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雪泥鴻爪  作者: 風光
5/12

5 荒肆

 九月も末になり、夕暮れ間近の清爽な大気の上では、涼風が輝く軌跡を描き出している。

 足下に広がる藪の中からは、その風の腕に選んでもらおうと、虫達が競って美しい言葉を奏で上げていた。

 その日、龍真はいつもと同じように幼なじみの綾子と橋の袂で別れていた。

 石橋の下には澄んだ小川の流れに沿って白い川原が伸びており、そこからジュッジュッと軽やかな啼き声が龍真と共に彼女を見送ってくれる。姿は見えないが、恐らくその長く黒い尾を打ち振りながら、丸い石の上で忙しく歩き回っている小鳥だろう。

 何度か振り返って手を振っていた綾子の姿も、やがて森の陰へと隠れてしまう。

 そこまで見届けてから、龍真は石橋のすぐ先から緑葉の中へと消えていく、長い石段を駆け上り始めた。

 一年中、緑を色濃く残す大木が、古い石段の左右に並ぶ。

 揺れ動く光の泡に包まれながら、すっかり磨耗して縁が丸くなっている石段を登ると、やがて枝葉の先に、これも石造りの大きな鳥居が見えてくる。

 荒削りのその鳥居の下を潜り、『力』の壁を難無く抜けると、そこは山中でありながらも大きく開けた境内になっていた。

 ここは、宮木町の中でも、かなり南の端の方になる。香笹町との境を成している山並も、この宮木神社を中腹に抱いている辺りでは、随分と大きく聳えた山へと変容している。

 この目の前の神社こそ、龍真の家になるのだ。

「ただいま!」

 かつての勢いは無いものの、木々で隠された各所には、まだ幾つかの宮が点在している。

 今もまた、巨木の陰から穏やかな詞が漂い出してくる…禰宜やはふりも僅かとはいえ、居てくれるのだ。常に神事を執り行ってくれている彼等は、皆、龍真の親しい友人だった。

 龍真の父親は、ここで神主として長を務めている。

「お帰りなさい、龍真」

 奥から聞こえてきた母親の声と共に、まだ幼い妹が喜ぶ声もする。

 龍真は僅かに足を早めると境内の奥にある家の中へと入り、台所に立つ母親を見つけて声を掛けていた。

「母さん。また翳月山えんがっさんから、あの遣いの子が来たんだね」

 母親の傍で遊んでいた珠璃しゅりが、大好きな兄を見つけて急いで駆け寄ってくる。

 幼稚園に通い始めたその愛らしい妹を両手でしっかりと受け止めると、龍真は優しく抱き上げてやった。

 心からの喜びの声が、辺りの空気を満たしていく。珠璃の嬉しそうな笑い声に頬を緩めながら、母親は龍真に頷いていた。

「そうよ。

 あの眩燿寺げんようじの方々にとって、ここ宮木の森の木はとても大切なものですからね」

 そのことは、以前に龍真も教えられていた。

 宮木神社の裏手に広がる常緑の森の木々には、邪な存在を萎縮させる力があると言う。その『力』を用いたものだろう、この宮木神社の中にも、幾つかの邪を封じたと言われる木棺が残されていた。

 もっとも、龍真自身は、少なくとも神社の中の木棺については、その伝承を信じていなかった。幼い頃から、その木棺が並ぶ蔵の中で、平気で遊んでいたのだ。もっとも、棺の蓋はしっかりと固定されており、とても子どもの力では開けることなど不可能であったが…

