少年の夢とフエルト通り
二作目です!
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空は残酷なほど青かった。
彼は肩に掛けた鞄を下ろして、その場に座り込んだ。
彼の前には小柄な少女が青空のバックスクリーンの前、背を向けて立ち尽くしていた。
彼女の後姿は少し大人びて見えた。まるでいつもそうだと言わんばかりに。
彼はこの瞬間が刹那的だと思った。髪を靡かせる風は春風のように生暖かく、そして母親に抱かれているような、落ち着いた気持ちにさせる。
彼はすぐに悟った。ここは夢の中であると。
彼は夢から覚めぬことを祈りながら、瞬きをする。
「……君は一体誰だ?」
彼は少し悩んだ末に彼女に問いかけた。
「分からない。君には」
ガラスのように透き通った声で彼女はそう言った。その声音は悲しそうであった。しかし、その事実に少しの憤りもないようにはっきりとした声だった。
「私空から来たの。ここよりもずっと高いところ」
彼は彼女の話すことの意味が分からなかったが、何も言わなかった。
数分ほどの時が流れた。彼は「……そうだ」と呟いて、横に置いていた生地がくたびれた鞄の中に手を突っ込んだ。古びた鞄から引っ張り出してきたものは、一枚の紙きれ、手紙だった。
「僕はこれまで手紙を受け取ったことがなかった。一度もさ。だからとてもうれしかった。君がこれを寄こしてくれたのかい?」
彼女はゆっくりと振り向いて、柔らかな表情を覗かした。
「覚えていてくれたの……?」
噛み合わない会話だったが、彼らの心は通っていたのかもしれない。或いは、何一つ通じ合うことはなかったのだろうか。それは彼らのみぞ知ることである。
彼女の瞳から涙がこぼれ、その瞳の水面を隠すかのように両手で顔を隠した。それを見た少年は、何一つ声をかけることが出来ない。そのことから逃げるように、彼は泣いた少女から青い空に目線を移す。
世界は残像を残して消え去る。
「あぁ、覚えていたよ」
静かな声は残酷にも彼女の耳に届くことはなかった。
空は残酷なほど青かった。
路地裏の中、少年はふと立ち止まる。ふと目線を上げると待ち構えていたのは世界の終りのような青い空だった。そして彼はまた進みだす。人が二人通るのがやっとな、狭い路地を彼は歩いていく。
彼の生きる世界は歪んでいた。忙しそうに汗を流す兵士たちの横を、幸せそうな町人たちが通り過ぎていく。夜な夜なパーティーが開かれる王宮の傍で飢餓を嘆く者がいる。ほつれて皺だらけの布地の衣服を身に着けている彼には、それが歪みに見える。しかし丸々と肉をつけ、伝書鳩に恋文を持たせて「あぁ、あなたはなんと美しい」などと月光の中ほざく貴族連中には美しい、歪みのない世界なのである。歪みの正体が一体何なのか、まだ幼さの残る少年にはわからない。だが今自分の気持ちがこんなにも満たされないことが辛くて仕方がない。彼は唇を噛んでばかりいた。
少年の名はライアンと言った。ライアン・ベイ・グローリー。まだ十五歳の少年だ。
路地裏を抜けると大通りに出る。一気に視界が明るくなり、ライアンは眩しそうに空を仰ぐ。フエルト通りと呼ばれる道には大勢の人がごった返していた。休日は夜遅くまで人通りがまばらになることがないが、今日は平日である。それにしては人が少し多いように見える。
「ここまで多いとやりにくいな……」
小声でつぶやくが周りの喧騒に掻き消される。
ライアンは日銭を稼ぐために盗みを働いていた。羽振りのよさそうな男をつけて、こっそりと手荷物を盗むわけである。もちろん気付かれることは多々あった。その度に子ネズミのように走り、振り切る。足には自信があり、何よりこの路地裏は複雑で分かりにくい。古代迷宮のように入り組んだ路地裏は彼にとっての庭のようなもので、経路を完全に把握していた。町沿いの路地裏は標的を撒くに絶好のスポットであった。実際は古代迷宮というほどではないと彼は思っているが、町ゆく人々はそう呼んでいるのだ。大袈裟だなと彼は鼻で笑う。
