彼女にかかる面紗
「あなたはだあれ?」
声のしたほうに視線を向けると、その先にいたのはひとりの少女だった。
第一印象はただただ、ふつう。
なにしろ容貌が平凡なら髪色も平凡。表情もしぐさも、さらには瞳の色までも平凡と、つまりは何から何までふつうなのだ。
私はちょっとがっかりしながら名前を告げる。
すると、少女はこころなしか目を見開き、
「あなただったのですね。気がつかなくてごめんなさい」
父から話は聞いていたのに、と頭を下げた。
これが私と彼女の出会いだった。
その日伯爵である父に連れられて出向いたのは、父の古くからの友人である子爵の屋敷だった。
その子爵には、私より二つ年下の娘がいると父から聞かされていた。そして、私とその娘に話をする場を設ける、とも。
要するに、子爵邸への訪問は私と子爵の娘の将来的な婚約を前提とする顔合わせを目的とするものだった。
そして、さきほどの彼女こそがその娘だったのだ。
さて、初対面をすませた私たちは、庭を一望するテラスでお茶を囲んでいた。
さきほど二人で散策した庭は、こじんまりとした中にもしっかりとした意図をもって造られており、庭師のセンスや腕の良さを感じさせるものだった。用意されたお菓子も美味だったし、給仕の淹れたお茶もほどよい具合で、こちらもやはり子爵家の使用人の質の高さをうかがわせた。
そのいっぽうで、見た目がごくごく平凡な彼女は、話術もやはり平凡だった。たしかに、話題が途切れることはなく退屈はしなかった。主な話題は庭で見かけた小鳥や草木で、名前が分からないとこぼす彼女にその名前を教えて、博識でいらっしゃるのですね、と感激されることの繰り返しではあったが、会話に困ることもなかった。
とはいうものの、特に気の利いた言葉を発することもなければ、よく言えば穏やか、悪く言えば感情の起伏の乏しい態度にさほど心を動かされることもないまま、御いとまの時間を迎えた。
「どうだった。いい娘さんだっただろう」
宿泊先に向かう馬車の中でそう尋ねてきた父に、私はどう返答したものかと考え込む。
たしかに、けっして悪くはない。これといった欠点もない上に、初対面の相手を退屈させることもないし、それとなく気配りもできる。それに家格のつり合いも取れている。ただ、これと言った突出したところもなく、すべてにおいてごくごくふつう。居心地が悪いわけではなかったが、いかんせんなにもかもが平凡なのである。かといって、真っ正直にそれを言葉にするのも大人げない。
「あの娘さんとなら、安定した穏やかな暮らしを送れそうですね」
「そうかそうか。やはり一緒に暮らすなら穏やかで安定している相手が一番だものな」
私が真意を幾重にもオブラートに包み込んで発した言葉を、私たちそっちのけで旧友である子爵と盛り上がって上機嫌だった父は素直に受け取ったようで、なによりあいつの娘だしな、とうれしそうにうなずいた。
そんな父の様子を見ながら、私は思う。彼女ともっと幼いころに出会うことができていれば、幼馴染としての情が湧いて、あのような平凡さをも愛しく思えたのだろうか、と。もっとも、私の父の領地である伯爵領は国の東端で、彼女の父である子爵の任地は国の西端にあったので、その可能性は限りなく低かったし、実際今日まで会うことはなかったのだけれど。
まあ、婚約するとしてもまだ時間はある。そう、私は思いなおす。彼女になにかしらの変化があるかもしれないし、私の彼女に対する感じ方が変わるかもしれないし、と。
それから数年がたち、私は王都にある王立学校に入学した。この学校には、原則として学齢に達したすべての貴族の子女が入学することとなっている。そこで、私も生まれてこの方離れたことのない、住み慣れた伯爵領からはるばる王都までやってきた。伯爵領からは当然通えないので、入学と同時に学校附属の寄宿舎に入ることとなった。
彼女とは、あの初対面の日以来年に一、二度ほど会っていたが、彼女は相変わらず平凡なままだったし、私の彼女に対する感じ方にも変化はなかった。
私が王都に移ってからは、多少行き来がしやすくなったこともあって一時的に会う頻度が増えたが、それも入学当初の数回だけだった。というのも、私が学校で出会った伯爵令嬢である同級生と親密になり、休日ごとにその同級生と出歩くようになったからだった。
