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雪泥鴻爪  作者: 風光
11/12

11 離闊

「ハイキング…?」

 七月の強い日差しで、曖の部屋からは夜になってもまだ熱も逃げていない。

 クーラーの設定温度を下げようとした曖は、突然の玲の言葉に驚いて振り返っていた。

「うん! きっと、気持ち好いと思うよ」

「でも…私、そんなに…その、歩けないと思う…の…」

 がっかりさせたくはなかったが、曖は正直にそう言った。

 だが、玲は安心させるように微笑むと続けていた。

「大丈夫だよ。歩くのは2時間くらいだし、疲れたら、勿論送ってあげるからね。

 曖ちゃん、もう少しだけ、自分の体力に自信を持ってもいいと思うよ」

「…ありがとう…うん」

 山の中をハイキングした記憶など、曖の中には無い。そのことを、玲もよく分かっていた。

 当然ながら、山道を歩くつもりは無い。若干、距離は長くなるが、歩きやすい車道を登るつもりだ。

 玲は、曖に少しでも、『外』を知ってもらいたいのだ。

 知らなくていいこともある…だが、知らずにいて大切なものを逃していることもあるのだ。

 夏休みが始まったその日、曖の父親は仕事で出掛けている。

 その日に二人は、翳月山を登ることに決めた。


 ……………………………………………………………………………………………


「随分、暑いね…」

 流石の玲も、顔を顰めている。

 曖は純白の大きな帽子の下から見上げると、心配そうに言った。

「玲君…帽子を被った方がいいと思うの…」

「う〜ん、それが忘れちゃったからね。まぁ、大丈夫だと思うよ」

 玲は簡単にそう言うと、曖の指先を取って歩き始めた。

「さぁ、行こう!」

「…うん!」

 曖もにっこりと微笑みながら、玲に従っていた。

 この時期、翳月山眩燿寺では、何の行事も行なわれていない。

 また、周囲の山々に綺麗な花が咲き誇っているわけでもなく、ただ道沿いの木々が緑葉を揺らしているだけだ。

 夏休みとは言え、観光客などいるはずもない。

 時折、自動車は走り抜けるものの、それ以外は完全に二人だけの世界だった。

「とっても、いい気分ね…」

 道のすぐ脇を流れる川に、曖は軽く身を乗り出して言った。

 せせらぎから聞こえてくる水の呟きは、曖に不思議な話を伝えてくれる…

 …あれは…水さんが、笑ったのかしら…

 目の前の中洲には、背の高い葦が蔓延っている。その向こうから、不意に巨大な影が飛び上がった。

 驚く二人の前で、そのアオサギは悠然と空を舞い、高木の上に立つとそのまま動かず、じっと川下を見つめていた。

 何もかもが、目新しい…

「曖ちゃん…」

 玲の優しい誘いに、すっかり足を止めてしまっていた曖は頷くと再び歩き出していた。

 小さな、赤い橋を渡る。

 緑濃い山々に挟まれ下ってくる川を覗き込んだ曖の目には、小さなの魚影が沢山見えていた。

 頭の影が落ちたわけでもないのに、何かを感じてその細い線が、一斉に水面に輪を描いて逃げ去ってしまう。

「とっても澄んだ水だね」

 岩の間を、堂々と泳ぐ魚も見える。曖の両手を合わせたよりも、もっと大きいだろう。

