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雪泥鴻爪  作者: 風光
6/12

6 荒神

「…これを見たら、又、曖ちゃん悲しむだろうね…」

 小さく溜め息を吐きながら、玲は読んでいた新聞を畳んでしまった。

 香笹町とは反対の方角になるもう一つの隣町、田所町でまた事件が起きたのだ。

 奇しくも曖と同じ年齢の少女が行方不明になって二日後、遺体となって見付かったそうなのだ。

 …どうして、こんなことが続くのかな……

 今日はまだ土曜日なのだが…玲は、少し、曖の様子を見に行こうと決めかけていた。

 立ち上がり、部屋に戻ろうとした瞬間、彼が拡げる網に、凄まじいばかりの邪気が接触する。

 その強さに怯みもせず、すぐさま玲は居間から『飛んで』しまっていた。

「玲?」

 恵菜が、目覚めたばかりで整えてもいない黒髪を覗かせる。

 だが、その時にはもう、ソファの前には金色の淡い光が揺れているだけだった。

「…変ねぇ。さっき、声がしたように思ったんだけど…」

 肩を竦めると、恵菜は洗面所に向かい、扉を閉めた。


「…?」

 玲が姿を現したのは、駅に近い公園の上だった。

 秋の草花が花壇に咲き乱れる広い公園の敷地を見下ろしながら、玲は注意深く辺りに『力』を広げていた。

 だが…すぐに、その細められていた漆黒の瞳に、当惑の色が浮かぶ。

 ついさっきまで感じられていた邪な気配が、今は何処にも見つけられないのだ。

 まだ朝早い時間で、人間の微かな『気』ですら、それ程多くはない。網の中には気になる存在もいるが、あの途轍もない力の源ではない…

「…おかしいなぁ」

 小学生の顔に戻りながら、玲は人に見られないように気を付けながら地面へと降りていた。

 そのまま、駅前のビルが立ち並ぶ方角へと向かって歩き出す。

 …絶対、あの辺りに感じたんだけど…

 緑豊かな公園を囲む、煉瓦を敷いた小道に出る。

 その上を歩き始めた時、すぐ目の前の曲がり角の奥から、幾人もの足音とどさっと何かが道とぶつかる音がする。

 玲は滑るような足取りで、その角に向かって駆け出していた。


「おい、爺さん。金、持ってるだろ」

 突き飛ばした少年の言葉に、左右の連れも嘲りを含み低く笑う。

「…い、いや、私は」

「持ってないなんてことはないよな?」

「ほらほら、早く逃げてみなよ」

「そのまま動かないんじゃ、面白くないだろ!」

 倒れ込んだまま恐怖で動けない老人を囲んでいるのは、どう見ても中学生以上には見えない。

 逃げも逆らいもしない老人に、その内の一人が舌打ちと共に蹴りを加える。

「ぐぅ…」

 苦しがる老人を見ても顔色一つ変えず、その少年は仲間に声を掛けていた。

「なっ、もういいだろ? 俺、一度、肋骨を折ってみたいんだよ。

 本当に、その折れる音が聞こえるんだよな?」

「あぁ、こんなカスカスの骨でも、ちゃんと聞こえるだろうぜ」

 その答えに満足げに笑みを浮かべると、少年は老人の襟首を掴んで半身を立たせた。

「ほら、立てよ!」

「や、やめ…」

 だが、その懇願は顔面に入った拳で停まってしまった。

「じゃ、やらせてもらうぜ」

 愉快そうに笑いながら、少年が老人の胸元を蹴り上げようとした瞬間、彼の体は大きく宙に弧を描いて弾き飛ばされていた。

 不意の衝撃に呼吸が止まり、呻くこともなく、少年は昏倒してしまう。

「随分、酷いことをするんだね」

 老人の前に滑り込みながら、深い静寂を漂わせる漆黒の双眸で玲は残る二人を見上げていた。

「な、なんだよ、こいつ!」

「…操られていたとしても…こんなことを楽しむ気持ちの『源』は、あなた達自身のものなんだよ」

「訳分かんないことを言ってるんじゃねぇっ!」

 傍に転がしていた短い鉄の得物を手にすると、玲に振り上げてくる。その棒を左腕で軽く受け流すと、目で認識出来ないほどに素早く背後へと回りこむ。

 軽く飛び上がり、首筋に音も無く手刀を打ち込む。

 少年が倒れる音を聞いて、初めて最後の一人は玲の移動に気が付いていた。

「くそっ」

 無謀にも、大きな動きで殴りかかってくる。

 玲は表情を消したまま、その腕を避けると少年の腹部に弾くような一撃を加えていた。

 道に倒れた三人を呆然と見ている老人に、玲は安心させるような笑顔を向けると言った。

「もう、大丈夫だよ。警察も来たみたいだしね」

 誰かが通報したのだろう。

