先生は、僕と航が付き合っているということに邪魔しないように遠慮でもしているのだろうか。


――まさか。

先生に限ってそれはない。


僕と航は付き合っていると言っても、それは、業務が終わった電車が回送電車となり、車庫に入るまでの二人の時間を楽しむだけのことで、それ以上の恋の展開は何もなかった。


それが、今日に限っては、いつもと違って見えた。

…いや、この視線は

いつもの彼に…戻っていた。


教卓の前、眼鏡越しにじっと僕を見つめてくる矢崎先生。

その視線が、誰にも気づかれないまま、真っ直ぐに僕の心を突いてくる。


僕もまた、目を逸らさない。逃げるつもりなんてなかった。


――僕の心を、覗いてみてよ。


キーンコーンカーンコーン

チャイムが鳴る。

いつもは、チャイムの音と同時に教室を出るはずの先生が、この日は授業が終わっても教卓に立ち尽くしている。


「雪哉、ちょっといいか」


クラスメイトが一瞬ざわついた。けれど、僕は気にせず廊下に出た。


「モデルの話、だけど…」

「先生から声がかかるのをずっと待ってました。

先生、モデルをやる前に、先生に覗いてほしい。僕の“今”の心を」


「変わったな」

彼は口元を少しだけ緩めた。


「先生、今日の放課後、空いていますか」


そのとき、風が窓の外を抜け、僕の頬を撫でた。

夏の匂いがした。


彼の絵が上手いかどうかを論じられるほど、僕に芸術の目はない。

けれど、あの時見せてもらった一枚には、確かに心が映っていた。

彼の描く絵は、ただの形や色ではなく、その被写体の内側を、そっとすくい上げるような不思議な力を持っていると、僕は思った。


――あの絵に映っていたのは、どこか自信のない僕の表情。

それでも恋を諦めようとしない意志が、赤い唇ににじんでいた。


そして――

あの絵の隅には、彼の小さなサインが、確かにあった。

でも、あのときの僕と、今の僕は違う。

今の僕の心を、彼に描いてもらいたい。


そんな期待を胸に、僕は彼の隣を歩いた。


――もう、受け身だけの僕じゃない。


「じゃあ、美術室で待っている」

「先生、時間を気にしないでください」


先生の足が止まる。

「それは君次第だ。…最後の仕上げをしておくよ」

彼は、めずらしく僕の顔をまっすぐに見て、ふっと笑ってくれた。


彼は一階の職員室へは戻らず、そのまま三階の美術室へと向かっていった。


美優が教室の窓から僕と矢崎先生が話す様子を覗き込んでいた。

僕と彼が別れるのを見届けるや否や、勢いよく僕の元へ駆け寄ってきた。


「何かあったの?」

「…なんでもないよ」

「矢崎、陰険よね」

「…そうでもないさ」

「え? 矢崎を庇うの?」

美優が不思議そうに眉をひそめる。


「庇ってるわけじゃない」

「じゃあ、どういうことよ?」


――やっぱり、美優には隠し事なんてできない。


「……矢崎、僕をモデルにしたいって」

「え、それ受けるの?」

「まだ、分からない」


「やめておきなよ。矢崎、前の学校で問題を起こしたって噂、聞いたことある? 雪哉にもしものことがあったらどうするの。私……なんだか、とても心配」


美優の声が、少し震えていた。

女の子特有の鋭い勘。

僕のために、直感で危険を感じているんだろう。


「大丈夫だよ」


この時の僕の“大丈夫”は、僕の気持ちが先走っていたような気がする。


――ただ、僕の心を絵に書いて欲しい。

そして僕は…先生に対しても揺れ動いている。


「……でも、気をつけてね」

「うん、わかってる」


美優は、いつだって僕のことを一番に心配してくれる。

だけど、僕はこれ以上のことを――彼女に言えなかった。


――矢崎先生に惹かれているなんて、言えるわけがない。


初めて、美優に隠し事をしてしまった。

これを“嘘”と呼ぶのか、僕には分からない。

でも――彼が何かに囚われて苦しんでいるのは、僕には分かる。

あの積極的な彼が、時を止めるほどに思い悩んでいる。

その苦しみを、今の僕なら、きっとわかってあげられる。


――今度は僕が、彼の影を、僕の手で消してあげたい。


そんなこと、彼女には口が裂けても言えない。

だけど、僕の恋が動き出したことで、色々な恋の形に触れてみたいという欲も芽生えていた。

どうしようもなく、恋が知りたくなっていた。

恋が、もっと知りたくてたまらなかった。


