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雪泥鴻爪  作者: 風光
10/12

10 愛而不見−あいすれどもみえず−

「はぁ……」

 一体、幾度めの溜息になるだろう。

 この春に萌え出た美しい青葉の下を歩くには、あまりにも不釣合いな気分だ。

 曖ちゃんは…、もう…僕とは逢いたくないんだ…

 豊かな黒髪をした少女の一言は、玲の気持ちを押し潰すのに十分な力を持っていた。

 …曖ちゃんは…僕が『嫌い』なんだ……

 そんなことはないと、反論したい気持ちもある。

 だが、確かに…曖は言ったのだ。

 もう、来ないで…と。

 従兄弟の英孝の所へと向かいながら、玲の心は殆ど辺りに注意を払っていなかった。

 今回だけは、母親の用事が済めばすぐにでも帰りたい。今は、英孝だけに限らず、誰とも会ったり遊んだりしたくなかった。

 曖ちゃん…

 泣き崩れる彼女の姿が、何度も何度も脳裏に過ぎる。

 …本当に、玲は泣きたい気分だった。曖に『嫌われる』…そのことが、これほどまでに辛く悲しいものだとは…

 ふと、足を止める。

 …確かに、曖ちゃんは僕のことが『嫌い』なのかも知れない…

 でも…それなら……『僕』はどうなのかな…?

 …そんなことは、自問するまでもなかった。

 勿論、玲は曖のことが今でも『好き』なのだ。あの小さくて儚い曖の存在を、今でも…これからも守り続けたいのだ…

 そう思うことは…いけないことなのだろうか…

 玲は訝しげに通り過ぎていく人々のことなどまるで気にも留めず、真剣に考え続けていた。

 曖ちゃんは、もう僕とは逢いたくないんだ…僕と逢えば、悲しくなってしまうかも知れない…

 …でも…曖ちゃんに『嫌われて』も…それでもきっと、僕は曖ちゃんを『好き』なんだ…

 それは推量ではなく、確信だった。

 今夜、もう一度だけ、曖ちゃんに逢いに行こう…

 自分が『嫌われて』いるとしても…それでも、これからも曖ちゃんを『好き』なままでいることを、玲はどうしても伝えたかったのだ。

 自分はずっと、曖を見守り…『好き』なままでい続けるだろう……

 黒い影を伴ったままではあるものの、玲の頬に微かな笑みが浮かび上がる。

 重く、歩道に根を張っていた足も、再び春日家に向かってしっかりと歩み始めていた。

 だが…次の瞬間、玲の胸に鋭い痛みが走る。

 同時に前方から急ブレーキの甲高い悲鳴と、人々の悲鳴が共に和して空中に響き渡った。

「まさか…」

 英孝…が?

 大きな人の輪が出来始めている。

 その人垣に突き進んだ玲は、輪の中心に一人の若者が霊となって浮かんでいることに気が付いた。

 あれは、英孝ではない…それなのに、未だ玲の胸は痛みを訴え続けている…

 集まってはいるものの、誰も何もしようとはしない。中には、携帯電話で動画を撮影している者もいる。それらの存在に激しい憤りを感じながら、だが今は、玲はただひたすら群れの前に出ようと足掻いていた。

