第二章 退屈な学校
第二章をリニューアルしました。
第一章は片思いを抱く電車の中のシーンとし、第二章は退屈な学校に引き戻される登校シーンと授業シーンを書き上げました。
読んで頂いたコメントやご評価を頂けると嬉しいです。
僕は駅から、ゆるやかな坂を歩いている。
朝の光に包まれながら、400メートルほど先に見える校舎に向かって。
頭の中には、さっきの言葉がずっと残っている。
「雪哉。帰りは18時48分。僕の最後の勤務だ。
もしよかったら……帰りも、僕の電車に乗ってくれると、嬉しいな」
ああ、まだ夢の中にいるみたいだ――。
そんなふうに浮かれていた僕を、現実が急に引き戻してきた。
「付き合ってくれませんか!」
背中から飛んできた声に振り向くと、女子生徒が立っていた。
俯きながら、小さく震えている。
「……ごめん」
そう言った瞬間、彼女の顔が見る見るうちに曇っていく。
――また、だ。
何度目の告白だろう。
この学校では、どうやら僕は「ちょっと気になる男子」らしい。
でも――僕は、女の子に興味がない。
「雪哉っ!」
ぽん、と肩を叩いてきたのは、海野美優。
この学校で唯一、僕の“こと”を知っている存在。
「なれなれしく肩なんか叩くなよ」
「じゃあ、さっきの子の方がマシってわけ?」
「……違うよ」
僕の返事に、美優はため息をつく。
「ほんと、空気読みなさいよ。女子を好きになれとは言わないけど、ああいう態度はどうかと思うな」
「仕方ないだろ」
「だったら男子校に行けばよかったじゃん。まあ、雪哉のことだから、どこ行っても変わらない気もするけど」
「……僕、汗臭い男は無理」
「……はあ。ほんとよくわかんない」
美優は肩をすくめる。
「でもね、少しは“配慮”ってもんを覚えたほうがいいと思う。
この学校、女子ばっかりなんだから。私が雪哉のことわかってても、周りの子たちは傷つくかもしれないでしょ?」
彼女の言葉が、じわじわと胸に刺さる。
全部が間違っているわけじゃないから、余計に。
「……わかったよ」
僕はうつむきながら答える。
さっきまで心に灯っていた温かな余韻が、嘘みたいに遠ざかっていく。
まるで、春の陽射しが雲に隠れたように。
そのまま、何も言わずに校門をくぐった。
――やっぱり、授業なんて退屈だ。
僕は、教科書もノートも完全に無視して、窓の向こうの桜を見ていた。
グラウンドの端に並ぶ木々は、まるで風に溶け込むように、淡いピンクをふるわせている。
ひらひらと舞う花びら。
陽射しに透けたその色に、心がふっと緩む。
朝のことが、まだ胸の奥に残っていた。
「雪哉。帰りも、僕の電車に――」
あの声が、まだ耳に残っている。
だけど。
「佐藤。授業中にどこを見ている」
その声は、背中に刃を突き立てるように鋭かった。
矢崎先生の声が、教室中に響いた。
数学教師で、美術部の顧問。
東京から来たという経歴と、どこか浮いた雰囲気。
――生徒たちから“何かある”と噂される存在。
「放課後、美術室まで来なさい」
淡々とした声に、空気がピリつく。
(先生……僕と二人きりで、絵でも描かせたいの?)
そんな余裕ある皮肉が頭をよぎるけれど――
今の僕の中は、朝の出来事でいっぱいだ。
矢崎に気を回す余裕なんて、あるはずがない。
「先生、今日は大切な約束があるので、無理です」
自分でも驚くくらい、あっけらかんと答えた。
言った直後に、これはまずかったな、と思う。
案の定、教室はざわめきに包まれる。
数人が笑いをこらえてうつむく。
誰かが「マジかよ」と小声でつぶやいたのが聞こえた。
「……どんな約束だ」
矢崎先生は笑わない。
ただ、黒板の前から動かずに、僕をじっと見つめていた。
その眼差しに、僕は凍りつく。
なんだろう。
ただ叱ってるんじゃない。
何かを――深く、見透かされているような気がする。
言葉が出ない。
約束が“電車に乗る”ことだなんて、口が裂けても言えない。
矢崎先生は静かに、チョークを黒板の縁に置いた。
「……放課後、美術室に来なさい」
それだけ言い残し、ゆっくりと教室を出ていった。
残された空気が、ざらりと背中を撫でていく。
――ただの注意じゃない。
先生は、何かを探っている。
僕の中にある、“何か”に触れようとしてる。
そして、僕は――
触れられたくないはずのその“何か”に、
ほんの少しだけ、胸がざわめいた。
「雪哉、なにやってんのよ……!」
美優が席を立って、僕のところへ駆け寄ってきた。
「本気で先生、怒ってたじゃない!」
「……嘘じゃないんだ」
僕はうつむいたまま、答えた。
視線をあげると、美優の目がまっすぐに僕を見つめていた。
「だったら……どんな約束なの?」
ちょっとだけ、迷った。
だけど、嘘はつきたくなかった。
「18時48分の電車に乗る、って約束したんだ」
「…………は?」
美優が絶句する。
その瞬間、教室のあちこちから、くすくすと笑いが起こる。
「え、電車と? “電車”と約束? なにそれ」
誰かが、半分笑いながら声を上げた。
「マジかよ、あいつ……」
低く押し殺した声が背中越しに刺さる。
僕は拳を握る。
――なんで、笑うんだよ。
僕にとっては、大事な約束なのに。
胸の奥でずっと大切にしていた、その想いを。
でも……これ以上は言えなかった。
「……もういいよ」
席を立った僕は、教室の扉へ向かう。
そのとき――チャイムが鳴った。
けたたましく、けれど、どこか遠く感じる音。
その音が、今の僕と、クラスの笑い声との間に、
薄い壁を作ってくれることを願いながら、
僕は扉を開けた。