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雪泥鴻爪  作者: 風光
12/12

12 離析

「…鋭狼ときろう

 短い黒髪の女性が、そっと宙から舞い降りてくる。

 二十一になり、愛らしさよりも美しさの増したその女性を、鋭狼は鳶色の瞳を柔らかく細めながらそっと受け止めていた。

「寒くないか、綺羅」

「平気よ。ありがとう」

 彼の腕からビルの屋上へと降りると、綺羅は二月の曇天に囲まれた街を見渡していた。

 その視線は、やがて下を歩く一人の若者へと落とされる。

「…あいつが、そうなの?」

「そうだ」

「リストには無い『能力者』ね…」

 若者は、もう子どもとは言えない年齢にまで成長している。

「あんなに成長するまで、対魔委員会でも把握していなかったのね」

「それはどうかな…」

「え?」

 鋭狼の静かな声に、綺羅は厳しい顔付きで振り返っていた。

「ジークの親仁は、そうは考えてないだろう。あいつはあのまま、暫く泳がせておく。勿論、委員会には伏せてな」

「そう…それで、あたしの目標が化け物になったのね」

 確かに、いざという時のことを考えれば、その方が自分には合っているだろう。彼と行動を共に出来ないのは残念だが…

「そうだ。対魔委員会から回ってくるリストには載っていない、怪物さ」

 頷きながら、再び呪符の力で浮かび上がっている。

 そんな綺羅に、鋭狼は諭すように付け加えていた。

「いいか、リストに無いってことは、相手の情報は何も無いってことだ。今回は、本当に危険な時以外、絶対に手を出すな。

 俺達が欲しいのは、情報なんだからな」

「分かってるわよ。あたし、そんなに馬鹿じゃないんだから!」

 舌を突き出すその仕草は、まだまだ幼いものだ。

 綺羅は素早く鋭狼の頬に口付けると、目標を追って宙に舞い上がっていた。

 続いてすぐに、鋭狼自身も本部へ戻る為に空中を飛び始める。

「それにしても…」

 対魔委員会が、わざと見逃したのは間違いない。

 何故だ? …罠、だろうか。

 だが、委員会も、まだ特殊安全調査室と正面からぶつかることは望んでいないはず。

 …いや…既に、あの若者を取り込んで……

 『能力者』の情報は、まず委員会から特調へと回されてくる。

 特調では、その『能力者』を確認し、その『力』の規模と種類、成長過程の監視と記録を行い、魔法的状況に対処する特殊部隊の構成員に値するかどうかを判断、実際の訓練から各組織の統括までをその役割としている。

 だがここ数年、対魔委員会は状況の把握や発見だけではなく、独自に対処の為の特殊部隊を作ろうと画策している節がある…

「…それにしては、あからさまだ…」

 何故、あの若者は、リストに無い怪物を追っているのだろう。

 委員会も、特調が独自の情報網で魔法的状況の探知を行なっていることは知っている。すぐに魔物に気付くことは分かっているはずだ。当然、同じ目標を追う、あの若者のことも知られてしまう…

 ……囮か?

 だが、そうだとしても、魔物はいつ一般人に襲いかかるか分からない。

 綺羅の監視は必要なものだ。

 …なら、囮の後ろにある動きは…何なのだろう?