 人垣を越えた途端、前部が潰れた車体と広がる鮮赤が目に飛び込んでくる。その不気味な泉に横たわっているのは、先程から幽霊となって浮遊している若者と…

「英孝!」

 その若者の腕に抱かれて、幼い従兄弟が大声で泣きじゃくっていた。

 慌てて駆け寄る玲に続いて、黒髪を揺らす一人の女子高校生も『何か』をしようと現場へと近付いていた。

「きゃぁ、ひっどぉ〜い……」

 眉を顰めて呟くその学生の言葉を、だが玲はまるで聞いてはいなかった。

 赤い血の中に飛び込むと、泣き叫んでいる英孝を抱き上げる。急いで体内の『気』の流れを確かめるが、打撲と精神的な衝撃で多少の乱れはあるものの、危険な状況ではない。

 思わず、正直に安堵の溜息を吐いてしまう。

 その時になって初めて、玲はすぐ傍に横たわる若者に目を向けた。だが…

 …結果は分かっている。玲には見えているのだから。

 その若者の肉体からは、既に『気』の流れは失せている。滞ったり、途切れたりしているわけではない。流れそのものが消失しているのだ。

 この肉体に、最早生命や精神に係るエネルギーは存在していなかった。

 でも…あの幽霊がまだ居たら…

 若しかすると、まだ取り戻せるかも知れない。

 急いで視線を上げてみたのだが、先程まで見えていた霊が消えている。移動したのか昇天したのか…

 隣に来ていたはずの女子高校生も、いつのまにかいなくなっている。

 相変わらず遠巻きにして、好奇心を剥き出しにしながら眺めている群れの前で、ただ一人、若い僧侶だけが漸く到着した救急車を誘導してくれていた。

 何も…出来ないのかな…

 この若者が、英孝を護ってくれたのだ。

 それなのに…また、救えなかった…

 玲の姿に気が付いたのだろう。少しずつ落ち着いている英孝を抱いたまま、玲も救急車に乗り込む。

 あの、遺体となった若者も一緒だ。

 離れようとしない英孝を抱いたまま、玲は目の前の動かない存在を見ながら悔しさに唇を噛み締めていた。

 …こんな僕に…曖ちゃんが守れるのかな……

 ……それは…果ての無い、苦しみだった……


「玲君!」

 病院に駆けつけた英孝の母親に、彼は出来るだけ安心させるような笑顔を向けていた。

「大丈夫だよ、おばさん。今、中で検査をしてるけど、命に別状は無いそうだからね」

「そう…」

 玲の漆黒の瞳は、言葉以上に彼女の心を落ち着かせる。

 張り詰めていた心を解き放ち、力無くソファに座り込んだ叔母の姿を、玲は子どもとは思えないほどに優しい瞳で見守っていた。

 だが、もう一つ、伝えなくてはならないことがある。

 やがて落ち着いたと思えるところで、玲は悲しみを込めて近くの病室の扉を指し示していた。

「あそこに眠っている人が、英孝を助けてくれたんだ…」

「…え?」

 母親は急いで立ち上がると、その病室を覗き込んだ。

 傍のベッドでは、あの若者が顔を隠して静かに横になっている…

 暫くすれば、移されるだろう……

「あの方は…」

 その先を言い出せず、振り返った叔母に英孝は重く頷いて聞いたことを伝えていた。

「あの我妻さんの両親も、半年前に列車の事故で亡くなってるそうなんだ…兄弟もいないし、親戚はいるのかどうか分からないくらいに付き合いも無くて…引き取り手がいないんだ、って…」

 英孝の母親は、孤独な恩人へとそっと歩み寄っていく。

 その後ろ姿を見ていた玲は、不意に『何か』の気配を感じて瞳を細めていた。

 死んでしまっている若者の体を、突然、鮮やかな黄金色の光が包み込む。だがその光は、すぐ傍で跪く叔母には見えないものだ。

 あれは…精霊?

 光の上位精霊…レフリゲリウムの光…!

 驚きのあまり動けずにいる玲の目前で、眩く揺らめく黄金の煌きは、やがて銀の静けさを内に呈し始めていく。

 銀光は次第にその純度を上げていき、叔母が何も知らずに立ち上がる前で、若者の体の深奥へと吸い込まれて消えてしまった。

 途轍もない『力』が、若者の体に纏わりついている。

 畏怖の念と共に黙って見守っていた玲は、その遺体の中で再び『気』が流れ始めたことに気が付いて大きく目を見開いていた。

 確かに、死んでいたのに…蘇ったんだ…!