 あんなに大きなお魚さんが…手を伸ばせば、届きそうなの…

 目を上げてみれば、剥き出しになった崖の灰色の肌に、黄金色に輝く波紋が揺れている。…それは、とても不思議な映像だった。

 川の眺めを楽しんだ後は、少しの間、爽やかな囁きから離れることになる。

 道は木立の中へと入り、曖は遠ざかる煌きを寂しそうに見送っていた。

 そんな曖を見守りながら、玲は黙って歩みを進める。

 左右に並ぶ杉は、次第に太く、大きなものへと変わっていく。深い蒼に染まっているはずの夏の空が、遙かな果てで、緑の頂に切り取られている。

「大きいもんだねぇ」

 それ以上の言葉が出てこない。二人の日常の感覚では測れない程に大きいのだ。

 それでも威圧感が無いのは、下草が殆ど無く、薄暗い森の奥までが見えているからだろう。

 厳しく照りつける陽光も、ここでは草葉を通して随分と柔らかな泡となっている。

 その下を、二人は急ぐこともなく、手を繋いで共に歩んでいた。

「しっ!」

 不意に、玲が立ち止まる。

 手を引かれて、曖はきょとんとした表情で彼を見つめた。

 だが、足音が消えた瞬間、彼女の耳にも聞こえてくる…

 愉しげなおしゃべりに嬉しくなって、思わず曖は駆け出していた。

 大きなカーブを曲がると…再び、川がその穏やかで楽しい姿を見せてくれたのだ。

 密生した緑の葉叢に囲まれた水の流れは、岩の隙間を縫って白い泡を纏いながら、覗き込む曖に話しかけてくる。

 飽きることなく耳を傾けていた曖は、知らず微かな笑い声を零していた。

 そうせずにはいられなかったのだ。

 その時、今度は少し乱暴な歌が彼女の耳に届けられた。

「あっ…」

 風だ。

 近くに立つ桜の木を揺らした乙女達は、銀色のドレスの裾で二人を包み込んでくれる。

 耳元で呟かれる言葉を、曖は久しく聞いていなかったような気がした。

 そっと瞳を閉じる…

 すると、急に玲が笑い声を上げた。

「……?」

 首を傾げて見上げてくる曖に、玲はにっこりと笑って言った。

「曖ちゃん。さっきの風がね、どうしても曖ちゃんに話したいことがあるんだって」

「え…?」

 片目を瞑ると、玲は風の精霊の言葉を伝えた。

「あの風はね、曖ちゃんが川ばっかり見てるから、嫉妬してるんだよ。

 自分達も見てくれないと、その帽子を飛ばしてしまうから! って言ってたよ」

「そんな…」

 思わず、大切な帽子を両手でしっかりと押さえてしまう。

 だが…少し、嬉しい気がする。

 曖だけが、周りを見て喜んでいるのではない。川や風も、曖や玲のことを気にしてくれているのだ。

「あははは。大丈夫、飛ばされたりしないよ。あの風は、曖ちゃんが好きだからね。

 そんな意地悪をして、嫌われたくないんだ」

「玲君…」

 素直に、真っ赤になってしまう。

 玲は更に大きく笑うと、曖の細い指先を取って駆け出した。

「さっ、まだまだ歩かないとね!」


 顔や手に直接ぶつかってくる日差しは、時に痛みさえ覚える程に熱く厳しい。車道を歩いている為、木々が大きく頭上を覆ってくれることは少ないのだ。まだ、時折、薄い雲が流れているのが、帽子の無い玲には幸いだった。