 ただ、その木の力の為に、随分と遠い翳月山から定期的に使者が来ていることは事実だった。

 怪しい言い伝えにしか思えないのだが…龍真は、少しだけ、その事実を馬鹿げたことだと思っていた。

 あまり表沙汰にされないとは言え、ある程度大きな派の総本山が、こんな古くて小さい神社と関わりを持っているなんて…

 …龍真には、まだその事実から、真実を導き出すことは出来無かったのだ。

「でね、でね…やっぱり、お兄ちゃんくらいの男の子なの…」

 兄の大きな手で頭を撫でてもらったことが嬉しく、珠璃はそう言いながら、お返しに龍真の首を力一杯抱き締めていた。

「…あの、せいって子が来たんだね。

 じゃぁ、あの子、今日も男の子の格好をしてたんだな」

「えぇ、そうよ。翳月山の方々は、皆、男の方ばかりですからね。私達には、分からないこともあるのでしょう」

「ねぇ、ねぇ…遊ぼ…?」

 小さく首を傾げて覗き込んでくる愛らしい珠璃の言葉に、龍真は破顔して言った。

「よし。じゃぁ、珠璃も綾子や和輝達と一緒に遊びに行こうか」

「うん、うん!」

 喜びのままに大きく頷くと、そこで再び珠璃は楽しそうに笑い声を上げていた。

 ランドセルを部屋の中に投げ込み、そのまますぐに、龍真は可愛い妹と共に家を飛び出していく。

 陽光が、完全に地平に沈んでしまうには、未だ少し時間がある。

 …どんなに短くたって、精一杯遊ばないと損だもんな…

 兄の優しい手に導かれながら、幼い珠璃は満足そうな笑顔を茜色に染め上げていた。

 無垢な心の煌きは、白銀の乙女達の腕に依って周囲の存在に分け与えられていく…

 それは、《真》に澄み切った…銀色の輝きを呈した光の波だった……


 輝かしい日の光も、今や西方では大地の下へと隠れてしまい、その残り火を追いかけるように、東の地平からは青白い闇が天へと登り始めている。

 静寂と果ての無い不安が、辺りに顕現しようしている…

 今日は、龍真の幼い妹も一緒にいるのだ。まだ少し早いかも知れないが、解散しよう。

 玲の提案に、勿論、皆は賛成した。

 誰も、珠璃のことを悪く思ったりはしない。

 そう、一体、誰が珠璃のような幼女を悪く思ったりするだろうか。

 龍真についてきても、別に何するわけでもない。ただ、大好きな兄の傍に居る…それだけで幸せな笑みを浮かべているのだ。そんな珠璃を見ていることは、玲達にとっても楽しいことだった。

「じゃぁね、珠璃ちゃん」

 玲がそんな珠璃の嬉しそうな頬をつつくと、愉しい笑い声が広がる。

 その声を背に、綾子や和輝とも別れて、玲はすぐに家路についていた。

 ただ一人になってしまうと、急に辺りの暗闇がずっと濃くなった気がする。

 そんな、すっかりと暗くなってしまった路地を急いで駆け抜けている最中、不意に玲の胸を鋭い痛みが刺し貫いた。

「うわっ!」

 その痛烈な痛みに耐えられず、思わず道端に座り込んでしまう。

 苦しい息遣いの下、胸元を掴みながら玲は強く唇を噛み締め、遠く、行く手の山々を見上げていた。

 香笹町をその向こう側に隠している山並は、残照を背にして漆黒に塗り潰されている。均質に塗り籠められた一枚の壁を見詰めながら、玲は漸く落ち着いてきた呼吸の下で、微かに苦笑を浮かべていた。

「そうだったね…すっかり忘れてたよ」

 そう。今日は、昼と夜の長さが等しくなる、秋分の日だったのだ。

 玲の脳裏に、魅惑的な香りを放つ笹の群生と、深い沈黙に浸る蒼い泉の様子が浮かび上がってくる。

(…あ〜ぁ、やっぱり、破られたんだね…)

