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雪泥鴻爪  作者: 風光
2/12

2 逢魔時

 玲が初めて曖と出会ってから、一月が過ぎようとしていた。

 既に桜の季節も終わり、香笹町と宮木町を隔てている山々にも、今では鮮緑が目に立つようになってきた。

 玲は約束通り、春休みの間は毎日、そして学校が始まっても毎週水曜日には必ず曖の所へと通い続けている。だが、残念な事に、二人が共に居られる時間は短いものだ。しかし、それでも…どれだけ短いものであっても、二人にとってその時間は輝かしい黄金色に満ちているものであり、豊かな銀の流れをその光の中に辿るものだった…


 春休みも終わりに近付いていた頃、曖の許から家へと帰る途中で、玲は一度だけ町境の山の中へと舞い降りた事がある。

 初めて曖と出会った日の帰りに、『何か』の澱みを感じた辺りだ。

 まだ裸木が立ち並んでいる山間を、ゆっくりと飛んでいく。

 …静かなものだ。この辺りは決まった道があるわけでもなく、人の姿などまるで見かけることがない。

 時折、玲が縄張りに入り込んでしまうのだろう、ジョウビタキの舌打ちが常緑樹の茂みの蔭から聞こえることがある。カッカッカッ…と、ツグミの声もやけに大きく聞こえてしまう。

 本当に、静かだ。

 あの夜の不快感など、森の何処からも感じられない。

「おかしいなぁ。あんなに、強烈だったのに…」

 再び上昇すると、藍色に沈み始める山肌を広く眺めた。

 あれは…移動していたのだろうか。

 あの時、人間が無理をしてこの山奥にまで分け入り、何らかの儀式を執り行った結果、周囲の『何か』を乱してしまった…確かに、考えられないわけではない。

 …でも、この辺りの精霊達って、人間の姿にあまり慣れてないみたいなんだよね…

 では、人間以外のものだろうか。

 玲は空中に留まったまま、腕組みをして首を傾げていた。

 …でも、それなら、どうしてあの時だけ感じたのかな。別に、意識して『力』を探っていたわけでもないし…あんなに簡単に感じ取れるくらい、大きな『力』を放つなんて…

 あの時以来、玲は事ある毎に意識の網を町中に広げ、異質な『何か』を探ろうとしている。だが、この近くには…少なくとも、宮木町には危険を感じるような『何か』は捕捉出来なかった。

「う〜ん…」

 眉を顰める玲の体が、集中していた『力』の散漫に因って、ゆっくりと地上に落ちていく。

 そんな玲を、不意に微茫とした甘い薫りが包み込んでいた。

「ん?」

 何だか、体中の力が風に乗って大気中へと溶け出してしまいそうだ。

「…おいしそうな匂いだね」

 香気の誘いに心を乱されないように慌てて気を引き締めると、玲は飛行に専念し、薫りの源を探し始めた。

 白銀の乙女達がその馨香を腕に抱き取る場所は、すぐに見つかった。幾重にも重なった枝越しに、小さな泉が見えてきたのだ。間違いなく、薫りはその泉の周囲から溢れてくる。

 小さな泉は、天の残照を写して深い蒼に染まっていた。その水面には、漣一つ見えていない。

 周囲を灰色の石で囲まれた泉は、ただ静かに…深い沈黙をその身に纏いながら、音も無く舞い降りる玲を迎え入れていた。

 鳥の囀りや、僅かな葉擦れさえも、この泉の意に従って声を潜めているようだ。この山中の何処よりも、沈黙が重く立ち籠めているその泉の周辺には、素晴らしく魅惑的な薫りを放つ、濃い緑色をした笹の群生が広がっていた。

(ここが…曖ちゃんが言ってた所なんだ)

 こんな森の奥深くになんて…注意しなくても、曖ちゃんは絶対に来れないんじゃないかな…?