「玲君…大丈夫?」

「うん! 平気だよ」

 玲のにこやかな笑顔を見ていると、深刻だった曖の顔も心配の色を消していく。

 道は、緩やかに盛り上がった山々に囲まれている。

 風に大きく樹木が靡いている様を見ながら、曖は葦原の向こうに少し遠退いてしまった水音に、再び耳を傾けていた。

 ヒヨドリが元気に啼きながら、対岸から頭上を渡ってくる。

 傍に立つ木の、色濃い葉陰でちょこちょこと枝を登っているのは、メジロだろうか。

「曖ちゃん…良かった。

 とっても楽しそうだね」

「うん…ありがとう、玲君…」

 玲の微笑みを見るまで、曖は自分も頬に笑みを浮かべていることに気が付いていなかった。

 だが、それは恥ずかしいことではない。

 曖にしてみれば、この目の前に広がる《世界》の中で、笑みを忘れる人の方が信じられないのだ。

 そんな彼女の元に、突然、深く重い空気が流れてくる。

 青い匂い…気圧されそうな程に濃い草々の薫りに、曖はくすくすと笑い出していた。

「こんな香り…久し振りなの…」

 視線を送った先で、玲も頷いている。

「曖ちゃん、あの上の方にある田圃まで登ってみようよ」

「うん…!」

 少し先にあった、一軒の民家の横に見える細いコンクリートの坂を、二人は手を取り合って上り始めた。

 錆び付いた鉄の階段を上がり、用水路の脇を歩いていく。

 やがて、山々に囲まれた細い田圃の鮮やかな緑が目に入り、それと同時に、二人はその田圃から流れ出してくる独特の香りを胸一杯に大きく吸い込んでいた。

「玲君…私ね…」

 芳香に包まれ、暫く身動きしなかった曖が、それだけを言うと急に恥ずかしそうに言葉を止めてしまった。

「どうしたの?」

 不思議そうな玲の眼差しに、曖は少し俯きながら言った。

「あのね…私、この香りが大好きで…何故か、メダカを思い出すの」

「そうなんだ。僕は、ヤゴかな」

 この二人にとっても、それはもう随分と昔のことに思える。

 奇妙に懐かしい気がする…

 …僕が、メダカやヤゴを捕らなくなったのは、いつからなんだろう…

 宮木神社の周辺では、今も、田圃が水を湛えているはずなのだが…

 幼い頃からの《時間》は、確実にその歩みを止めることなく流れ続けている。

 一体、どれだけのことを忘れてきてしまったことか……

「玲君…」

 そっと、曖が指の力を強めてくる。

 我に返った玲は、すぐに彼女に笑いかけると下の道まで戻り始めた。

 そう…素敵なことは、今も玲の周りに溢れ、続いているのだ。

 だけど…曖ちゃんのことは…

 …きっと、思い出になんてならないんだ……

 …玲は、そう信じて疑わなかったのだ……


「やっと眩燿寺が見えてきたね」

 翳月山は一般にはあまり知られていない。

 だがこの寺は、その伝えられる《咒》の凄まじさで、特定の社会では名が通っていた。もっとも、それも「裏」の「表」にあたる社会であり、寺の実体を知る者は殆ど存在していない。

 小さな民宿が、川の曲がり目に沿って点在している。

 歩いている者は…皆無だ。セキレイだけが、立ち止まってはその長い尾を上下に振り、また歩き出しては道を我が物としている。

 川のせせらぎだけが、大気を満たす…

「とっても、静かね…」

 不思議なものが、充ちている気がする…深く…《虚無》を感じさせる静寂……

 橋を渡り、三門の下を潜る。

 巨木に囲まれた霊域は、容易には人を受け入れようとはしてくれない。

 曖は、恐怖に似た感情が、胸の奥から沸き起こるのを感じていた…

 これ以上…奥に入ったらいけないの……

 威圧感が…神聖なものであろう、だがそこから発せられる重圧は、彼女の小さな心を押し潰そうとする…

 だが、すぐに玲の手が、軽く肩を叩きながら励ましてくれた。

「曖ちゃん、この辺りはまだ大丈夫だよ」

 そう言っている彼には、曖よりも多くのものが観えている。

「でも、足も疲れてるし、あの急な階段を登るのは止めておこうか」

 緑樹が創り出す淡い闇の下を、乱雑に組まれた階段が上っている。

 地蔵が並び、大きなシダが触手を伸ばすその道は、とても曖の手には負えないものだろう。

 怯えたように身をすり寄せてくる曖を支えながら、玲は近くにあったベンチに誘うと腰を下ろしていた。

「大丈夫?」

「…うん」

 こんなにも近い…優しい温もりは、曖の中からあらゆる怖れを取り除いてくれる。

 彼女はにっこりと微笑みながら、真っ赤に頬を染めると囁いていた。

「もう…大丈夫。でも…もう少し…」

 …このままで……

 玲もそっと笑みを浮かべると、顔を伏せてしまった曖を抱き続けていた。

 風は樹間を走り抜け、檜皮葺の金堂から仄かな香りを運んでくる。

 …古から、何一つ変わらない……同じ『時間』が、そこには存在していた。

 綺麗に掃き清められた石畳の脇には、細い木々が点在している。

 その奥に覗くのは、蓮の葉が浮かぶ池だろうか。

 玲は曖の肩を抱きながら、何気無く、それらの風景に目を向けていた。

 不意に、頼りなげに立つ木々が一斉に揺れ動く。

 しなやかな枝先が宙に軌跡を描いた瞬間、小さく、みすぼらしい民家が現れていた。

 驚き警戒する玲の前で、石畳は山腹に貼り付いた狭い田畑へと姿を変え、聞いたことも無い甲高い鳥の声が谷の上を…振り仰ぐ遙かな上を渡っていく。

 ……?