 あの夢鏡ノ泉に施した封印が、たった今、何かに因って破られてしまったのだ。

 急いで、『力』の網を広げてみるが…何も捕捉することが出来ない。

 だが、間違い無く、封印は解かれたのだ。妖夢界からは、必ず、何かが…恐らくは新たな夢魔が、この世界へと入り込んでいるだろう。

「今度は、何が起こってしまうのかな…」

 それを未然に防ぐことが出来ればいいのだが…

 その上、今回は玲自身が施した封印を破られているのだ。一時的にかも知れないが…だが、それでも、その何かは玲の『力』を上回ることが出来たのだ。

 そんな玲に、何かを防ぐことは出来るのだろうか…

「…どうにかなるかな」

 出来るか出来ないかは、問題ではない。

 出来ることを、精一杯するしかないのだ。

 溜息を吐きながらも、玲はにっこりと笑みを浮かべながら立ち上がり、再び家に向かって歩き始めていた。

 『力』の網は、広げ続けている。

 何かが起こったら、きっと分かるからね…

 …その時になってから、『何か』をすればいいんだ。

 道の両脇に並ぶ街灯が、淡い光を大地に投げ掛けている。

 その下を急いで駆け抜けている玲の背後で、次第に闇はその色合いを濃くしていき、青い静寂をその身に纏いながら次々と地面に舞い降りていた。


 あの日が、近付いてくる。

 曖は、徐々に近付いてきていたその日を前に、急いで贈り物の仕上げをしていた。

 幸運にも水曜日になってくれたのだ。

 そう…次の水曜日は、玲の誕生日。

 大事な日なのに…

 曖はカレンダーを見るたびに、いつも自分の至らなさに大きな溜息を吐いていた。

 …どうして、『時間』さんって、こんなにも急ぐのかしら…

 今の儘では、到底、大事な日までに完成しそうにない。

 それが曖にもよく分かっていたので、近頃は学校へ行く前の僅かな時間さえ利用して、贈り物の膝掛けを仕上げようとしていた。

 そう、贈り物は膝掛けなのだ。

 …玲君…私の為に、お勉強を頑張ってくれてるんだもの…

 何が一番いいのか…随分と迷ったあげく、これから寒くなる夜の為にと、曖は温かな膝掛けに決めたのだ。

 時間を気にしながら忙しく指先を動かしてはいても、その漆黒の瞳には喜びの光が煌いていた。

 どんなに辛いことでも、どんなに苦しいことでも、それが玲の為になるのであれば…曖は、あらゆるものを喜びに変えてしまうことだろう。

 静かに、『時間』は通り過ぎていく。

 だが、曖が紡ぐ過ぎ去った流れの一つ一つは、銀糸へとその輝きを変え、互いに縒り合わされながら永久の敷布に太い流れを描き出していた……


 水曜日、誕生日の当日になったのだが…仕上げの刺繍がまだ終わっていない。

 これ程間際になっても何かを終えることが出来ないのは、曖には非常に珍しいことだった。

 短い朝の時間を精一杯使って、何とか終わらせようと、曖は必死になって頑張っていた。

 だが、無情にも時計の針は進んでいき…

 …大変! もう、学校に行かないと…

 玲は、今夜十時に来てくれることになっている。

 夕方には、ケーキも作らなくてはならないのだ。

 残った時間で、全て終えることが出来るのだろうか…

 ……ううん、終わらせないといけないの…

 玲は、疲れていても、曖の為にあんなにも素敵なプレゼントを用意してくれたのだ。

 自分だって、頑張らなくてはいけない…いや、頑張りたいのだ。

 胸の中で、決意が新たに強くなっていく。

 曖は手を動かしながら、素早く頭の中で計算を始めていた。

 …ケーキは、パパが帰るまでに作るから…

 ぎりぎりになって、どうやら仕上げられそうなことを確信すると、曖は急いで膝掛けを机の中に隠してしまった。

 そして、名残惜しそうにしながらも、用意していた荷物を手に、戸締りを確認してから学校に向かって走り出していた。

 実は、走るまでもないのだ。曖は、どれだけ忙しいとしても、十分前に到着するように計算している。

 間に合うことが分かっているのなら、走らないでゆっくりと行けばいいのだが…曖には、十分前よりも遅れて教室に入ることなど、全く考えられないことだった。

 教室に入ると、普段と同じように、まだまだ来ていない者も多い。それでも、曖には特別早く学校に来たとは思えなかった。

 …少し、遅れちゃった…

 そう思っているくらいなのだ。

 …どうして、私…もう少し、きちんと出来ないのかしら…

 そんなことを思いながら、小さく溜息を吐き、席に座る。

 持って来た荷物を机の中に仕舞い込んだ頃になって、少しずつ、教室の中に友達が増えてくる。

 皆からの挨拶に、相変わらず俯いて真っ赤になりながら応えていた曖は、ふと近くの席に美亜が座っていることに気付いて驚いてしまった。

 彼女は、いつもこれ程早く学校には出てこない。

 それに…

(…?)