 老人が近付くサイレンの音を確認してから向き直った時には…最早、そこに小学生の姿を見つけることは出来無かった。


 老人の前から素早く姿を消すと、玲はすぐ近くのビルの隙間で足を止めていた。

 薄暗い路地に顔を向けることもなく、静かに言葉を押し出す。

「…どうして、助けなかったの? 僕より先に気付いてたよね…」

 その低い声に、暗がりから一人の女性が現れ出ていた。

「私には関係の無いことだもの。

 私が興味を持っているのは、あなたの方よ。川瀬 玲君」

 二十代も半ばだろうか。栗色の豊かな髪が、ビルから吹き下りてくる涼風に靡いている。

 腕を組むその美しい女性を、だが玲は無表情のまま、振り向きもしなかった。


「どうして…! あいつが…」

 女性と玲を見下ろすビルの屋上で、短髪の少女が小さく驚きの声を発していた。

 もう十八歳になるが小柄な体格の為に幼く見えてしまうその少女は、スコープのモニターに視線を向けたまま、すぐに無線を叩き始める。

「04より00(ラヴ・オール)」

「…こちら00。どうかしましたか?」

「班長を呼んで! すぐに!」

 少女の声は急を告げているが、特殊安全調査室の調査本部の声は落ち着いたものだ。

 それもそうだろう。衛星からのモニタリングだけでは、喫緊の事態が進行しているとは分からない。

 彼女自身にしても、声は乱暴になっているが、僅かに呼吸が乱れた程度にしかデータは送信されていないだろう。

 特殊な訓練とは、結局、殆どの責任を自分自身で負わされる為のものだ。

 本部からの通信を待つ間も、少女はモニターと音声の保存を進めている。

「どうした、綺羅きら

 冷ややかで重い声が聞こえてくる。左右から同時に違う音声を聞き取りながら、少女は会話を始めていた。

「対魔委員会の委員が接触しているわ! 『能力者』の調査は私達の管轄のはずよ。

 直接接触は双方の保護の為に禁じられているはずなのに…まさか…」

「判断はこちらでする。そのまま、監視を続けるんだ」

「でも…」

「通信は終わりだ」

「…10・0(テン・ラヴ)」

 不満気に唇を尖らせてはいても、冷静に監視を続けている。

 眼下では、未だに会話が続けられていた。


「それに、彼等は斬肆ざんしに操られていた訳ではないわ。

 相手を人間とも思わず、弱者の逃げ惑う姿を見て喜び、面白半分に殴っていたのは『彼等自身』よ」

「……」

 玲は、ただ黙っているだけだった。

「あなたにも、分かっているんじゃないかしら、玲君。斬肆は、ただ、彼等の心を表に引き出しただけ。

 あれは、そうね、『事故』だったのよ。

 斬肆という夢魔は、『人間』が最も興味を感じるもの…『殺人』を実行してみたいと思う心を自らの『力』にしているわ。だから、斬肆がそんな『人間』の願いを素直に表現させようとしても、それを否定することは出来ないんじゃないかしら。

 奥に秘めていても、表面に現れても、それが『人間』の欲求や望み、願いであることに変わりはないのよ。

 そうであれば、あれは、何処にでも起こり得る『事故』の一つでしかなくなるわ。斬肆の存在は『きっかけ』でしかないのだから。

 それなら、私が出て行く必要は無いわ」

「…そんな願いなんて、本当じゃないよ」

「そうかしら。『人間』の願いだからこそ、妖夢界で夢魔として生まれたのよ」

「…『一部』の夢だよ。

 でも、僕はそんな夢を絶対に認めない。だから、例え借り物であったとしても、『力』があれば僕ならあのお爺さんを助けるよ」

 初めて、視線を女性に向ける。その冷たく光る瞳にも、だが彼女はまるで動じず、薄く微笑みを浮かべていた。

「それは、私がすることでは無いわ。警察の仕事よ」

「違うよ。僕達がするべきことだよ」

 …怒りを抑える事が出来なくなってきている。感情に導かれ、黄金色の光を身に帯び始めている玲を見ながら、彼女は突然くすくすと笑い出していた。

「特調の報告も、見ておくべきね。全く、報告通りだわ。

 …でも、そんな考え方じゃ、この世界では生きていけないわよ」

 そう言うと、不意に鋭く目を細め、彼女は玲の冷酷な視線を正面から受け止めていた。

「今は、『力』を抑えておきなさい。確かに、私が持つ護符ではあなたの『力』は防ぎきれないけど…別のことに、あなたの『力』は必要になるわよ」

 その言葉が終わる寸前、玲は驚愕の表情を浮かべ天空を見上げていた。

 途轍もなく強い邪気が、すぐ近くで放たれたのだ。

 四方に広がるその波の中で、別の力が応えて…共鳴、している…?

