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雪泥鴻爪  作者: 風光
4/12

4 倫常

 曖の誕生日も過ぎ、新しい週が始まる。

 あの日以来、玲を襲っていた疲労から、体力も意識も目に見えて回復してきている。

 心配に満ちた視線でそっと見守り続けていた恵菜も、もう今では安心していた。

 ちょっと顔色は悪いけど…こんなに元気が有り余ってるんだもの、大丈夫だわ。

 曖が玲を招き入れた際に『何か』を見て以来、玲は自分自身の周りに常に気を配っていた。文字通り、『気』の網を広げていたのだ。

 確かに、その『何か』は玲の後を追ってきていたらしい。何度か、微かな気配が網のすぐ傍まで近付いてきたのだ。だが…疲労と倦怠の影響はまだまだ深く、未だに彼はその邪気の源を捕えることは出来ずにいた。

 それでも、その『何か』は最早玲に近付けずにいる。

 あの『何か』に、ずっと意思や心、力を吸い取られていたんだろうね…

 今更ながらそのことに気付き、玲は一人苦笑していた。

 以前の玲なら、もっと早くに対処出来ていたのだろう。だが、今の彼には他に意を向ける素晴らしい存在がいるのだ。

 曖の為…その為なら、どんなことになっても後悔などしない。

 …これから、頑張ればいいんだからね。


 月曜日の今日、玲は珍しく朝早くから学校に向かっていた。

 まだ誰も来ていない教室に入ると、そのまま席に座って待ち始める。

 …彼は、いつも、必ず一番に教室に入っているはずだ。

 だが…時間が過ぎていくにつれ、玲の額は曇り始めた。

 何故、彼…和輝は来ないのだろう……

 和輝も又、玲と同じ症状に襲われていたのだ。彼は普通の少年だ。特別な『何か』の存在になど、気が付くはずもない。

 ましてや、今ではその『何か』は玲から力を吸い取れずにいる。その分までも、和輝一人から補おうとしているのではないか…

「あれ? 玲君、珍しく早いじゃない」

 教室に、人が少しずつ増えてきている。その中に、綾子の姿もあった。

 響き渡る澄んだ声の横から、龍真も安心したような口調で声を掛けてきてくれた。

「顔色も随分と良くなったじゃないか」

「本当ね。和輝君も、そうだといいけど…」

 玲の横で荷物を下ろしながら、空いている席に視線を投げかける。

 未だに席の主が現れていないことを知り、その眼差しは瞬く間に不安に覆われてしまった。

「もう…とっくに、来ててもいい頃よ」

 意識の一部をあちこちに飛ばしていた玲には、その時既に彼女以上のことが分かっていた。

 もうすぐ、正門が閉じられるのだ。だが、駆け寄ってくる集団の中にさえ、和輝の気配は認められなかった。

 少なくとも、この学校の周辺に、和輝は存在していない。

「…今日は、休んだみたいだね」

 和輝の家は知っているのだが…このままの状態で探るには距離がありすぎる。何処かに隠れて集中してもいいのだが…

 迷っている間に、授業が始まってしまう。

 結局、和輝はその優しい姿を見せることはなかった。

 授業中、ふと、誰かが和輝の席に視線を滑らせる。そこに重みを感じ取り、玲は視線の源を探った。

 …そこには、那瑠美が座っていた。

 あまり感情を見せないその瞳に、僅かながら不安が漂っている気がしたのだが…更にその奥には、淡い喜びも秘められている気がして、玲は少し驚いていた。

 でも…そうかも知れないね。和輝君がいなくなったら、このクラスで一番になるんだもんね。

 最も重い視線を投げかけているのは、隣の綾子だ。

 ずっと授業中も空席を見つめたまま、時折、その両手を心配そうに力一杯握り締めている。

 …綾子ちゃん……

 その様子に、玲はそっと優しく笑みを浮かべていた。

 小さく、一人頷く。

 …そうだね。一緒に連れて行こう。

 学校の帰りに、和輝の家に寄ってみよう。そう、決めたのだ。

 自分にとっても、綾子にとっても、手遅れとならないように……

 一時間目が終わる。

 その休み時間に三人が集まると、そこで龍真がふと思い出したように言った。

「そう言えば、去年も和輝みたいになった奴がいたよな」

「そうだったかな?」

 玲と同じく、横にいた綾子も不思議そうな顔をしている。

「そうさ。ほら、去年は二組だった雄次なんて、三ヶ月も入院したじゃないか。四年生になったら急に元気になったけど、勉強が遅れてしまって、今じゃ隣のクラスで泣いてるんだもんな」