退屈な授業が終わり、僕は階段を上がって、三階の美術室にたどり着いた。

緊張と期待が入り混じる。


ドアをノックする。

「どうぞ」


――先生は、僕より早くこの美術室にいた。

扉の向こうは、放課後の光が届かない、少し薄暗い空間だった。

イーゼルとキャンバスの匂いが混じり合い、静かに空気が揺れる。


「先生、僕の心を覗いてください」

「随分と積極的じゃないか」

「もう、僕の臆病な恋は終わりました」


「それは……先生のせいか、それとも、彼のせいか?」

核心を突く問い。

やっぱり、この人はずるい。


「……両方です」

「贅沢な恋だな」

「はい」

「その彼は、優しいだけじゃないのか?」


「……それを、僕の言葉じゃなくて、先生の感覚で確かめてください」

僕の目は、逃げなかった。

先生が静かに歩み寄ってきた。

距離が、近づく。


「では……雪哉の心を探らせてもらうよ」


彼の指先が頬に触れた瞬間――

胸の奥がざわつく。心が震える。


そして、先生は、そっと僕の唇に指を当てた。

柔らかく、確かめるように。

そのまま――近づいてくる。


「……やめてください」


小さな声で言ったのに、先生はそのまま、僕の顎に手を添え、そっと唇を重ねてきた。


柔らかい。

けれど、それはどこか、大人の支配のようなキスだった。


「せん、せい……」

言葉にならない。

戸惑いと、恐れと、なぜか消えない高鳴りとが、混ざり合っていく。

身体の力が抜けて、心だけが暴れそうだった。


――恋とは、奪うもの。

そんな大人の恋が、唇を通して僕に囁いてくる。


「雪哉。君はまだ、恋というものが何もわかっていない。

恋とは……時に奪うものなんだよ」


彼の声は、まるで罰のように、甘く苦い。


「さあ――先生の課題に取り組んできなさい。

君が変化していく心を、僕はもっと描きたい。

どちらを選ぶのか……それは、自分で決めるんだ」


そう言って彼は、静かに、美術室を後にした。


先生の背中が、ひどく遠くに感じられた。


――僕は、恋をしていた。

航に…。


でも、いま――この唇は、先生の味を知ってしまった。


僕の中の「純粋な恋」が音を立てて崩れ、

代わりに芽生えたのは、抗えない欲望と怖さ、そして――不思議な高揚感だった。


――こんなの、恋じゃない。

でも、僕の身体は、先生の熱を覚えている。


…やめてほしかった。

でも、それって本心…嫌いになれない。

僕は、どうして……。


航に、触れてほしいと思っていたのに。

触れられたいと思ったのは、あの人じゃないのに。


彼のキスが、僕の中の“何か”を解放してしまった。

それが恋か、支配か、それとも芸術への憧れか――僕には、まだ分からない。

それでも今、僕の唇は、先生の味でいっぱいだ。


一人残された僕は、彼がこの部屋で書いていた絵に目を奪われた。

そこには、抱き合う僕と彼が描かれていた。


これまでの鉛筆や重たい油彩とは違い、その絵は水彩で淡く、柔らかな色で滲んでいた。

抱擁はどこまでも静かで、どこまでも優しかった。芸術としての美しさがそこには確かにあった。


けれど、じっと目を凝らして見るうちに、僕はその中に込められたメッセージに気づいた。


僕が、彼の上に覆いかぶさるように描かれていた。

それはきっと――

彼が僕の中に芽生えた感情を、もう知っていたということだ。


彼が再びこの美術室に足を運んだ理由。

彼はきっと、僕にこの絵を見せたかった…。


淡い水彩のにじみが、紙の上にそっと息づいていた。

柔らかな色彩の中で、僕と彼は静かに抱き合っている。

油彩の重厚さではなく、水彩特有のあいまいな境界が、夢の中のような親密さを滲ませていた。


――何故だろう。

僕は、絵を見るたびに彼に惹かれ、

無意識に彼のサインに従いたくなる。


――先生にもう一度、問いたい

僕は、一途な恋に憧れる。

でも、これが火遊びだったとしても、

今の僕は…

受け入れてしまう。


その時、先生は、僕をどうしたいの…。

それは、航から僕を奪うほどの激しい恋?

それとも、航と同じ優しい恋?

それとも、ただの遊び?


――僕は、どんな結末を望んでいるのだろう。


それさえも、もう自分で決められなくなっていた。


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