「あれが…」

「そう、斬肆よ。『人間』の『願い』を更に吸収して、随分と成長しているわ」

「倒さないんだね…」

 女性は僅かに唇の端を歪めると言った。

「当然よ。

 私の仕事は、あなたの『力』を手に入れること…まだまだ、先のことよ」

「…僕は、絶対に、あなたを認めないよ」

 玲は静かにそう言うと、凄まじい勢いで広がり続ける邪気の源へと向かって、飛び上がっていた。

 朝まだ早い蒼穹の中へと消えていく小さな姿を目で追いながら、女性は微かな嘲りと共に呟いていた。

「どちらでもいいことよ。敵になるのなら、あなたを殺せばいいだけだから…」


 ……………………………………………………………………………………………


「珠璃、遠くに行っては駄目ですよ」

「うん、うん!」

 母親の声に答えながら、小さな珠璃は神社の裏手にある古い倉へと歩いていった。

 まだ少し、大好きな龍真が帰ってくるには時間がある。

 それまでの僅かな時間を、幼い珠璃は倉の中で過ごすことに決めていた。

「あのね、あのね…お兄ちゃん、先に遊びに行っちゃったんだよ」

 誰に向かってでもなく、ちょこちょこと駆けながら愛らしい声で呟く。

「でもね、でもね。それはね、珠璃がお寝坊しちゃったからなの」

 大きな倉の前まで来ると、精一杯腕を伸ばし、背も伸ばす。

 あまりに古い鍵は、最早その役目を担わなくなってから随分と久しい。

 倉の入り口は、幼稚園児の小さく丸い指先でも、簡単に開ける事が出来るようになっていた。

 中にあるもう一つの扉を開けることも、珠璃にとっては一仕事だ。だが、その困難が楽しいのだ。

 それに、倉の中まで入ってしまえば、そこにはいつも静かで気持ちの好い空気が満ちている。

 龍真に教えてもらってから、この場所は珠璃にとって一番のお気に入りになっていた。

 いや、それは龍真にとってもそうだ。そして、龍真の両親にとっても、そのまた両親にとっても…

 …だから、誰もここが危険な場所だとはまるで認識していなかった。

 もう少しで、扉が開く…

 お気に入りの場所に入る為なら、少しくらいの苦労を厭ったりはしない。

 漸くのことで、自分だけは入れる隙間が出来る。

 珠璃はにっこり笑うと、中へと身を滑り込ませていた。

「うん、うん…大きなのが、いっぱいあるの」

 それは、ずっとそこにある。大きな木製の箱だ。

 宮木の板で作られたその木棺を、珠璃は触りもしなかった。

 今日の目的は、この木棺に乗って遊ぶことではないのだ。

 珠璃は家から持ってきた白いチョークを取り出すと、倉の真ん中に向かった。

 深い沈黙の中、幾つも並べられている棺の間を一人で縫っていく。

 この場所についての知識を持たない珠璃にとって、ここはただの面白い場所でしかない。

 だが、この倉の中こそ、邪を封じていると伝えられている場所なのだ。

 もっとも、知っていたとしても同じことだろう。

 それは、ぼんやりとした暗がりの奥に消えかかる過去からの声にしか過ぎない。

 掻き乱す必要は無いが、過度に怯える必要も無い。

 今の宮木神社にとって、ここはそんな場所になっていた。

 朝の光が、小さな高窓から天井に向かって射している。その光の下まで来ると、珠璃は床に腹這いになっていた。

 大きく、力一杯、線を描き始める。

 残念ながら、何を描いているのかは珠璃本人にしか分からないが、幼女は大好きな兄に見せて喜んでもらおうと、ただ必死に絵を描き続けていた。

 怒られる心配は無い。ここでは、何をしてもいいことになっている…珠璃はそう思っていた。

「ね、ね…お兄ちゃん、そう言ったんだよ」

 時折、小さく愛らしい呟きが、沈黙を裂いて広がっていた。

 時間の矢は、瞬く間に頭上を過ぎていく。

 巨大な絵もそろそろ完成しようかという頃、珠璃はふとすぐ傍の木棺が震えていることに気が付いた。

「…?」

 今迄に無い、初めての出来事だ。

 小さな体は好奇心の儘に立ち上がり、その棺へと歩み寄ろうとした瞬間…

「珠璃、何処だ?」

 外から戻ってきた龍真が、入り口から呼んでいる。

 待ちに待っていた、大好きな声だ。

「お兄ちゃん!」

 珠璃は木棺のことなど忘れ、振り返るとすぐさま入り口に向かって駆け出していた。

「あのね、あのね…」

 暗がりから走り寄ってくる愛らしい姿を龍真が認めた時、彼はそのすぐ後ろから滑ってくる別の黒い影に気付き、口を開きかけた。

「珠璃…」

 不意に沸き起こる不安と恐怖に、龍真が走り出す。

 その、龍真の目の前で、『何か』は珠璃の背後に追い付き……

 …龍真には、一瞬、珠璃の小さな体が床から飛び上がったように思えた。

「しゅ…珠璃…」

 動けない……

 …あれは、…何だろう……

 ……珠璃の腹部から飛び出している……あの、…赤く、濡れたものは……

 …動けない……

 幼い体を貫く…血塗れの腕を見ても……

 ……涙など、…出てこない……

 信じられない…嘘、だ……

 愛らしい幼女の体が、軽く投げ捨てられる。

 無邪気な絵が、広がる赤黒い液体に消されていく…

 光の中へと現れ出てきた者がいる…だが、龍真は微動だにしなかった。

 …自分も…危ない…?

 ……まさか……『嘘』なんだ…危ないはずがない……

 そんなはずがないんだ…!