「…そう言えば、そんなこともあったね」

 玲は少し考え込むように言った。

「それなら、その前の年にも、恵子ちゃんが急に身体を悪くしたわよ」

 薄気味悪そうに眉を顰める綾子に、龍真は大きく頷いた。

「ほら、皆、頭がいい奴ばっかりだろう? まぁ、玲は例外になるけどな」

「あははは。

 …でも、若しそうなら、和輝君は当分学校に来れないね…」

「そんな…和輝君が可哀想よ。…ねぇ、この学校、何かが祟ってるんじゃない?」

「昔、頭が悪くて死んだから、その腹癒せに成績がいい奴ばかりを襲う幽霊か?」

 龍真はそう言うと、大きな声で笑い出した。

「そんなのがいたら、今度は井村さんが危ないね」

 玲も、龍真と一緒になって笑っていた。

 勿論、そんな危険な存在など、この学校にはいない。危険でないものなら、少しだけ彷徨ってはいるが…

「そんなに笑わなくてもいいじゃない! あたし、本気で心配してるんだから」

 綾子が脹れて横を向くと、龍真がすかさず言った。

「そうだよな。なんたって、和輝は綾子の一番大切な…」

 だが、その言葉は真っ赤になって怒る綾子の手で、不意に終わらされてしまった。

 本当に、綾子にとって和輝は一番大切な人なのだが…残念ながら、彼女には敵が多過ぎた。周りにいる女の子の殆どがそうだと言ってもいいだろう。

 この気持ちにしても、冗談にすることでしか表せないのだ…

 勿論、玲と龍真について言えば、二人ともその気持ちはよく分かっていた。だが…和輝はどうだろう?