 英孝の母親も、玲の様子がおかしいことに気が付き、後ろを振り返っていた。彼女に『気』を見る能力は無かったが、微かな腕の動きを認めて叫んでいた。

「生きてるんだわ!」

 慌てて部屋を飛び出していく。

 玲は、病室の入り口で、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。

 一体、誰が甦らせたのだろう。彼には、若者の脳が動き始め、心臓も新鮮な血液を送り出しているのが見えていた。傷は酷い。だが、肉体の損傷は治せるかも知れない。

 ただ…そう、玲には別のものも見えていた。いや…それだけが見えていなかったのだ。

 その肉体には、幽霊となった彼の心だけが無かったのだ。

 誰かの手による蘇生だということは間違いない。あの横たわる肉体には、別の魂魄が入らないように封印まで施されているのだ。

 封印…いや……

 …まるで、…眠っているみたいだね…

 あの若者の霊魂だけが入れるように…予め決められているようだ。

 誰が為したのか…ここには、誰も居なかった…それは間違いない。

 玲には、未だレフリゲリウムの《真》の『力』は分からなかったのだ…

 五月の光は、その清らな流れで全ての存在を包み込んでいる。美しいその煌きの下、我妻明利と言う名の若者は、英孝の母親の懇願によって生き続ける為の手術を施されることになった。