何もかもが平凡で物足りなく感じられる彼女と違い、同級生は愛らしい容貌につやのある髪、さらにはぱっちりとした瞳をきらきらとさせている見た目だけでなく、感情のおもむくままに笑い、涙し、ときに怒ったかと思えば甘えてみたりと、くるくると変わる生き生きとした表情もあいまって、そのすべてが私の目に魅力的に映った。
婚約を前提とした関係にある彼女のことを思うと、後ろめたさがないわけではなかった。しかし、まだ正式に婚約をしているわけでもないし、もともと伯爵以下の中下位貴族同士の婚約は学齢に達する時期に行われるのが通例のため、二つ年下の彼女が入学するまでならまだ許される、と言い訳じみた理屈をつけて、自分を納得させようとしていた。
そうして、入学して一年が経つころには、彼女と会うことすらなくなってしまった。私が休日ごとに同級生と遊び歩いているために、彼女と会う時間を作れないのが一番の理由だったのだが、私からの誘いに対して子爵家のほうから彼女の不調を理由に断りを入れられることが度重なったという事情もあった。それをいいことに、私は子爵家の側に原因があって彼女と会えないのだと、責任を転嫁していた。
ただ、そうこうしているうちに父から連絡があった。どうやら私がもう何か月も彼女と会っていないことが、父の耳に入ったようだ。父は、とにかく子爵家に連絡を取ってすぐに彼女に会いに行け、という。私はしぶしぶ連絡を取り、ほどなくして子爵家に出向くことになった。
「何度もお誘いをお断りして、申し訳ありませんでした」
ひさびさに出向いた子爵邸の応接室で、向かい合わせに座った彼女はまず頭を下げた。
肌がふだんよりやや青白く見えるものの、そこを除けば彼女はいつもどおりふつうで、体調もとくに問題はなさそうだった。相変わらずの彼女の平凡さに私はなぜかほっとして、思ったより元気そうで安心したよ、と口にする。
「身体の調子はとくに問題ありません。ただ…」
彼女は言いよどんだ。
「なんと表現したらいいのか…そうですね…、頭の中に薄いヴェールがかかっている、という感じでしょうか。それも一日ごとに枚数が増えていっているように感じます」
頭の中にヴェール?と、思わず私がつぶやくと、
「思い出せない、というのに近いのですが、ちょっと違うのです。たとえば目の前にあるものの名前を頭の中から取り出そうとしたときに、ヴェールが邪魔して取り出せないというか、邪魔になって手が届かないというか…これでは説明になっていませんね」
ごめんなさい、と彼女は頭を下げる。
私は切り口を変えつつ何度も彼女に質問を繰り返してみた。そして得られた答えをまとめてみると、おおよそ次のようなものだった。
たとえば彼女の目の前に花があったとする。彼女はその花を知っているし、その花の名前を一度は記憶したことも分かっている。ただ、その名前をいざ口に出そうとしたとき、花の名前、という情報を頭の中から探り出そうとしてもすぐには出てこない。関連していたり思い出せる事柄を鍵に、その花の名前が自分の記憶のどのあたりにあるのかまでは探り当てられる。しかし探り当てた場所の目の前にある障壁に阻まれて、結局その名前をつかみとることができず、口に出せない。ということのようだ。
その障壁が岩のように分厚いものならあきらめもつくのだけれど、ヴェールのように先がうっすらと透けて見えるだけにもどかしいのだと、彼女はうなだれる。
「庭に咲いている好きな花の名前も口に出せないものがもういくつもあります。とくに関心もなかったようなものは、そもそも名前を記憶したことあったかどうかもあやふやになっているものもあって」
私は、そうか、とため息をついた。しばし、沈黙が二人を包む。
窓の外から、庭木を剪定するリズミカルなはさみの音が五回響いたところで、でも、と彼女は口を開いた。
「ふつうに生活するぶんには問題ありません。最初はひどく混乱して引きこもってしまいましたが、いまはこうしてあなたにお会いすることもできますから」
だから、気にしないでください。と告げる彼女に、私がそうか、と安堵したところで時間となった。
それではまた近いうちに、とかけた私の声に、彼女がうなずいたのを確認して、私は応接室をあとにした。
「あの…少しよろしいでしょうか」
エントランスにさしかかった私に遠慮がちに声をかけてきたのは、そこまで私を案内してきた子爵家の侍女だった。
私が足を止めてうなずくと、侍女は思ってもみないことを口にした。
「いますぐに、お嬢さまと婚約していただくことはできないでしょうか」
