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雪泥鴻爪  作者: 風光
7/12

7 寥落

 馥郁と、魅惑的な薫りが宙に立ち込めている。

 その香りの源である、濃い緑を滴らせた笹薮を背に、泉は灰色の石に囲まれ枝葉を映していた。

 だが、映る葉はそよとも動いていない。

 何も動かず、何も音を紡がない…ただ、時間さえも止める静けさだけが、辺りにたゆたっていた。

 その泉…夢鏡ノ泉の前で、今、一人の少年が佇んでいる。

 黒髪の下、瞳を閉じ…諸手を泉の上に翳している…

 不意に、更なる静寂がその場を支配した。

 この香笹を纏う泉が放っていた今迄の沈黙など、少年から溢れ出す『虚無』に比べれば騒音にも等しい。

 時間や空間、あらゆる思念や存在をも内に飲み込み秘めてしまうその『力』は、顕現の源たる少年をもその場から消してしまっていた。

 人がいれば、目には見えるだろう…だが、それは一枚の『絵』にすぎない。

 どれ程の時間が過ぎたのか…決して計ることが出来ない刹那の後に、やがて少年は瞳を開いていた。

 黄金色の煌きを奥深くに潜めた漆黒の瞳…その双眸に見据えられ、一瞬、水面は抗おうと蠢く…

 だが、次には再び沈黙に従っていた。

「…妖夢界、か…いずれ、秩序が必要だ」

 小学五年生の子どもの口許から、静かな言の葉が零れ出す。心惹きつけるその響きは、周囲を支配する静寂と争いもせず、吸い込まれるように広がり、消えていった。

 だが、それ以上は何も語らず、彼はゆっくりと視線を上げた。

 そこには、森の木々の隙間を縫い、夢鏡ノ泉へと歩み寄る一人の男が見えていた。

 ふっ…と、微笑みが頬に浮かぶ。

 ただ待っているだけの少年を見付けると、男は躊躇いがちに声を押し出していた。

「…君は…精霊なのか…」

 その言葉に、香笹が不意にざわめき始める。

 濃厚な薫りが空間を埋め尽くし、言葉を秘めた<無音>が秋風を伴い二人に襲い掛かってくる…

 …だが、少年が周囲に視線を向けただけで、全ては沈黙を取り戻していた。

「いや。俺は精霊じゃない」

 男を見ながら、優しい声音で少年はそれだけを告げた。

「…だが…かつては、そうだったんじゃないのか…?」

 縋るように尋ねてくる男に、少年は憐れむような光を瞳に宿しながら首を振った。

「違うよ。

 確かに、この水には『力』があるけど、俺はそれを必要とはしてない」

「『力』…やはり、そうなのか…」

 男の呟きに、少年は敢えて応えていた。

「そう…この特殊な泉の存在がもたらす、ある種の副作用だね。

 この水を精霊が飲めば、その精霊は…例えば人間としての姿を望めば、それを手に入れることが出来る。そして、そうして人間になった精霊は、再びこの泉の水を飲めば、元の姿を取り戻せるんだ」