 雪が今にも降り出しそうな低い雲の重なりの下、鋭狼は憂鬱な気分で飛行を続けていた。


 玲が十三歳、曖が十一歳の冬のことである……


 ……………………………………………………………………………………………


「そうか…又、失敗したんだな」

「えぇ…」

 薄暗く感じる明かりの下で、男は視線を逸らしながら低い声で呟いていた。

「一度に何十万もかかって…もう、限界だな…」

「……」

「子どもも産めないなら…もう、一緒に暮らす必要は無いだろう」

 吐き棄てるように言うと、男は奥の寝室へと引き込んでしまった。

 …食卓では、妻であった女性が、声も出さずに全身で泣いていた……


 ……………………………………………………………………………………………


「和輝君、本当に来てくれるの?」

「うん」

 嬉しそうな笑みを浮かべる綾子に、和輝は静かに微笑みで応えていた。

 その優しい眼差しが恥ずかしく、綾子は急いで先に立つと、冬空の下を歩き始めた。

 真冬の最中だが、それでも今日は薄日が射している。

 比較的穏やかな昼下がりに、綾子は知り合いの女性に会いに行くと決めたのだ。

 その女性は、先月の始めに離婚していた。その日以来、足が遠退いてしまっていたのだが…やはり、どうしているのか心配で、訪ねる決心をしたのだ。

 それでも、流石に一人では気が引ける。

 そこで、綾子は和輝に一緒に行ってくれるように頼んだのだ。

「その人ね、まだ28歳なんだよ」

「何処で知り合ったんだい?」

「病院でなの。あたしのお父さん、一度、入院したことがあるから、その時にね」

 ゆっくりとした足取りで、会話を楽しむ。

 …綾子にとっては、夢のような一時だった。

 やがて、落ち着いた茶系の壁をしたマンションが見えてくる。

 あのマンションを…今迄、元夫と共に暮らしていたマンションを、その女性は譲り受けたのだ。

 だが…そのまま住み続けたいのだろうか…

「あそこよ」

 綾子は、自分に言い聞かせるような口調で呟いていた。

 どう言えばいいのか分からない。だが、避け続けることもしたくない…

 そんな綾子の様子を横で見ながら、不意に、和輝は自分の方から彼女の指先を取っていた。

「和輝君!」

 驚いて、真っ赤になってしまっている。そんな彼女に、和輝はそっと微笑みを深めていた。

「さぁ、行こうか」

「…そうね」

 横手にある狭い階段を上り、3階の廊下に出る。

 女性の部屋は、すぐそこだ。

 綾子は扉の前に立つと、そっと深呼吸をした。

 間を置かずに、和輝の手が繋いだ指先を強く握り締めてくれる…

「…ありがとう」

 赤くなりながらも、綾子は振り返って笑顔を見せていた。

 短く、ベルを鳴らす。

 …だが、待ち続けても、扉は開かない。日曜日の午後は、留守にしたことが無いのだが…

「扉は、締まっているのかい?」

 不安そうな綾子の傍で、落ち着いた声がする。

 まさかと思いながらも手をかけてみると、驚いたことに鍵がかかっていない。

 そっと尋ねるように見上げると、少し、真剣な表情で和輝は頷いていた。

 無意識のうちに呼吸を止め、綾子はそっと扉を開ける…

 薄い闇が、玄関から奥の部屋へと流れていく。

 …何も、聞こえない。

「…お姉さん…?」

 静かに…そっと声をかけてみる。

 その奇妙に掠れた音の波が廊下を曲がると、ぼんやりとした霞が奥から返ってきた。

「なぁに?」

 耳朶に触れると、それは確かに知っている女性の声に変化した。

 安心が、どっと押し寄せてくる。と同時に、綾子は一気に空気を吐き出していた。

「なんだ、いるんじゃない!」

 そう言いながら綾子は家の中に入ると、廊下の先に向かい、そこを曲がった。

「…!」

 目の前の光景に、思わず足を止める。

 冷たい…冷たい手が、綾子の心臓を握り潰す……

 横に並んだ和輝の前では、虚ろな表情の女性がよたよたと部屋の中を彷徨っていた。