 何だか、独り言も口に出来ない。ここでは、一言も口から紡いではいけない気がするのだ。僅かでも声にすると、次には全てが硝子のように砕け散ってしまいそうだ…

 泉の傍らには、随分と汚れてしまっている祠が奉られていた。滑るような足取りで近付くと、そっと中を覗き込んでみる。

 小さな社の中は、かなり乱れていた。何があるのかは暗くてよく分からないが、それでも、極めて稀には手入れもされているのだろうか…

 腐りかけた木片が、祠に打ち込まれている。黒く濡れたその小さな板には、少しだけ文字が読み取れた。

「…夢鏡むきょうノ泉…」

 口に出してしまったその瞬間、馥郁と漂っていた笹の香りが突如強まる。

 辺りを支配していた沈黙までもが風に乗り、玲の小さな体に痛みを伴うような冷気となってぶつかってきた。

 驚き慌てる玲の眼前では、泉の表面が激しく泡立ち始めていた。だが…そこには、やはり蒼しか映ってはいない…

 やがて泉の奥底から…夕闇が迫る森の中へと、魅力的であると共に絶望を放つ妖気が噴き上がろうとしていた。

「…ちょっと、危険だね」

 いつもは幼い漆黒の瞳が、不意に鋭く細められる。刹那、その面からは全ての感情までもが失せてしまっていた。

 素早くポケットの中の薄いケースから、鉛色をしたカードを一枚取り出す。

 意識を満たす静寂に従い、小柄なその姿からは陽炎のように黄金色の光が溢れ出していた。揺らめく光の焔は、やがて鈍い輝きを放つカードへと流れ込み…瞬間、その表面には小さな金文字が浮かび、消える。

「いつまで防げるかは、分からないけどね…」

 そう呟くと腕を滑らせ、玲はカードを夢鏡ノ泉へと投げ入れた。

「……!」

 水面が木々を飲み込もうとするかのように大きく蠢き、音にならない悲鳴が薄闇に広がる。

 …次には、泉は再び鏡のように滑らかなその面に、ただ静かに天の蒼を写していた。

 怒りの声も、それを忌み嫌う風の精によってすぐに払われ、静寂が戻り始める。

 改めて深い沈黙が辺りを支配したことを見届けると、玲は軽く地面を蹴り、空中に舞い上がった。

(あ〜ぁ…また、遅れちゃった)

 ちょっとだけ、立ち寄るつもりだったのに…

 玲は溜息を吐くと、急いで家に向かって飛び始めていた。


 ……………………………………………………………………………………………


 新しい学校へと通い始めた曖は、玲との出会いによってその性格が僅かに開かれたものになったとは言え、やはりとても内気で恥ずかしがり屋の少女だった。

 初めて教室に入り、黒板の前に立って自己紹介をする時など…あまりの恥ずかしさに真っ赤に頬を染めると、担任の先生の後ろに隠れてしまった程なのだ。

 そんな彼女の仕草に皆が笑った時、曖はもうこの学校では友達は出来ないだろうと、覚悟してしまった。

 …だが、その覚悟は間違っていたのだ。

 新しい席の周りの女の子達は、色々と曖の心配をしてくれた。意地悪な男の子がからかいに来ても、すぐに追い払ってくれる。

 曖自身は、ただ静かに、じっと俯くだけだった。


 曖が少しずつ学校に慣れてくるようになると、皆もまた少しずつ、曖の素敵なところを理解するようになっていった。

 最初は曖のことを疎ましく思っていた者でさえも、曖の素直で控え目な態度には何も言わなくなった。

 誰もが…どれほど了見の狭い子どもですら、心の底では曖の素敵なところを認めていたのだ。

 そんな変化に気付いていないのは、当の本人だけだったのかも知れない…

 事実、曖は皆の親切に驚き、戸惑っていた。

 …どうして、皆、こんなにも私を助けてくれるのかしら…

 曖は滅多に、自分からは誰にも話しかけなかった。どうしても必要になった時だけ、仕方無く、消え入りそうなか細い声で漸く伝えることが出来るのだ。

 それは、曖が話しかけられた時も同じだった。相手が女の子であれば、まだ小さな声でも、何とか目を見ながら答えられるのだが…男の子に話しかけられると、もう駄目だった。真っ赤になって、机の表面をじっと見ながら、ただ首を振ることしか出来ない。どうしても声を出さなければならない時になって、やっと曖は微かな声で囁くのだ。


