朝を泳ぐ風
四話です
そよ風がライアンの髪を優しく撫でた。扉からの隙間風ではなく、確かに大きなリュックから風が吹いているのだ。
「———『異風』っていう魔法なのか」
「そうだよ。『エアロ』」
二人がその言葉から連想したものは異なるものだった。しかしライアンは驚かなかった。なぜなら、目の前にいる少女自体がこの世の神秘そのものであったからだ。
そよ風がただ吹いただけではなく、ライアンが持ち上げられない程の重量のリュックがふわりと宙に浮いている。重力がなくなったようだというよりは、風がリュックを持ち上げているようだった。
「すごいな、これ。……ほんとに浮いてやがる」
「そうかな?」
そう言ってエイミーはリュックを台所の方にそっと押した。するとゆっくり一直線に動き出した。まるで風船のようだった。リュックは台所の前で止まると、思い出したようにドスンと床に落ちた。
「ごめんね!じゃあまた座って待っててね」
「分かった」
ライアンは言われるがままに行儀よく椅子に座った。エイミーという少女には謎の力があると彼は思った。彼女には何故か逆らえない。青い瞳に見つめられるとつい従ってしまう。この家にほいほいと付いてきてしまったのもそのせいだ。それも魔法だとでもいうのだろうか。ライアンは自嘲気味に口角を上げた。
エイミーは大きなリュックを開き、中からガラスのボトルを取り出した。中の液体を小鍋に注ぎ、またリュックの中をごそごそと探り出した。
「それはなんだ?」
手持無沙汰になったライアンは、エイミーに問いかけた。
「ん?ただの水だよ」
「水は魔法では出せないのか」
「あぁ……。出せるけど、多分美味しくないよ」
「そういう問題か」
エイミーはまた作業に戻った。ライアンは退屈を紛らわすために部屋の中を観察することにした。しかし、何度見まわしても殺風景が広がるだけで、面白味は感じられない。気になることとすれば—————
「エイミー、あっちは何の部屋だ?」
家具がほとんどない部屋の中で目に付いたのは、ライアンの座っているちょうど前にある、何かの部屋に通ずるドアだった。
ライアンはもう何を言われたとしても驚かないだろう。彼は既に『光源魔法』や『浮遊魔法』という世界の神秘に短時間で触れた。例えその部屋の中が、人体実験を行う危ない手術室であろうが、ドアを開けば異世界に通じていようが、驚かないと心に決めた。
「ん?寝る部屋だよ」
「へ?あ、そうなの」
今日何度目かの拍子抜けをした少年の姿がそこにはあった。
ライアンは手持ち無沙汰になって、エイミーの料理をする後姿を呆然と見ていた。
ライアンは誰かにご飯を作ってもらったことはない。盗んだ金で大衆食堂に入ることは稀にあったが。とても美味しいとは言えない料理ばかりであった。
今日であったばかりの少女にご飯を作ってもらうというのは不思議な気持ちであった。そして、まるで自分の恋人が料理を作ってくれているような錯覚に陥り、頬を赤らめた。
エイミーは何度かリュックを漁りながら食材を取り出し、収納式のナイフで小刻みに音を立てていた。その具材を鍋に放り込み、煮込んでいた。
ライアンは料理の完成を待ちながら『光源魔法』によって生み出された炎の揺れを目で追っていた。
エイミーの料理は意外にも早く完成した。
「できたよ!ライアン!」
「……ん?ふぁぁ……」
『光源魔法』の生暖かい温度と外で降りしきる雨の音のせいでライアンは眠気に襲われていた。大きな欠伸を掻いたライアンには家に入った当初の緊張の色はもうなかった。
「お母さんのお椀に入れるけどいい?」
「なんでもいいさ」
エイミーは戸棚の奥から木製のお椀を取り出した。そして手際よく煮え切ったスープをお椀に注いでいく。優しい匂いが部屋の中に充満する。
「食べよっか」
エイミーが両手にお椀を持つのを、ライアンは目を擦りながら見ていた。
「ほんとに美味しいです」
「どうしたの?声が高いけど。うふふ」