 そして……新たな『夢』が、生まれたのだ……


 ……………………………………………………………………………………………


「おや、死ぬつもりかい?」

 就職活動の為に着慣れない衣服に身を押し込めていたその女性は、不意に背後からかけられた言葉に驚き、足を止めてしまった。

 栗色の髪をした美しい青年が、優しそうな瞳で見つめている。

 屋上の端から僅かに身を引きながら、女性は震える声で呟いていた。

「…そ、そうよ。…どうせ、私なんて必要無いんだもの」

 採用通知など、何処からも来なかった。自分は、社会からは必要とされていないのだ…

「そうか」

 明るい口調で、にこやかに青年は一歩を踏み出す。

「なら、君が死んでも誰も文句を言わず、悲しみもしないと?」

「そうよ」

 強い口調で断言している女性に、青年は嬉しそうに頷いた。

「なら、俺の為に死んでもらおうか」

「え?」

 突如、その瞳から青い光が迸る。貪欲な表情を剥き出しにしながら飛び掛ってくる青年の、そのあまりにも突然の変容ぶりに、女性はその場で気を失ってしまった。

 華奢な体が、屋上の手摺りに寄りかかる。

 その首筋へと、鋭い爪の先が伸び…

「止めろ!」

 厳しい声と共に、青年の前に見えない壁が立ち塞がる。

「チッ」

 青年は振り返ると、背後に浮かぶ龍真とローニアを睨み付けた。

「グラーズお兄さま…」

 あれが…かつて、自分に優しくしてくれた兄なのだろうか…

 ローニアは、その変わりように、思わず目を背けてしまった。

「おとなしくしてろよ!」

 鞘印を左の腰で結ぶと、龍真は『気』を込めながら冥界の鬼に向かって飛び込んでいく。

 グラーズはその正面に立つと、薄く笑いながら呼吸を計って待ち構えていた。

「イェーッ!」

 白光に包まれた鞘印から、右手の刀印を抜くと、人差し指と中指を伸ばし『気』を打ち込む。

 間髪を入れず、鬼も同じ刀印を結び、心気を放った。

「オーッ!」

 二つの結印の狭間で、見えない『気』がぶつかり合う。

 だが、次第に『負』の力が龍真のそれを吸収し始める。

「龍真さん!」

 ローニアの悲鳴が響いた直後、倍化された『気』は龍真の中に打ち込まれてしまった。

 体内の心気を制圧された龍真は、自ら話すことも動くこともかなわず、空中から落下し始める。

 その体を急いで支えると、ローニアは静かにビルの屋上へと降り立った。

 …そのまま、動かない。

 少し俯いた彼女の頬は、豊かな栗色の髪が覆い隠してしまっていた。

「どうしたんだ、ローニア」

 優しい…優しそうな声がする。

 びくっと体を震わせると、彼女はゆっくりと龍真の体を屋上に横たえ、瞳を上げた。

 真っ直ぐに兄の視線を受け止め、静かに口を開く。

「…お兄さま。

 私は、お慕いするお兄さまに逢いたくて、逢いたくて…冥界から出てきました。そして…」

 ちらっと龍真を見る…

「…龍真さんに、お兄さまを連れて帰ることを条件に、封印を解いてもらったのです。

 お願いです…一緒に戻ってください…」

 以前のローニアなら…そう、グラーズが知っている彼女なら、こんなにもしっかりとした言葉を紡ぎ出せなかっただろう。

 いつも、恥ずかしげな仕草で、誰かの後ろに佇んでいたローニア…

 そのローニアが、一番大好きな兄に向かって、真剣に『命令』しているのだ。

 一瞬、グラーズの顔が歪む。だが、次には美しい微笑みを浮かべて頷いてみせた。

「分かったよ、ローニア」

「お兄さま…!」

「だが、俺の『力』は帰ることも出来ないくらいに失われているんだ。

 だから、お前の『力』を分けてくれないか」

(嘘だ!)

 その『力』の大きさを、龍真は今、身を以って感じている。十分過ぎる『力』だ。

 グラーズの左右の爪が細く伸び、長い触手へと変わっていく。

 見えている…聞こえている…

 ローニアは、そんなグラーズの前で動こうとしない。

 龍真は逃げるように、必死で叫ぼうとした。

 だが、動けないのだ…唇は開こうともしない。

 …ローニアだって、嘘だと分かっているはずだ…!

 その彼女は動けない龍真を再び一瞥すると、全身から力を抜いて言った。

「…構いません。お兄さまの為になるのですから…

 その代わり…終わればすぐに戻ってください。

 必ず…」

「勿論だとも」

(止めろ、ローニア!)

 だが、伸びてくる触手を、彼女は自らの意志で受け入れていた。

 大好きな兄に逆らいたくはない…例え、その全ての言葉が偽りであり、この自分が消失することになっても…

 そう決意することが、『大好きなグラーズお兄さま』というかつての想いを、その心に残しておける唯一の手段だったのだ。

 静けさと優しさを秘めた…気品を漂わせる中にも、何処か儚さを潜める美しい姿が白い触手に巻かれ、消えていこうとしている。

(ローニア!)

 顔を俯けたまま、彼女は何も見ようとはしない。

 龍真は自らの『気』を高めて、呪縛から逃れようと身悶えていた。

 視界に、…栗色の髪の影から伝い落ちた、一滴の煌きが映る……

(ローニア!)

 絶対に許せない…彼女を二度も泣かせるなんて…!