 いつもは、帽子なんて被ってこないのに…

 曖は少しだけ、首を傾げていた。

 他にも、何処かいつもと雰囲気が違っているのだ。

 美亜は、曖の目から見て随分と大人びた少女だった。つい三日前、彼女は中学生と付き合い始めたのだと言っていたが、確かに、制服を着ていない彼女は中学生と言っても疑われずに済むだろう。

 そんな容姿や雰囲気からか、曖にとって彼女は少し話し難い少女だった。嫌いではないのだが…やはり、近寄り難いものがあるのだ。

 その美亜は、普段ならもっと堂々としているのだが…どうしたのか、今日は座り込んだまま席から離れようとせず、身動き一つしていない。

 …いつもなら、美亜ちゃんの長い髪って、教室のあちこちで揺れてるのに…

 そう思った瞬間、いつも、あれだけ自慢していた黒髪が、今日は帽子の中に隠されている事に気付いて、曖はひどく驚いてしまった。

 若しかして…切ったのかしら…

 だが、あれ程まで大事にしていたのだ。曖には、美亜が髪を切るなど、とても考えられなかった。

 やはり、帽子の中に隠しているのだろう。でも、何故?

 教室の中に人が増えてくると、当然ながら同じことに気付く者が出てくる。

 その中で、一人、朋也は真っ直ぐ美亜の傍に近寄ると、曖と同じ疑問を躊躇いもせず口に出していた。

「どうしたんだよ、その帽子は。髪でも切ったのか?」

「いいでしょう!」

 激しい言葉にも朋也はまるで動じず、勿論、引き下がるつもりも無かった。

 唇を歪めると、素早く帽子に手をかける。

 抗う美亜から、彼は力任せに帽子を取り上げてしまった。

「……!」

 彼女を庇おうと集まってきた少女達も、その瞬間、動きを止めてしまう。

 帽子を取り上げた当の朋也でさえ、掠れた声で呟くだけだった。

「…どうしたんだよ、…それ」

 美亜は、机に伏して激しく泣き出している。

 …彼女の頭部からは、あの見事な黒髪が全て剃り落とされていた。

 地肌が見える頭部を両手で隠そうとしながら、美亜は大声で泣き続けている。

 その周りで、暫くは誰も何も言えずにいた。

 だが、朋也はいち早く気を取り直すと、からかうような調子で声を上げる。

「おいおい、何だよ、その格好は!」

「止めなさいよ!」

 だが、その言葉はすぐに反発を招いてしまう。

 周囲からの抗議の声に、場の雰囲気を変えようとしただけのつもりが、朋也も引けなくなってしまった。

 更に大きな声で彼女のことを笑い者にしようとした時、曖は我慢出来ずに美亜の傍まで走っていくと、涙に濡れた瞳で朋也を睨んでいた。

 そして、次には、慟哭している美亜を小さな体で抱き締めながら、彼女自身も啜り泣きを始めてしまう…

「どうするのよ! 曖ちゃんまで泣かしちゃったじゃない」

 すぐに朋也は声を抑えると、不安げに曖を見守っていた。

 もともと、彼もこんな美亜を本心からからかいたいわけではない。ただ、何となく、そう演じなければならないような状況になったと…そう思っただけなのだ。

 なのに、そんなことで曖に見放されてしまっては…

 それは、朋也にとって、致命的なことだった。

 彼女に嫌われてしまっては、もう、この教室では何も出来なくなってしまう…

 皆が黙り込んでしまう中で、曖は机に伏しながら美亜と共に涙を流し続けていた。

 曖は、美亜の心を思って泣いていたのではない。美亜の悲しみそのものが、曖の悲しみだったのだ。

 思うことでも、感じることでもなく…曖は、美亜そのものとなって泣いていた…

 …やがて、沈黙を縫って、スピーカーから音色が響く。

 普段よりも大きく響いているように思える、その音色が鳴り止む頃、曖は頬に伝う滴を無理に押し止め、身を起こし…

 そして、朋也のことも、赦してあげていた。


 その日の昼休み、美亜は心配している皆に話してくれた。

 前の日曜日、彼女が付き合い始めた中学生の男の子と並んで歩いているところを、同じ中学校の女の子が見ていたらしいのだ。

 その女の子と、他の数人から昨日、美亜は呼び出され…

「たった、それだけで…」

 話を聞いている子ども達には、何故、その程度のことでこんなにも酷いことをするのか、全く理解が出来無かった。

「ひょっとしたら…美亜を、ただ、苛めたかっただけじゃないの?」

 話の後の沈黙の中で、ふと、一人の女の子が言葉を漏らす。

 苛めること…それ自体が、目的で…

 曖は、絶対に、そんなことは信じたくなかった。

 …まさか…まさか……

「じゃぁ、別に、その人は美亜の彼を好きじゃなかったってこと?」

「そうよ。だからきっと、こんな酷いことをしたのよ。

 だって、片思いの子が自分とは違う女の子と歩いていたからって、ここまですると思う? こんなことが分かったら、嫌われるのはその人の方なんだよ?