「じゃぁ…人間が飲めば…」

 男の言葉に、少年は再び…はっきりと頭を振ってみせた。

「残念だけど、そうはならないんだ。

 精霊も、一度元の姿に戻ってしまえば…」

 一瞬、さすがに憐憫の情から言葉が途切れてしまう。

「…二度と、人間と交流は持てなくなる」

「そうか…やはり、そうか…

 …だが……それなら、…何故……」

 男は少年の言葉にうな垂れると、その場で膝を折ってしまった。

「あの人も…よく分かってはいたんだ」

 少年は優しく語り続けていた…

「だけど、この世界は、精霊界の存在が暮らしていくには、あまりにも穢れている…」

 男は両手で顔を覆うと、少年の前であることを忘れたかのように声をあげて泣き出していた。

「…戻って欲しいんだ…

 娘の為にも…」

 見下ろす少年の前で、男は涙と共に言葉を吐き出していた…


「曖の為にも……」


 ……………………………………………………………………………………………


「………」

 七時に合わせた時計は、まだベルを鳴らしてはいない。

 円らな瞳をゆっくりと開けながら、曖は今日のことを思って幸せそうに微笑んでいた。

 今日は、クリスマスなのだ。

 そして、一昨日に逢ったばかりなのだが、今日も玲は逢いに来ると約束をしてくれた。

 …どんなに、素敵な一日になるのかしら…

 白皙な腕を伸ばすと、不意に鳴り始めた目覚ましのベルを止める。

 …もう少し…このまま……

 本当は、玲とはイヴの夜に逢いたかったのだが、昨夜は曖の父親の出張の準備で忙しかったのだ。

 だからこそ、今日は…そう、今日は、朝から来てくれることになっている。

 ずっと…ずっと、一日中、一緒に居てくれるの…

 曖はベッドの中で体を丸めると、どうしても溢れ出す微笑みを止めることが出来ずにいた。

 …私…こんなに、幸せでいいのかしら…

 これほど素敵なクリスマス・プレゼントがあるだろうか。曖は、去年までのクリスマスを楽しんでいた自分が少し信じられなかった。

 …だって…去年まで、玲君はいなかったのに……

 そう。『去年』という時間の中には、全く玲は存在していなかったのだ。

 曖には、それがとても不思議なことに思えた。

 ……玲君がいないなんて…

 そんな時間を過ごす自分を、曖はまるで想像出来ずにいた。

 朝の清澄な光の絵筆が、カーテンを黄金色に優しく染めていく。

 普段よりも明るいその光に気付き、曖は慌ててベッドから抜け出すと、力一杯カーテンを引いていた。

「わ…あぁ…」

 胸元で細い指先を絡め、大きく目を見開いている。

 漆黒の瞳はベランダの手摺りの向こうに広がる銀世界を遠く見下ろしたまま、少しも動こうとはしなかった。

 昨夜のうちに降ったのだろうか。

 …パパが出かける時には、全然、降ってなかったのに…

 曖は素早く着替えを済ますと、焼いたパンとミルクティーを用意した。そして、雪で覆われた美しい景色を眺めることが出来る窓の傍まで来ると、椅子に座ってゆっくりと朝食を楽しみ始める。

 …今日は、全てが特別だ。

 曖は、久し振りに本当の休日を過ごしているような気がしていた。

 冷たい風は、曖の素敵な日の為に、今日はその旅を休んでいる。

 薄く広がる灰色の雲の向こうでは、太陽さえ眩い軌跡を描きながらも、雪を溶かさないように気を配っているようだった。

 壁に掛かる時計は、漸く九時を知らせてくれる。

 曖が喜びで辛抱出来ずに身を動かそうとした途端…

「曖ちゃん!」

 待ち望んでいた声が、…玄関の方から愉しげに響いてくる…?

 …? …玲君、どうして玄関にいるのかしら…

 不思議そうな面持ちのまま、鍵を回してドアを開けると…

「きゃっ…」

 あまりの光景に驚いてしまい、曖は取っ手に手を掛けたまま、まるで動けなくなってしまった。

 目の前に、通路を塞ぐほどの大きな雪だるまが立っていたのだ。彼女の背丈の2倍はあるだろうか…黒く塗られたピンポン球の目の下には、木の枝の口が面白そうに曲がっている。

 更に、曖の方へと差し伸べられた両腕には、リボンをかけた小さな箱が載せられていた。

「どう? 曖ちゃん」

 既に毛糸の帽子の先にまで雪を付けている玲が、雪だるまの背後から顔を覗かせる。

「……」

 曖は黙ったまま震える指先で小箱を手にすると、そのまま俯いてしまった。

 玲の目に、少しだけ不安の色が浮かぶ。

「…驚かせすぎちゃったかな、僕…」

 だが、大きく首を横に振ると、曖は顔を上げて素晴らしい笑顔を玲に向けていた。

「ありがとう…」

 可愛らしい口許は、それでも、こんな僅かな言葉しか紡ぐことが出来ない…

 …もっと、他にも言いたいのだ。こんな自分なんかに、こんなにも素敵な贈り物を届けてくれる…そんな玲に、もっともっと、『何か』を伝えたいのだ…

 …だが、曖には何をどのようにして伝えたらいいのか、全く分からなかった。

「良かった! 喜んでくれて」

 玲は、目の前で嬉しそうに笑ってくれている。

 その笑顔は、曖が伝えたいと思っていることを全て受け取ってくれているようにも思えるのだが…そうだとしても、曖は自分の気持ちの何百分の一でもいいから、自分自身で玲に伝えたい…そう願っているのだ。