「…嘘だ! 嘘だ! …信じるもんか!」

「じゃ、死ねばいいわ」

 冷めた声が流れる。

 だが、最早龍真にはそんな声など聞こえていなかった。

 軽やかに床を蹴ると、女が龍真目がけて襲いかかってくる。

 振り翳す手が、動かない少年の頭部を削ぎ落とそうとした瞬間…

「…ヌアクサンダザラダンカン!」

 少年にしては高く、まだ幼さが残る声が入り口から飛び込んでくる。

 ぶつかってくる声の波を両手で防ぎながら、女は床に降りると真言の源に目を向けた。

 龍真の背後で、一人の少年が胸元に剣印を結んでいる。その小さな唇は微かに震え、口中では小呪が生まれ始めていた。

「チッ!」

 周囲に編み出される『力』の大きさを知ると、女は悔しそうに美しい顔を歪ませる。

 不意に身を翻すと、女は天井に向かって飛び上がり、そこを破って逃れようとした。

「臨・兵・闘・者…」

 追いかけるように、九字が切られる。

 人差し指と中指を伸ばした刀印が、宙を切るごとに白光の軌跡を闇に描く。

「クッ…」

 振り返り、諸手に集めた静電気の壁で『力』を防ぎながら、女はそのまま屋根を突き抜け、そのまま飛び去ってしまった。

「くそっ!」

 不満気に、その後を見送る。

「神社の結界が無かったら、逃がしたりしないのにな」

 少年は今になっても動かない龍真の前に回り込み、その顔を覗きながら声を掛けていた。

「おい! 大丈夫かよ」

 だが…龍真は大きく目を見開いた儘、何も言わない…

 涙すら出てこない瞳は、自分の肩を持ち、大きく揺さぶる少年の姿さえ捉えてはいなかった。

 少年の鳶色の瞳が、微かに揺れる。

 龍真の心が既に破片となって砕け散っていることを知ると、脇に転がる珠璃の死体に目を流し、少年は舌打ちをした。

「…火界呪にでもすればよかったかな」

 普段は強気な声も、流石に僅かな湿り気を帯びている。

 その時になって、漸く、神主である龍真の父親が異変を察して駆け寄ってくる姿が見えた。

せい殿!」

 少年…いや、少女である隠剣おつるぎ 聖は、哀しい笑みを浮かべながら、倉を出て彼を迎えた。

「…逃がしちゃったよ。欲界の第二天…煩悩魔だったんだ」

 そう呟くと、集まってくる人々を背に聖は歩み去っていく。

 悲しみの声が大気中に広がっていく…

「くそっ!」

 聖は遣り切れぬ思いの儘、足下の小石を何度も何度も蹴り飛ばしては、その軌跡を目で追っていた…


 ……………………………………………………………………………………………


「やっと見つけたよ…斬肆」

 力を放ち、合図を送り続けていた若者は、不意に聞こえてきた静かな声に驚き振り返っていた。

 だが、目の前で浮かんでいるのは、ただの幼い少年一人だ。

 若者は薄く笑みを浮かべると、銀色の短髪の下から嘲るような目を覗かせて言った。

「貴様か…俺の行動を探っていたのは」

「そうだよ。封印を破られてから、ずっとお前を探していたんだ。

 やっと、見つける事が出来たよ」

 玲の体を、黄金色の揺らめきが覆い始める。

 鋭い漆黒の瞳に曝されても、だが、斬肆は落ち着き払った声で肩を竦めていた。

「…成程な。あの封印からは想像出来ないほどの『力』が、貴様にはありそうだ」

 探している『対』を…撕尸ししをここに呼び寄せるつもりだったが…

 この少年が、危険であることは間違いない。

 …なら、先に始末した方がいいだろう。

 何の前触れも無く斬肆は右手を突き出すと、その指先から青白い光を放った。

 その細く鋭い光の矢を、玲は片手で軽く払ってしまう。

「…凄い静電気だね」

 何気なく呟くが…

 掌で受けた衝撃に、玲は無表情だった頬に微かな緊張を走らせていた。

 …若しかすると……

 そう…僕には、倒せないかも知れないね…

 ……自分の『力』の限界は知っているつもりだった。

 でも……やってみよう。

 …井村さんの時のように、悔やんだりしたくないからね…

 玲は胸ポケットのケースからカードを4枚取り出すと、斬肆に向かって次々と投げつけた。

 次には、その場から姿を消してしまう。

 斬肆は青白い壁をめぐらせ鉛色の光跡を防ぐと、直後、凄まじい爆発に巻き込まれる。

「クッ…」

 端正な顔を歪め、斬肆は全身を貫く痛みに耐えながら周囲を警戒する。

 炎と煙の汚れた大気を、風の乙女が払い清める。

 その瞬間、高めていた『力』の塊を振り翳し、玲は背後から斬肆に向かってぶつけようとした。

 だが、目の前で、銀髪の若者の姿が消えてしまう。

 それでも慌てることなく、表情を消した少年はそのまま『力』を奔流に変え、頭上に放っていた。

「何!」

 回り込んでいた斬肆は、急いで静電気の壁を描き出していた。

 間を空けずに玲が再びカードを投げようとした時、不意に彼は真横から雷光を受け吹き飛ばされてしまった。

(…!)

「情けないじゃないか、斬肆」

 美しい女が、呆れた声で近付いてくる。

 その言葉に、斬肆は乱れた呼気を整えながら、舌打ちをして言った。

「お前の為に、わざわざこんな世界に来たんだぞ、撕尸。お前こそ、今まで何処に封じられていたんだ」

「随分と汚い倉の中だよ。

 それより、先にあの子を始末しようじゃないか」

 幾分薄れた黄金色の光を纏う少年を見ながら、撕尸が嬉しそうに笑う。

 斬肆も微かに笑うと、二人は素早く散り、玲を上下から挟み込んでいた。

(…!)

 軽く唇を噛み、玲はその場で移動を止めた。

 斬肆と撕尸が互いに向かって手を伸ばす。

「………………!」

(……?)

 すぐさま『力』を高める。

「遅い!」

 青白く細い光が玲を囲み、上下に走る。

 嘲りの声が響く中、斬肆の掌から生じた太い光の円柱は玲を飲み込み、撕尸の掌へと向かって落ちていた。

「う…うわぁぁ……!」

 玲の小さな体を、無数の光の槍が突き抜けていく……

(…曖ちゃん……)

