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金木犀という出会いの束の間

作者: 海上

「価値観が同じという共通点に惹かれただけの私たちは、きっと本物にはなれない」




 クリスマス近く、私は梶谷(かじたに)和透(かずと)に別れを告げる。

 単純に想いの違いを感じたからだ。私は今でも彼が好きだし、彼も私を好きだと言う。けれど好きの意味や形、重さがなんとなく違う気がしていた。

 そう感じ始めたのは或るドラマ撮影のクランクイン時。彼は自分の癖を曝け出すようになっていた。

 演者としての学ぶ姿勢を保ちながら作品の構成を嫌ってしまう癖を、彼はオープンにしていた。  

 いつもならば、ドラマ撮影の仕事があるときこそストレスが溜まりに溜まった顔つきをしているのに、新しく撮影しているドラマに向かう日だけは楽しそうな顔をしているのだ。それは好きな地平線を愛おしそうに見ているような表情、ひとことで言うならば「恋をしている表情」だ。

 あの顔は私と出会ったときにもしていた気がする。


 梶谷和透と出会ったのは三年前の撮影現場だった。

 彼は演者として台本を読んでいて、私はスタッフのアルバイトとして手伝いをしていた。

 芸能人を間近で見られるという好奇心で、野島(のじま)結衣(ゆい)と自分の名前や学歴を丁寧に書いた履歴書を提出し見事に採用されて期待を胸にアルバイトをしていたが、あのとき出会った彼はまだ生まれたての新人俳優で、私はひどく幻滅をした。

 しかし彼は秀逸だった。無知な私でも売れるだろうと感じていた。新人にもかかわらず、もう何年も売れているような演技だった。ダメ出しのカット数や台詞間違えも非常に少なかった。

 彼は間違いなく売れるだろうし、その典型的な演技によって売れなくなるのも早いだろうとも思った。

 撮影が秋だったもので、近くに立っている金木犀が揺れて香りが流れてくる。

 こんないい香りを、あのステディカムは記憶できない。カメラも、いつかその景観とともに香りをも撮ることができればいいのに。香りだって見えないだけで雪のように降っているのに。

 金木犀の揺れを見ながら香りを肺いっぱいに吸い込んでいると隣に梶谷和透が立っていた。

「香りが降ってる」

今思えば、私はもうこの瞬間で、彼に惹かれている。それなのに、この頃の私はその熱に気づけないのだ。

「雪みたいにですか?」

「そうです。灰雪みたいに」

売れると思った。そして、売れなくても彼は成功するだろうと私は贔屓(ひいき)に感じていた。

 彼は私の雪発言を聞いたあと、驚いた目で私を見ていた。

「分かります?」

「分かります。香りって見えない雪みたいですよね」

「そうなんです。金木犀は秋の灰雪みたいです」

「『漂ってる』とかじゃなくて『降ってる』って言っちゃいますよね」

「僕の思考力と双子ですか?」

私と彼は灰雪のような金木犀の香りを背景にして微笑み合った。価値観の似たもの同士、仲良くなる速度は一瞬だった。撮影が始まれば演者とスタッフになり、休憩が始まれば友達の関係に変わる。そんな流れを繰り返すことで、私たちの仲は恋人同士に発展していた。


 アルバイト期間が終わった頃、私は彼と同棲を始めた。

 彼と共に暮らし始めると、一日過ぎてしまうのが早く感じる。同じ趣味に没頭して、同じジャンルの本を読み、同じ音楽を聴きながら、互いの好きを共有する。まだ知らないことを見つけると、互いに真似をして「同じ」を増やしていくのも楽しいものだった。どう考えても、一日が二四時間なんて、私たちには足りなかった。