 髪を乱し、痩せた腕を伸ばしながら…何かを追いかけているように見える。だが、朧に微笑む女性の前には、何も存在していないのだ。

「…お姉さん…どうした、の…!」

 やっと、悲鳴を上げることが出来る…だが、足は動かない。動けない…立っていることも難しくなりそうだ…

 食卓の上に、僅かに水が残るコップと、半分に裂かれた茸がある。

「…シビレタケか!」

 和輝は厳しい顔をすると、その女性に駆け寄っていた。

 彼女は、そんな和輝など見えていないようだ。部屋の入り口でとうとう座り込んでしまった綾子を見ながら、愉しそうに声をかけている。

「ほら、綾子ちゃん…私の子どもはね、空を飛べるのよ? ほら…」

 伸ばされているその腕を、和輝は素早く自分のハンカチで縛ってしまった。

 全く抵抗しないその体を横に倒すと、足を押さえ、脱いだコートの袖でこれも動かないようにしてしまう。

「嫌…こんなの…」

 小さく頭を振りながら…綾子は恐怖で目を見開いていた。

 そんな彼女へと、転がされている女性はまるで何事も起きていないかのように、感情を映さなくなった瞳で話し続けている…

「ほら。とうとう、私にも子どもが産めたのよ…」

「やめてぇぇーっ!」

 …綾子は…全身で叫んでいた……


「そんなことがあったんだね…」

 玲は龍真と顔を見合わせると、泣き続ける綾子へと痛々しい視線を向けた。

 救急車で女性を運び、綾子を自宅にこうして送ってきたのも、全て和輝だ。

 その和輝は、ローニアと一緒になって綾子の肩を抱いている。

 皆を呼んだのは…流石の彼も、一人では不安だったのだろう。今は随分と落ち着いてきているが、先程までの綾子の泣き方は尋常ではなかった。

 和輝はその瞳を深い悲しみで彩りながら、龍真と玲を見上げた。

「あの茸は、幻覚を見せるんだ。勿論、体にも害がある…でも、きっと、あの人はそこまで考えなかっただろうな…」

「そんなものが、簡単に手に入るのかよ!」

 怒りに満ちた龍真の言葉に、和輝は黙って頷いていた。

「…あの人にとっては、辛い気持ちを軽くしてくれる…素晴らしい薬だったんだろう…」

「違う…!」

 不意に、綾子が口を開く。

 瞳を強く瞑りながら、必死になって、言葉を押し出す…

「お姉さん…そんなに、…弱くない、わ…」

「綾子…」

「…子どもが出来なくて…いつも…悩んで…苦しんで…

 でも…そんな…幻に頼るなんて…そんな……」

「…その人が子どもを産めなかったから、離婚したんだね」

 玲の低い呟きに、龍真は噛み付くように叫んでいた。

「冗談じゃないぞ! そんな勝手なことがあるかよ!」

「龍真さん…!」

 少し強く、ローニアが窘める。

 淡い蒼を含む銀の瞳が綾子に流れるのを見て、龍真は舌打ちすると横を向いてしまった。

 …そう…その理不尽さに一番憤りを感じているのは、綾子なのだ…

「体外受精は、何十万もかかるし、成功率もまだまだ低いし…失敗すれば、始めからまた入院しないといけないんだ…

 …その人の生理のサイクルに合わせながら治療をするから…経済的にだけでなくて、時間的にも負担が大きくて…」

 和輝が、誰に言うでもなく、静かに続けている。

「一方で、排卵を促進する薬で、二人以上の子どもが出来る確率も高くなるんだ…

 でも…一人でいいから…親の中には、他の『生命』を殺すこともあるそうだよ……

 人間なんて…結局、そんなものなのかも知れないね……

 切に望んでいたのに…邪魔になったら、その『生命』からの反応が身近に感じられない間に、殺してしまう…

 子どもが産めないから…邪魔になって、捨ててしまう…」

「ですが…それは、『人間』の《全て》ではありません…」

 …魄鬼のローニアの言葉は、静かだった。

「…お姉さんだって…そんな人じゃないわ…」

 綾子が再び唇を震わせる…

「お姉さん、言ってたのよ…卵子を取り出す時は、本当に泣けてくる、って…私、何してるんだろう、って……

 …泣きながら…話してくれたのよ…!