エイミーが作ったスープは山芋とニンジン、そしてよく市場で売られている乾燥した小エビの入ったシンプルなものだった。ライアンは暖かいものを食べること自体が久しぶりで、感動に浸っていた。
「はい、ただのパンだけど」
「ありがとうございます」
エイミーはバケットパンを取り出し、「なんでそんな話し方なの」と言いながら、パンを捻るようにちぎってライアンに渡した。
「あのさ、エイミー。お母さんはどうしてるんだ」
「お母さんは隣町で働いてるの」
「生きているのか」
「うん、そうだよ」
ライアンはエイミーを『異風』と呼ぶのには相応しくないと思った。既に家に住んでいる時点で違うのかもしれないが、母親が存命ならば尚更である。ただの貧しい家の娘であり、孤児ではない。ライアンは残念であった。自分とエイミーは同類だと思い込んでいたからだ。
しかし、ライアンにはまた疑問が増えた。エイミーは魔法や一般的な教養がなさ過ぎる。その理由はエイミーが『異風』であり、両親から話を聞いたりすることがなかったからだとライアンは解釈していた。魔法が使えるのならば、役所かギルド協会にでも問い合わすべきだ。エイミーの母がどういう人物かは分からない。だが、何らかの理由があってそれを隠しているのか、本当に世間離れした人なのかそれとも————
「お母さんの名前はマリアだよ」
エイミーはライアンの考えを見透かしたようにそう言った。
「……エイミー。もしかしてお前俺の考えていることが読めるのか?」
「うん、そうだよ」
「じゃあっ!俺がさっき新婚夫婦みたいだなぁとか妄想してたのバレてる⁉」
「そんなこと考えてたの?違うの。ほんの少しだけわかるの。魔法も使っていないのに」
ライアンは墓穴を掘ったことになった。
「それも、病気が治るときに?」
「そうだね。それまでは人が考えていることなんて分からなかった。今でも、悲しいとか嬉しいとかの強い感情しか分からないの」
でも、とエイミーは続ける。
「ライアンの考えてることはよく分かるの。雨に濡れてるとき『苦しい』って伝わって来たし、あたしのお父さんが死んじゃったって聞いたときは『心配だ』って伝わって来た」
「……そうなのか」
「あまりそんな人いないの。お母さんだって、考えていることは少ししか分からないの」
「……俺、名前を自分で言っていないのに、エイミーはライアンって呼んできただろ?だから信じるよ」
「あ、ほんとだ!すごいね!あはは」
すごいのはエイミーだろうとライアンは思わずつっこみたくなる。
「じゃあ名前全部は分かるのか?」
「いや、ライアンとしか分からないの」
ライアンは咳払いをして、改まった表情になった。
「俺はライアン・ベイ・グローリー。そのままライアンでいい」
「いい名前だね。私はエイミー・ミラー。エイミーって呼んでね」
打ち解けた二人を『光源魔法』で火をつけら蝋燭が照らしていた。
食事を終えた二人は暫く話をして、すぐに眠ることとした。
エイミーは同じベッドで寝ようと誘ってきたが、こればかりはライアンが拒否して、エイミーの母のベッドで寝ることにした。
目が覚めると雨は止んでおり、爽やかな風が窓の外を吹いていた。部屋の中は静か過ぎて、耳を澄ませば自分の鼓動が聞こえてくるほどだった。
それから時々ライアンはエイミーの住む家を訪ね、盗んだり拾ったりした物をプレゼントするようになった。エイミーは文字を書くことができなかったので、プレゼントは専ら子供向けの本ばかりになった。
一方のエイミーは、毎日大きなリュックサックを背負い山に生えている山菜や野菜を採りに行くのが日課だった。これまでは残った食材は市場で物々交換をしていたが、ライアンに手料理を振舞うためにしなくなった。
1週間に一度会って食事をしながら、ライアンがエイミーに様々なことを教えたり、エイミーが魔法を見せたりする。そんな関係が1年間続いていた。
盗みをしなければ生きていけないのは変わらなかった。しかしライアンの生活は確実にエイミーに彩られたものとなった。
エイミーとライアンの過去です