ライアンは盗みを始めた頃に感じていた罪悪感や嫌悪感を未だに抱いている。しかし、身元もわからない彼を雇ってくれる者はどこを探してもいない。生きていくためにはものを盗み、闇市で安く売る他なかった。
しかし、最近は警備が厳重になっており、傭兵たちが治安警備を行っている。どうやら王宮の次期王子の結婚式及び披露宴の日が近づいているらしく、他国から来賓の貴族が往来するらしい。そのために治安維持が求められるのだろう。近日中にはさらなる厳戒態勢が敷かれる模様だ。ほとんどが風の噂で聞いた話で信憑性は薄いが、結婚式のお祝いの準備があるというのならば、フエルト通りの異様な賑わいにも説明がつく。この国の人々は何かと祭りごとをするのが好きで、季節が変わるだけで祭りを開催するのである。次期王子の結婚となれば、大騒ぎになるだろう。もっとも、王族嫌いのライアンにとっては、今日の星座占いの結果よりもどうでもいいことであった。
人の群れを横目に見ながら少年は考え込んでいた。
やがて、考えていても仕方がないと思ったようで人込みに交じって歩き出した。思った通り人がごった返していて、周囲の様子が分からない。彼の前を歩く背の高い男のせいで前に進むことさえ困難だった。ライアンはその背の高い男に目を付けた。着心地がよさそうなジャケットを羽織っており、気品を感じられる。さらに、偶然にも左腕に財布のようなものを挟んでいた。眉間に皺が寄る。軽く息を吐いて、ライアンは下半身を力ませた。財布に手を伸ばそうとした瞬間、彼の手が止まった。男の隣を歩いている少女の後姿になぜか見覚えがあった。
「(……あれっ?こいつどこかで見た気がする)」
ライアンが見覚えの正体に気付くのには、さほど時間が掛からなかった。
「エイミー?」
「はっはい!へ……ふぇ?」
ライアンが『エイミー』と呼んだ少女は、どこからともなく聞こえてきた自分を呼ぶ声にあたふたする。彼女は数回周囲を見回したのち、後ろを歩く呼び声の主と目が合う。
「ライアン!」
エイミーの眼にはなぜか大粒の涙が溜まっていた。
「ここどこぉ?」
フエルト通りの先には大広場があり、そこがこの街の中心地である。この街の名前はフェリオという。自然豊かな国ノルトザ王国の中心部に位置し、大勢の町人たちが密集して暮らしている。およそ二千年にわたるノルトザ王国の歴史の中でも重要な役割を果たしてきた街であり、今現在王国の中で最も発展している街である。東へ向かうと大きな海洋に面する港町へ、西は大規模な農場区を挟み、隣の小国カリオペに通ずる。南北には大きな山脈があり、街とは言い難い集落が多数形成されている。この地形は外敵からの侵入を幾度となく防いだ。
東の海の浅瀬には子魚や甲殻類などが生息しているが、港から船を出して航海に出ることはほぼ不可能である。なぜなら水深が深くなると、波が異様に高くなり、船を操縦するのはかなり難しくなるからである。船乗り殺しの海域である。この国の航海の歴史の中で、何度も勇敢な船乗りたちが荒波に挑んだが、生きて帰ってきたものは少ないと言われている。
このようなことが書かれている歴史書、地理書がもちろんノルトザにもあるのだが、その書物は何百冊もあるわけではない。その理由はこの国が平和であったためだろう。戦乱が少なく、天変地異が起きることなく国家が存続できていることは奇跡と言える。大陸の中で最も平和な国がノルトザである。
しかし近年になって、平和な国の中にも苦しい生活を強いられる者も多くなった。この国には極端な身分制度はないのだが、身元が分からない者に対して風当たりの強い社会である。戦争、事故、貧困などが原因で孤児となった子供たち。
彼らを人々は異風と呼んだ。
因みにライアンという名前は大リーグの『ノーラン・ライアン』からとっています。
そうです……野球がすきです。
エイミーという名前は……野球好きな人ならわかるかもしれません。