 焼け付くような痛みが全身を貫く。

 眩い青の光の中、少年の姿は薄れ…やがて、消え入ってしまった。


 朝の支度を手伝って、無事に父親を送り出す。

 廊下で見送った後、玄関を閉めて鍵をかける。

 靴を脱ぎ、廊下に立って家の中を振り返った途端…

「…!」

 不意に、胸元に鋭い痛みを感じて蹲ってしまう。

「…玲、君…?」

 苦しい…

 …知らず、強く閉じた瞳から涙が溢れ出している…

「玲君…玲君……」

 玲君が…助けを呼んでいるの…

 …だが、曖に一体、何が出来るのだろう。

 廊下に倒れこみながら、押さえている胸元で両手を組み、力一杯握り締める。 

 そのまま、曖は『何か』に向かって必死に祈り始めていた。

 …いや、言葉では無い。名前だ。ただ、玲の名前だけを…ずっと、曖は繰り返し祈り続けていた……


「…! 04より00」

 観察を続けていた綺羅は、青白い光に玲が飲み込まれた瞬間、僅かに乱れた声で本部を呼び出していた。

「こちら00。大きな現象は把握している」

「目標が殺されるわ。接触の許可を…!」

 …あまりの『力』の発現を前に、綺羅の声にも動揺が走り、語気が強くなっている。

「駄目だ。接触はするな」

 班長自身の声が割り込んでくる。自身でモニタリングしていたのだろう。

 …班長もまた、対魔委員会の動きを探り始めているのだ。

 いや…既に知っていて、そのように振る舞っているだけかも知れない。

「まだ子どもなんですよ! 例外を…!」

 目の前で、幼い命が消えようとしているのだ。しかも、自分なら、それを止められるかも知れないのだ。

 噛み付く綺羅に、班長の声は冷淡そのものだった。

「例外は無い。『力』の規模と種類、その成長過程の確認と記録がお前の任務だ」

「ですが…!」

 声は怒りを帯びている。

 だが、彼女自身は身動き一つせず、指先は冷静に画像と音声の記録を続けている…

 …それが彼女の任務だ。

「動くんじゃない、綺羅」

 聞き慣れた声が、突然会話に飛び込んでくる。

鋭狼ときろう…」

 今も、彼は見守ってくれているのだろうか…

 七つ年上の彼の言葉は、綺羅の言葉から勢いを殺いでしまう。

「以上だ」

「…10・0」

 落ち着き払ったその言葉に、綺羅はただ小さく呟くだけだった…


「もういいんじゃない? 斬肆」

 撕尸の言葉に頷きながら、斬肆は諸手を引いた。

 …収まっていく光の中には、最早何者の姿も残ってはいない。

 満足そうな笑みを唇の端に浮かべると、銀髪を揺らしながら斬肆は美しい女性の姿をした撕尸に近寄った。

「少し、あっけなくはないか?」

「いいじゃない。いないんだから」

 撕尸は興味無さそうに肩を竦めると、すぐ脇に浮かぶ斬肆の腕を取った。

「それより、折角なんだから、半年はこっちで遊ばない? わざわざ、『力』を使って戻らなくてもいいでしょ。

 さっきも一つ壊したんだけど、邪魔が入って遊べなかったのよ」

「幾らでも、壊す物はあるじゃないか」

 何も知らずに眼下を歩む人々を指差している。

 撕尸も綺麗な笑みを零す…

「…えぇ。でも、その前に、少しだけ手伝って欲しいこともあるのよ」

 深い…何処までも深い蒼穹の中を、二人の夢魔の姿は消えていこうとしている。

 …だが、あの夢魔の追跡は自分の任務ではない。

 ただ…綺羅にはマーカーを付けて見送ることしか出来無かった。


「うっ…」

 無惨に変わり果てた少年の姿…

 その身体に、細い腕がそっと添えられる。

 静寂を帯びる漆黒の瞳にも、今は哀れみを浮かべながら…若者は自らの『力』をほんの僅か、少年の身体へと注ぎ込んでいた。

 刹那、暖かな黄金色の光に、優しく少年が包み込まれる…

 若者にとって、斬肆や撕尸の『力』など危険なものではない。だが、この少年にとっては…

 …救い出されなければ、この少年の存在は塵と化していただろう。

 一瞬にして光は弾け、血痕や火傷の痕が消えていく…

 『時間』を秘める輝きが消えた後には、少年はベッドの上で深い眠りに就き、安らかな寝息を立てていた。

「…可哀想に。まだ、辛いことを聞かされるだろう…」

 声だけが部屋に広がる。

 若者の姿が失せた部屋で、何事も無かったかのように、少年は穏やかで優しい眠りの世界を楽しんでいた…


「玲! 玲!」

「…ん…?」

 小さく伸びをすると、ベッドの上で半身を起こす。

 …あれ? ここ…

 だが、考える暇もなく、激しい勢いと共に扉が開かれ、恵菜の叫び声が飛び込んできた。

「寝てる場合じゃないわよ! 龍真君の妹が…」

 姉の言葉に、驚いて跳ね起きる。

「珠璃ちゃんが、どうかしたの?」

 見ると、恵菜の後ろには息を切らしている和輝の姿がある。

 恵菜は、玲を真っ直ぐ見つめると、臆することなく正直に伝えていた。

「珠璃ちゃんが、亡くなったそうよ」

「……!」

 不意に、今朝の出来事の全てが脳裏に甦る。

 撕尸は何処から現れた…? あの方角は……?

 まさか…

 …いや……

 珠璃ちゃんは…殺されたんだ……

 ……なのに…

 僕は…何も出来無かったんだ…あの夢魔達を倒せなかったんだ……

 いつも龍真の横にいて…それだけで、ただそれだけで幸せそうな笑みを満面に湛えていた、幼い珠璃の姿が浮かんでくる。

 全身から力を失い、その場に座り込むと玲は涙を流し始めていた。

「玲!」

 恵菜は駆け寄ると、そんな弟の肩を優しく抱き締めていた。

「…いい? 聞くのよ!