 きっと、誰でもいいから、苛めたかったのよ。彼のことは、ただの言い訳だったんじゃない?」

 傍で聞いている曖は、その言葉に微かに身を震わせてしまった。

 …そんなこと…あるのかしら…

 例え、嫉妬が動機だったとしても、曖には信じられなかっただろう。

 …いや、どんな理由であれ、曖は信じたくなかったのだ。誰かを苛めて楽しみたい…一人の女の子を、殴ったり、大切な髪の毛を切ったり……

 こんなに、誰かを悲しませるなんて……

 全ての授業が終わり、家に帰る途中においても、曖の心は 悲しみと恐怖で塞いでしまっていた。

 …折角、玲君が来てくれるのに…今日は、とっても楽しいはずだったのに…

 どうも、曖には玲を笑顔で迎える自信が無くなっていた。

 もう暫くすれば、陽も落ちる。

 日毎に、夕焼け色に染まり流れる風は涼しさを増しており、木々の衣もその白銀の乙女達の手に急かされるように、次第に華やかなものへと変わっていくのだろう。

 その先に待つものを感じながら…何処かに悲しみを潜める、多彩で優美な衣へと…


 ベランダのガラス戸が、そっと叩かれている。

 玲が来てくれたのだ。

 その微かな音に、曖は大きく深呼吸をすると、笑顔をその頬に映そうとした。

 …絶対に、玲君に気遣わせたらいけないの…今日は、玲君の誕生日なんだもの…

 小さく白い指先で、静かに戸を引いていく。

 広がっていく隙間から、曖がにこりと笑って玲に「おめでとう…」と言い掛けた時…

「…! 曖ちゃん、どうかしたの?」

 花束を抱えていた玲は、笑顔を急に引き締めると心配そうに曖の顔を覗き込んできた。

 思わず、正直に俯いてしまう。

 …不思議…やっぱり、玲君には分かっちゃうの…

 玲は急いで部屋の中に入ると、ガラス戸を閉め、その場に座り込んでしまった曖の隣に膝を折っていた。

「…学校で、何かあったの? それとも…僕のことかな…」

 その言葉に驚いて、曖は急いで顔を上げると大きく首を横に振っていた。

 …玲君のせいだなんて…!