 素早く広げられた『力』の敷布には、だが何も捉えられない。

 何も……? …眩燿寺は……?

 曖ちゃん…!

 腕の中には何も…すぐ傍に居たはずの曖の姿も見えない。触れることも出来ない…

 ……!

 …いや……『自分』さえ…ここには存在していない……?

「本当に…行くの…」

 突然、背後から幼い少女の声が聞こえてくる。

 狂おしく…悲痛な想いで投げ掛けられたその言葉に…

 …だが、玲は振り返ることが出来なかった。

 …曖ちゃん…?

 何処かでそう呟く存在があるが…違う。同じく、儚げな声だが…何かが違う…

 …だが、同じ……

 その時、玲は茶色い髪をした若者が、自分のすぐ横に立っていることに気が付いた。

 若者は振り返ると、黒髪を背に流す少女を抱き締めている…

 今は、玲も振り返ることが出来ていた。

「キシュ…本当は、旅に出て欲しくない…その小剣で、誰も殺して欲しくない……例え、魔物でも…」

 目の前の二人の映像は、白い霧に霞み、揺らめいている…よく見えない…

 …だが、声だけは、はっきりと玲に伝わってきていた。

「でも…身を守るためなら…ううん、それも本当は嫌なの……でも…死んで欲しくない……私…私、どうすればいいか分からないの…

 一人には、なりたくない…」

 …どうして…『僕』はニヤを……

 その少女の名前を知っていることに、玲はひどく驚いていた。

 だが、『時間』は彼に、憶測する間も与えず流れていく。

「ねぇ、お願い…! 絶対に、戦争には手を貸さないで…人は、殺さないで…争いは、人災なの…避けることが出来るのよ…お母様やお姉様、キシュのお兄様やお父様が…何のために…死んだか、分からない……そんな…そんな争いだけはしないで……!」

 分かってる…ニヤ、分かってるよ……

 知らぬ間に、彼はそう言いながら、ニヤを抱き締めていた。

 …いや…抱いているのは、…曖だ………


 ……不意に、場面が変わる。


「何故、それほど死を急ぐのだ」

 冷淡な…深く、力強い男の声がする。

 だが、霧の中から浮かび上がった映像は、雪のように純白の肌をした、見事な金髪の女性だった。

「死? それがどうした」

 男は冷たい漆黒の瞳を上げると、抑揚の失せた声で応えていた。

「俺にとって、死は有り難いもんだぜ。この身を『時間』の鎖から解き放ち、『無限』へと連れていってくれるんだからな」

「自ら、銀の輝きを予言するのか…」

 そうだよ。ラスケドール。《真実》は語るに値するものだからね…

 ガリスはそう呟くと…

 …ううん、これは『僕』の……


 ……その時、三度目の映像が包み込んできた。


「リル…私、孤児なの…お婆ちゃんに小さな頃…ううん、赤ちゃんの時に拾われたの……」

 曖が…いや、クレアが全身を微かに震わせて、呟いている…

「私に…誰も、家族はいないの…だから…皆…」

 朧な少女は、両手で顔を覆うと泣き始めてしまった。

 栗色の髪をしたその少女の肩に、黒髪の少年がそっと手を置いている。

 心からの優しさと共に、囁いている…

「おかしいよ、クレア…じゃぁ、ファティーお婆ちゃんは家族じゃないの? その…『血』、とかは関係なくてだよ?」

 水色の瞳が、『僕』を見上げてくる…

「人じゃなくたって…クレアにとって、海は? そのペンダントは?

 それに…」

 リルは…『僕』は、曖ちゃんの瞳に…クレアの清純な瞳に見つめられて…意を決して続けている…

「…その、加えて欲しいんだ…僕を……」

「リル!」

 クレアが抱きついてくる…『僕』は…『僕』は………

「……!」

 え…?

 …クレア…何…?

「玲君…! 玲君?」

 …曖、ちゃん…?

 薄らいだ意識の奥…

 …遙か彼方から響いてくる、不思議な『言葉』…

 ……?

 一体、…誰、だろう…?