 今は、泣いている時じゃないわ。玲よりも、悲しんでいる人がいるでしょう? その子の傍にいてあげられるのは、玲達だけなのよ!」

 力強い言葉は、だが、小学四年生の少年には厳しすぎるものかも知れない。

 これ程も身近な『死』を、玲は初めて感じているのだから…

 だが、恵菜は分かって欲しかったのだ。いや、分かるはずなのだ。

 亡くなった珠璃も大切だが、今、生きている人もまた、玲にとって大切なのだ…

 今、辛いのは、玲だけではない。

 その時、和輝は何も言わずに近付くと、玲の手を取っていた。

 その手もまた、震えている…

 玲は涙に濡れる顔を上げると、和輝を見、そして恵菜に視線を向けると言葉を押し出した。

「…行ってくるよ。

 きっと、龍真君には僕達が必要だからね…」

「そうよ」

 大きく頷く。

 そんな恵菜に精一杯の力と気持ちで笑い掛けると、玲は立ち上がった。

「ありがとう、和輝君」

「うん。さぁ、行こう」

 その言葉を合図に、二人は部屋を飛び出していた。


 ……………………………………………………………………………………………


 …血だらけになって…動かない…

 ……もう…二度と……

 いや……

 …愛らしい声が、聞こえる……可愛い…いつも近くにいた…あの声、が…


 あのね、あのね…お兄ちゃん……


 どうして……

 …あの、嬉しそうな笑顔が……

 …どうして…無くなるなんて……

 そんなことが……どうして…あるだろう……


 ……ほら…


 …そこに……見えるじゃないか…



 …お兄ちゃん…珠璃ね……



 ……龍真は、独り、自分の世界だけを見つめていた…



 ……………………………………………………………………………………………


 しめやかに、珠璃の葬儀は執り行われている。

 眩燿寺からも、わざわざ僧正が遠路も辞さず訪れている。

 外陣も含めた四方には強力な結界が張り巡らされ、特別な『力』を有するものも、翳月山を挙げて集められ宮木神社を守っていた。

 宮木は邪力を萎縮する…その『力』は決して偽りではない。だが、あの煩悩魔はその宮木の木棺から逃れ得たのだ。

 その『力』に多少なりとも依存している翳月山の者にとって、珠璃の死は他人事ではない。

 様々な『力』が交錯する中、玲はずっと龍真の横に付き添っていた。

 珠璃を目の前で殺されて以来…彼は、何も言わず、何も食べようとはしない…

 まるで…人形のようだ。

 和輝もまた、むせび泣く綾子を支えながら、隣で葬儀を見守っていた。

 皆、黙り込んでしまっている。

 『死』が、これ程も重いものだとは…だが、龍真が負ってしまったものの方が、自分たちが感じているものよりも遙かに重いのだ。

 一体、玲達に何が言えるというのだろう…

 いつしか、葬儀も終わりに近付いている。

 あの愛らしい幼女を送り出すには、短過ぎる気もする儀式の終焉……

 その時、不意に二つの強大な『力』の渦を感じ取り、玲は身を引き締めていた。

 …間違いない。斬肆と撕尸だ。

 玲は和輝の視線を捉えると、そのまま龍真に導いた。綾子の肩を抱いたまま、その理由は全く分からなかったものの、和輝は小さく頷き返す。

 すぐに立ち上がると、玲は音も無く部屋から退いた。

 同じ頃、宮木神社を囲むあちこちでも微かな動きが生じ始める。だが、宮木神社の神主からは、一つの可能性を試みるまで、その行動を制限されていた。

 その神主本人は、一人静かに、玲の後を追って抜け出していた。

「川瀬君…」

 呼びかけてくる声に驚いて足を止めると、玲は振り向き、そこに龍真の父親の姿を認めていた。

「…おじさん…分かるんですか?」

「あぁ。

 そして、私の『力』だけでは勿論のこと、君の『力』でも、あの魔物は倒せないことも分かっている…」

「…そうですね」

 向き直ると、真剣な表情で玲は彼を迎えていた。

「でも、僕は絶対に赦しません。

 珠璃ちゃんや龍真君に、あんな酷いことをして…絶対に、赦せないんですよ…」

 流れ出す言葉に従い、玲の体を黄金色の焔が嘗めていく。

 宮木神社の神主は重く頷くと、先に立って少年に告げた。

「こちらに来なさい。あの者達の狙いも、おそらくはあれなのだろう…」

 その言葉に逆らえず、玲は歩き出した神主の後を黙ってついていった。

 幾つもの部屋を通り抜けていく。

 今、自分が何処にいるのか…まだ、宮木神社の中なのか、或いは全く別の空間に入り込んでしまったのか、次第に分からなくなってしまう。

「…ここだ」

 漸く歩みを止めると、神主は廊下の脇の小さな戸に手を掛けた。

 音も無く引き、部屋の中へと入る。

 そこは本当に小さな部屋だった。すぐ奥には、これも小さな祭壇がしつらえてある。

 …何があるのかは、薄暗く、よく見えていないが…そこに存在する『何か』から溢れ出す『力』は、凄まじく…そして、眩い…

「ここに、あの撕尸を封じる際に使われた神剣がある。

 …恐らく、あの者達もこれを奪うつもりなのだろう…」

 奥へ進むと、祭壇の中に手を伸ばしている。

 玲がすぐ後ろに立って黙って控えていると、突然、目の前に鞘に納められた長剣が差し出された。

「これを、抜いてごらんなさい」

「え?」

「龍真は残念ながら、この剣を継承する『力』は持ち合わせていなかった。

 だが、君であれば、もしや……」

 戸惑いながら、長剣を受け取る。

 何も言わずに柄に手を掛けると、ゆっくりと…鞘を引いた。

 滑らせて生じた僅かな隙間から、強烈な『気』の渦が迸る…

「うっ…」

 その『気』の勢いに、思わず手が止まる。

「急ぎなさい!」

 厳しい言葉に、玲は躊躇いを捨てると、一気に剣を抜き放っていた。

 銀色の光が、小さな部屋に広がり、乱舞する。

 その美しい『気』の奔流の中で、神主は静かに呟いていた。

「やはり…君には、抜くことが出来るのか…

 川瀬君。これから、この神剣…縛羅ばくらは君のものになる。

 君は…この神剣を手にする為に、この宮木に生を享けたのだよ…」

「え…?」

 だが、玲の言葉はそれ以上続かなかった。

 対の『力』が、すぐ頭上まで迫ってきているのだ。

「行きなさい」

 その言葉が消えゆく前に、玲の姿は部屋から失せ…あとにはただ、僅かな黄金色の揺らめきだけが、暗闇を背に浮かび漂っていた。


 秋の、澄み切った青い空が何処までも広がっている。

 まるで…悲しみなど、存在していないかのように。

 その蒼天を背にして、斬肆と撕尸は薄く笑みを浮かべながら、宮木神社を遙かに見下ろしていた。

「ここか…」

 幾つかの『力』が錯綜している。だが…関係無いことだ。

 斬肆の言葉に無言で頷くと、撕尸は諸手に静電気を集め始めた。

 彼も、すぐにそれに倣う。

 高まっていく『力』を頭上に振り翳し、今にも神社の結界の中へと突入しようとした瞬間…

 目の前に、小さな影が揺らめいた。

「…!」

 僅かに左右に散り、身構える。

 そんな二人の前で、幼い体に不釣合いな長剣を手にした少年の姿が顕現した。

「なんだ、まだ生きていたのか」

 浮かぶ玲の姿を見て、斬肆が軽く嘲笑う。だが、その横で、撕尸は恐怖に美しい顔を歪ませると、少年の手にある抜き身を見ながら喘いでいた。

「それは…縛羅…!」

「これがだと?」

 動揺する夢魔を前に、玲はただ黙り続けていた。

 両手で軽々と縛羅を握り締めながら、静かに『力』を高めていく…

 身を覆う黄金色の凄烈な光は大気を焼き焦がし、その小さな体からは、今迄に発せられたことが無い程の『力』が波打ち、押し寄せてくる。

「グッ…」

「…絶対に……赦さない…」

 不意に、微かな呟きが零れる。

 だが、そこに最早憤怒の色彩は無く、冴え冴えと澄んだ…透明な《虚無》だけが響いている。

 言葉が宙に溶け込むや否や、玲の姿はその場から消えていた。

 次には、斬肆のすぐ後ろで音も無く長剣を振り上げている。

「…!」

 だが、斬肆も集めていた『力』で青白い盾を描くと、素早く刃の下から移動した。

 当てるつもりなど無いかのように、そのまま玲は青白く光る静電気の塊を切り裂いている。

 長剣から迸った銀色の光の奔流は、斬肆の盾を無に帰してもなお力を衰えず、更にそのまま眼下の宮木神社へと伸びていく…

「……!」

 我に返ると、玲はその光を止める為に先回りしようとした。

 だが、夢魔はその意図に気づき、邪魔をする。

 互いが対峙したその時、不意に両者は動きを完全に止めてしまった。

 …辺りの景色の『表面』を切り裂いて…虚ろな『何か』が走ったのだ。

 突然日が沈み、薄い青闇が広がった気がする。全ての事物が曖昧になり、霞む。

 これは…何?