私は思わず目を見開いた。そのようすを見て、侍女は慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。わたくしごときがこのような差し出がましいことを」
おろおろと視線を泳がせる侍女に、私は、いいんだ。かまわないからつづけてほしい、と促す。
たしかに、客人に対して、一介の使用人にすぎない侍女のほうから声をかけるのは一般的には非礼だろう。しかし、その非礼を犯してでも私に伝えたい何かが侍女にはあるに違いない。
最初はひどく混乱して引きこもっていたと話す割には、あまりにも穏やかで落ち着いたようすで、気にしないで、と彼女は私を気遣った。その落差に覚えた違和感。その正体を、彼女に長く仕えている侍女なら解き明かしてくれるかもしれない。
「お嬢さまは数日前までひどくふさぎ込んでおられたのです。調子を崩されてからというもの、ご自分のお部屋から一歩も出ないような生活を、それこそもう何か月も送っていらっしゃいました」
ためらいがちに口を開いた侍女の言葉に、なるほど、どうりで彼女の肌が青白く見えたわけだ、と私は納得する。
「それが、貴方さまからのご連絡があった日を境に、何事もなかったかのようにふるまわれるようになったのです。ただ…」
侍女は一瞬言いよどんだ。私が連絡したせいで何かが悪いほうへ転がったのではないか、という私の心の揺らぎが伝わってしまったのだろう。
私は軽くせき払いをして、侍女に気にするなと告げる。侍女は軽く頭を下げてから、
「ただ、もとの無邪気なお嬢さまに戻られたわけではありません」
と続けた。
「ご存じのようにお嬢さまはよく言えば天真爛漫、言葉を選ばなければ能天気な方です。どんなつらいことがあっても、ひと晩も経てばけろっとして前向きに明るくふるまわれる。それがお嬢さまでした」
たしかに彼女はあっけらかんとした性格だったな、と私は侍女の言葉を反芻する。
「それなのに、今回はお部屋に鬱々とこもる日々がつづいたかと思えば、あの日を境に急にお部屋から出てこられました。しかし、お嬢さまの表情からは、持ち前の明るさが一切消えてしまっていたのです」
侍女は目を伏せて、力なく肩を落とす。
「まるでなにかをあきらめられたかのように。わたくしの目にはそう映りました」
そこまで聞いて、私はみずからが覚えた違和感の正体に気づく。これまで彼女が気にしないで、と口にしたときは、だって絶対大丈夫だから。という言葉がつづいているように聞こえていた。しかし、今日の気にしないで、のあとには別の言葉がつづくような気がしたから。
「お嬢さまは、ご自身の記憶を日々少しずつ失いつつあるのではないか、とわたくしは感じています」
侍女は切なそうな表情を見せる。
「長年子爵家に仕えている使用人でもふだんあまり接する機会のない者の名前は、もうすでに覚束なくなっているようです。お嬢さまは否定なさいますが、最も身近に仕えているわたくしのことさえも、もうすでにおぼろげになっていらっしゃるのではないかと」
それでも、と侍女は私をまっすぐに見つめ、
「貴方さまのことだけはしっかりと記憶されているようです。今日いらっしゃることを知らされたときは本当にうれしそうでした。」
お嬢さまにとって、貴方さまはそれだけたいせつな方なのでしょう。とほほ笑んだ。
「ですから何もかも失われる前に、お嬢さまにたいせつな貴方さまとの幸福な記憶を残してくださいませんか」
ご迷惑なのは重々承知しておりますが、どうか。と懇願するように深々と頭を下げる侍女に、私は言葉をなくす。
彼女と、彼女を大事に思う侍女のことを思うと、なんとかしてやりたい気持ちはある。ただ、同級生のこともあり、侍女の言葉をすぐに受け入れることはできなかった。
気持ちはわかるが、婚約を前倒しするのは私の一存では決めかねる。婚約時期、すなわち学齢に達するまではまだ時間があるので、少し考えさせてほしい、と侍女に伝えるのが精いっぱいだった。
彼女には、また近いうちに、と告げた私だったが、次に子爵邸を訪ねる際には彼女との婚約に対する結論を出さないわけにはいかない、と思うと、自然と足は遠のいた。そして、その日を最後に顔を合わせることもないまま、彼女が王立学校に入学する日を迎えることとなった。
入学式当日。私は式に実行委員の一人として参加していた。
入学式はもちろん学校の主催で執り行われるものだが、在校生のうち主に王宮職志望の中下級貴族の子女で組織された実行委員会もその運営に関わっている。