 …でも…それは、我儘なのかしら…

 まるで、そんな願いすら分かってくれているかのように、玲の笑顔は優しく深まって、曖をそっと包み込んでくれていた…

「…ありがとう」

 心からもう一度そう呟くと、曖は小箱を下駄箱の上に置き、玲の腕を取っていた。

 そのまま、中まで誘おうとした時…曖は、両手で包んだ彼の腕を、そっと…心の儘に、そっと…少しだけ強く、握り締めていた。

 自分のそんな行為に気付いて、すぐに真っ赤になって俯いてしまう曖に、玲も淡く頬を上気させながら慌てたように言った。

「中に…入ろうよ、曖ちゃん」

「うん…」

 やっとの思いで目を上げる曖と視線を交わすと、互いに嬉しそうな微笑みを零しながら、二人は家の中へと入っていた。


「…開けても、いい…?」

「勿論だよ!」

 その言葉に、ゆっくりとプレゼントの箱を開けていく。

 どきどきしている曖の目に見えてきたのは、とても可愛い手袋だった。

 途端に、驚いた表情で立ち上がると、曖は慌てて机の方へと向かった。

「曖ちゃん?」

 曖は引き出しを開けると、中からこれも小さな箱を取り出している。

 優しい色合いの包装紙に包まれたその箱を、曖は何も言えないまま、玲に渡していた。

「…?」

 丁寧に包装紙をはがし、中を見る…

「…あれ?」

 そんな呟きと共に玲が取り出したのも、また手袋だった。

 驚いて目を合わせた瞬間、二人とも笑い出してしまう。

 笑いながら…玲を見つめながら…曖は心から幸せだった。

 そう…どうして、玲がいない時間など、考えたり出来るだろうか…

 ここに、今、こうして笑い掛けてくれる…玲君が、いないなんて……

 …そう、…玲君がいないなんて……

「ねぇ、曖ちゃん。せっかく雪が降ったんだし、今日は外に遊びに行こうよ」

 曖が淹れてくれた美味しい紅茶を飲み終えると、玲は不意にそう言った。

「でも…」

 曖は、玲のことを誰にも知られたくなかった。

 …玲君のことは、私だけが知っているの…

 そして、それはそのままであって欲しかったのだ。

 そんな曖の前で、笑いながら玲は続けている。

「香笹町の南の方に、もう使われてない廃校があるんだよ。そこなら、誰も来ないからね」

 その言葉に、不意に曖は頬を上気させてしまった。

 …不思議、玲君って、何でも分かってくれるの…

 《本当》に嬉しいのだ。

 体の中が黄金色の温かな光で満ちていき、思わず身震いしてしまうほどに幸せなのだ…

 曖がこくんっと頷くのを見て玲が立ち上がると、急に思い出したように曖は言った。

「でも、あの雪だるまさん…」

 あのように通路を塞いでいては、他の人の邪魔になるだろう。

 でも…玲君が、一生懸命作ってくれたのに…

 …嫌われてしまうだろうか。

 だが、曖には嘘が吐けないのだ。

 そっと心配そうに見上げてくる曖に向かって、玲はにっこりと微笑んでいた。

「うん! 大丈夫だよ。今、あの雪だるまはここの駐車場に下ろしてあるからね」

 そう、心配する必要など無いのだ。

 どんなに凄いことでも、玲の言葉なら信じられる。その言葉を疑うことなど、曖には全く思いもよらなかった。

 だって…玲君はそれが出来るんだもの…

 それだけのこと、なのだ。

 そこで素直に立ち上がって、マフラーや贈り物の手袋を身に着け始める。

 お昼にと思っていたサンドイッチを籠に入れ、曖は玲が待ってくれているベランダで長靴を履いた。

 薄く積もった雪の上に、儚い足跡が残る。あまりにも淡いその影は、すぐに消えてしまうだろう…

 玲は曖の小さな体を軽々と抱き上げると言った。

「大丈夫?」

「…うん」

 首に腕を回しながら、曖は微かに頷いていた。

 恐くなど、ない。

 こんなにも近くに玲が居てくれるのだから…

「目は閉じた方がいいよ」

 優しい言葉に従って、曖が漆黒の瞳を閉じる。

 不意に、耳元で風が歌い始めた。

 だが、吹き付けてくる風の冷たささえ、伝わってくる玲の温もりを少しも減じはしない。

 曖は心から安心して、玲に全てを任せていた。

 …きっと…今、こうしていることが《本当》なの…