 そんな調子でも、時はその弛まぬ流れを歩み続ける。

 いつしか、曖の周りには必ず誰かが集まるようになっていた。

 別に、曖が何かを話すわけではない。ただ、皆が曖の傍で話をするだけなのだ。

 勿論、曖もその話の聞き手にはなっている。そして、時折、同意を求められるのだ。

 皆は、曖の反応を貴重なものと認めていた。そこには、偽りなど全く無いのだから…


 こうして、曖も次第に新しい生活を始めていった……


 先程まで雨が降り注いでいたのだが、それも雲が運ばれていくと共にすぐに上がってしまった。

 曖が歩いている舗道の微かな湿りも、雲間から覗く太陽の光で、少しずつその色を取り戻し始めている。

 雨に依って洗われた白く輝く大気の中を、曖は買い物袋を腕に掛け、その背にランドセルを負いながら家に向かっていた。彼女はいつも、学校からの帰りに買い物を済ませることにしていたのだ。勿論、担任の先生も事情を知らされていて、認めている。

 もっとも、それも明日の水曜日だけは別だった。

 折角、玲君が来てくれるのに…

 買い物で時間を費やすなど、少し勿体無い気がするのだ。

 そこで今日も、明日の水曜日の分まで纏めて買ってきていた。

 …やっと、明日、玲君に会える……

 一週間って、どうしてこんなにも長いのかしら……

 水曜日のことを考えただけで…ただそれだけで、心から嬉しくなってしまう。あのことも、このことも、話をしたい…

 そんな幸せに満ちた曖の髪を、少し強い風が乱してしまう。だが、曖は嫌がりもせず、素直にその風が去っていった天蓋を見上げていた。

 曖には、残念ながら精霊の姿は見えない。

 …玲君は、見える、って言ってたの…少し、羨ましいな…

 玲が知る限りでは、この世界のあらゆる存在に精霊は宿っているらしい。だが、その玲ですらも、精霊達を見ることは出来ても、話しかけたり何かを頼んだりすることは出来ないのだそうだ。精霊達の声は聞こえるのだが…玲の言葉を使えば、それは「一方通行」なのだ。

 また、玲はこうも言っていた。

 …まるで、僕と精霊の間に、透明な硝子があるみたいなんだ…こっちからは、何も向こう側に送れないんだよ…

 玲との会話を思い出しながら歩む曖の周りには、もう暫くすれば夕暮れ時になるんだということを教えてくれる…そんな何か特別な雰囲気が漂っていた。

 陽光が少しだけ強くなり、辺りの全てが昼間よりも白く眩しく感じられる。

 まるで…お日さまが夜になる前に頑張って、何もかもを綺麗に磨いてくれるみたい…

 思わず、笑みが零れる。

 このような美しい時間に包まれている時には、曖も恥ずかしさなどまるで忘れてしまっていた。


 やがて、煉瓦色のマンションが見えてくる。

 曖は軽くスキップしながら、その駐車場にあるゴミ集積場の横を通り過ぎようとした。

 だが、その瞬間、視界に何かが飛び込んでくる。

 …もう一度よく見ようと、曖は積み上げられたゴミ袋の上を覗き込み……

「いやぁぁ!」

 曖はその場に蹲ると、小さな両手で顔を覆ってしまった。

 そこには、細く青白い「腕」が、無造作に捨てられていたのだ。人形のものなどではない…肘から上は無く、鋭利な刃物で切り裂かれたであろう、その切り口からは…赤い血の糸が、ただ一筋、地面へと滴り落ちていた。