 玲は笑ってそんな二人を見ながら、以前龍真が言った言葉を思い出していた。

「和輝は勉強のことならともかく、女の子のことについては、ちょっと間が抜けてるからなぁ」

 …どちらかと言えば、玲もこの言葉に賛成だった。

 休み時間が終わり、皆が席に戻り始める。その時、玲はそっと何事かを紙に書くと、隣に座っている綾子に渡した。

「…?」

 不思議そうな面持ちで紙を開くと、中の言葉に不意に頬を赤く染め、綾子はそっと玲に囁いた。

「…ありがとう。勿論、あたしも行くわ…でも…」

 だが、残りの言葉は、玲が向けてくる笑顔を見れば、必要の無いことが分かる。

 綾子はその笑顔に、もう一度、感謝の笑みで応えていた。

 …これで、和輝君の家に行くことが出来るわ。

 実を言えば、綾子は一人でも行こうと決意をしかけていたのだ。龍真は家の用事で早く帰らなくてはいけないらしく、彼女は自分から玲を誘う気ですらいたのだが…

 玲のお陰で、少しだけ気が軽くなる。

 …玲君って、本当に不思議。何でも分かるんだから…

 その彼は、視線の先で既に授業に没頭し始めていた。


 天上から降り注ぐ光の矢は、七月の今が一年中で一番厳しいもののように思える。

 額に伝う汗を拭いながら、玲は少し後ろに下がって付いてくる綾子を振り返っていた。

「こっちだよ」

 綾子は、実は今日が初めてなのだ。今迄、とてもではないが和輝の家に一人で行く勇気など持てなかった。

 安心させるように玲は何度も笑ってくれるのだが…

 本当に、自分が行ってもいいのだろうか。

 綾子は、普段ならあまり迷うことは無いのだが…今は、不安と心配で心が揺れてしまう。

 やっぱり、迷惑かしら…でも、和輝君の様子も知りたいし…

 どうしても、誰かからでもいい、安心が欲しいのだ。自分が正しいと、誰かが言ってくれたら…

 いや、それは玲に失礼だろう。だが…安心仕切れないのも本当なのだ。

 真っ赤になったまま、いつもの多弁さがみられない彼女に対して、玲は直接には何も話しかけなかった。

 …話しかけても、返ってくるのはきっと、全然意味の無い返事だろうしね。

 やがて、切妻の古い日本家屋が見えてくる。立派な門構えの前に立つと、玲はそのまま中へと入っていこうとした。

「ちょ、ちょっと! 玲君…」

 慌てている綾子に、彼は笑いながら振り返ると言った。

「それ、音が小さくてあまり聞こえないらしいんだ」

 清らかな…そんな言葉が似合う前庭を過ぎると、玲はいきなり玄関の戸を引き、中に向かって大声で叫んでいた。

「おばさん、居ますか?」

「玲君?」

 奥から、幽かな足音が小走りに近付いてくる。

 暗がりから現れた和服姿の女性の様子を見て、不意に玲は顔を引き締めると静かに尋ねていた。

「…和輝君、そんなに具合が悪いんですか?」

 白皙な顔が、一層青白く沈んで見える。

 全身から疲労と不安を滲み出しているその母親の姿に、綾子は恐怖心から両手を握り締めると胸元に強く押し付けた。

「…そうなの。

 今からでも、入院させた方がいいのかどうか…お医者様と相談しようとしていたところなの…」

「和輝君には会えますか?」

「玲君…でも、眠っているから…」

 どうしたらいいのか迷っている母親に、思わず綾子は叫んでいた。

「お願いします! 静かにしていますから、少しだけでも、和輝君に会わせて下さい!」

 縋り付くような瞳で、必死になって…

「お願いします! このままじゃ、あたし…」

 困った表情で、母親は綾子の顔を見つめていた。彼女に会うのは初めてなのだ。

 そっと、視線を玲に移す。

 その視線に、彼は大きく頷いていた。

 和輝の母親は小さく溜息を吐くと、その少女に向かって言った。

「…じゃぁ、少しだけなら構いません。お願いだから、和輝を起こさないでね」

「大丈夫ですよ、おばさん」

 その静かで力強い言葉には、最早何も言えなかった。

 玲は綾子の手を取ると、滑るような足取りで、素早く奥の和輝の部屋まで彼女を案内した。


 洋室の扉がきちんと閉められている。

 実際にここまで来てしまうと、先程の勢いは何処に消えてしまったのか、綾子は知らずに少しだけ身を引いてしまった。

 …和輝君の様子は知りたいけど…でも、若し嫌われたら…

 その時、不意に繋がれていた手に、優しく確かな力が加わる。

 見上げた先では、励ますような揺るぎない微笑みが彼女を見下ろしていた。

 純粋なその笑みには、迷いすらも許されない…

 …綾子は瞳を閉じて深呼吸すると、そっと囁いた。

「ありがとう。もう、いいわ」

「じゃぁ…」

 玲が静かに扉を開ける。

 少しずつ、ベッドの上の和輝の姿が見えてくる…綾子は視野に入った彼の様子に、声も無く…思わず座り込んでしまっていた。

 あれが…あれが、先週迄学校に来ていた和輝なのだろうか?

 何故、あんな風に…骨と皮だけに見えるのだろう。

 何故、横顔には…まるで生気が感じられないのだろう。

 あれでは、まるで、まるで…

 …死んでいるみたいではないか…!

「…嘘よ…あんなに青白い人が、…和輝君だなんて…」

 茫然としながら微かに首を振る綾子に、玲は冷たく感じる程に落ち着いた声で言った…いや、命令をした。

「入るんだよ、綾子ちゃん」

 半ば引き摺るようにして、玲は彼女を和輝のベッドのすぐ傍まで連れて行った。

 …本当に…本当に…生きてるの?