「結衣、地平線って好き?」

「地平線とセットになってる建造物が好き」

「いいよね、あのでこぼこ感」

「和透くんいつも地平線見てるよね」

「いつか辿り着けるかもしれないって可能性が見えるから好きなんだ」

彼のその眼差しは人を魅了する。地平線がある限り、彼という存在は生き続けるだろうな、と思った。


 彼は段々と売れ始めた。肉眼で見るよりも、画面越しに見る方が増えたと言えば、彼の多忙さや私たちの会う頻度が分かるだろう。

 久しぶりに帰ってきた彼とは必ずセックスをした。価値観の共有よりも、満たされたい欲を優先していた。

 そのあとはベッドでくっついて、裸のまま、離れている間の日常を語り合った。彼の地平線を語る眼差しは、少しも変わらないまま、素敵で在り続けていた。

「ねえ、和透くん」

「どうしたの」

「私ね、小さい頃から左胸を触ると憂鬱を感じるの。水中にいるみたいに耳がこもってね、胸がズキズキ痛みだして、明日という存在に圧死しそうになるんだよね」

「僕が隣にいるときは絶対に阻止するね」

「ありがとう」

「僕はね、台本の構成が嫌いなんだ。でも吐きそうになりながらも演じなきゃいけない。この感覚は誰も分からないから昔から撮影が楽しくないんだよね」

彼の台本を嫌ってしまう癖を知ったのは満たされたいが為にしたセックスの後だった。私が悩みを明かしたお返しのように打ち明けた彼の悩みに胸が痛くなる。私が言わなければ貴方は言わなかったのだろうか?そんな大事な悩みを言わずに秘めておけるのだろうか?言ってくれたらよかったのに。

 同業者ではないから、貴方の痛みに「分かるよ」とは頷けない。ただ私は彼を抱き締めた。何も言わずにしっかりと抱き締めた。

「こんな演者、嫌にならない?」

「嫌いになんてならないよ」

「ありがとう」

それからキスをして、天井を見ながら出会った頃のように灰雪のような金木犀の香りについて話をした。

 「漂う」とか「降る」とか香りの表現の差異について話す彼を見て、守ってあげなければ、と気を強く持った。


❇︎


 ある日から水平線の画像を見る彼がいた。

彼曰く、共演者のことを知るために見ていると。ウィキペディアじゃなくていいのだろうかと思った。そんな彼はヤフーの画像を見たあとにユーチューブを開いてサーファーの一人称視点動画を見ていた。

「それ、綺麗だね」

「うん、素敵だよね」

新しいドラマ撮影の仕事をし始めてから、私の知らない彼を何度も目にしている。その度に胸が痛くなる。

 彼は地平線を愛しているのに、今は水平線に熱を注いでいる。少しだけ、考え方があやふやだったのに今ははっきりとしている。何よりも、ドラマ撮影に行くのが待ち遠しいという顔をしているのだ。遠足に行く小学生の前夜みたいに、彼はそわそわして眠れない夜を過ごしていた。

 変わってしまったなと思った。ただそれだけを彼に思った。

「共演者はどんな人?」

佐山(さやま)詩子(うたこ)さんと言ってね、独特な人」

「撮影楽しい?」

「不思議とね、楽しいんだよ」

「それはよかった」

彼が楽しんでいるのならそれでいい。私と出会ったときの灰雪のような金木犀と、香りについての言葉選びを忘れていないならそれだけでいいんだ。

「和透くん、好きだよ」

「僕も結衣が好きだよ」

惹かれた熱には気づけないくせに、言葉の重みの違いには即座に気づけてしまう。この違いなんて要らないのに。

 気分が落ちてしまいそうになった私は気づかぬうちに左胸を触っていた。

 どんよりとした雲が私の頭上に集まってくる。水中にいるみたいに耳がこもってくる。胸がズキズキ痛みだして、途端に明日の存在が大きくなる。全てが不安になってくる。今は彼との言葉の重みの違いで圧死しそうだ。

「結衣」

隣にいた彼が私の手を掴んでゆっくり胸から遠ざけた。彼は憂鬱に浸ろうとした私を阻止してくれた。好きだなあと改めて思った。それと同時に、離れてしまわないとなあと思った。

 その日の夜はセックスをした。彼は明日も撮影だけど、私は満たされたかった。離れるために、満たされないといけなかった。

 自分の自己中心的な考えのために、キスをいっぱいした。初めて会った日のことから今までのことを思い出しながら激しくて忘れられないようなキスをした。

「和透くん、明日も撮影楽しみ?」

「うん、楽しみだよ」

「それはよかったね」

「結衣、なにかあったの?」

「なんでもないよ」

「結衣、月並みだけど、好きだよ」

「うん、私も好き」

この頃にはやっぱりもう、好きの意味や形、重さがなんとなく違うみたいだったね。


 街にある光の多さでクリスマスが近いことを思い出す。

 ドラマの撮影がクランクアップした彼と夜の街を歩いていく。撮影が全て完了したお祝いの花束を持って帰ってきた日、撮影が終わってしまったことが悲しくて仕方がないような表情をしていたことを、彼は気づいていないんだろう。私は嬉しくて仕方がなかったんだけどね。