実行委員会に所属し、各種式典や行事の運営に関与した実績があると王宮職の採用に有利に働くと言われていることに加え、学校側にも人手不足を解消できるという利点があることから、長年この形がとられているのだ。もちろん、就職に有利云々がなくとも、学生時代に式典運営などの実務に関われるそのことこそが貴重な経験ではあるのだが。
私も王宮職志望である以上実行委員会には否応なく参加したが、正直なところ今年の入学式の運営には関わりたくなかった。なぜなら、彼女が入学してくるからだ。
彼女が入学するということは、すなわち彼女との婚約に決着をつけなければならないことを意味する。彼女がまだ学齢に達していなかったという理由があるものの、結論を先延ばしにしていたといわれても仕方がないうえに、もう何か月も彼女を避けていたという負い目もある。
このため、入学式前日までの準備や当日の裏方作業の希望を出していたが、実際に割り当てられたのは式当日の会場内作業だった。
会場内で顔を合わせなければまだ結論を出さずに済む、などとこの期に及んでまだ考えている自分には苦笑するしかないが、彼女がもうすぐこの会場に姿を見せると思うとやはり落ち着かなかった。
「さっきからずっとそわそわしているようだけれど、何かあった?」
そんな私のようすに気づいたのか、同級生の伯爵令嬢がいたずらっぽい笑みを浮かべて近づいてくる。同級生もまた実行委員会に所属しており、内容は異なるものの私と同様、式当日の会場内作業の割り当てを受けていた。
私は、ただ知り合いが入学してくることだけを告げる。同級生には、まだ彼女と婚約を前提とする付き合いがあることは伝えていないからだ。
「ふーん。知り合いが入学してくるんだ」
つまり学齢に達した、ということだね。と、同級生は私に意味ありげな視線をよこす。
私は思わず言葉を失う。絶句した私に、同級生はあのね、と声をひそめる。
「なにか理由ありのようだけど、すこし落ち着きなさいよ。それ、さかさまになってるから」
ふと手元を見ると、同級生が指摘したとおり、式典で使う祭具の配置が左右逆になっていた。
そんな未然に防がれたものを含めていくつかのトラブルはあったものの、時間どおりに式は始まった。
配置上、彼女の座席は私の持ち場の反対側にあるはずなので、ここまでまだ顔を合わせてはいない。式次第の後ろのほうにある新入生の名前の読み上げまでは彼女の姿を見ることもないだろう。そんなことを考えながら、割り当てられた役割をこなしているうちに、ついに読み上げが始まった。
読み上げは爵位の高いほうから、名前順で行われる。彼女は子爵家の令嬢だから読み上げは後半になるだろう。そう思いながら耳を澄ませていたが、子爵家子女のしかるべき順番に読み上げられるはずの彼女の名前が聞こえることはなかった。あれ?と思っているうちに、男爵家子女の読み上げが始まる。そんな、まさか。と思っているうちに新入生全員の読み上げは終わってしまう。
呆然とする私をよそに、そのまま入学式は幕を閉じた。彼女の名前が読み上げられることもないままに。
入学式のあと、貼りだされたクラス表をくまなく探してみたが、やはり彼女の名前は見あたらなかった。
よほど必死に探していたように見えたのか、同級生から声がかかる。
「お知り合いさんはまだ見つかりませんかぁ?」
半分からかうようなその口調に、私がムッとしたのが伝わったのか、同級生はごめんごめん、と手を合わせながらも、
「いつもはわりと落ち着いているあなたがここのところずっとそわそわしていたあげく、式が終わったときにあんな表情をするものだから気になっちゃって」
と、うっすらとした笑みを口の端に浮かべる。。
私が、名前が見あたらないんだ。たしかに今年入学してくるはずなのに。と首をひねると、
「名前が変わってたりして。養子に出たとかで」
そう、同級生がまぜ返してきたので、それはない、と反論する。
同級生の前ではさすがに口に出せないが、彼女は子爵家のひとり娘だし、なにより私と婚約する前提がある。いまさら養子に出る理由も、またその必要もないだろう。
「それなら、どこかに留学したとか」
こんどは突拍子もないことを言い出した同級生に、私はそんな話は聞いていない。とにかく絶対に入学してくるはずなんだ。と言い返す。学齢に達した貴族の子女は、必ず王立学校に入学することになっているのだから。
ところが、同級生は意外なことを口にする。
「絶対に、ということはないのではないかな」
思わず、え?と聞き返した私に、同級生はつづける。