 曖の悲鳴を聞きつけ、すぐに人々が集まってくる。

 父親から曖のことを頼まれている隣人や、他の親しい人達もすぐに声を掛けてくれる。

 だが…どんなに親しい声がしても、最早曖の耳は受け入れようとはしなかった。

 ナニモ、ミタクナイ…ナニモ、キキタクナイ……

 何もかも、自分の周りからは消えて欲しかった。

 …ドウシテ、…ドウシテ……

 通報を受け、警察はすぐにやって来たが、第一発見者である曖からは何も聞き出せなかった。曖に向かって話しかけても、全く応えが返ってこないのだ。

 曖は、泣いてすらいないようだった。少なくとも、涙は一筋も、その白皙な頬に流れてはいなかった…

 曖は、ただ周りの世界を一瞬にして拒絶してしまっただけなのだ。『自分』と言う名の『障壁』を瞬く間に創り出し、自らその中に閉じ籠もってしまったのだ…

 その『自分』と外界とを辛うじて繋ぎとめていた、細く微かな絹糸は……唯一つ。

 …それは、玲への呼びかけだけだった……

 身じろぎ一つしなくなった曖を、何人もの人達が大事そうに抱え込み、家までゆっくりと運ぶ。

 警察も曖の父親に連絡しようとしたのだが、残念ながら携帯電話も繋がらなかった。

 五階まで上がった時、漸く曖は俯きながらも自分の足で立ち、少しずつ歩こうとした。

 その幼い視線は、家の扉の前に辿り着いても、未だ下を向いたまま動こうとはしない。豊かな黒髪も、曖の心を察するかのように、その表情を覆い隠してしまっていた。

「本当に、一人で大丈夫?」

 隣人の優しい言葉にも何も言わず、ただ微かに首が震えたのがその答えだった。

 …曖は足を引き摺るようにして、開けられた扉を抜け、そのまま家の中へと入っていった。

 震える手が、玄関の鍵をかけてしまう。

 …高い、施錠の音が響き渡る……

 その音が消えてしまった一瞬後、曖は自分の部屋へと走り込んでいた。

 ベッドに倒れ伏し、力一杯、しがみつく……

 …そこで初めて、美妙な流れがその閉じられた瞳から溢れ出していた……

 唇からは零れる音も無く、ただ悲痛な思いだけが部屋中に満ちていく。曖の部屋にある全ての存在が、その悲しみに身を捩り、共に和して叫んでいた。

 …玲君…玲君……お願い…今、ここに来て……

 玲君……

 …だが、明日になるまで玲がここに来ないことは…誰よりも、曖が一番よく分かっていた……


「今日は、何をしようか」

 授業が終わると、玲は龍真達と一緒に運動場へと駆け出していた。

 家に帰るのは、遊び終わってからだ。当然、学校の宿題など、その後になる。

 夕暮れ時の爽やかな風に包まれ、玲は皆と共に楽しい笑い声を上げていた。

 …明日は、曖ちゃんとの約束があるからね。今日は、思い切り遊ぼう…

 玲は、曖との約束を苦痛だなどとは思っていない。それは、今や彼にとって一番大切な時間になっているのだ。

 だが、やはり、まだまだ小学生なのだ。今の玲には、曖との逢瀬だけでは、少し物足りなかったのかも知れない。

 一人がサッカーボールを取りに行くと、玲は他の友達と一緒にゴールを動かしたり、コートの線を爪先で描いたりしていた。

 運動場を囲む大きな木々の葉陰では、ヒヨドリが幾羽も留まって喧しくヒーッフィーッと騒いでいる。この青味がかった灰色の衣を纏う鳥達は、その声や体の大きさには似合わず、とても臆病だ。玲が振り向いただけでも彼等の間には恐怖が走り、慌てて幾つもの影が飛び去っていた。