 そう……きっと、この《本当》は、これからもずっと…ずっと、続いてくれるだろう……

 曖は、そう信じて疑わなかったのだ……


「着いたよ」

 山間の廃校までは、かなりの距離があるはずだが…瞬く間に着いてしまう。

 少しだけ、物足りない気持ちで、曖はゆっくりと瞳を開けた。

「…あぁ…」

 感嘆の声が、小さく愛らしい唇の間から零れ出す。

 玲は空中に浮かんだ儘、そんな曖を微笑みと共に見守っていた。

 すっかり壁を黒くしてしまっている小学校の廃墟が、純白の敷布からの照り返しを受けて眩しく輝いている。

 最早誰も駆け回ることの無い運動場には、柔らかく雪が重なり、鳥のものらしい小さな細い足跡だけが一直線に続いていた。

 陽光に融けて消え入りそうなその足跡の終わりには、巨大なクスノキが色濃い緑葉を纏って聳え立っている。

 …この大樹も、暫くすれば水の下になるのだろう……

 それでも今は、そんな行く末など案じることなく、この地は白銀の清らかな瞬きで、美しい衣を装っていた。

「…?」

 …そう。美しい…

 そして、清らかでもある。

 でも…

「どうしたの? 曖ちゃん」

 急に真剣な表情になる曖を、玲は驚いて覗き込んでいた。

「うん…この学校…少し、『静か』なの…」

「え?」

 確かに、当然ながら誰もいない。

 廃校の周りの家にも、もう殆ど人は残っていないはずだ。ダムの建設は、あと数ヶ月で始まるのだから…

 …ううん…曖ちゃんが言ってるのは…

 別の静けさだ。

 まるで…『死』のような…

 そう言えば、あの何十メートルもの幅で大きな枝を広げているクスノキにしても、全く風のそよぎを歌っていないではないか。

 雪の毛布の上に散る光の泡粒も、親しげに揺れ動いてはいるが…それも、まるで喜びを語っていない気がする。

「…帰る?」

 そっと気遣う玲の言葉に、だが曖は首を小さく横に振っていた。

「ううん…せっかく、来たんだもの…」

 …玲君が、連れてきてくれたんだもの…

 このまま帰ってしまうことは、曖にはとても我儘なことに思えたのだ。

「じゃぁ、降りようか」

 安心したように言うと、玲は静かに雪の上へと降りていく。

 誰も踏んでいない新しい雪…少しだけ、何故か怖くなって身を震わせながら、曖は玲に導かれるままに足を下ろしていた。

 ……とっても……柔らかいの……

 そのまま立ち尽くして、足下からの感覚に浸っていると、突然、その横で玲が頭を下にして飛び込んできた。

「きゃっ!」

 籠を取り落として慌てて駆け寄った曖の耳に、楽しそうな玲の声が聞こえてくる。

 真っ白い雪の粉を顔中に付けながら、玲は曖を見上げて言った。

「柔らかくって、気持ちいいね!」

 驚いていた曖も、すぐにくすくすと笑い出し…次には、同じように雪の上にうつ伏せになっていた。

 …本当! とっても気持ちがいいの…優しくて、暖かで…

 曖は、自分の家の周りに積もる雪も、今迄は随分と白いものだと思っていた。

 だが、このすぐそばにある雪は、もっともっと白いのだ。

「曖ちゃん!」

 聞こえてきた呼びかけに顔を上げると、不意に玲は両手で雪をすくって曖に振りかけていた。

「きゃっ…」

 だが、曖も普段の『鎧』などすっかり忘れて、すぐに雪の粉を投げ返している。

「うわっ!」

 互いに、どんどんと白くなっていく。

 その様子が共に面白く、二人は笑いながら暫く雪を掛け合っていた。

 その時急に、玲の姿が消えてしまう。

 きょとんとして見回す曖の背後で、玲はほんの少しだけ雪を彼女の首筋に付けていた。

「きゃっ!」

 その冷たさに驚く曖の姿に玲が大きく笑うと、曖は少し怒ってみせた。

「玲君!」

「あははは」

 追いかけてくる曖から逃げ出し、玲は広い運動場を走り始めた。

 すっかり雪にまみれてしまった子ども達の上に、淡い冬の光が射している。

 風も二人に寒さを感じさせないようにと歩みを緩め、あらゆる存在が玲と曖を優しく見守っている。その中で、ジョウビタキだけが舌打ちをするように、可愛くその騒ぎに抗議をしていた。