 どうしても、そんな恐ろしい考えが心の中に浮かんでしまう。

 だが、すぐ隣で、玲は静かに否定した。

「大丈夫。和輝君は、死んだりしないよ」

 その言葉に、疑問など入り込む余地は無い。

 そこで初めて綾子は彼から手を放すと、和輝の眠るベッドに縋り付き、声も出さずに泣き出していた…

 目の前の震える肩は、教室で見るよりもずっと小さく見える。

 玲は唇を噛むと、思わずその肩に手を置いて強く握り締めていた。

 玲自身、和輝の変容ぶりを見て、かなりの衝撃を受けていたのだ。これ程まで和輝を苦しめた元凶を、玲は決して許すつもりはなかった。

 例え、相手がどんな存在であろうと…

 綾子の震えを指先に感じながら、彼は意識を広げ、邪気を探る。

 だが…今は、何も感じられない。

 その時、不意に綾子が顔を上げた。涙に濡れた瞳が、真っ直ぐ玲を見つめてくる。

「ねぇ、玲君! 何とか、ならないの…?」

 腕に縋りながら、訴えてくる…だが、すぐに綾子は手を放すと、そのまま顔を覆ってしまった。

「ごめんね…玲君に言っても、困っちゃうよね…あたしが、何も出来ないから…

 …ごめんね…」

 そうなのだ。玲にだって、何が出来るというのだろう。

 当然ながら、綾子はそう思っていた。

 だが、その言葉は玲の中に凄まじい程の葛藤を生み出していた。

 まだ…綾子や龍真の前では『力』を見せたことがない。見せるつもりも無い。

 だが…

 綾子は、ただただ泣き続けている。

 その打ちのめされた姿を黙って見ていることなど、玲にはとても出来ないことだった。

「綾子ちゃん…」

「え…?」

 呼ばれて顔を上げた綾子の瞳を覆うように、そっと玲は右手を翳した。

 一瞬、黄金色の光が掌に走る。

 次には、綾子は床に頽れていた。涙に濡れた瞳は閉じられ、心配も不安も恐怖も忍び込まない深い眠りの中へと身を屈めてしまう…

「ごめんね、綾子ちゃん」

 間も無く、和輝の母親も覗きに来るだろう。

 玲はすぐに両手を和輝の胸元に揃えると、自分の中に滑り込んでいった。

 友達に『力』を使ったことで動揺している心を、別の心が鎮めていく。静かな意識が胸中を支配すると共に純白に染め上げ、やがてその面を黄金色に煌く漣が覆っていく。

 その波の広がりに呼応するかのように、玲の掌からは光が溢れ、その『力』の奔流は和輝の身体の中へと飛び込んでいった。

 残念ながら、この『力』の効果も一時的なものでしかない。まだ十分に回復していない玲自身の『力』を僅かに与え、和輝の身体の活性を狙っているだけなのだ。

 今は、これが精一杯だった。だが、それでも十分なはずだ。

 玲は、今夜にでも、全てをはっきりとさせるつもりだったのだから。

 和輝の寝顔が、随分と穏やかになっている…

 それを確かめると、玲は今度は掌を綾子の額に持っていった。

 黄金色の閃光と共に、彼女の意識が浮かび上がってくる。

「あ…」

 ゆっくりと、唇が開く。

「…あれ?」

 不意に瞳が見開き、慌てて辺りを見回している。

 その先には、少し心配そうに見守っている玲のいつもの顔が見えていた。

 同時に、視界には和輝の寝顔が…

「……!」

 その寝顔の変化に気付き、再び、綾子は黙って尋ねるように玲を見上げる。

 だが、彼が僅かに迷いながら口を開く前に、心配になった和輝の母親が顔を覗かせ声を掛けてきた。

「玲君…」

 その言葉は、しかし途中で途切れてしまった。

 ベッドの様子を見て、すぐに何も言わずに医者を呼び戻しに向かう。

「僕達も、もう帰ろうよ」

 優しくそっと玲が囁くと、綾子は小さく頷いて立ち上がっていた。

 部屋を出る前に、もう一度、和輝の顔を振り返る。変わらず、穏やかな寝顔を見せる彼に、少しだけ安心した微笑みを浮かべ綾子は玲の後に付いて出ていった。


 その帰り道。

 玲と別れる時になって、綾子は久し振りに明るい笑みを頬に浮かべると言った。

「今日は、ありがとう。

 やっぱり、玲君って凄いわ。きっと、あたしが知ってる以上のことが、玲君には出来ると思うの。

 でも、それは聞かないわ。

 だって、玲君は玲君だもんね」

「僕は、確かに僕だよ。いつも通りのね!」

 笑いながらそう言うと、玲は先に背を向けて歩き始めた。

 その後ろから、元気になった綾子の声が追いかけてくる。

「ありがとう!」

 玲は一度だけ振り返ると、にっこりと笑って再び歩き去っていった。

 …玲君は、やっぱり、玲君なのよ。

 本当に…ありがとう。

 この胸の呟きすら、玲には伝わっている気がする。

 夏の日差しが、頭上から圧力を伴って押し寄せてくる。その波にも負けず、今、綾子はしっかりと自分の足で立っていた。

 素敵な友達に囲まれた自分を、とても誇りに思いながら…


 ……………………………………………………………………………………………


 月の失せた闇天井に、白鳥と鷲がその巨大な翼を広げて白銀の川面を滑っている。微光が散るその豊かな流れの下流では、蠍がその上体を反らし、舞い降りようとする二羽に鋏を振り上げ威嚇していた。

 地表を彷徨う緩やかな風が、辺りの沈黙を不快に乱しながら、その腕の中の白光に導かれ進み始める。

 やがて、白い帯は和輝の部屋の外に流れ着くと、不意に、その様相の一つを現していた。

 …狐だ。

 だが、漂い浮かぶその大きさは雀や鼠程度のものだ。短く全身を包む体毛は、美しいまでの白い輝きを放っている。…あまりにも、白いのだ。柔らかく風に靡いているのだが、堅く冷たく感じられる程に…それは、《死》を映す鏡だった。

 赤く揺らめく双眸が、鋭く部屋の中を窺っている。

 和輝の眠りを確かめると、その白狐は尾を大きく広げ、愉しげに振り翳した。その先が、二つに裂けている。

 今にも部屋の中へと躍り込もうとした瞬間、冷たい…深い言葉の波が、この狐を捕えていた。

「そこまでだよ。やっと、現れてくれたね」

 玲だ。その、決して少年のそれとは思えない声で、彼は静かに続けた。

「何処の狐使いが、和輝君を怨んでるんだい? 

 それとも…」

 狐から漂い出る邪気の中に、ある動きを認めて玲は言葉を止めた。

 その瞳が細められる。

 突如、狐は身を翻し、逃げ出そうとした。

 流れるような動きで玲はカードを抜き出すと、素早く投げつける。

 鈍色の軌跡が今にも白狐の体を切り裂こうとした寸前、不意に暗闇から少女の悲鳴が広がった。

「止めて!」

 途端に、狐の姿は消え失せてしまう。

 カードはそのまま空を滑ると、再び玲の手元まで戻ってきていた。

「……」

 玲はその瞳に悲しみを映すと、カードから『力』を解放し、黙ったままケースに仕舞う。

 黄金色に揺れる衣を身に纏うと、彼はすぐにその場から消えてしまった…

「井村さん…」

 …微かな呟きが、闇夜に散る……


 那瑠美はベッドの上で身を起こすと、目の前に浮かんでいた白い狐を抱き締めた。

 …ううん、これは夢よ。だって、ピッピは私が創り出した『友達』なんだもの…

 周りを囲む家具類は、青く漂う薄闇に包まれているものの、普段使っているものとまるで同じに見える。だが、何より、ピッピがいるではないか…これ以上に、夢であることを示す存在は無いだろう。

「ピッピ…大丈夫だった?」

 おかしなものだ。

 …どうして、川瀬君は、夢の中の夢の中で、ピッピを傷付けようとしたのかしら…

 確かに、自分の日記帳の中で、玲はピッピに苦しめられている。だが、勿論、それは『物語』の中でのことだ。夢の中だから、『物語』が本当であるかのような夢を見たのだろうか…

 なら、この玲の復讐も、那瑠美自身が考え出したのだろうか。ピッピが傷付くようなことを…

 那瑠美はベッドの中で、思わず震えてしまった。

「…でも、もう大丈夫よ。もう、夢から覚めたからね」

 そう言えば…川瀬君は、夢の中でピッピに変なカードを投げていたわ。でも、学校にいる時の川瀬君は、そんなものを持っていないはず…夢の中の夢の中だったから、何かを作り出せたのかしら…

 なら…夢の中の私にも、何かを作り出せる…?