 聞いたことの無い『言葉』だ。

 …温かな女性の声……

「玲君!」

「大丈夫よ。もう、気付いてるわ」

 静かで優しいその声に、玲は《個》を自らの中に確保すると、はっと目を見開いていた。

「玲君!」

 安心からわっと泣き出すと、曖は玲に力一杯しがみついていた。

 そんな曖を、まだ戸惑いながら受け止めている玲の前には、彼よりも少しだけ年上らしい女性が穏やかな微笑みを浮かべ、佇んでいた。

「僕…」

 ……『夢』だったのかな…

「『郷夢の森』を彷徨っていたのよ」

 明るい栗色の髪を背に流すその女性は、静かながらも僅かに窘めるような口振りで続けた。

「きっと、ここが、あなたにとって何か意味がある場所になるんだと思うの。

 でも、『郷夢の森』を迷っている…その『場所』が自分で認識出来ない間は、もう、ここには来ない方がいいわ」

「『郷夢の森』って…」

 しゃくりあげている曖を優しく抱きながら、玲は首を傾げていた。

 …この人も…何かの『力』があるみたいだけど…

 それは、邪なものには感じられない。

 若しかすると、あの『夢』は彼女が見せたのではないだろうか…

 玲は、『郷夢の森』のことなど聞いたことが無かったのだ。

 すると突然、その女性はくすくすと笑い出していた。

「わたしも、時々迷い込むの…

 …でも…そこは、わたしの《源》なのよ…」

「え…?」

 ガラスの鈴のような澄んだ笑い声は、…だが、次の瞬間にはその紡ぎ手を失っていた。

 この『力』の壁の中で…

 その女性が、口中で何かを呟いたことには気付いていた。だが、この結界の中から…この、強力な眩燿寺の聖域の中から、簡単に『飛んで』姿を消すことなど、玲にとっても簡単なことではない。

「玲君…」

 不意に、微かな声が聞こえる。

 我に返ると、玲はにこりと曖に微笑みかけていた。

「ごめんね、曖ちゃん。心配をかけてしまったね…」

「ううん…」

 玲君のことだもの…

 彼に対する心配なら、曖は自分のことなど顧みないだろう。

「もう、帰ろうか」

「うん…」

 妙に力の入らない足を引き摺りながら、曖と共に翳月山を降りていく。

 …やがて、一軒の民宿の影で突如黄金色の煌きが揺れたかと思うと、二人は香笹町へと戻っていった……


 …『時間』の後先は、銀を呈する者にとって、共に《源》となる。

 そこは故郷であり、夢であり…『無限』の中における《今》なのだ……


 ……………………………………………………………………………………………


 一日、また一日と、夏休みは過ぎていく。

 玲と曖の逢瀬は毎日のように続き…その一つ一つの出逢いが、玲にとっても曖にとっても、素敵な『時間』となって心の奥底へと仕舞い込まれていく。

 …玲君…早く来ないかな…

 ベッドに腰掛けてぬいぐるみを抱いている曖は、いつも、いつでもそう思っていた。

 毎日、彼女は玲を想っては、心の中を不思議な音色で満たしていく。

 その黄金色の海の中を、曖は喜びと共に彷徨っていた。

 …玲君…

 見つめてくれるその瞳は、以前と変わらない優しさで溢れている。

 だが、曖はその深い所で、『大人』へと踏み込んでいく彼の姿を認めていた。

 …でも…

 それでも、構わない。

 玲の気持ちは同じなのだから。

 そう…もう…疑ったりしないの…

 声を交わさずに伝わる言の葉を、曖は素直に受け止め、信じていた。

 だが…一方で、そんな風に想っている曖自身は、自分が『少女』から『女性』へと変わりつつあることに気が付いていない。幼さが残る心の儘で、彼女は知らず『大人』への道を模索していた。

「曖ちゃん…」

 何度聞いても、胸が喜びに打ち震える言葉…

 今日の出逢いも、銀の清澄な煌きをその身に纏い、黄金色の流れを過ぎるだろう。

 そして…その一筋の銀光は、郷夢の森で一本の大樹を育んでいくのだ……

 …遙か、茫洋たる『時間』の始まりから続く、『二人』の永久なる想い出として………

                                                                     11 離闊  おわり







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