 曖に二、三度雪を投げ掛けられた後で、玲は不意に右手を天に伸ばすと、次には何気なく雪橇を手にしていた。

 青いプラスチック製の何の変哲も無い橇だが、それを見た瞬間、曖の胸がどきどきするほどの喜びを伝え始める。

 …楽しいのだ。

 いや…楽しくなりそうな予感が、確かに、胸元に込み上げてくるのだ。

 こんな感覚を、曖は随分と前に失っていた……

「ほら、あの築山で滑ろうよ!」

「うん…!」

 まるで葉をそよがせないクスノキのすぐ横が、僅かに盛り上がっている。

 二人はその頂点まで駆けていくと、玲は曖を前に乗せて滑り始めた。

 嬉しい笑い声が、曖の小さな体から溢れ出す。

 心の底から迸る喜びの歌を耳にしながら、玲も大きく笑い出していた。

 初めて逢った時には、曖は運動など嫌いだろうと思い込んでいた。

 だが、今、目の前にいる曖は、本当に嬉々として輝いている。

 その心の発散は、見守る玲に眩ささえ感じさせていた。

 多分…『僕だけ』が……

 …それも、玲自身、分かっていた。

 そう、玲だけが、曖の心を解放することが出来るのだ。

 そのことが、どれほど誇らしく…また、嬉しいことか…

 何度も何度も、飽きることなく、築山から雪橇は滑り降りている。

 水分の少ない雪は豪快な飛沫となって子どもたちの頭上に降り注ぎ、その度に二人は愉快な笑い声を憚ることなく白銀の乙女達の腕に運ばせていた。

 …この何年もの間、この辺りでは聞かれることの無かった音色を、風の遣いはそっと両手に包み込んで大切に届けていた……


 純白に煌く息を吐きながら、玲は雪の上で仰向けになっている。

 曖もその横に腰を下ろすと、灰色に霞む太陽の位置を見て、不意に自分がとてもお腹を空かせていることに気が付いた。

 慌てて置いたままになっている籠を取りに行こうと腰を浮かせた瞬間、隣で玲が勢いよく跳ね起きていた。

「お腹が空いたね。僕、籠を取ってくるよ」

「でも…」

 だが、そんな言葉を聞かずに、玲は校庭の向こう側へと走り出している。

 こんなに楽しませてくれているのに…

 何だか、悪いことをしているみたいに感じてしまう。

 自分が我儘なようで…曖は、少し居心地が悪くなって身を動かしてしまった。

 だが、そんな心配などまるで気にせず、玲はすぐに戻ってきてくれる。

 …いや、気にはしているのだ。

 曖が僅かに複雑な表情を浮かべていると、彼はにこりと笑って安心させるように言った。

「曖ちゃん、僕に気を遣う必要なんて無いよ。僕は、曖ちゃんの為になるのが嬉しいんだからね」

 その言葉に真っ赤になって俯くと、曖は小さく頷いていた。

 嬉しいのだ…だが、それに甘えるつもりはない。

 私も、玲君の為に頑張らないといけないの…

 雪の上に座りながら、お昼を手にして二人は互いに色々なことを話し始めていた。

 学校のことや、友達のこと…

 勿論、悲しいことは今は告げない。珠璃のことなど、とても話せたものではない…

 若しも必要なら、その時に語るべきことだ。

 魔法瓶の中の紅茶も、すぐに無くなってしまう。温かな飲み物は遊び疲れた体を優しく包み込み、交わされる言葉は胸中を春の息吹きで満たしてくれる…