 那瑠美は心の中に願う存在を作り出そうとして……だが、その願いに夢は応えてはくれなかった。

 小さく、溜息が零れ落ちる。

 その時、腕の中で赤い瞳が不意に輝きを強め、虚空を振り仰ぐ。

 那瑠美もつられて視線を上げると、そこには黄金色の揺らめく光を身に纏った玲の姿が浮かび上がっていた。

「川瀬君…?」

 部屋の中で…空中に浮かんで…?

 ……変な夢。夢の中の夢の中だけのことだったのに……

「井村さん…。君が、その狐の…」

 夢は那瑠美が願う存在を作り出してくれずに、何故、玲を作り出したのだろう。

 悲しみに染まるその漆黒の瞳に向かって、那瑠美は少し語気を強めて答えていた。

「狐だなんて! この子は、ピッピって言うのよ」

 今は、夢の中。あからさまに敵意を剥き出しにしても、現実の玲には関係が無いはずだ。

 学校とは違い、今の那瑠美は生気を感じてしまう程に『生きて』いた。

「…井村さん。…どうして、ピッピを飼ってるの?」

 これは、おかしな質問だ。何故なら、夢を見ている那瑠美自身が、その答えを知っているのだから。

 …でも、夢ってそんなものね。

「ピッピは飼われてなんていないわ。私の日記の中に、いつもいてくれるの。いつも、その『物語』の中では、ピッピが主人公なのよ」

「…そのピッピなんだけど、…井村さん。僕や和輝君に悪さをするように書いてるよね?」

 どうして、悲しそうなのかしら…

 深い悲しみが、呟きと共に流れ出している。

「そうね…だって、日記の中だもの。

 ピッピは、いつも私が良い成績を取れるように、とても頑張ってくれるの。『物語』の中で、川瀬君に憑いて気を狂わせたり、和輝君を殺してしまったり…でも、勿論、現実にはそんなことを願ったりしないわ」

 那瑠美は、自分が言い訳をしていることにも気付かず、宙に浮かぶ玲に向かってそう言った。

 目の前の玲は、その静かな口調に幾分かの優しさを込めて尋ねてくる。

「…どうして、井村さんはそんなことをピッピにさせるの?」

 変な夢…

「だって…邪魔なんだもの。

 ママは、いつも私がクラスで一番だと思っているの。でも…一番になり続けることって、とっても辛いことなのよ…分かる?

 だから、せめて、『物語』の中だけでも、私の邪魔になりそうな人を苦しめたかったのよ」

 そんなこと、私自身は分かっているのに…

「…だから、今迄にも雄次君や恵子ちゃんを、同じように苦しめてきたんだね」

「えぇ…」

 ピッピを抱き寄せながら、その柔らかい毛並みに那瑠美は頬を摺り寄せていた。

 黙り込んでしまった那瑠美を、心配そうに赤い瞳が見詰めている…

「…どうして、そんなに一番になりたいの?」

 声が移動している。視線を上げると、玲はすぐ横に立っていた。もう、空中にも浮かんでいない。

 その彼をゆるやかに包み込む黄金色の煌きは、まるで那瑠美の言葉を誘い出すかのようにちろちろと時折瞬いている…

「…どうして、って…だって、ママがそう願っているもの」

 …私、どうして、こんなこと……

「…ママね、パパと別れてから、とても一生懸命、働いてくれたの…

 全部、それは私の為…

 …そのママが、いつも私は一番でいて欲しい、って思っているのよ? だから、私はそれに応えなくてはいけないでしょう…?」

 どうして…私は、尋ねているの…? 確かめているの…?

「…そうだね」

 玲が一瞬、ピッピに視線を向ける。頬の下で、刹那、純白の毛並みに緊張が走る。

 だが、彼はすぐに瞳を那瑠美のそれに戻していた。

「でも、それだけの為に…『物語』で邪魔になる人達を苦しめる為だけに…井村さんは、このピッピを呼び出したの?」

 呼び出す…?

 さっきまでの声とは違う。何だか、急に酷く冷たくなった気がする。とても、普段の玲からは考えられないくらいに、静かで重く、近寄り難い程に冷徹な言葉…

 まるで、その内には、何か深く力強い流れが秘められているようで…

 その流れから身を守るように、那瑠美は身を縮めていた。

「…本当に、変な夢……」

 そう呟きながらも…那瑠美は玲の問いには答えなかった。

 何も答えてはこない那瑠美から視線を逸らさず、玲は更に言葉を紡いだ。

「…井村さん。

 井村さんは、ピッピに…『甘え』たかったんだよね」

 那瑠美はその言葉に逆らおうと口を開きかけていた。

 だが…玲は、それを許さなかった。

「井村さんは、おばさんが帰ってくるまで、たった一人で夕御飯を作って、独りでそれを食べて…独りでテレビを見たり、独りで本を読んだり…そして、『日記』を書かないといけなかったんだ。