 それでも…卵子を自分の中に戻した時…それが何回目でも…嬉しくなる、って…

 妊娠したかどうか、調べに行った時…お姉さん…+や±が出るたびに、喜んで…」

 喘ぐように、息を吸い込んでいる…

「でもね…いつも、出血してしまって……又、駄目だった、って……

 男の人って、そんな時の…お姉さんの笑顔を……とても…とても悲しい笑顔を…全然、知らないのよ…!」

 あの人が…あれ程まで…あれ程まで変わるなんて…

 子どもが産まれない…だから、今迄の《全て》を捨ててしまうなんて……

 『子どもが産めない』…それだけで、その人は『女性』ではなくなるとでも言うのだろうか。

 …今迄の想いも…愛情も…全て、完全に、失せてしまうと言うのだろうか……

 綾子には、分からなかった。

 分かりたくもない。

 でも、分からないといけないのかも知れない。

 でも…分からない。

 ……彼女の胸の中では、不安と猜疑と絶望と…どす黒い血のような液体が渦を巻き、のた打ち回っていた……

「代理母のことも考えたらしいよ…」

 和輝が、穏やかな声で続ける。

「でも…『他人』が産むんだからね…自分達の遺伝子を受け継ぐとは言っても…本当に体と心を痛めて産むわけじゃない…

 矛盾しているようにも思えるけど…でも、だから、止めたそうだよ」

 精一杯の力で、綾子を支えている。すぐ傍のローニアには、それが十分に分かっていた。

 震えようとする声も、抑えている…和輝もまた、実際に幻を追う女性を見ているのだ。動揺していないはずがない。

 それでも、彼は穏やかになろうとしているのだ。そうしなければ…どうして、綾子を支えていられるだろう…

 暫し、沈黙が深く…皆の頭上に横たわる。

 重く垂れ込めた静寂は、暮れてゆく美しい夕映えの下、払うことの出来ない闇を創り出していた…


 …不意に、階下で電話が鳴り響く。

 やがて足音が近付いてくると、ドアの外でそっと綾子の母親が声を掛けてきた。

 幼なじみの龍真が代わって出ると、下に向かう。

 だが、すぐに駆け戻ってくると、乱暴にドアを開け、玲を部屋の外に引っ張り出した。

「どうしたの?」

 龍真は部屋の中に聞こえないことを確認すると、低く、真剣な声で玲に囁いていた。

「病院からだったんだ。あの人が、逃げ出したらしいぞ」

「…!」

 押し殺した叫びが玲の口から漏れる。

「どうする? 綾子を置いていくことも出来ないぞ」

 和輝とローニアだけでは、すぐに何かあったのではと勘繰ってしまうだろう。漸く、落ち着きかけているのだ…

「考えてる時間なんて無いよ。

 どうしても、僕だけでも行かないといけない気がするんだ。

 …嫌な予感がする」

「俺もさ。何かが宮木町に入り込んでいるようだ。

 一人で大丈夫か?」

「うん。それより、ローニアさんと一緒に、綾子ちゃんの傍を離れないでね」

「勿論だ」

 その女性が、どんな状態で病院を離れたのか分からない。自らの意志なのか、邪気に囚われているのか、それも分からない。

 だがいずれにしろ、この近辺で女性が向かう先があるとすれば、それはこの綾子の家なのだ。誰かが、残らなくてはいけない。

 復讐は…?

 …それなら、今、この時でなくても可能だったはずだ。

 だが、邪気によってその意志が強められていたら…

 ……疑問は解答を得られないまま、心の中を巡る。

 玲はそれ以上の疑問を心に許さず、すぐに黄金色の痕跡を残すと駅前の病院へと『飛んで』しまった。

 龍真はそんな彼を黙って見送ると、そのまま再び部屋へと戻っていった。


「…っ!」

 病院の上に出た瞬間、辺りに渦巻く邪気の凄まじさに、思わず玲は身を竦めていた。

 …地下の…水脈が乱れてる…?