「もちろん、貴族の子女は入学するのが原則だけど、例外はあるでしょう。たとえば、入学に耐えうる体調でないとか」
その言葉を聞いて、私はハッとする。
「どうやら思い当たることがあるようね。確かめてみたらいいのでは?」
私の表情をみて、同級生はそう促したあとに、よけいなひと言を付け加えた。
「確かめてみた結果、すでに誰かと結婚していて、しかも子どもができてたりして」
そんなはずはないだろう!と、思わず私は声を荒げる。彼女がほかのだれかと結婚するなんてありえない。
同級生は、憤る私にびっくりしたようだが、すぐにもとのうすら笑いの表情に戻り、
「ずいぶんその子を気にかけてるみたいで。だいじな人なのかな?」
などと、茶化してきた。
そんな同級生の言動に私はひどく腹が立って、そんなんじゃない、父親同士が友人なだけだ、と吐き捨てた。
腹は立ったものの、同級生の言葉どおり確かめるよりほかに方法もなかったので、私は数か月ぶりに子爵家に連絡を取った。
数日後に届いた返信には、体調不良のため王立学校の許可を得て今年の入学を見送ることとなったこと。年単位の遅れは出てしまうものの、体調が戻りしだいその次の入学期から学校に通う予定であることが記されたうえで、できれば一度彼女の見舞いに来てもらえないか、と控えめな一文が付け加えられていた。
少し迷ったが、入学もできないくらい弱ってしまった彼女をあれからずっと放置していたという負い目もあり、見舞いに出向くことにした。
子爵家から指定された日には、すでに同級生と出かける約束を入れていたが、事情が事情だけに見舞いを優先することにした。
同級生は残念そうにしていたが、
「確かめるように、と言い出したのはわたしのほうだしね。そういう事情ならしょうがないか」
と、ひとまず許してはくれた。
「入学式の日にも思ったけど、ずいぶん気にかけられているんだね。そのお知り合いさん」
いつもよりほんの少しだけ低い声色でつぶやく同級生に、私はそんなんじゃない、と風にかき消されそうな声でただつぶやき返すのみだった。
子爵邸に着くと、さっそく彼女の寝室に案内された。応接室でなくてよいのか、と侍女に尋ねると、
「お嬢さまはここのところずっと、ベッドから離れることのない日々を送っていらっしゃいますので」
との答えが返ってきた。前回は応接室での対面だったことを考えると、よほど体調は深刻なのだろう。それなのに私はいったい何をしていたんだろう、と、もう長いこと連絡すら取らなかった自分を責めた。
寝室に通されたとき、ベッドの上の彼女は上半身を起こした状態で窓の外を見つめていたが、私たちの足音に気づくとこちらに顔を向け、そして一瞬だけ呆けたような表情をみせた。それはほんの瞬きをするほどの間のことだったが、私の胸のうちに不安のさざ波を立てるには十分だった。
私が、しばらくぶりだね。入学生の中に名前がなかったからびっくりしたよ、とおそるおそる告げると、
「ご心配をおかけしてしまい申し訳ないです」
と、彼女は私に頭を下げた。私が体調を気遣うと、
「じぶんではとくにどこが悪いとも感じていないのですが、お医者さまにベッドから離れることを禁じられていて。学校にも通うつもりでいたのですが、とんでもないと言われてしまって」
頭の中に薄いヴェールがかかっている感じはつづいているものの、彼女自身はふつうに生活できると思っているらしい。ただ医者にあれこれ制限されており、思うように動けないのが不満なのだそうだ。そして、しばらく私が訪ねてこなかったのも医者から禁じられているからだと受け止めていて、今日も決められた時間しか私と会うことができないのが申し訳ないのだとさびしそうに微笑んだ。
「お医者さまの指示があるから自由に行動することはできませんが、その指示さえなければ、ふつうに生活できるはずなのです」
だから、気にしないでください。と、彼女は前回と同じ言葉を繰り返した。
そのあとも私はしばらく彼女と会話をつづけたが、これまでと変わらぬ彼女のようすに、私は内心、このどこが体調不良なのだろう?と首をひねりたくなる。ごくごくふつうではないか。これならそう遠くないうちに、元の生活に戻れるだろう、と安心したところで、侍女が時間です。と面会時間の終わりを告げた。
思っていた以上に元気そうで安心したことと、また会いに来ることを彼女に告げて辞去しようとする私の背中に向かって彼女は私の名前を呼んだ。彼女に呼び止められてふり返った私に、彼女は思いがけないことを告げた。