 その会話の途中で、ふと曖は何かを言い掛けたが、急にそれを止めてしまうと真っ赤になって俯いてしまった。

「どうしたの?」

「ううん…きっと、玲君、笑うもの…」

 曖は恥ずかしそうに微笑みながら、玲を見詰めていた。

「僕、絶対に曖ちゃんを笑ったりしないよ」

 自分だけにではないかも知れないが…玲にそう言ってもらえることが、曖にはとても素敵なことに思えるのだ。

「…うん」

 嬉しそうに頷くと、曖は小さな声で続けていた。

「あのね…玲君。

 …やっぱり、その…サンタクロースさんっているのかしら…」

 そう、今日という日…クリスマスの日に、こんなにも幸せな贈り物を貰えているのだ…

 サンタクロースなんていない、って言う友達もいる。だが、他の誰が、こんな素敵な一日をくれるというのだろう…

 だが曖には、自信が無かった。

 消え入りそうな呟きに、玲は真剣な表情で頷くと、そんな曖に応えていた。

「そうだね…僕は、きっといると思うよ。

 みんなには、サンタさんが見えないかも知れない。だから、いない、なんて言う人もいるのかも知れない。

 でもね、曖ちゃん。僕には見えるんだよ。ううん、曖ちゃんにだって見えるんだ。

 すぐに、心の中にサンタさんを思い浮かべることが出来るはずだよ。

 それは、何処にでもいるような姿をしてるかも知れない。

 でも、そのどれもに似ているようで、でも違うんだ。きっと、僕の中のサンタさんと曖ちゃんの中のサンタさんも違うはずだよ。

 そんな、他のサンタさんとは少しだけ違っているサンタさんが、にっこりと笑いかけてくれるのを見たら…ね。いつでも、体中がわくわくして、楽しくなってくるんだ」

 玲の笑顔を見詰めながら、曖は小さく頷いていた。

 そう…曖にだって、見ることは出来る…

「だからね、曖ちゃん。

 そんな気持ちを、間違いなく僕や曖ちゃんにプレゼントしてくれるんだから、きっと、本当にサンタさんはいてくれるんだよ。

 今、ここにだって居てくれるはずなんだ。

 だって…僕は今、とっても幸せな気持ちを貰ってるからね」

 その言葉に、曖は目を見開いていた。

 玲君も、私と一緒にいて…幸せを感じてくれてるの…

 少し照れながら、それでも玲は真っ直ぐ自分に向かって、優しく、温かく微笑んでくれている…

 曖も心の中に広がる黄金色の輝きの儘に、美しい微笑をその頬に浮かべていた。

 薄い灰色の幕を貫いて、不意に黄金の斜光が廃校へと腕を伸ばしてくる。

 周囲の雲に輝く火の粉を撒き散らしながら、光の精霊は曖と玲を祝福するかのように、二人を優しく抱き込んでいく。

 その冬の陽光の波に包まれながら…玲は、その中に、偉大な光の精霊の輝きを…レフリゲリウムの輝きを認めていた……

 …《真実》の煌きを……

                                                                     7 寥落 おわり



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