 あの女性は何処だろう。

 人の病んだ心に、邪な存在が入り込むのは簡単だ。

 恐らくは……

 漆黒の瞳に沈黙と哀れみを湛えながら、水脈の『気』をその身に集めている存在を認めた玲は、ゆっくりと降下を始めていた。

 近付くにつれ、魅惑的な…蠱惑的な香りに包まれる。

 若者を惑わすその芳香も、だが玲にとっては不快なだけだった。

「何処に行くの? 蛟女こうじょ

 穏やかな言葉に、薄暗い道を浮かぶように歩んでいた美しい女性は、微笑みながら足を止めた。

「決まっているでしょう。この『体』が望む所よ」

 昼間、病院へと担ぎ込まれたその女性は、舞い降りた少年に向かって妙なる声で応えている。

「違うよ。お前が望む所だよね」

「同じことよ」

 蛟女は…その女性は、くすくすと笑いながら続けた。

「この『体』は、自分を棄てた男を憎んでいるわ。

 子どもを産めないから、『女』として認めない。そんな身勝手なことを考える存在に、復讐したがっているのよ。

 だから、私はこうして抵抗も受けずに、この『体』に入り込めたの。

 この『体』を使って『男』を誘惑しても、殺しても、その血を吸っても、何もいけないことはないでしょう?」

 胸元で腕を組むと、玲は鋭い視線で女性を見据えていた。

「復讐を願っている限り、その人は『過去』から出られないんだ。

 だから、無いものを追い求めてしまう。

 それは『夢』じゃない。『過去』に引き摺られた『幻』でしかない。

 僕に出来ることは、お前を追い出して、その人に『未来』を眺めてもらうことなんだよ。

 この世界にはね、思っている以上に沢山の人々がいるんだ。

 その人を『女性』として、『人間』として愛してくれる人は、きっといる。

 確かに、子どもを産むことは『女性』の素敵な力だよ。

 だけどね、蛟女。それだけが『女性』の《本質》じゃないことを、僕はその人に知ってもらいたいんだ」

「随分と綺麗なことを言うのね。

 でも、それでこの『体』が納得するかしら?」

 楽しそうに微笑む蛟女に、玲は失せた表情のまま続けた。

「それは分からないよ。

 僕は、その人じゃないからね。

 ただ、これだけは言えるんだ。

 『理想』だって、《現実》であり、《真実》なんだ。

 だからこそ、人はこの荒んだ塵界で生きていける。

 その人が《真実》を知るためには、いくら時間をかけても構わないんだよ。

 その『時間』こそが、人生なんだから」

 玲の全身を、黄金色の炎が嘗め始める。

 蛟女も紅蓮の炎をその背に負いながら、優美な唇を開いていた。

「《真実》なんて、この『体』にとっては苦痛でしかないわよ」

「ううん。綾子ちゃんがいる限り、絶対にその人は変われるよ」

 組んでいた腕を解き、右手を挙げる。

 『力』を放ち、結界を張ろうとした瞬間、別の『力』を感じて玲はその動作を躊躇ってしまった。

「見付けたぜ! この化け物が」

 荒々しい喜びに満ちた声が、不意に飛び込んでくる。

 見たことも無い若者だ。溢れ出す『力』を抑制もせず、思いのままに迸らせている。

 蛟女は美しい顔を歪めると、舌打ちして玲に背を向けた。

「くたばれ!」

「やめろ! その『体』は…」

 だが、若者は諸手を振り下ろし、『力』を放つ。

 瞬時に蛟女の前に回ると、玲はカードを取り出し、滑らせた。

 目に見えない壁が現出し、更に『力』で補強する。

「くっ…」

 直後、精霊を伴わない風が宙を裂き、敢え無くカードの防壁を粉砕してしまう。

 その爆風に煽られながらも、玲は鋭利な疾風の刃を食い止めていた。

 その間に、蛟女は『体』を捨てて逃げ始めている。

 若者も玲のことなど意に介さず、霧となって逃れる蛟女を追って素早く闇の中へと消えてしまった。

 なんて無茶なことを…

 流石に無傷ではない。

 すぐに若者を追いかけようとしたが、目の前に倒れている女性に気付くと、痛みも忘れ、玲は急いで駆け寄っていた。

 気絶はしているものの、外傷は見られない。

 遠くから、走ってくる複数の足音が聞こえる。

 玲はその女性を優しく抱きかかえると、病院の人々を静かに迎えていた。


 ……………………………………………………………………………………………


「曖、少し薬局で薬を買ってくるよ」

 本を読んでいた曖は、疲れた父親の声に驚くと、慌てて部屋を飛び出していた。

「駄目よ、パパ! 横になっていないと…」

 気分がすぐれず、青い顔をした父親を、曖は居間に座らせると優しく言った。

「風邪の時は、お休みするのが一番なの。

 お薬は、私が買ってくるから」

 薬局は、通勤で使っている駅からの通り道には無い。

 もう一つの駅の近くだ。距離も、それ程遠いものではない。

「いや、こんな夜遅くに出掛けるのは…」

 だが、こんな状況での曖は、普段とは違い厳格だった。

「駄目! パパにはお薬がいるんだもの。

 大丈夫よ」

 安心させるように微笑みかけると、曖は急いで部屋に戻り、寝間着から着替えていた。

「起きたら駄目よ? パパ」

 扉から笑顔を見せた曖は、すぐに玄関へと消えてしまう……

「…曖も変わったな…大きくなったものだ」

 その呟きは、すぐに静寂を纏い…薄闇の中へと溶け込んでしまった…


 ……………………………………………………………………………………………


(…? あれは…)