「いまのこの状態はふつうではありません。いくらじぶんではだいじょうぶだと思っていても、あなたに負担ばかりかけています。だから、もしほかにご縁があるようならかまわずにお話を進めてください」
じぶんのことは気にしないでください。と。
私は不意の言葉にどう答えてよいかわからず、解った。とあいまいな表情を浮かべるのが精いっぱいだった。
エントランスに向かって歩きながら、私は彼女の最後の言葉の意味をつかみかねていた。なぜ、彼女はあんなことを。
「たぶん、お嬢さまはご自身の症状を自覚なさっているのだと思います」
ふいに侍女が口を開いた。どうやら、私は意図せず疑問を口にしていたようだ。
「以前にもお話したとおり、お嬢さまはゆるやかにではありますが、日々記憶を失いつづけているように思います。日によって症状に波はあるものの、ご家族や私のように側に仕えている者などごく近しい者の名前やご自身との関係性すらもほぼ記憶から消えているようです。それ以外の者や物についてはもう全くと言っていいほど…。貴方さまがいらっしゃることをお伝えしたときも、口ではあら、それはうれしいことです、と喜んでいらっしゃいましたが、表情はほとんど変わりませんでしたし」
侍女はそう口にしてうつむく。
どうやら彼女はあらゆるものの名前やそのものと自身との関係性についての記憶をほぼ失っているらしい。それでも、彼女に対する態度や彼女以外の者同士のやり取り、そのほか周囲の状況から名前を拾ったり関係性を察してなんとかやり過ごしているように見える、と。
「ですから、お嬢さまが最後に貴方さまのお名前をお呼びになったときは驚きました。お部屋にお通ししたときの呆けたようなお嬢さまの表情を目にしたときは、貴方さまのお名前さえもお忘れになったのだと覚悟したのですが」
寝室にいる間に、誰かが口にした私の名前を彼女が耳にしたのでは。私は侍女の言葉に首をかしげる。長く仕える侍女の名前さえ記憶から消えようとしている彼女が、そう何度も会っているわけでもなく、しかもこんなに薄情な私の名前を記憶に残しているなんて。まさかそんな。
「いいえ」
侍女しずかに首を横に振る。つづく言葉に私は驚いた。
「さきほどお嬢さまの寝室にいたのはわたくしと貴方さまの二人だけです。わたくしは意識してお名前を出さないようにしておりましたし、貴方さまご自身もお名前を口になさることはありませんでした」
ですから、貴方さまのお名前はお嬢さまご自身の記憶から発せられたものに違いありません、と。
それはいったいどういう…と私がうろたえると、侍女は表情を崩した。
「貴方さまのことがお嬢さまの記憶に深く刻まれている、ということなのだと思います。初めて貴方さまにお会いした夜のお嬢さまのはしゃぎっぷりは、いまでも微笑ましく思い出されます」
とても素敵な方だった。なにからなにまでどこまでも平々凡々なじぶんを見て、ちょっとがっかりされたようすだったけれど、話は最後までちゃんと聞いてくれた。あんな素敵な方とまたご一緒できたらうれしいけれど、こんな平凡なじぶんに会いに来てくれるかしら。と、彼女は侍女に対して興奮を隠すことはなかったそうだ。
「ですから、貴方さまがいらっしゃるたびに、お嬢さまを寝付かせるのに苦労いたしました」
と、侍女は苦笑する。
「こうやって会いに来てくださるということは、婚約を期待していいのかしら。などと毎回頬を染めるものですから」
婚約から始まって、結婚式のドレスやら式場、招待客などなど。さらには結婚後の生活にまで思いをはせて、侍女に延々と語りつづけたらしい。
「なだめるのはたいへんでしたが、貴方さまとの結婚を思い浮かべてはしゃぐお嬢さまは、それはそれはもうたいへん可愛らしくて。その姿が見られることを思えば、苦労も吹き飛ぶというものでした」
それだけ彼女は私との婚約を楽しみにしていたということか。私の中に罪悪感が湧きあがる。
「調子を崩されてからも、貴方さまとのこと、ただそれだけを支えにしてお嬢さまは過ごしていらっしゃったのだと思います」
それなのに、お嬢さまが最後にあんなことを口になさるなんて、と侍女は声を震わせる。
「前にもお話したように、あらゆることをあきらめたかのようなお嬢さまでしたが、それでも貴方さまとのことだけはこだわっていらっしゃったようでしたのに…」
それだけ、ご自分の不調を自覚なさっているのでしょう、と。
「もうあまり時間は残されていないのだと思います。だからこそ、すぐにでもお嬢さまとの婚約を」