 絶対に、そんなことはないのだ。

 曖の必死の仕草に、玲は一瞬、安堵の表情を浮かべた。

 だが、すぐに真剣な光を瞳に宿すと、彼は囁いていた。

「…話して、くれる?」

「…うん」

 話すつもりはなかったのだが…結局、曖は美亜のことを全て話してしまっていた。

 目の前の小さな白いテーブルの上には、可愛いケーキが置かれている。

 窓の傍の机の上には、きちんと仕上げられた膝掛けも隠されている。

 だが、玲にはそれらが殆ど見えていなかった。彼にとって大切なのは、自分の誕生日よりも、曖の悲しみと恐れの方なのだ。

 曖は微かな囁き声で語り続けていたが、いつしかその白皙な頬には柔らかな真珠の光が流れ落ちていた。

 自分の豊かで見事な髪の毛を切られてしまう…その悲しみを、曖はその場で語りながら体験していたのだ。

 玲は黙って、そんな曖の顔を時折覗き込んでは、そっと頬の煌きを指先で拭ってあげていた。

「…私…信じられないの。…若し、ただ…苦しめるためだけに…あんなことをしたのなら…」

 そう呟く曖の言葉を、玲は否定することが出来なかった…

 声にならないその応えを聞いて、曖は僅かな間を置いて更に話し続けた。

「…人間って、…酷い……何日か前にだって、…そこの山の中で…あの…」

 怖くて、その先はどうしても口に出来ない。別の事件とは言え、曖自身、同じような遺留品を目にしてしまったことがあるのだから…

 玲には、曖が何を言っているのか分かっていた。

 強く唇を噛みながら、目の前の曖の肩を力一杯抱き締める。

 こんなにも小さな曖を、あれほどまで悲しませた緋夕羅の事件と同じような出来事が、再び起こったのだ。

 つい先日、ここからそれ程遠くない山中で、女性の死体がバラバラにされて放棄されていたのだ。切断された胴や腕…その事件を曖が知った時、どんな風に感じたことだろう。

 …折角、忘れかけてたのに…

 この事件を聞いた時、玲も一番に緋夕羅のことを思い出していたのだ。夢鏡ノ泉の封印が破られた直後だったので、今度も同じような夢魔が出てきたのかと思ったのだが…

 その仮説は、玲自身によってすぐに否定されてしまった。

 死体をバラバラにして…例え人を喰らわない夢魔だったとしても、わざわざ山中に魔物が棄てに行くだろうか。

 玲は悲しみながらも、これが人間によるものだと確信していた。

 どうしたらいいのか分からず、ただ、玲は泣き続ける曖を抱き締めていた。曖の悲しみが深まっていくのが、玲にもよく分かるのだ。

 その悲しみを和らげることが出来ずにいる自分の至らなさに、玲はひどく打ちのめされていた。

「…私、…ね。…もう、『人間』が嫌になる、の……生きていたくない……」

 曖の呟きに、玲はすぐに応えていた。

「駄目だよ、曖ちゃん。…確かに、そんな酷いことをする人もいるけど…それを『酷い』と思っている曖ちゃんだって、やっぱり、『人間』なんだよ…?

 …曖ちゃん…僕だって、人間が嫌いになることはあるんだ…利己的だし、我儘だし、…同じ人間を『物』としてしか見ないから…犯人はあんな風にバラバラに出来るんだよ…

 そんな『人間』に、絶望したって、当然だと思う…」

「……」

「…でも…でもね? 曖ちゃん…僕は、だからって、絶対に死にたいなんて思わないよ。…だって、きっと、そんなことになったら、…曖ちゃんが悲しむからね…僕は、絶対に、曖ちゃんを悲しませたくないからね…