 天から、純白の雪が降り始めている。

 闇に煌き、散り舞うその花々の下…綺羅は、普段通りに蛟女を見張っていた。

 先程の病院の一件では、幸い川瀬玲の御蔭で自ら動くことはなかった。

 だが、あの少年も今は蛟女を見失っているようだ。病人を優先したのだろう。

 その時、綺羅の視野に一人の少女が駆け込んできた。

 そう…確か、その川瀬玲と親しくしている少女だ。

 彼女は車も少なくなった夜更けの交差点を、走って渡り始めている。

 そんな少女には見向きもせず、今は女性像を保っている蛟女が道に出て近付いていく…

「……!」

 その時不意に、蛟女を追いかけていたあの若者が現れた。

 リストには無かった『能力者』だ。

(まさか…?)

 尋常ではない高レベルの『気』が集められている。

 今しも、少女と擦れ違おうとしている蛟女に向かって……

(…あいつ!)

 立ち上がりかけた綺羅は、次には意識する間も無く、素早い身のこなしで横に転がっていた。

 視界に冷たく光る刃が過ぎる。

(誰?)

 そんな単語が脳裏に浮かぶ前から、綺羅は銃を抜くと構えていた。

 だが、既に辺りからは気配が失せている。

(…いけない!)

 優しい少女の姿を思い出し、急いで視線を戻したが……


 ……既に、風は闇を舞っていた………


 ……………………………………………………………………………………………


「この辺りなんだけど…」

 病院を出るとすぐ、玲は蛟女を追いかけて空を駆っていた。

 いつのまにか、空は一面、輝く白い羽根で満ち、寒さも増してきている。

 …香笹町まで来たんだ。

 見覚えのある風景を眺めながら、玲は音も無く飛び、眼下を探っていた。

「…あれ?」

 あれは…

 少し先で、広い道を一人の少女が渡っている。

 あの仕草は…

「曖ちゃん? どうしたんだろう、こんな夜中に…」

 だが、不意に言葉が止まる。

 曖に近付いているのは…

 蛟女!

 玲は一気に『力』を高めると、曖に向かって滑空した。

 その時、もう一つの影が目に入る。

 あの若者だ。

 彼は……

「やめろぉぉーっ!」

 だが…

 …次には……

「曖ちゃぁぁーん!」

 嘘だ…

 …絶対に……

「嘘だぁぁぁーっっ!」

 鋭い風の刃に手足を切り裂かれながら…

 玲は…絶叫していた……


 大きく見開かれた、漆黒の瞳の中…


 無数に切り刻まれた曖の体が…


 「破片」が…


 鮮やかな赤を纏い…闇に、散る……


 純白の敷布の上に…美しい黒髪が広がり……


「これで、やっと奴等の『力』の一つが手に入るぜ。

 なに、泣いてやがる。

 こんなガキ、それに比べたら…」


「………………!」


 空に向かって…玲は、《全て》の『力』と共に吠えていた……


 途轍もない爆発が、地を走る…



 ……《全て》が…



 …消える………




 ……………………………………………………………………………………………


 綺羅が爆風から逃れようと身を起こす直前、彼女の前に一人の若者が立ち塞がっていた。

 まるで気配を感じさせず、綺羅の訓練された体も動かない。

 黒髪の若者の姿を視認して初めて、綺羅は咄嗟に身構えようとしていた。

 だが、若者の方が早い。

 彼は黙って、右手を横に滑らせていた。

(…!)

 不意に、綺羅は周囲の存在全てに影が落ちた気がした。

「結界の中だよ。

 綺羅…見ているがいい…」

 その悲痛な口調に、いつしか綺羅は警戒も忘れ、その言葉に従っていた。


 ……………………………………………………………………………………………


(…く、ん…)

 曖の「破片」を前に、玲は倒れ伏していた。

 身も心も硬く張り詰め、その瞳は見開かれたまま、ただただ銀の雫を零している…

 曖の鮮血に濡れながら……

 …玲は、自らの中の赤い血の送り手を、止めてしまうつもりでいた。


 ……造作もないことだ。



(…君…!)



 …声がする…?



(玲君…!)



 砕け散った…玲の『存在』の奥底から……


 ……溢れてくる…?



「玲君!」



 しゃくりあげている…?