どうかお嬢さまのささやかな希望をかなえてもらえませんか、と侍女は私に、懇願するように深々と頭を下げた。
彼女がそれだけ私のことを想ってくれていたという事実に衝撃を受けた私は、すっかりうろたえてしまった。
同時に、そんな彼女をずっとないがしろにしていたことに対する罪悪感もあって、わかりました、すぐに婚約を。などと口にするのはあまりにも調子が良すぎるように感じ、憚られた。
結局、婚約についてふれることもできず、また近いうちに、と応えるのが精いっぱいで、逃げるように子爵邸をあとにした。
子爵邸を訪ねてからというもの、私はふと気づけば彼女のことばかり考えていた。
彼女の平凡な印象はいまも変わらない。見た目の印象だけなら比べるまでもなく同級生のほうが好みだし、刺激的な毎日を送れるのだろうとも思う。実際、同級生と遊び歩くのはとても楽しかった。
しかし、私は同級生の隣に居つづけられるだろうか、という話になると考えこまざるを得ない。私だってもともと控えめといえば聞こえはよいが、要するに地味な性格だし、とくに容姿が優れているわけでもない。なぜか気が合って行動を共にするようになったものの、華やかな同級生と釣り合っているかという点についてはまったく自信がない。
その点、彼女とならば平凡で地味な者同士、ちょうどいいバランスで並び立つことができると思う。何より彼女はこんな薄情な私のことを、最初に出会ってからもう何年もの間、ずっと慕いつづけてくれている、という事実が私の心を揺さぶる。そしてそんな彼女の記憶から私が消え去ってしまったら、と思うと居ても立ってもいられない心情になる。
「なんか最近心ここにあらず、という感じだよね」
お知り合いさんのお見舞いに行ったあたりからずっとだよ、と私の目の前で同級生はむくれる。
「四六時中、寝ても覚めてもわたしのことだけを考えてほしい、とまでは言わないけれど、一緒にいるときにまでわたし以外の誰かを思い浮かべられると、さすがに傷つくよ」
ごめん、と私は素直に謝る。みずからの容姿に自信がありプライドもそれなりに高い同級生のことである。素直に謝るに限る。
さすがに「お知り合いさん」のことは私の昔なじみであること以上の情報は持っていないとは思うものの、女性であるだけでなく、私と婚約話まで持ちあがっている相手だということが知れたら、どうなってしまうだろうか。そんな私の危惧はすぐに現実のものとなった。
「気になってるんでしょ、お知り合いさんのこと」
わかるよそのくらい、と同級生はため息をつく。
「お父さま同士がご友人、ということは、幼なじみかそれに近い関係でしょうね。そしてたぶん女性」
どう?合ってる?と悪戯っぽい笑みをよこす同級生に、私は目を丸くする。そんな私の反応にやっぱり、と同級生はつぶやく。
「女性ということになると、たぶんあなたと婚約するしないの話が出ている。でも、まだ婚約はしていない」
息をのんだ私の反応を窺いながら、同級生はつづける。
「ちょっとうぬぼれてよければ、婚約に至らないのは、たぶんわたしのせい」
なんでそれを、と声を出すのが精いっぱいの私から、同級生はふと視線を逸らした。
「わかるよ。それくらい、わかるよ」
だってずっとあなたのことを見てきたんだから。と同級生は表情を曇らせる。
「入学式で見かけて、すぐにあなたに興味を持ったんだ」
と、同級生は語り始める。
同級生と私との出会いは二年前。王立学校の入学式でのことだった。
幼いころからその愛らしい容姿で周りからちやほやされていた同級生は、学齢に達するころまでにはすでに自分の見た目が武器になることをよく理解していた。そんな同級生だから、誰からも好かれるようにふるまうのは容易だったし、王立学校に入学するまでは、この人、と見定めた相手で実際に同級生に夢中にならなかった男性は一人もいなかったらしい。
「それなのに、あなたはわたしにまったく関心がないようすで、顔をちっとも見ようとしなかったんだもの」
同級生の言葉に、私は入学式でのやりとりをなんとなく思い出した。たしか私と同級生は式での席が隣同士だった。そして、より奥の席に着こうとする同級生に私が通路で道を譲ったのが始まりだった気がする。
「道を譲ってくださってありがとう。って、とびきりの笑顔を向けたのに、あなたはどういたしまして、と頭を軽く下げただけですぐに顔を壇上に向けてしまって。そんな態度をとられたのは初めてだったから」