 不意に、胸中に黄金色の漣が生まれ始める。『珠璃』はその波を自らの内に取り込むと、凄まじい閃光を放ちながら打ち込まれた『気』を破ろうとしていた。

 目に見える白い輝きが、龍真の体を覆い始める。

 その急激な『気』の高まりを警戒し、グラーズは一瞬ローニアから注意を逸らした。

「うおぉぉーっ!」

 その間隙を縫って、龍真の体からローニアへと『気』が迸る。

 思いがけない標的にグラーズが我に返る頃には、既に彼女を飲み込んでいた触手は全て切り払われていた。

 同時に、ガラスが割れるような甲高い「無音」が辺りに響く。

 再び動くようになった体を擡げながら、龍真は静かな声で告げた。

「ローニア。例え、君自身の意志だとしても、俺は絶対にそんなことを認めないからな」

 その場に蹲ったローニアは…俯いたまま、何も答えなかった……

 グラーズは舌打ちすると、揶揄するように言った。

「おやおや、君はローニアに気があるらしいな。

 だが、それなら君に俺は倒せないだろう? 何しろ、俺はローニアの兄なんだからな」

「へっ!」

 立ち上がった龍真は、侮蔑の眼差しを隠そうともしなかった。

「確かに、ローニアが好きだったお前なら、俺は倒せなかっただろう。

 だが…」

 そこで、彼は蹲ったローニアを見つめた。

「…いいかい、ローニア。

 もう、魄鬼のグラーズなんていやしないんだ。いるのは、ただの妖鬼だけさ」

 龍真の体を純白の衣が包み込む。

 ローニアの想いを踏み躙ったグラーズへの怒りは、際限無く彼の『気』を高めていく…

「小賢しい!」

 妖夢界の鬼へと堕ちた存在が、諸手に『力』を集め、振り翳す。

 その強大な『負』の力は、自らの中へと逃げ込んでいたローニアでさえ、思わず顔を上げてしまう程のものだった。

「龍真さん…!」

「遅い!」

 グラーズが高らかと笑いながら、『力』を投げつける。

 その先に回ろうと急いで立ち上がったローニアの目の前で、龍真は激しい憤りの儘に叫んでいた。

「宮木をなめるな!」

 途端に噴き出した『気』の奔流に弾き飛ばされ、負力は宙に霧散してしまう。

 それでもなお、龍真の『力』は高まり続ける。

「龍真さん…」

 まるで、その《源》には、際限など無いようだ。

「宮木よ。龍脈、地脈、水脈の一端を担い、《大地》の全てをその身に享ける存在よ。今、顕現たる我に託せ、その全てを」

 低い呟きが聞こえる。

 そこに立つのは、最早ローニアの知る龍真ではなかった。

 渦巻く『気』に煽られている彼女でさえ、今の龍真には恐怖を覚えてしまう。

 だが…これも、彼女自身の為、なのだ…

 その彼の瞳が、刹那、ローニアの視線を捉える。

 そして龍真が軽く右手を上げた次の瞬間、彼女は自分が宮木の『気』が創り出す見えない箱に閉じ込められていることに気が付いた。

 意識が朦朧としてくる…

 宮木は、邪気を萎縮する。たとえ邪な存在ではないとしても、ローニアもまた、宮木に依って影響を受ける『負』の存在だ。

 だが…彼女は知っていた。この龍真の『力』が、自分を痛めつけるものではないことを…

(龍真さん…ありがとうございます…)

 素直に瞳を閉じると、ローニアは龍真の願いに身を委ねていた。

「クッ!」

 意識を失い倒れるローニアの前で、グラーズはぶつかってくる激しい流れに抗していた。

 彼もまた、全力で防ごうとしている…と同時に、彼の中ではこの『力』に対する魅力も増していた。

 この『力』が欲しい…

 自らも『力』を高め、呼吸を整えようとする。そして、龍真がローニアを宮木から解放しようと『気』の一部に意を移した瞬間、妖鬼は一気にその『力』を発し、飛び掛っていた。

「死ね!」

 落ち着いてグラーズの残骸を見上げている…

「…消えろ」

 龍真が最後にかけた言葉は、静かなものだった。

 …純白の、美しい爆発が大気を震わせる……


 ローニアは薄れていく意識の中で、辛うじて二人の声を聞いていた。

(お兄さま…)

 結果は見るまでもない…あまりにも、『力』に差がありすぎる…

 優しい頬を、一粒の星辰が伝い落ちていく……


 ……全て、思い出になったのだ…


 ……………………………………………………………………………………………


 玲を追い返した日の翌日…曖は初めて嘘を吐いて学校を休んだ。

 昨夜からずっと…彼女の頬には、止め処なく涙が溢れている。

 …泣いて…いる?