 凄まじいばかりの喧騒と、くいっくいっと下に凸な弧を描いて飛ぶヒヨドリ達に囲まれ、サッカーの準備をしていた玲は、突然、その動きを止めてしまった。

 不意に深い心配と不安に顔を歪ませた玲は、誰にも何も言わず、一人運動場の端まで駆け寄ると、遠く香笹町の方を眺めた。

 …おかしいね…さっき、曖ちゃんの声が聞こえた気がしたんだけど…

 町境の山並へと目を向ける玲の心に、途轍もない悲しみの波が押し寄せてくる。辛く、苦しい…そのあまりの激しさに玲は胸元を押さえると、その場にしゃがみ込んでしまった。

 曖ちゃん…

 間違いない。自分を呼んでいるのだ。

 玲はすぐに立ち上がると、一度皆の所まで戻り声を掛けた。

「御免ね! ちょっと用事があったんだ」

 龍真や綾子にそう叫ぶと、返ってくる言葉など気にもせずに、玲は人気の無い校舎の裏手へと走り、意識を集中させた。

 すぐさま、全身を鮮やかに澄んだ黄金色の光が舐め始める。

 曖の家を思い浮かべる事ももどかしく、玲は最低限の『力』を集めると、すぐにその場から『飛んで』いた。


 ……………………………………………………………………………………………


 …どうして、…どうして、あんな酷いことを……

 曖は、今自分が生きているこの世界の全てを、心の底から嫌悪していた。

 その思いは、同時に曖に果ての無い孤独を押し付けてくる。

 …自分は、たった一人なのだ。

 誰も…誰も……

 その声に対し、すぐに別の曖が囁き返してくる。

 …玲君なら…玲君なら……

 玲君…ここに来て…明日なんて…私…待っていられないの……

 …明日…? 明日なんて、来なくてもいい。

 もう、このまま消えてしまいたい……


 涙は止まることなく、曖の優しい頬を伝い続けていた……


 ……………………………………………………………………………………………


「うわっ!」

 玲は慌てて目の前の手摺りにしがみついていた。

 遥か下に見える地上からは、冷たい風が吹き上がってくる。

「びっくりした…やっぱり、どんなに急いでても、きちんと行き先は決めないと危ないんだね…」

 ベランダの外にぶら下がりながら、そんなことを呟いている。

 次には、玲は腕の力だけで軽々と手摺りを乗り越え、ベランダに立っていた。

 玲は、いつも曖の家にはベランダから入ることにしていた。曖の部屋にだけ、ベランダがあるのだ。ここなら、出入りは簡単なうえ、誰にも『飛ぶ』ところを見られずに済む。

 部屋の中に振り返ると、不意にベッドで泣いている曖の姿が目に飛び込んでくる。

 再び、玲の胸中には凄まじい悲しみが流れ込んできた。

 …曖ちゃん…!

 急いで靴を脱ぎ捨てると、ガラス窓を開けて中へ飛び込む……


 ……………………………………………………………………………………………


 …ガラスの戸が、急に開く音がする。

 でも…まさか…

 曖は、その音を信じようとはしなかった。

 来るはずがないのだ…自分が最も傍に居て欲しいと願っている人は…

 …だが…その時……

 …そっと…温かな手が、曖の両肩に触れる。

 ……そして……

「曖ちゃん…」

 …とっても…とっても……優しいの……

 曖は伏せていたベッドから顔を上げると、玲の方を振り返っていた。

 …そう、…本当に……玲君なのね……

 曖は不意に玲の胸に縋り付くと、大きく声を上げて泣き出していた。

 今までの全ての気持ちを、玲に分かってもらいたかった…

 曖は声を出して涙を流し、全ての思いを玲に向かって吐き出していた…

 玲はしがみつく曖の肩を抱きながら、深い悲しみに瞳を閉じてしまった。

 何であれ、曖をこれ程までに悲しませたものを、彼は絶対に赦せなかった。

 …こんなに…こんなに、曖ちゃんを苦しませるなんて……

 しっかりと抱いてるのに…どうして、曖ちゃんはこんなにも小さいんだろう…

 小さくて、小さくて…こんなにも力一杯抱き締めてるのに……

 玲は突然、曖が儚くこの場から消えてしまうような感覚を覚え、恐怖に身を震わせた。

 嫌だ…そんなこと……!

(……?)

