第五章 暗いトンネル
第五章をリニューアルしました。
外に出ると、辺りはもう薄暗くなっていた。
ほんのさっきまで、美術室の窓から見えていた夕焼けは、
すっかり夜に飲み込まれようとしている。
――今日は、もう、航の電車に乗れない。
胸の奥に、まだ熱が残っている。
あのとき、触れた指先、重なった視線。
先生の声が、今も鼓膜の奥に残っていた。
――僕は恋を知らない。
それなのに今、百戦錬磨の大人たちと、恋の駆け引きを繰り返している。
それが、なぜか心地よくて――でも同時に、怖さも感じる。
いや、"怖さ"という表現は正しくない。
"危険"という言葉のほうが、ふさわしいのかもしれない。
恋をよく知らない僕は、
彼が“素”の一面を僕だけに見せてくれたことに、
嬉しくもあり、また、切なくもあり、この、熱を帯びた身体を冷まさないと――
僕は、どうにかなってしまう。
……彼を、好きになってしまいそう。
――でも、ちょっと待って。
駅に向かっていた足が止まる。
――まだ、僕は、何もしていない。
まだ、航の気持ちを確認してもいないのに……何を考えているの。
このまま、大人たちに翻弄されたまま、
流されるような恋が、僕の描いた恋だっていうの?
――違う。
僕の夢見る恋は、一途な恋のはず。
今朝までは、そこに何の疑いもなかったのに……
彼の意外な一面に、僕の心は揺れ動いてしまった。
……まだ、身体が火照っている。
――大人の魅力を、存分に見せつけてきたのは……
矢崎先生。
先生は、僕をどうしたいの。
火遊びのつもりなら――
……近寄らないで欲しい。
だって、僕は、恋がしたい…。
ガタンコトン、ガタンコトン――。
19時24分発の電車に乗ろうと、上着のポケットに手を突っ込む。
定期券を取り出して、改札口を――
――ない。
たしかに、入れたはずだったのに。
……どうしよう。
「あのー」
僕は駅員に声をかけた。
「どうかしましたか?」
「定期券を落としてしまって……こちらで、預かっていませんか?」
駅員は、無言で忘れ物が詰まったBOXをゴソゴソと探りはじめた。
「……ありませんね」
「そうですか……」
仕方なく、僕は切符を買った。
* * *
濃い一日に翻弄され、僕は家に着くなり、ベッドに倒れ込んだ。
目を閉じると、不意に思い出す――
キャンバスの中、唇だけが赤く染まる、あの絵。
――あれは、僕への秘密のサイン。
……そう思いたいだけなのかもしれない。
それでも、妄想だけが、どんどん膨らんでいく。
「はぁ」
今日、僕は、いったい何度ため息をついただろう。
今度、彼が髪に触れてきたら――
どうすればいいかわからない。
もし、背中に手を回してきたら、僕は……きっと、拒めない。
「はぁ……」
まるで答えの見えない暗いトンネルに、迷い込んでしまったようだった。
* * *
穴水駅を出ると、列車はすぐにトンネルへ入る。
暗闇を抜けた先には、日本海――水平線が穏やかに広がる。
僕が見る日本海は、波穏やかな内海。
けれど、そんな内海でも、ときに荒れ狂う波が岸を打つ。
――それが、日本海。
荒々しさと、穏やかさをあわせ持つ海。
僕の心のトンネルは、まだ暗いままだけれど、
明るいトンネルなんて聞いたことがない。
怖いのは、暗闇じゃない。
その先に広がる、恋の景色――
いったい、どんな風景が待っているのだろう。
穏やかな恋であってほしい。
それとも、身動きがとれないほど激しい恋であってほしい。
……たぶん、僕は、どちらも望んでいる。
だから、抜け出せない。
あるいは、抜け出したくないだけなのかもしれない。
彼――矢崎先生は、
そんな僕を、強引にトンネルの外へと引っ張り出そうとしている。
その内面の激しさに、僕は戸惑っている。
でも――
航が、先生のように大胆な行動をとるはずがない。
このまま、遠くから憧れ続けている間に、
僕の心は、いつのまにか彼に奪われてしまうのかもしれない。
……航。
あなたも、
あの人のように、
僕を――この暗いトンネルから、
強引に救い出してくれたらいいのに。
僕は膝を抱えながら、寝返りを打った
次の瞬間――
信じられない想いが、ふと頭に浮かんできた。
――だったら……僕が、航に告白しよう!
待っているだけじゃ、航はきっと、僕に告白なんてしてこない。
もう……待っている時間は、ない。
それは――
彼の情熱を、感じてしまったから。
この熱を帯びたまま、
何もせず立ち止まり続けることなんて、もうできない。
僕は、自分の意思で、長いトンネルを抜け出したい。
そして、次に先生が僕の心を覗くときには、
臆病な恋に留まっている僕じゃなくて、
恋の変化をちゃんと受け止めた、成長した僕を見てほしい。
それは、臆病な僕に失望する彼の顔を見たくない、という気持ちもあったけれど、
それ以上に――僕が前に進もうとする姿を、
彼ならきっと、受け入れてくれると信じられたからだ。
先生もまた、あれほど大胆に見えながら…
過去の恋を引きずりながら…
一年近くも、僕を思いながら前に進めずにいたと…教えてくれた。
――だから今、僕たちは、
違う場所から、同じ出口を目指している。
最悪のことばかり考えて、
ずっと暗いトンネルに留まり続ける僕じゃ、何も始まらない。
たとえその先に待っているのが、最悪の結末だったとしても――
そのときは、ちゃんと航を過去の人として受け止めて、前に進む。
僕も、先生も、恋に悩む場所は、
未来と過去で少し違うけれど、
今、この瞬間を生きる僕たちは、
それぞれの暗いトンネルを、抜け出そうとしている。
――それが、簡単なことじゃないってことも、わかってる。
でも、僕は、明日――航に告白する。
僕のために。
それから、彼のために。
能登は、東京に比べたら、きっと何もかもがゆっくり流れている。
……恋も、そうかもしれない。
――でも、
僕は、車窓にぴたりとくっついた桜の花びらみたいな、
そんな、ゆっくりとした恋がしたい。
それでもいいって、言ってくれるなら――
僕は、明日、告白する。
航に振られるのが怖くて、
ずっと今の関係に甘えてきた僕とは、明日でさよならする。
……それで、いいよね。
静かに、心が落ち着いていくのを感じながら、
僕は――知らぬ間に、朝まで眠っていた。