 新たな敵を警戒し始めた一瞬の隙を縫って、縛羅の『力』は宮木神社に到達し、凄まじい爆音と共に全てを破壊していく。

「しまった!」

 木材を引き裂く、轟音が空間へと満ちていく…

「…そんな!」

 目の前で崩れていく屋根の下には、綾子や和輝達が居るはずだ。

 更なる『死』を、…玲自身の手がもたらして…

「…大丈夫。ここは、俺の結界の中だからな」

 恐怖に顔を引き攣らせている玲の頭上から、静かな…深みある声が零れ落ちる。

 その声の抑揚を耳にした瞬間、玲は一瞬、志水のことを思い出していた。

 だが、その沈黙と優しさを共に伴う言葉の連なりには、未だ僅かに幼さが感じられる…

 更に、不思議なことにその言の葉を耳にした瞬間、玲は疑いもせず穏やかな安心を覚えてしまっていた。

「驚いたよ。新しい空間も創らずに、いきなり始めるんだからな」

 続けられる言葉と共に、玲の目の前に少しだけ彼よりも年上であろう少年が姿を現していた。

 やはり、志水と同じ黒髪をしており、その漆黒の瞳の奥には『時間』の秘めた力が豊かに満ち溢れている気がする…

 …そう言えば……

 自分を助け出してくれたのは、この少年なのだろうか……

「それは違うよ。いや…俺になるのかも知れないが、少なくとも『今』の俺じゃない。

 それと…終わったら、あの子のところに行くんだぞ? 必死で祈り続けてるんだからな」

 あの子…?

 不意に、脳裏に曖の姿が浮かび上がる。

 …そうだったのか……

「おい、ここは…」

 世間話でもしているかのように無防備な少年を、斬肆と撕尸は警戒しながらその行動を窺っていた。恐らく、敵なのだろうが…

 当の本人は身構えもせず、夢魔の低い呟きに軽く肩を竦めると向き直って答えていた。

「だから、単なる新しい結界の中さ。眩燿寺と宮木神社の結界じゃ、縛羅の『力』は防げなかったからな。

 結界の創造は、新しい空間と新しい時間をそこに創り出すことだ。この中なら、好きなだけ壊しても元の世界には影響は無いよ」

「でも…」

 空間の創造は、玲にも出来る。だが…『時間』を含めた結界の創造など、簡単に出来るはずがない。

 それに…絶対、何かに影響が…

 玲の心配そうな視線には応えず、少年は何でもないかのように続けていた。

「それよりも、早くこの夢魔達を倒した方がいいだろう。

 近頃、この辺りで暴れていたみたいだからな」

 初めて、冷ややかな視線で斬肆達を見る。

 その視線を受け、素早く二人は全身に青白い静電気の煌きを纏い始めた。

 玲も、再び剣を構え直す。そして、目の前の少年に静かに言った。

「…手は出さないでね。…僕が、倒すんだ」

「……」

 結界の中であることを知ると、最早純粋な怒りは留まることを知らず増大していく。

 素直に吐き出されていく途轍もない『力』を真剣な表情で見ていた少年は、すぐに片目を瞑ると脇に身を引いていた。

「分かった。俺は見学しておこう」

「…ありがとう」

 縛羅からも、玲の『力』に呼応して銀色の波が走り出す。

 斬肆と撕尸は、既に集めていた『力』を使い、少しでも先に動こうとした。

「……!」

 だが、不意に凄まじい『力』の塊が目の前から消え失せてしまう。纏う黄金色の光も、剣が発する銀光も、薄闇の中へと溶け込んでしまったようだ…

「馬鹿な…!」

 移動したのなら、すぐに分かるはずだ。あれ程の『力』、隠せるはずがない…

 驚く夢魔達を前に、黒髪の少年は愉快そうな笑みを浮かべると、顎で先程まで玲が居た場所を示していた。

 改めて視線を向けた瞬間…だが、斬肆も撕尸もその身は既に、銀色の奔流に飲み込まれてしまっていた。

 玲は動いてなどいない。ただ、全てをあまりに深く、重く、静かに……まるで、深淵の奥を覗き込んだ時のように、限りなく虚ろな《無》へと、その様相を変えてしまっただけなのだ。