 そんな自身の感覚すら、曖にはもうない。

 彼女が感じているのは、ただ心中に満ちている涙の渦だけなのだ。

 玲が出て行ってから、ベッドからも殆ど動いていない。

 勿論、何も口にしていない。

 自分の周囲のあらゆる存在を、彼女の弱々しい心は否定していた。

 部屋の中は深い悲しみと孤独で染まり…そこにある《全て》が悲痛な面持ちで見守っていても、それすら曖は感じようとはしなかった。

 ……玲君…

 …玲君は……

 ……私のことが『好き』じゃない……

 曖なら、誰か他の人が玲を『好き』になることに、平気ではいられないだろう。

 でも……玲君は……

 彼女の心からは、最早伸ばされるべき細い絹糸も失せていた。

 曖は、この世界において、たった一人の孤独な存在なのだ。

 彼女を包み込む存在全てが、愛の小さく儚い心を押し潰そうとしている…

 ……そして…

 彼女の心を消し去ることなど…いとも容易いことなのだ…


 不意に、部屋の電話が鳴り響く。

 全ての感覚を遮断してしまっていた曖に、その無機質な音は最初聞こえていなかった。

 だが…『何か』がその中に含まれている。

 その『何か』に強要され、曖は現実へと引き戻されてしまった。

 力を失った白皙な腕が伸び、受話器をそっと持ち上げる…

「…はい」

 蚊の鳴くような声は、相手には聞こえなかったかも知れない。

「曖ちゃん? どうしたのさ」

 …心配そうな声は、朋也だった……

「…ごめんなさい…」

 言わなくては…そんな決意は、今の曖には生まれない。

 それは、ただ無意識に零れ出したものだった。

「ごめんなさい…ごめんなさい…私は…好きになれないの…ごめんなさい…もう…電話なんてしないで……」

 もう…電話に出る者などいなくなるのだから……

 受話器の向こう側からは、何かの叫び声のようなものがしている気がする。

 だが、もう曖は電話に注意など向けていなかった。

 受話器を取り落とすと、再び自己の泉の中へと深く沈み込んでいく…

 やがて、受話器の向こうも静かになった。

 これらも、全て朋也から始まったと言えるかも知れない。だが、誰か他の存在を怨むということは、とても曖には出来ないことだった。

 だからこそ、彼女は全てを自身で受け止めてしまうのだ。

 今迄なら…そう、昨日までなら…曖の心の叫びを聞いて…細い絹糸を手繰って、すぐに玲は来てくれただろう…

 だが…曖自らが言ったではないか……

「…もう、……来ないで……」

 …と………

 もう…玲君は、逢いに来てくれないの…

 玲がいない世界など、曖には考えられなかった。

 今も…こんなにも『好き』なのに…こんなにも逢いたいのに…

 ずっと…ずっと…

 …そう、ずっと、続くはずだったの……

 …だが、最早、絶対に彼女の想いは叶わないのだ……

 何時の間にか、日も暮れている…

 初夏の星座が風渡る遙か頭上に並び、清らに澄んだその輝きを静かに放ち始めている。

 …曖は、やはりベッドから動こうとはしない。

 彼女にとって、この絶望に沈んだ心しか、この世に存在しているものは無いのだ…

 曖の心に、《死》という単語があった訳ではない。だが、確実に彼女の心の中にはその《死》が入り込んでいた。

 それは容赦の無い力で、『曖』を引き裂いていく…


 ……


 …その時、何かがゆっくりと滑り、開かれる音がした。

 だが、曖の耳は全ての物音を断ち切っている。

 今迄であれば喜びと共に迎えるその音を、最早彼女の耳は捉えてなどいない。

「曖ちゃん…」

 悲しみに彩られながらも、強い決意に満ちた囁き声がする。

 待ち侘びていたはずの声…

 だがそれさえ、音など存在しない世界に逃げ込んでいる曖には全く聞こえていなかった。

 静寂の中、玲はそっと窓を閉めていた。

 彼には、部屋に入る前から見えていたのだ。曖を包み込んでいる厚い…絹の細糸さえ断ち切っている、厚い『鎧』が…

 …この『鎧』はきっと…僕がここに来たからなんだ…

 そう思っていた玲は、その『鎧』を無理に切り裂こうとはしなかった。

 そのまま静かに近付き、ベッドの上の小さな肩に手を置くと、そっと耳元で囁き始める…