 勿論、勉強もしてるんだけどね。でもね、井村さん。それは、おばさんの為の勉強であって、井村さん自身の為じゃなかったんだ…

 何もかも一人でして、何もかも自分一人で決めないといけない…

 でも、やっぱり、他の人と分け合わなくちゃいけないものもあるんだよ。

 それを、井村さんは『日記』に書いてたんだ。

 でも…ただ書くだけじゃ、物足りなかったんだ。誰も、そこからは応えてくれなかったから…『日記』の中には、『自分』しか出てこないからね。そこに出てくる『他人』は、せいぜい現実を真似るだけ…それは、言ってみれば記憶でしかなかったんだよ。

 だから、井村さんは『日記』そのものを…その現実に存在するものや行為を、『物語』にしてしまったんだ。まるで、その『物語』こそが現実であったかのように…ね。『物語』だからこそ、普段、学校で会っている『他人』が様々なことを話したり、動いたりしてくれる。それに、勿論、現実には出来ないことを…『日記』には出てこないようなことも、『物語』でなら簡単に出来てしまうんだ。

 『物語』で動き始めた人達になら、色々なことを分かち合えるかも知れない…

 でも、駄目だったんだ。井村さんが書いた『物語』の登場人物は、現実に存在する人ばかりだったからね。だから、どうしても現実による制限が出てくる…あの人は、絶対にこんなことはしないだろう、って。例え『物語』の中でも、出来ないことはあるんだ。だから、結局、誰も井村さんのものにはならなかった…その登場人物には、『甘え』ることが出来無かったんだ。

 おばさんとおなじように…ね。

 だから、井村さんは《本当》に自分一人だけのものを…そんな存在を欲しくなったんだ。今迄、きっと、こんなに欲しいと思ったものはなかったんだろうね。今迄は、井村さんはおばさんの為だけに一生懸命になって生きてきたから、自分が欲しいと思ってたことも、辿れば全ておばさんが欲しがっていたものだったんだ。

 《本当》に、自分だけの存在が欲しい……

 …だから、井村さんはピッピを『創り出した』んだよ。

 ピッピは、『日記』という『物語』の中で、《本当》に生きてるように活躍するんだ。それは、ぬいぐるみとは違って、自分で動いてくれるし、話もしてくれる…そう、書いてる井村さんが思ってもいなかったことまで、勝手に『物語』の中で始めてしまうんだ。

 それは、井村さんが『甘え』られるような、…『生きた存在』だったんだよ。

 …おばさんの為に勉強することが、喜びだったのか、苦痛だったのか…《本当》には僕には分からない。でも、そんなことよりも、…仕事もやめて、もっと自分の傍にいて欲しい…出来ないことは分かっているけど…でも、もっと『甘え』させて欲しい…こんなことを話したい、あのことも聞いて欲しい…そして、きちんと心から応えて欲しい……そう思ってたんだ。

 でも、それは決して『現実』にはならないと思っていた。だから、その望みの先を、全てピッピに替えてしまったんだ」

 玲は、静かに…小さな声で話し続けている。

 那瑠美からの反応は無い。聞いていないのかも知れない…

 だが、それでも、心の襞に入り込まなくてはいけないのだ。乱暴でも、無思慮でも構わない。

 …玲には、それが分かっていた。

「…井村さん。でもね…このピッピは…『物語』じゃないんだよ。

 それは、現実に、井村さんの意志で『呼び出された』んだ。

 ピッピはね、その憑いた人の望む通りに動いてくれる。井村さんが誰かに恨みを覚えれば、必ずピッピはその相手のところまで行って、苦しめるんだ。

 『日記』という『物語』には、井村さんの心が一番正直に書かれてる…そして、ピッピはその中に登場してるんだ。これくらい、憑いている人の望みが分かりやすい環境も無いだろうね。井村さんが望んでることは、その『物語』の内容そのものなんだから。

 邪魔になる人をピッピに苦しめさせて…最後には、殺してしまう。

 井村さんは、それが『物語』だと思ってたし、実際にはそこまで酷いことは書けないと思ってただろうけど…でも、ピッピは動くんだ。それが、願いだから。そして…それは、紙に書かれ、紛れも無い《現実》になってしまったんだよ…」