 優しい声……


「悲しまないで…! お願い……」


 血の泉に沈む玲の背中に…


 …縋り付いている……震えている……


「ごめんなさい…」


 ………


「…折角、私……玲君に、『好き』になってもらえたのに……」


「……あ…」

 虚ろだった漆黒の瞳が揺らめく…


 ……悲しむ声に、焦点を取り戻していく……


「玲君…」


 儚く…消え入りそうな泣き声……


 …泣かないで……


 玲は瞳を閉じていた。


 泣かないで、曖ちゃん……


「…守れなかった……」


 ごめんね…ごめんね…ごめんね…ごめんね…


「僕……もう……」


 自分が声を出しているのかどうかも、本当は分からない。

 泣いているのかどうかも…

 だが、その慟哭している玲の姿に、周りの存在の全てが呼応し、悲痛な叫び声を上げている。


 大地は震え、建物は軋み、風は唸り、雪は渦を巻く……


 曖は…透き通った姿の曖は、その混乱の中、玲の背中にしがみつきながら、頬に涙を伝わせていた。

「ううん…玲君…来てくれたもの……

 …ありがとう……」

 縋る力が、一瞬、強くなる。

 次の瞬間、その腕が解かれていくのを感じて、玲は思わず顔を上げていた。

「曖ちゃん…! 曖ちゃん…!

 …消えないで!」

 水の幕の向こう側で、だが、曖は全てを悟った者として、小さく頭を振っていた。

「…『何処か』には、行かないといけないの…」

「曖ちゃん!」

「…でも…きっと……きっと、ずっと、玲君の傍には居られるの…」

「曖ちゃん!」

 その小さく愛おしい姿の横に、不意に一人の女性の姿が浮かび上がる。

 …曖に似た、豊かな髪が背に流れている。

 曖はその女性に笑みを向けると、玲に抱きついていた。

「玲君…お母さんなの……」

「え…」

 玲には、その女性が精霊なのだと分かっていた。

 降り続く、雪の精霊…

 母親もそれを察し、優しく微笑むと玲にそっと触れていた。

「玲君…今まで、曖のこと、本当に有難う御座いました。

 夢鏡ノ泉で人と化した私にも、曖にも…人間の世界は、結局、悲しみでしかなかったのです…

 ……例え、そこで素晴らしい愛を見付けたとしても…」

「……!」

「曖は…玲君。

 貴方と出逢えたことで、貴方と枝葉を交えたことで、精霊ではなく、人としてその《生》を新たに受けることが出来ました……

 …もう、貴方たちは、離れることはないのですよ。

 曖の道は、過去とも未来とも、重なり、繋がったのです…」

 首に抱きつく曖の腕に、力が加わる。

 その想いを感じながら…玲は、次第にはっきりとしてきた意識の下で、曖を抱き返していた。

「玲君…」

「曖ちゃん」

「…『好き』になってくれてありがとう…

 ……でも…ごめんなさい…」

 一度強く、その双眸を閉ざす。

 そして、優しい笑みをその頬に映すと、再び濡れた瞳を開き…玲は透き通る曖を見つめた。

「ううん…

 …曖ちゃん。

 今も…これからも、『好き』だよ…

 きっと、…それが大事なんだ…

 …きっと……」

「…うん」

 曖が、ゆっくりと離れていく…

 …その心配に揺れる瞳に、玲は励ますように頷いていた。

「大丈夫…大丈夫だよ。

 曖ちゃん…もう……

 …泣かないよ」

「玲君…」

 素敵な笑顔が…薄らいでいく…

「…いつも…ずっと、一緒だよ…

 曖ちゃん…」


 そして…玲は俯くと…


 ……顔を隠してしまった。



 ごめんね…少しだけ……



 ………微かに、両肩が震えていた……




 ……………………………………………………………………………………………


 純白だった雪が、紅く染まって舞い降りてくる。

 結界を解いた若者は、『時間』の揺らぎを秘めた声で、重く…静かに呟いていた。

「綺羅…これも『運命』だと思うかい…?」

 蹲って動かない少年を見つめながら…綺羅は黙って瞳を濡らしていた。


 …やがて、掠れた声が…美しい唇の間から零れ出す…


「…いいえ。

 ……違うわ…」


 綺羅は、若者…志水を見上げると、そっと微笑んだ。



「………『永遠』よ…」

                                                                     12 離析  おわり

                                                                     『雪泥鴻爪』 おわり


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