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父と母がいなくなると、ひとりっこには与えられた家族がもういなくなってしまうのです

 母が亡くなったあと父が亡くなるまでの間に、わたしはひとりっこなのだと、父が亡くなれば幼かったときからの家族はわたしを除きもう誰もいなくなってしまうのだと、突然に気づきました。

 そうした想いを、縁もゆかりもない店の窓から映る、老職人の静かで淡々とした手元を見つけると何故か落ち着けました。それが、なぜなのか、父が亡くなり三回忌を向かえる時間のたったいま、振り返るとわかるような気がしてきます。

 いい年した男の甘ったれをご一読ください。

 

 この界隈のそぞろ歩きを始めてから、もう十年が達ったろうか。

 もともと子ども時分に親しんだ街並みなのだ。母が亡くなり、時間ができたときの月命日に花でも手向けようと、寺町を挟んで広がってきたこの街を、近くて古めかしいこの街を、頻繫に出歩くようになった。

 古い街だから、狭い四方八方に名前が残っている。大川に沿って東西に伸びるものを「通り」、川に繋がる掘割も含めて南北に切ったものを「小路」と呼んで道を区別しているが、通りを突っ切るでもない家並みが背中合わせして出来上がったような路地にも小路の名がついているから、あまり当てにはならない。けれど、百年前から呼び名のついた小路の角には、重しを沈めて建てたような商家がちゃんと看板を掲げてるいるから、いにしえには家を構える際の屋敷の格というのがあったのやもしれぬ。


 遠目からは、「そめぬき」と読めた。染物屋の類かと近づいたら、薄れたペンキ文字は「しみぬき店」と書いてある。通りに大きく開けた作業場の窓がなければ、しもた屋であろうと関心を向けることもなかったのだが、西日の陰になった窓の正面に(とし)の頃はもうじき八十に届きそうな頭のきれいに禿げ上がった職人が、手元を大事そうに見つめながら作業をつづけている。

 しみぬきの文字から、それに掛かる作業の何ごとかしてるのだろうが、「丁寧な仕事ぶり」の形容よりほか、なにも浮かんでこない。窓のぎりぎりまで覆い被されば手元の先まで見えるだろうが、通りを出歩くだけの傍観者にそんな謁見が与えられようはずはない。

 わたしは通り過ぎ、翌日にはその人の禿げ頭のかたちも忘れていた。


 いままで贔屓の店に縁など持たなかったわたしが、小さな飲み屋の馴染み客になった。土産がてらの菓子や花を買い足すため、個人で開業しているその手の店にも名前を覚えてもらうようになった。

 その飲み屋に入る前に、夕飯前の年寄りに交じって銭湯につかる。昨今の日帰り入浴とは違う他人の日常に浸かる心地よさが此処にはある。もう付き物になっている。

 かつてこの地に住んでいた時分は内風呂のない家が大半で、父と母それと幼いわたしの三人でこの銭湯に入り、夏のころであればそのまま大川まで、風呂上がりの身体に風を入れに出張ったものだ。夕涼みと一緒に匂い立ってくる憧憬に想いを寄せていると分かっていても、酒とは違う別の酔いの誘惑に抗しきれずにいた。二十年前のわたしだったら、そうした懐古趣味、年寄趣味を唾棄するまでに毛嫌いしていたのに。

 母のいなくなった空虚さに差し込む甘さを、素直に認めていた。


 それから、七年経った。遠目からの、そめぬきのペンキ文字は相変わらずかすれたまま。あたまのきれいに禿げ上がった店主は、今日もまた、八十を幾つか超えた手つきで、手元を見つめる丁寧な仕事に終始している。

 それでも齢のせいか家業のせいか、読書とも昼寝とものつかぬ呆然な顔で西日の陰る昼下がりを過ごすのが多くなった。

 嘗て(かつて)なのか今もなのか、その店主を観察するようになったのが2年前からだと、はっきり記憶している。その年、父の初めての発作があった。心臓だった。もともと不整脈の診断が付されていたが、母を見送り、おとこの独り身になって五年。世間に当たり前のように転がっているもう一つの「一大事」が近づいていることをしった。

 わたしは、ひとりっこなのだ。父が死ぬとわたしには与えられた家族がわたしを除いて誰もいなくなる。まだ半分もしっていないその寂しさは、誰にも言えない。妻にも、ふたりの子にも。これは、わたしだけのもの。わたしだけの、さびしさ。


 父が亡くなった。ほんとうは昨年の発作で死ぬはずだった。それが、奇跡的に一年永らえた。その間、ほっとしたのと、拍子抜けと、ほんとうにその時がやってきたらの三竦み(さんすくみ)がとぐろを巻き、わたしは、墓参りを口実に飲み屋とその周辺を徘徊した。

 此処に浸かっているときは落ち着けた。仕事のストレスも大きかったが、それは言い訳に使っていた。あれた生活ではない。ささくれだった感情でもない。ただ、さみしい。乾いた感覚が向かい風のようにやってくるのがどうしようもなくイヤだった。

 その店の前を通るときは、作業台の見える通り沿いからではなく、必ず小路の奥からその店を回り込むように入った。目指す先が逆方向であれば、斜めからでも大きな窓が視界に入らぬよう、後ろの通りから遠回りして。「なむさん」などと妙な呪文をサイコロ代わりに両手でコロコロ回して。

 大窓から見える作業台は、もう不在の日が多くなっていたのだ。

 店主は、「もういいかい、まあだだよ」を繰り返す。わたしの一喜一憂など気にもせず、いつもひょうひょうと下を向いた作業の顔と、上を向いての居眠りの顔を繰り返す。

 「いまはいない、もういない」などと繰り返しているわたしを尻目に、この辺り一番の熱い湯に先に涼しい顔して浸っている。

 日の高いうちから開けてくれているバーの、それよりも早い時間から「老いさき短い身なんだ」とマスターにわがままいって、すでに赤く出来あがっている。「あんたのお父さんは下戸だったけど、あたしは昔っからウワバミさぁ。さぁーさ、一緒に生前のお弔いをしようじゃないか」と、誘いかけようと待っていて・・・・・・・・・・


 この年は、母の十三回忌と父の三回忌を合わせて向かえた。だからと、そうした仏事を行うことはない。そうした気は起きない。わたしはひとりっこだ。自分と相談すればいいことだ。

 コロナのせいにするのはよそう。墓のある寺の住職が嫌いだとか顔を並べて考えるいろいろな煩わしさが嫌いだとか、並べ立てるための理由を考え付ける必要もない。

 わたしは妻とつくった家族の生活が日常となっているし、見えない抜け殻に引っ張られるのにも慣れてきている。結局、過去にあった想い出といま起こっている現実だけが全てなのだ。

 しみぬき屋の白ペンキは相変わらずだ。大きな窓は雨戸で閉められたままの日が続く。手書きの小さな貼り紙が「しばらくの間、お休みします。店主」と張られている。それが、あのひとなのか、あのひとの代わりとなったひとなのか。

 他人が他人の余計な心配をやく理不尽さと、やっと距離を置けるようになった。今日もきっと、あの銭湯の湯は身を刺すほどに熱いだろう。

 もうすぐ先の日常が素敵なのは、確からしい。


 

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