 不意に、『何か』を感じ、玲はその目を細めていた。

 屋外からこの部屋を覗き込み、自分達二人を面白げに眺めている、不快な『視線』がある…

 曖を庇うように支えながら、漆黒の瞳が鋭く窓面を探る。

 …そこには、何者も存在していないようだ。

 だが、『視線』は二人を眺め続けている。『それ』は抑えようともせずに、強烈な邪気を二人の頭上に降り注いでいた。

 その『視線』が突如、対象を曖一人に定めたことに気付くと、玲は彼女の黒髪に深く顔を埋めながら『力』を集中させた。

 直後、玲の体からは見えない『力』の塊が迸り、家の四方へと走る。マンション全体を包みこむ結界が刻まれ、そこに新たな空間が創造された。

 不快な『視線』は、その気配を消している…

(…でも、いつまでも保てないね…)

 こんなにも悲しんでいる曖を、更に苦しめるつもりか…

 絶対に、そんなことはさせない……僕が、曖ちゃんを護るんだ…

 再び意識を曖に戻すと、玲は当然のようにそう決心していた。


 曖はあらゆる悲しみと苦しみを玲に向かって吐き出してしまうと、その泣き声もやがて時の経過と共に小さくなっていった。

 …不思議なの…何だか、とても落ち着いてくる…

 玲が居てくれるのなら、この世界もそれ程悪いものではないかも知れない。

 …私だけだったら…とても耐えられなかったのに……でも…玲君が一緒なら…

 曖はその額を玲の胸に押し付けたまま、小さく掠れた声で囁いていた。

「…ありがとう…今、ここに居てくれて……

 …ありがとう……傍に居てくれて……」

「…うん」

 沈黙が、部屋に満ちる。

 だが、二人にとってそれは重く押し潰すようなものではなく、温かく包み込んでくれる黄金色の波に変わっていた。

「…話して、くれる?」

 優しくそっと、玲は曖の耳元で囁いた。

 その言葉に、曖は微かに頷くと、静かに言葉を押し出し始める…

 買い物を済ませた帰り道に、『あれ』を見つけてしまったこと…それから、ずっと玲の名前を呼び続けていたこと…

「…僕、曖ちゃんの声がちゃんと聞こえたんだよ。…とても、胸が苦しくなって、哀しくなって…だから、急いでここに来たんだ」

 …良かった…本当に…玲君が気付いてくれて……

 曖は、そんな気持ちをどうしても伝えたかった。だが、どう頑張っても、きちんとした言葉には出来そうにない…

「…ありがとう…」

 結局、それだけしか言えなかった。

 その時、玲の腕の力が強くなる。

 …分かってくれたんだ……

 曖にとってこれ程嬉しいことが、他にあるだろうか…

 突然、玄関の扉が激しく叩かれる。同時に、曖の父親の心配そうな声が響いた。

「曖、曖! 大丈夫なのか?」

 その声に、曖はくすっと笑い、玲の顔を見上げていた。

 …曖ちゃんて…なんて、可愛いんだろう!