 それは玲自身も、今迄に感じたことの無い新たな 『力』の様相だった。

「…! この力……?」

 消えていく夢魔の悲鳴に、厳しく静かな声が応えていた。

「そう。龍の…『負』の『力』だよ。

 お前達の上に立つ存在の『力』だ…」

 だが恐らく、少年の言葉は夢魔の元へは届いていなかっただろう…

 縛羅が放つ猛烈な『力』の渦が、次第に収束していく。

 自分の手の中から生まれたその光を、玲は脱力したように呆然と見つめていた。

 そんな彼に、少年が滑るように音も無く近寄ってくる。

「あの斬肆と撕尸は消えた。

 だけど、次の斬肆や撕尸がすぐに生まれるだろう。

 同じ人間を弄んで殺したい…そんな望みや、遺体さえ単なる『物』としてしか見ない心が、人間から無くならない限りは…な」

 落ち着き払ったその言葉に、玲は呟くように答えていた。

「…また現れたら…僕が倒すよ。

 あんな夢魔を、僕は絶対に認めない…」

「……」

「例え、一部の人間の欲望だとしても…人間なんて、すぐには変われないから…

 きっと、僕は、斬肆や撕尸を何度も倒さないといけないんだ…

 …その為に、僕の『力』はあるんだ…きっと……」

 小さな呟きに、少年は微かに笑みを頬に映す。

 そして黙ったまま、指を鳴らした。

 瞬時に、全ての存在が鮮やかな色を取り戻す。

 破壊されていた風景も、以前と変わらない、元の姿に戻されていた。

「…今は、これでいい。

 だけど、どれだけ辛くても、今回のように怒りのままに『力』を使ってしまえば、その全ての『業』は君に返ってくるぞ?」

「…構わないよ。…もう、珠璃ちゃんは戻ってこないんだ。…龍真君だって……」

 諭すような言葉に低くそう答えると、玲は今は光を収めた縛羅に視線を向けた。

 今はもう、ただの古びた長剣にしか見えない。この剣が生み出す『力』の『業』を、自分一人で受け止め続けることが出来るのかどうか…

 だが、それでも、やはり、この長剣をこれからも使い続けるのだろう。

 この縛羅は、玲を選んだのだから。

「…そうだな。それも『人間』なんだろうな」

 少年は真剣な声でそう言ったかと思うと、次には片目を瞑ってみせた。

「まぁ、今回の『業』については、君は特別に防御する必要は無いよ。

 あれは、俺が創った結界の中でのことだからな。あの中で起きた全ての出来事に関する『業』は、全部俺に返ってくることになる」

「じゃぁ…」

 やっぱり…

 結界を創ったとしても、この世界に全く影響が無いわけではないのだ。

 心配そうに目を上げる玲に、少年は屈託無く笑うと言った。

「大丈夫。また、何処かの神にでも肩代わりをさせるよ」

 少年が地上へと降りていくのに合わせて、玲もゆっくり下降を始める。

 沈んだ顔付きのままの玲を振り返りながら、少年は思い出したように言った。

「この宮木神社の跡取り…龍真君か、彼については心配しなくてもいいだろう」

「…」

 心配しなくてもいいはずがない。

「彼は、君が思っているほど、弱くはないよ」

 静かな口調でそう言いながら、少年は目を転じると続けた。

「今頃はもう、新たな『力』を身の内に見出しているだろう…そうですね? 神主さん」

 ゆったりとした足取りで出迎えていた龍真の父親は、名も知らぬ少年の問いに応え、重く頷いていた。

 直後、玲も龍真の『変化』を感じ取る。

 あまりの驚きに目を瞠り、彼はただ黙って二人を見ていた。

「…これからは、彼も能力者の一人になる。

 今なら、その縛羅でさえ扱えるはずだ。もっとも…内に宿る存在に頼って…だけどな」

 少年の目には…僅かに、哀れみの色が映っているかも知れない…

 彼の言葉に、玲は神主に向かうと、手の中の剣を差し出そうとした。

「この剣、返しましょうか…」

 だが、宮木神社の主は、そんな玲に強く頭を振った。

「いや、それは玲君のものだ。

 龍真には、新たな如意宝珠があるのだから…」

 その言葉と共に、三人を重い…あまりにも重い静寂が包み込む。

 …そう。

 その『力』の源たる如意宝珠を…誰が、好んで与えたりするだろうか……

 ふっ…と小さな溜息を吐くと、沈む気持ちを振り払うかのように短い黒髪を揺らし、少年は軽く地面を蹴った。

「あの泉…妖夢界への扉は俺が封印しておくよ」

 宙に浮かびながら、二人を見下ろし、言葉を続ける。

「残念ながら、あそこはまだ閉じる《時》が来ていない。

 だけど、例え僅かな間だとしても、影響は最小限に抑えないといけない…」

 透明な微笑みが、親しげに頬に浮かぶ。

 その笑顔に玲が応えようとした時には、もう既に、少年の姿は秋風に払われ消えてしまっていた。

「……」

 また…会うことになるのだろう。

 玲も小さく頭を振ると、縛羅を捧げ持ち、掌から空中へと浮かべた。

 そこに、新しい空間を創造する。

 玲はそのまま縛羅をその新しい結界の中へ封じると、この空間から消してしまった。

「…皆の所へ戻ろう」

 龍真の父親の言葉に諾うと、玲はその背に従った。

 ……龍真君が…

 喜べはしないが…喜ばなくてはいけないのだろうか……

 澄み渡った碧い空の下、戸惑いの表情を浮かべたまま玲は葬儀の場へと戻っていた。

 ……最早、送り出すべき存在など、失せてしまった儀式の場へと……


 ……………………………………………………………………………………………



 …光?


 ……まさか…


 …この世界に、…光なんて……



 ……?



 ……黄金色の、漣が……



 ……!



 …声…?



 暗闇が……消える…………





 …お兄ちゃん…





 …珠璃……


 二度と、聞こえない……あどけない言葉…




 あのね、あのね…ずっと、一緒なの…




 …こんなにも…近くに……




 ずっと、ずっと…ね?




 ……新しい……声…………




 ……………………………………………………………………………………………


「龍真?」

 和輝の声に含まれた響きに驚き、綾子は涙に濡れた顔を思わず上げてしまった。

「…!」

 彼女のすぐ目の前で…生気の失せていた龍真の瞳から、一筋の白銀の流れが伝い落ちていく…

 ゆっくりと…

 …ゆっくりと……

 開かれている龍真の瞳が、焦点を探し始めている……

「龍真君…!」

 綾子の叫び声に…

 ……龍真は、弱々しい笑みで応えていた……


 勢いの衰えた森の木々の中を、白い風が駆け抜けていく。

 広大な敷布の上には、とりどりの色紙が撒き散らされ、歩みは冬へと近付いていく。

 明日にはもう、龍真は『死』という名の過去を外界に認め、『生』という名の思い出を、自らの内に発見するだろう。

 …その思い出こそ、…珠璃の新たなる『生』なのだと……

                                                                     6 荒神 おわり



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