「…曖ちゃん…また、来てしまってごめんね…でも…どうしても…言いたかったんだ……

 曖ちゃん…僕は、曖ちゃんが『大好き』なんだよ………」

 その声は届かなくとも、その『言葉』は不意に黄金の矢と化し、曖の『鎧』を貫いていく…

「…だから、曖ちゃん。僕は、例え曖ちゃんが僕のことを嫌いでも…僕は、曖ちゃんのことをこれからもずっと、…そう、ずっと守りたいんだ……『好き』でいたいんだ…」

 次々と放たれる『言葉』の矢…

 『鎧』の一部からはその矢を受け入れようと、同じ黄金の輝きを持つ光が溢れ出していた。

「…迷惑かも知れないけど…どうしても、そうしたいんだよ…

 …ごめんね、曖ちゃん。

 きっと、今、曖ちゃんが悲しんでるのは、僕がここに来てしまったからだろうから…すぐに、帰るよ……

 ごめんね……」


 ……


 心が、反応しようと身じろぎする…音が、感覚が、入り込んでくる…

 …だが、これは《本当》なのだろうか? 心が描き出した『幻』なのでは…

 立ち上がる気配が…音がする。

 違う…違う…

 幻…

 夢……

 『夢』でもいい…

 …外から、中から…あらゆる存在が『鎧』に向かって押し寄せてくる……

 それでも、いい……

 逢いたい……伝えたい……

 …《全て》………

 内外から迸る光の奔流に、歪み、溶け、形を変えてしまう『鎧』越しに、『何か』は溢れ、愛らしい唇を通して紡ぎ出そうとしている。


 ……


 その『音』になっていない『言葉』は、ガラス戸に手をかけていた玲の足を止め、振り返らせていた。

 何も見えていない…虚ろな視線が辺りを彷徨っている…

 儚い心は、自分自身の光にすら耐えられず、混沌の中を激しく押し流され、その中から浮かび上がることさえかなわない。

 曖には、目の前で覗き込んでくれている玲の瞳すら、見ていても見えてはいなかった。

「曖ちゃん…」

「…玲…君…」

 やっと紡がれたその声も、自分では知覚出来ていない。

 自分が半ば身を起こしていることも分からないのだ。

 だが…

 …優しい…温もりが…

 肩を抱く手に、知らず指先を重ねると、曖は涙を流していた。

「違う…違うの…

 …私も…玲君のことが…『好き』……」

 掠れた…本当に微かな声が、零れ落ちる…

「……ずっと…初めて、逢った時から…ずっと……」

「曖ちゃん!」

 玲は力一杯、その小さく弱々しい体を抱き締めていた。

「曖ちゃん…僕はね、曖ちゃんが誰かに好きになってもらっても、それはやっぱり素敵なことだと思うんだ。

 でも、それは…曖ちゃんがきっと…僕を『好き』なままでいてくれる…

 …そう、信じていたからなんだよ」

「…玲、君……」

 体を包み込んでくれる、柔らかな温もり…

 …曖は、…漸く、涙の向こうに微笑みを感じていた。

「…ごめんなさい…玲君…

 …ありがとう…いつも、傍に来てくれて…

 …ありがとう……私のことを…『好き』でいてくれて……」

「曖ちゃん……」

 玲は、気持ちのままに、そっと…曖の唇に触れていた。

 白皙な頬が、不意に朱に染まる。

 …だが、彼女もまた、この『言葉』を伝えたいと願っていた…

 口付けの間、玲は曖から流れ込む想いと共に、レフリゲリウムの黄金色に輝く波動をも全身で感じ取っていた。

 …やがて、その波が銀色の煌きを、その身に呈し始めたのが分かる……

 これは……

 今日の昼間。あの、我妻という若者が……


 ……銀光は、次第に二人の中へと溶け込んでいく…


 光の精霊が司るもの……その《真》の姿を…《永遠》を、玲は認めたのだ……


 時間の輪は、容赦無く回り続ける。

 だが、例えその輪が一つの命を引き裂いても…

 …銀を秘めた存在には、最早その意味すらも失せてしまう……


 ……きっと…変わらない………



 ………『時間』が、散る…

                                                            10 愛而不見−あいすれどもみえず−  おわり



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