 玲は心からの笑みを返していた。

 …もう、大丈夫だね。

「パパ、鍵を持ってるのに…」

「僕、今日は帰るよ。でも…」

 曖の表情から願いを読み取り、玲は大きく頷いていた。

「明日も来るからね!」

「…嬉しい」

 ……曖は、朗らかな笑い声を上げていた…

 玲はベランダに出ると、脱ぎ捨ててあった靴を履いた。

 ガラス戸を開けて立っていた曖は、そんな玲を見ながら、まだ自分の中の想いを全部伝え切れていないような気がして…

「玲君…」

 小さな声で、知らず呼びかけていた。

「何?」

 履き終えて振り向く玲に、曖は突然抱き着いていた。

 …ありがとう…本当に……

 声には出さない。…そんな必要など、無いように思うのだ。

 二人はにっこりと笑い合うと、玲は空へ、曖は部屋の中へと向き直った。

「パパ! 鍵を持ってるでしょう?」

 玄関に向かって走りながら、おどけて叱る曖の明るい声が、夕映えの空へと広がっていく…

 玲はその愛らしい声に笑みを深めると、ベランダの手摺りを飛び越えていた。

 不意に、幼い顔から表情が消える。

 軽く瞳を閉じて大きな溜息を吐くと、そのまま屋上に向かって上昇した。

 同時に、結界を解いてしまう。

 やがて、屋上の縁を取り巻く立ち上がりから姿を現すと、玲はそこに居た存在に向かって静かに口を開いていた。

「あんなに、曖ちゃんは苦しんでるのに…もっと傷付けるつもりなの? 緋夕羅ひゅうら

 深く冷たい…まるで抑揚の無い言葉が紡ぎ出される。その様子は、とても小学四年生とは思えなかった。

 ゆっくりと、玲の瞳が開かれていく…

 その双眸は、抑えようともしていない邪気を放つ源を、鋭く見据えていた。

 普通の人間には見えていない。だが、彼の瞳はそこに一人の魔物の姿を映していたのだ。

 四つん這いになってマンションの屋上に這い蹲っているその巨体は、全身が黒い鱗で覆われている。手足には大きな爪が生え、防水用のアスファルトに鋭く突き立っていた。

 玲の言葉に驚いて振り返ったその面は、黒く大きな瞳で占められている。獅子に似た面構えの中のその瞳は、だが夕陽を返しもせず、ただ深い穴が開いているかのように、見る者の視線を吸い込んでいた。

「…俺が、見えるのか? 貴様」

 小さな泡粒を吐き出すような音と共に、嗄れた声が零れる。一瞬、妖しげな銀光が口から飛び出し、宙に浮かぶ少年の目の前で弾けた。

 だが、玲は何の反応も示しはしない。腕を組み、浮かんだまま、ただそこから魔物を見下ろすだけだった。

 …暫くの後、玲は口を開いていた。

「見えるさ。勿論だよ。

 お前が、その爪で誰かを引き裂いたりしたから、曖ちゃんはあんなにも悲しんだんだ…

 …どうする? 自分から、あの世界に帰るかい?