それまで相手に向けた笑顔を受け流されたことのなかった同級生はショックだったらしく、無関心な私を絶対に振り向かせてやろう、とそのとき心に誓ったらしい。
「機会を見てあなたに話しかけているうちに、一緒に遊びに行くようになったりして、じきにわたしに夢中になるに違いない、と思っていたのに」
どんなしぐさや態度を見せても、あなたはそれまでの相手のようにはわたしに夢中にならなかった。どうにかしてわたしのとりこにしてやろうとあなたを目で追いかけているうちに、わたしのほうが夢中になってしまった。と彼女は自嘲ぎみに話をつづける。
「あなただけ見つめているうちに、あなたの心の中に、わたし以外の誰かがいるんじゃないかとうすうす感じるようになって。今年の入学式の日のあなたの表情を目にして確信したんだ」
そのとおりだった。私が魅力的な同級生に惹かれていたのは確かだったが、その一方で婚約することになるであろう彼女への意識は常に頭にあった。ないがしろにしつづけているという後ろめたさとともに。
「お父さま同士がご友人だと聞かされて、お知り合いさん…その子にわたしは生まれて初めて勝てない、って思ったんだ。出会ってからの時間の長さはもうどうしようもないし。あなたがその子のことを何とも思っていないのなら勝ち目はあったけど」
実際はものすごく気にかけているわけだし。と同級生は寂しげにつぶやく。
「だから、その子のことをちゃんと受けとめてあげるべきだ、と思う」
でも、と言いよどむ私を、でも、じゃなくて、と同級生は押し戻す。
「たった二年とちょっとだけど、あなたをずっと見てきたから分かる。あなたはわたし以上にその子に惹かれている、って。だから、わたしのことなんか気にしなくていいんだよ」
同級生は奇しくも彼女と同じ言葉で私の背中を押した。
ごめん。と頭を下げるのもそこそこに子爵邸へと駆け出した私は、
「なんでそこで謝るかなあ」
と、同級生が瞳を潤ませたことに気づくことはなかった。
早駆けの馬車を捕まえて、子爵邸に着いたころには、もう日はずいぶんと傾いていた。
事前に何の連絡もないまま訪ねてきた私を、子爵家の使用人たちはずいぶんと驚いた表情で迎えたが、それでも追い返されることはなくそのまま応接室に案内された。
ほどなくして応対に出てきたいつもの侍女にさっそく、急な話で申し訳ないのだけど彼女と婚約をしようと思う。できればいますぐにでも。と告げてみた。
二つ返事で分かりました、と動き出すと思っていた侍女だが、固まったままぴくりとも動かない。
沈黙に耐えかねた私が、どうだろうか、と促すと、ようやく侍女は口を開いたが、
「そのお言葉をもう少し早くお聞きしたかったです」
と述べただけで、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。使用人である侍女があからさまに感情をあらわにする、そのただならぬようすを目にして、彼女の身になにかよくないことが起きたのだと私は悟る。
「すみ…ません。すっかり…取り乱して、しまいまして」
侍女はまだ感情を整理しきれていないようで、とぎれとぎれの口調で私に謝罪した。
私が、いいんだ。落ち着いたら何があったか話してくれないか、と努めてやさしく声をかけると、侍女は深く一礼をしてから口を開いた。
「実は、お嬢さまはもう、完全に記憶を失ってしまわれたようなのです」
それまでは婚約できなかったことを残念がりながらも、彼女は私の幸せを祈るようなことを口にしていたそうだが、先週あたりからはそれもなくなったそうだ。それ以降は私の話題になると受け答えはするものの、誰が見ても明らかに目が泳いでいるらしい。心あたりのない話題に手探りでついてきているかのようなそのようすから、私の記憶さえも失っていることがうかがわれるという。
「いまのお嬢さまにお会いになっても、貴方さまだとわかっていただけるかどうか。かえって辛くなるだけかもしれません」
それでもお会いになりますか。と問いかける侍女に、もちろん、と私はうなずく。
「分かりました」
と、覚悟を決めたかのように毅然とした態度の侍女に導かれて、私は彼女の寝室の扉をくぐる。
そして、私はベッドの上で上半身を起こしている彼女の正面に立ち、その瞳をまっすぐにみつめる。
そんな私をぼんやりとした目で見上げ、ひと呼吸おいて、
「あなたはだあれ?」
そう問いかけてきた彼女に、私は名前を告げる。
すると、彼女はこころなしか目を見開いた。