「そんなこと…」

 掠れた声が、微かに…本当に微かに流れ出す。

「そう、そんなことがあるんだよ。

 それに…僕がここにいることも、夢なんかじゃないんだ」

「そんな…!」

 呟きと共に驚きで身を硬くする那瑠美に、玲は素直に悲しみを映して頷いていた。

「ピッピは、井村さんが『甘え』たくて呼び出した《現実》なんだ。日記の中の『物語』も《現実》だし、僕がここにいることも《現実》なんだ。

 そして……」

 流石の玲も、一度、言葉を止めてしまった。

 分かっているのだ…分かって……

「…そして、もう、井村さんが死んでいることも、《現実》なんだ」

「……!」

 刹那、完全な沈黙が横たわる。

 それは、あまりにも深く、重く…恐怖や絶望すら弾いてしまう程に何ものでも無いもの……

 あまりにも虚ろな《無》だった。

 玲は沈んだ声で続けた。

「井村さんは、狐使いじゃないからね…

 ピッピは、その憑いた人に良いこともするんだけど、同時に悪いこともするんだ。

 知識のある狐使いなら、依代を身代わりにしたりして、悪いことを防いだりするんだけど…でも、井村さんはそんなこと、知らないからね。

 ピッピはね…僕達を苦しめる代償に、井村さんの生気を吸い尽くしてしまったんだよ…

 ただね、ピッピにしてみれば、井村さんは次々と襲う相手を教えてくれる…そうだね、餌をくれる飼育係みたいな人だったから…

 だから、ピッピの方から、少しだけ、生気を戻して…井村さんを、生かしておいたんだ…」

 少しずつ…少しずつ、流れ出していく……

 …最早、骸に納めておくことが出来無いのだ…

「…井村さん。

 ごめんね……もう、…僕にも、どうにも出来無いんだ…

 井村さん…例え『物語』のことだと思っててもね、やっぱり、誰かを怨んだり、呪ったりしたら駄目なんだよ。人を怨んだりしたら、その《業》が跳ね返ってくるのは当たり前なんだ。

 だから、狐使いを始め、何かの『術』を行う人は、皆、呪いを禁忌にしてるんだよ…」

 遣る瀬無さが募る……

 …その時、半ば以上、生気を失った欠片が顔を上げた。

 縋るような目付きに…残った心で描くその瞳の色に…だが、玲は真っ直ぐに向き合い、黙って頷き返していた。

 力を失った首が、下を向く。

 だが次には、その顔を再び擡げ、微笑みのような痙攣が彼に向けられた。

「…そうなのね。

 もう…私は、死んでいるのね……」

 声帯を震わせるのは、今やほんの微かな風でしかない。隙間から漏れる風音の中から、かつての言葉が僅かに聞き取れる…

「ごめんなさい…『物語』だと…思っていたから…

 …でも…許してくれないわよね……」

 細く切れてしまいそうな言葉の糸を、玲は指先に絡め、引き寄せた。

「ううん。僕は、許してあげるよ」

 玲の頬に、笑みが浮かぶ。

 それは、声を理解することも難しくなったものにとって、何よりも分かりやすい言葉だった。

「ありがとう……」

 中の空気が大量に溢れ出し、溜息のような音を闇に広げる。

「…さようなら、井村さん」

 これ以上は、身を起こしておくことも無理だろう…

 玲は、纏っていた黄金色の光を僅かに強めた。

 その目映い光の波は那瑠美とピッピを優しくそっと包み込み……

 …ゆっくりと漣が引いた後には、最早何ものも残ってはいなかった。

 いや…少女の肉体だけは、ベッドへと静かに倒れこんでいく…

 玲は何も言わずに、その骸に布団を被せていた。

 涙が、頬を伝い落ちていく……

 …その煌きの幾つかが枕元に届く頃、玲は宙に溶け込むように、その姿を消していた……


 翌日、井村那瑠美の訃報が、学校に伝えられた。


 ……………………………………………………………………………………………


 その日の午後、玲は一人、校舎の屋上に出ていた。

 初夏の日差しに、その身を預ける…

 涼風は、彼を励ますように、そっと触れては通り過ぎていく。だが、それでも、玲は溢れる涙を止めることは出来無かった。

 …どうして、…どうして、僕の『力』で、助けられなかったんだろう…

 どうして…僕は、死んでいく友達を生き返らせることが出来無いのかな…

 勿論、不可能なことだとは分かっている。

 だが、思わずにいられないのだ。

 目の前で…一人の命が消えたのだから……

 階段室の前で、膝を抱えて座り込む。唇を強く噛み締め…

 その時、突然、横合いから一人の男の声が滑り込んできた。

「玲。一人の人間の死も、大きな目から見れば、必要なことがある。

 その死の基準は、神々にも、運命の女神達にも決められない。それよりも更に大きな…《唯一の本質》(ヘルジュトリア)だけが、『夢』に見ることが出来るんだよ…」

 辺りの喧騒が、不意に遙か遠くへと消え去ってしまう。

 全てを内に抱き寄せ、大きな優しさと静けさで包み込んでくれる、理知的な声……

 だが、その声は、玲の小さな体を無意識に震わせていた。

 …声の源へと、目だけが向けられる。

 そこには、二十歳前後にしか見えない一人の若者が佇んでいた。

 真っ直ぐに見詰めてくる、その若者の漆黒の瞳には、深い沈黙と厳しさが温もりを伴ってたゆたっている。

 だが…その更に奥では、『時間』のみが持つ黄金色の流れが隠顕していた。

 一瞥をくれただけで、玲はその若者が持つ『力』に圧倒されていた。

 こんなにも巨きな『力』が本当に存在するのだろうか…その果てを感じさせないほどの、茫洋たる《静》の空……玲に感じられるのは、そのごく一部でしかない。玲が持つ『力』とは、まるで位階が異なるのだ。

 あまりにも強く…いや、底知れない静けさの向こうには、その強さすら感じ取れない、穏やかな『力』が秘められているはず…

「あなたは…?」

 畏怖の念に押し潰されそうになりながら…玲は、震える声で、やっとそれだけを呟いていた。

「志水だよ」

 若者の顔に、優しい笑顔が浮かぶ。その瞬間、今迄感じていた《無限》が霧散し、漸く玲も身震いを止めると救われたように微笑んでいた。

「…志水、さん?