 それとも、消滅させてあげようか。

 僕、今はとっても怒ってるからね…そんなには、優しくなれないんだよ」

「くふァ、くふァ、くふァ。貴様のような奴が、俺を消滅させるだと?」

 緋夕羅は笑いながら、その大きな躯体を持ち上げていた。優に、玲の背丈の数倍はある。

 今度は見下ろされる側になっても、玲はその身を少しも動かさなかった。変わらず、その面にも表情など映されない。

「そうだよ。お前にも、分かってるんじゃないかな? お前は、絶対に僕には勝てないよ。

 これ、何処かで見掛けなかったかい?」

 胸ポケットの中のケースから、鉛色のカードを一枚取り出す。緋夕羅は、それを見ると醜怪な顔を僅かに歪ませた。

「夢鏡ノ泉に封印がしてたよね。

 春分の日に出て来たのがお前だと分かってたら、曖ちゃんが悲しむ前に対処出来たんだけど…」

 全身の鱗が、不快に軋む。

 だが、やがて緋夕羅は大きく頭を仰け反らせて笑っていた。

「ふァッ、ふァッ、ふァッ。封印だと? 笑わせる。

 あの泉はな、昼と夜の長さが等しくなる時しか開かれんのだ! 蠢きはしても、開かれることは無い。それが掟だ」

「そうだったんだ」

 慌てもせず、続ける。

「あの泉…妖夢界ようむかいに繋がってるよね。

 お前もまた、人間の望みや夢が生み出した魔物…夢魔なんだ」

「そうだ。だからこそ、創り手たる人間になど、倒せる訳が無い」

 見下ろす緋夕羅から聞き出すことなど、もう残っていない。あの泉の性質だけが分かればいいのだ。

 玲はカードを人差し指と中指で挟み込むと、真っ直ぐ、底無しの黒い穴を見詰めた。

「そうだね。確かに、殺人というゲームを望む人間には、お前は倒せないだろうね」

 不意に、玲の全身から黄金色の眩い光が迸る。

「でも、そんな人間ばかりじゃないんだよ」

 身を貫くその『力』の大きさに緋夕羅が身構えた時、玲は夢魔に向かって鉛色のカードを滑らせていた。

 『力』を封入したカードは、だが容易に緋夕羅に避けられている。そして、続けて二枚目のカードを抜き出す少年を見て、緋夕羅は嘲笑っていた。

「所詮、子どもよ」

 静寂の奥深く…微かに黄金の揺らめきを湛える黒い瞳は、そんな緋夕羅をただ見上げるだけだった。

「…教えてあげるよ。

 僕のお父さんはね…ちょっとした研究所の開発部で働いてるんだ。このカードはね、そこで作られたんだけど…」

 一枚目のカードが、緩やかな弧を描いて緋夕羅の背後に戻ってくる。

「これには、『気』を封じることで、殆どのものを切り裂くことが出来るようになるんだ。

 もっとも、僕の『力』は『気』だけじゃないそうだよ…」

 それに対して、玲は名前など与えるつもりはなかった。

「そして…」

 緋夕羅が戻ってきたカードを躱そうと身を捻った瞬間、そのカードに向かって玲は二枚目を投げつけていた。

「カードの面に、少しでも衝撃が与えられたら…」

 二枚目のカードが、一枚目の面を切り裂く。

 不意に凄まじい爆音が生じ、まるで炭酸が抜けるような緋夕羅の悲鳴が響き渡った。

「…『気』が解放されて、爆発するようにもなってるんだ」

 迫ってくる炎と熱風の渦を前に、玲は平然としたまま片手でそれを弾き返している。朱と黄が絡み合う無数の舌は黄金色の輝きを前に身を捩り、大きな曲線を描きながら虚空へと広がり散っていった。

 煙が収まるに連れて、緑色のどろりとした粘液を流す巨大な黒い腕が、屋上に転がっているのが見えてくる。そのすぐ脇に、失った腕の切り口を押さえながら、緋夕羅が凄まじい形相で立っていた。

「貴様ァ!」

「腕を引き千切られることが、どんなことか分かったかい? お前に喰われた人達は、皆、それ以上の痛みと苦しみ、恐怖と絶望を味わったんだからね。

 それに、お前が傷付けたのはその人達だけじゃない。曖ちゃんのような、何の関係も無い人まで苦しめたんだよ」

 玲は、先程と同じ場所に浮かんだまま、ただ静かに、まるで変わらぬ調子で告げていた。

 緋夕羅は、今や玲の言葉を聞こうともしなかった。

 カッと大きく口を開け、もう一方の残った腕を振り翳しながら迫ってくる妖夢界の住民に対し、玲は冷たく続けた。

「…そろそろ、これも終わらせないといけないんだ。人が来るかも知れないからね」

 その言葉が宙に投げ出された瞬間、玲を包む光が夕陽を遥かに凌ぐ明るさで輝いた。

 緋夕羅は音の無いその光の波に飲み込まれ…次には、恐ろしい咆哮が、誰にも聞かれることなく辺りの空間に広がっていた。

 …夕陽がその彩を取り戻す頃、屋上のアスファルトの上には、最早何も残ってはいなかった。

 素早く辺りを見渡すと、玲の体が空中を滑る。カードの爆発で欠けた箇所を見つけると、彼はそこに小さな手を添えた。

 刹那、金色の閃光が散る。

 次には、建物は元通りに修復されていた。


 痕跡を全て消すと、やがて玲は大きく溜息を吐き、再び空高く舞い上がっていた。

 …曖ちゃんの為だったんだけど…あまり、気持ちの良いもんじゃないね…

 少しだけ寂しそうな顔で、玲は家に向かって飛び始めた。

 …曖ちゃん、明日はもう大丈夫かな…

 輝かしい太陽は大地へと沈み、黄昏もその時を終えようとしている。

 東方からは青白い闇が沈黙と共に天を隠そうと伸びていく中、未だ茜の残る空では鋭利な刃の如き三日月が、まるで何かを断つかのように黄金色に煌いている。


 …明日、鶯の声と共に目覚めた時には、曖も悲しみを忘れてしまっていることだろう……

                                                                     2 逢魔時 おわり



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