 曖ちゃん…もう、…生きていたくないなんて、言わないで…僕を、…悲しませないでね……」

「玲君…!」

 思いもしなかった言葉に、曖は顔を上げると、正面から玲を見つめていた。

 …そうだったのだ。

 どれだけ、自分の言葉は、玲を苦しめたことだろう…

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

 曖は玲の胸にしがみつくと、そう呟きながら再び泣き出していた。

 …なんて…私…酷い子なんだろう……

 曖がそう思った瞬間、優しい声が聞こえてきた。

「…駄目だよ、曖ちゃん。自分を責めたりしないで…」

 …僕の為にも…

 玲の心の呟きは、だが、しっかりと曖には聞こえていた。

 …そう、これ以上玲を悲しませてはいけないのだ…

 曖は最後に強く玲を抱き締めると、顔を上げて微笑んでみせた。

「ごめんなさい…玲君。

 …ありがとう」

「曖ちゃん…酷い、と思える心は大切だと思うよ。でも、そこで逃げたら駄目なんだ…きっとね」

「…うん」

 玲君がいれば…そう、玲君がいれば…

 ずっと、…このまま、ずっと…

 目の前の玲の笑顔は、曖の心からの願いに約束を与えてくれていた。

 そんな玲にもう一度にこりと笑いかけると、曖は急いで涙を拭き取ってしまった。

 そして、か細い指先で彼の手を導くと、ケーキの前にきちんと座らせる。

「お誕生日、おめでとう…」

「ありがとう!」

 ケーキの上の蝋燭に、微かなオレンジ色の火が燈される。

 その揺れる炎を越えて顔を見合わせると、二人はこれ以上無いくらいに幸せな笑みを零していた。

 …さっきまでのことが…全部、嘘みたい…

 こんなにも温かな黄金色の気持ちを、いつまでも胸中に感じていられるのは…そう、曖が生きているからこそなのだ。

 曖は、先程の言葉を少し恥じ入っていた。

 …こんなに素敵な想いを…私…捨てようとしてたの…

 玲は、豪快に蝋燭の火を吹き消している。その大袈裟な仕草に微笑むと、次には自然と楽しげな笑い声が溢れ出してきた。

 もう、大丈夫だね…

 自分も一緒になって笑い出しながら、玲は優しく曖を見詰めていた。

 全てを忘れることがいいのかどうか…玲には、よく分からなかった。

 …でも、忘れてしまうから、生きていけることだってあるんだよね…

 喜ぶ玲の視線に気付き、曖が顔を赤らめている。

 その様子に、玲は自分の考え方が間違っているとはとても思えなかった。


「今日は、本当にありがとう」

 玲が立ち上がってそう言うと、曖はくすくすと笑い始めた。

「…?」

 不思議そうな面持ちで首を傾げる彼に、曖は少しだけ悪戯っぽい口調で尋ねていた。

「玲君…忘れ物、してない…?」

「え?」

 今日は、曖の為に摘んできた野の花の花束以外に、何も持って来ていないはずだ…

 ガラス戸に手をかけながら、玲は真剣に考え込んでしまった。

「う〜ん、何か忘れてるかな?」

 その様子に、曖は更に笑い声を大きくすると、そのまま玲の腕を取って机まで連れて行った。

「はい! …おめでとう」

 清楚な白いリボンが結ばれた、膝掛けを受け取りながら、玲も大きく笑い出して言った。

「そうだったね! すっかりプレゼントを貰うのを忘れてたよ。ありがとう!」

 縁や隅には、綺麗な刺繍まで施されている。その仕上がりの素晴らしさに目を瞠りながら、玲は驚きを隠しもせず、恥ずかしがっている曖に感嘆の言葉をかけていた。

「曖ちゃん、僕、本当に思うんだ。曖ちゃんって、本当に素敵だな、って…僕なんかより、ずっとずっと、凄いんだもんね」

「そんな…」

 俯いたまま、曖は頬を紅潮させていた。

 あれだけ苦労したのだが…曖には、今の玲の言葉は、お礼の貰い過ぎだと思えるのだ。

 二人は一緒にベランダに出ると、最後にもう一度、微笑みを交わした。

「じゃぁね!」

「うん…」

 いつも、どうしても寂しくなってしまう。

 …でも、…そう想えることは、きっと…素敵なことなのね…

 玲がプレゼントを抱えながら、片手で軽々と手摺りを飛び越えようとしている。

 だが、その寸前で、彼は不意に曖を振り返ると言った。

「そうだ、曖ちゃん…」

「…?」

 突然腕を伸ばすと、不思議そうな曖の双眸を掌で覆い隠してしまう。

 刹那、柔らかな黄金色の光が弾ける。

「お休みなさい、曖ちゃん」

 そう呟きながら、玲は静かに手を外していた。

 彼の優しい言葉に、半ば瞳を閉じてしまった曖がゆっくりと頷く。

 もう、玲の姿が目に入っていないらしい。手摺りを乗り越えて、宙に浮かんでいる玲をそれ以上見送りもせず、部屋の中へと戻ろうとしている。その幼い頬には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。

「きっと、いい夢が見られるよ」

 そのままテーブルの上を片付けもせず、服を着たままベッドに入り込んでしまった曖を見て、玲もにこりと笑みを浮かべていた。

 幸せな気分のまま、眠りに就いて欲しかった…辛いことを、思い出さないままで…

 玲自身、その安心が欲しかったのだ。

 部屋の中の灯りを窓の外から消すと、曖の安全を確認した後、玲は空高く舞い上がっていた。

 すっかり寒くなったように感じる大気の中を、家に向かって飛び始める。

 眼下に広がる、漆黒の木の葉のうねりには、確かに夢鏡ノ泉から来た夢魔が潜んでいるのだろう…だが、そんな魔物よりも…『人間』の中にこそ、本当は『力』を使う相手がいるのかも知れない…

 …今は、夢魔が人を操っているのかも知れないけどね…

 だが、若しもそうだとしても、もともと夢魔達は、『人間』の欲望や夢が具現したもの…

 結局、曖を苦しませる…悲しませる存在は、『人間』なのかも知れない…

 玲には、そのことがとても哀しかった。

 薄闇は沈黙を伴い、風に従いながら大気の中を流れていく。その欠片に時折隠されながら、月は青い光を放ち、少年の背をそっと照らし出していた。

 …一人の少女に、喜びを与えることが出来る、『人間』の小さな背中を……

                                                                     5 荒肆 おわり



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