 マスクをして黒い帽子を深くかぶっている彼の少し後ろをついて歩く。数歩進めば振り返る彼が心の底から愛おしい。

 心の中で何度も好意を伝える。そして何度も彼の返事を要求した。返ってくるわけないんだ、口に出して伝えていないのだから。

「結衣、あのデパートに入ろう」

「うん、入ろう」

密売人同士のように小声で会話をして他人のようにデパートへ入る。

 クリスマス限定の飾りがついた色とりどりの食材を見て美味しそうだねと会話して、本屋さんの新刊コーナーを見て互いに目を輝かせる。近くにあったカフェで紅茶とコーヒーを買ったあと、私たちはデパートを出た。

 室内と屋外の寒暖差が激しい季節に吐いた息は真っ白だ。そこへアツアツの紅茶を流し込む。彼は私が飲んだタイミングを見計らってコーヒーを飲んでいた。

 人がいない道を選んで歩き、角を曲がれば手を繋ぐ。このときに、私たちはやっと隣に並べてやっと同じ歩幅で歩けてやっと密売人同士のような会話をしなくていいのだ。

「星が綺麗だね。地平線の上で輝いてる」

「水光も綺麗だよ。水平線といい共存してる」

「本当だね。和透くん、好きだよ」

「僕も好きだよ」

「私たち別れようか」

「どうしたの」

「さっき、出会った頃から今までのことを思い返してたんだ」

「うん」

「知ってた?私たちは金木犀に釣られて出会ったお互いに陶酔していただけなんだよ」

「違うよ」

「私ね、本当は地平線の良さなんて分からないんだ。和透くんが好きだから好きになっただけだよ。それなのに和透くんは水平線が好きになっちゃっていてさ、それじゃあ私は地平線を好きにならなくていいじゃんってね」

「僕は水平線の良さに気づいただけだよ。そんなふうに結衣も知ろうと努めてくれたんでしょ?これから一緒に写真でも撮りに遠くへ行こうよ」

「和透くんはね、詩子(うたこ)さんが好きなんだよ」

私の言葉に彼の身動きが止まり、驚いた目を見せた。出会った頃のように、(あたか)も本心を貫かれたような表情で。

「本物の『思考力が双子』の人を見つけたんだよ」

私だって貴方と思考力が双子なはずだよ。だけど本物にはなれないし、全てが同じであると胸を張れない。

 好きだからこそ、彼が幸せになってほしいと願う。だから、私たちの恋をしていた日々が本当の幸福の前の踏み台のような束の間で在ったとしても厭わない。それは本当に貴方が好きだからよ。

 灰のような雪がひらひらと降り始め私たちを包み込む。この雪は本当は金木犀なのではないかと思った。金木犀の香りが肉眼で見えたのではないか、そうすれば私たちが言っていた「香りが降っている」という表現は本物になる。そんな思考が一緒だったら、私たちだって、きっとこれからも。

「今なにが降ってるの?」

私の問いかけに彼は不思議な顔をして夜空を見上げてからゆっくりと目を見て「雪が降っているよ」と返事をした。

 もう私に「恋をしている表情」なんて見せてはくれない貴方、水平線を見ているときにはそんな表情をしているなんて、いつ気づくのだろうか。

 貴方にとっての本当の幸せが近くにあるということを貴方以外には見えていても、助言なんてないのよ。それが人生の廻りなんだろうね。

 彼のいない方へ歩く私にも、これは金木犀の香りには見えない。想いが違うから、見えなくなったんだろうね。陶酔って不思議な力だね。

 一人と一人が離れていく辺りにはあの甘い香りのない、素朴な灰雪が降り続けていた。



 

 



 同じものばかりに惹かれていた者同士は、いつか同じということに欠点が出てきてしまうよねと思いながら物語を書きました。(同じだけど同じじゃないって、それだけの世界でいたから審査が狭く小さくなっちゃうというような。)

 世界は広いから、いつかは目移りしちゃう。そんな精神で人生を見直さないとなって思いました。ときには大人ぶった妥協や寛容だって必要。

 そんな見方をしたことで、野島結衣は小さな籠から脱却できたのだから。

 皆さんは、金木犀などの甘くて強い香りを何に例えるのでしょうか。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  お互いの共通点や感覚で惹かれあっても、いずれすれ違ってしまう。同じものと思っていたら実は全然違うものだったりする。男女とは結局のところ、そんなことの繰り返しなのかもしれません。本作品では…
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