 その…志水さんでも、井村さんは助けられなかったの…?」

 志水は、ただ黙って頷いている。

 それを見て、玲は力無く俯くと呟いた。

「じゃぁ…仕方が無かったんだね…本当に…」

 命に、仕方が無いものがあるのかどうか…まだ幼い心には理解し切れていない。

 だが…この『力』でも無理なのなら……

 不意に、小さな肩に手が触れる。

 志水は、その小さな…本当に小さな肩をそっと抱き寄せていた。

「誰が必要で、誰が必要で無いのか…

 そもそも、必要な命や、必要ではない命があるのか…

 そんなことは、人間には決められないんだ。

 勿論、俺にも決めることは出来無い。

 だから、玲。今はまだ、自分で決められないことに悩むくらいなら、寧ろ自分の『力』を思うがままに使えばいい。学ぶべきことは、これから、まだ幾らでもある。

 その『力』がどんな結果を生むことになったとしても、それが『時間』の流れを見晴るかす存在の意に従っているのであれば、それは『正しい』ままでいられるだろう。それは、今、玲が思う『正義』とは違う形になるかも知れない…だが、それもまた『正しい』形なんだ。

 玲。自分の『力』を卑下する必要は無いんだ。これからも、その『力』で、出来ることを精一杯していけばいい。

 それは、何かを消失させるだけでなく、誰かを守るものにもなる。勿論…曖も、な……」

 志水には、何が起こるか分かっていた。そう…分かっていたのだ……

 …分かっていた……分かっていたのだが……

 ……そう言わずにいられなかったのだ…

 玲は暫くの間、何も言わずに俯いていた。

 だが、やがて、一言ずつ、押し出すように呟き始める。

「…そうだね。

 井村さんを助けることは出来無かったけど…他にも、僕が出来ることはあるんだもんね。

 みんなを、少しでも、助けてあげられる『力』があるのに…それを否定して、助けようとしなかったら……

 きっと…僕自身が僕を許せないようなことだって、あるかも知れないね…」

 小さく、溜息を吐く。

 ゆっくりと腰を上げると、玲は頬の涙を拭い、微かな笑みを浮かべた。

「ありがとう、志水さん」

 それ以上は、志水も何も言わなかった。水は…『時間』は再び流れ始めたのだ。

 その行く末は、彼の意志ではない。

 志水は励ますように笑顔で頷くと、次にはその場から消えてしまっていた。

 胸中に、温かな黄金色のうねりが広がっていく。志水が残してくれたその『力』を感じながら、玲はもう一度呟いていた。

「ありがとう…」

 志水と言う若者が、一体何者なのか…そんな疑問は不要に思える。そのように問い掛けることが出来無いほど、彼の『力』は自分を超越しているのだ…

 玲にとって、『志水』は『志水』であり、それ以外のものではない。それは、理解を超えた超自然的な存在を神と呼び、その存在を逆に何かと問い掛けるようなものだ。

 玲は、自分の中の『力』の躍動に心を傾け、新たな想いと親しみを覚えながら、『言葉』にしていた。

「…僕は、きっと、強くなるよ。

 大切な人を守れるように…『大好き』な曖ちゃんを守れるように……」

 降り注ぐ陽光の下、軽く目を閉じる…

「玲! 何処だ?」

 不意に、階下から龍真の声が響き渡る。

「屋上だよ!」

 我に返ると、玲は元気に叫び返しながら、急いで階段を下りていった。

 階段室の暗闇の中へと玲の姿が見えなくなると共に、屋上では静かな声が広がっていた。

「…一粒の種が、再び大いなる『時間』の中へと投げ込まれてしまった……

 銀の煌きを呈しているとは言え……《唯一の本質》も厳しいものだ…」

 天空を背に、志水は僅かな哀れみを含め、呟いていた。

 見ていること…ただ、それだけしか出来無いものもある…

 これが『運命』なのだが……

 志水自身も、また、その《本質》から生じた『様相』達によって選ばれたのだ。その流れを目指すことは出来ても、流れを清め、整えることは出来無い。それは、彼の為のものではなく、別の存在の為の意義であり、理由だ。

 彼自身も、玲と同じなのだ。

 何故、自分には助けたい存在を助けられないのか…

 流れの過程における援助は出来ても、その結末までは変えられない……

 ならば、結末など、分からない方がいい…

 だが、志水はもう一つのことも知っているのだ。

 恐らくは、この宇宙や世界の創始者たるヘルジュトリアとて、同じ思いを抱くのであろう…と。

 それが正しい答えかどうかは、決してどんな『様相』にも分からないのだが…

 それでも、知っているのだ。知ることと分かることは違う。

 …若者の黒髪を、風の乙女が愛撫して通り過ぎていく。

 優しいその腕に抱かれながら…彼の姿は青い大気の中へと掻き消されていった…

 後には、いつもと変わらない日差しが、地上を遍く照らし出している。

 …一人の少女の死など、まるで創めから無かったかのように……

                                                                     4 倫常 おわり


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