第四章 絵の中の秘密
第四章をリニューアルしました。矢崎先生の想いに翻弄される雪哉を描きました。ご評価を頂けると嬉しいです。
放課後。
昇降口を出た僕は、まっすぐ階段を上り、三階の美術室の前で立ち止まった。
――心が重い。
「嫌な予感がする」と思っている時ほど、案外その予感は外れない。
そう思いながらも、ドアノブを握る手には、ほんの少しだけ汗がにじんでいた。
コンコン、と軽くノックをする。
「失礼します」
「入りなさい」
扉を開けると、カーテンが閉め切られた薄暗い美術室の中で、矢崎先生がひとり、鉛筆を走らせていた。
その先にあるのは――
少年の裸の彫刻だった。
静かに、何かを確かめるように、彼は彫刻の輪郭をなぞっていた。
「学校が、つまらないのか」
突然の問いかけ。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「……そんなことはありません」
「じゃあ、どうして目がここにいない? 心が外ばかり向いている気がしてな」
――やばいかも。
矢崎先生は、僕がこの部屋に入ってから、一度も僕の顔を見ていない。
なのに、まるで僕の心だけを見透かしているみたいだった。
矢崎先生の29という年齢は、思っていた以上に“若かった”。
大人のフリをしながらも、どこかでいつも、自分自身と戦っているような。
――まるで、恋を知ったばかりの僕と、そう変わらないようにさえ見えた。
彼は、昨年、東京からこの能登の商業高校に赴任してきた。
当初は「都会の先生だ」と話題をさらっていたが、何も語らず、語ろうとしないその姿に、生徒たちの関心はすぐに冷めた。
今では、
「前の学校で不祥事を起こして、逃げてきたんだって」
そんな噂が、誰からともなく、まことしやかにささやかれている。
――近づかない方がいい。
彼がこの噂を知っているかどうかは定かではないが、身長178cmの細身で色白な容姿は、まるでその噂を裏付けるようで、正直、怖かった。
矢崎は絵の才能があり、時折コンクールで入選していると臨時放送で耳にしたことがある。
数学に至っては博士号を持っているらしく、赴任の自己紹介で「東京の大学で研究していました」と話していた。
でも、それはすべて――この商業高校では、宝の持ち腐れだ。
数学の授業をまともに聞いている生徒なんて、誰一人いない。
大学進学を目指す生徒もほんのわずかだ。
僕自身、大学にも、絵にも、東京にも興味はない。
つまり、僕と矢崎先生の間には、何一つ、接点がない。
僕は、彼のことを「インテリぶっていて、何か鼻につく大人」としか思っていなかった。
先生の授業中は、寝るか、内職するか、別のことを考えるか――それが常だった。
この美術部だってそうだ。
放課後になっても、誰一人、生徒が来ない。
たぶん、皆、あの重たい空気に耐えられずに辞めていったんだろう。
特別な才能を、誰もが持って生まれてくるわけじゃない。
僕なんて、この部屋に入ってたった五分で、もう苦痛を感じている。
「雪哉、先生も……学校は、とても退屈に感じる」
「はい」
――どうでもいいよ、そんなこと。
だったら、こんな田舎に来ちゃだめだろう!
「……先生は、君の絵を描いた」
その一言に、僕の胸がどくんと鳴った。
矢崎先生が差し出したスケッチには、僕の横顔が黒の鉛筆で繊細に描かれていた。
唇の部分だけが――まるで呼吸しているかのように、赤く、鮮やかに滲んでいた。
「この絵には……君の輪郭じゃなく、君の“息遣い”が必要だったんだ。
だから、描いても描いても……足りなかった」
彼はしばらく絵を見つめたあと、僕に目を向け、はっきりと言った。
「雪哉、――先生のモデルになってくれないか」
僕の鼓動が一気に早くなる。
僕なんかに……?
「僕なんか描いても……モデルが悪いって、笑われるだけですよ。もっと、かっこいい生徒なんて、たくさんいるのに」
気づけば、いつものように、殻に閉じこもろうとしていた。
でも、先生はそれさえも、見透かしていたようだった。
「雪哉。先生が生徒を描いたのは、随分と昔のことだ。
あの時、恋をしていたことを……君に出会ってから、ずっと思い出していた」
――君に出会ってから、ずっと。
その言葉が、胸の奥に刺さった。
息をするのが、少しだけ苦しくなるくらいに。
「雪哉。退屈な学校を抜け出して……二人だけの秘密を作らないか?」
彼の指先が、そっと僕の手に触れた。
長くて、細くて――
その繊細な指が、まるで僕の心の奥をなぞるように動く。
「……やめてください」
そう言ったのに、声は震えていた。
「雪哉。君はいま――恋をしているな?」
先生は僕の指を握り、そのまま囁くように言う。
「手を、握り返してごらん」
僕の心に、何かが落ちる音がした。
指先だけが熱くなって、意識とは裏腹に、僕は彼の手を握り返していた。
「そう……もっと強く」
――言われるままに、僕は力をこめた。
折れそうな先生の指に、僕の感情が乗る。
「どう? 雪哉は、何を感じてる?」
彼は静かに僕を見つめていた。
「……先生。僕には、好きな人がいます」
声に出した瞬間、胸の奥に火が灯ったような気がした。
「それはわかってる。でも、先生は……君のすべてを知りたい」
――拒否しないといけない。
わかってる。
でも、この人は、僕の“今”の揺れを……すでに知っている。
「雪哉。モデルになってくれるかい」
そう言って、先生は僕の手をそっと離した。
そこに、強引さはなかった。
――先生は、君の揺れ動く心を、描きたい。
僕は、小さく頷いた。
火照った身体を抱えたまま、美術室を出る。
廊下の窓の向こうで、夕焼けが校舎のガラスに揺れていた。
その光が、胸の奥まで、静かに染みてくるようだった。