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雪泥鴻爪  作者: 風光
1/12

1 逢遇

「おい、りょうはどうしたんだ?」

 龍真たつまは不思議そうに辺りを見回すと、その視線を隣に並ぶ少女に留めた。

 今日は春分の日だ。青く澄み渡った天蓋には雲一つ見えておらず、ただ西方から送り届けられる茜色の波だけが、空の高みを飾り立てている。

「何か用事があったみたいよ」

 綾子りょうこは幼なじみの視線にそう応えると、更に言葉を続けようとした。

 だが、遠くに一人の少年の姿を認めると、慌てて彼に向かって叫んでいる。

「ちょっと待ってて!」

 その声に、優しそうな顔の少年は自分達二人に大きく手を振ってくれていた。

「ほら、早く! 和輝かずき君が待ってるじゃない」

 微かに頬を上気させながら急がせる綾子に、龍真はにやにやと笑いながら黙って肩を竦めてみせた。

「何よ!」

 隠せないほど真っ赤になってしまった綾子が、眦を吊り上げて殴りかかってくる。その拳を掻い潜ると、龍真は急いで和輝の所へと走り出していた。

「待ちなさいよ、こらっ!」

 高らかな笑い声が広がる。

 風は自らの腕にその楽しげな歌を抱え込むと、二人の背中を追い越し、夕暮れ時の空を駆け上っていった。


 ……………………………………………………………………………………………


 普段、友達と遊んでいる公園に比べると、ここは随分と狭く思える。

 だが、それでも、立ち並ぶ幾本かの大きな木々は、適度に他の人からの視線を遮ってくれるだろう。

 …これくらいが、今日の実験には好都合だった。

 未だに嫩芽の淡緑よりもくすんだ荒肌が目に付く、それらの木々を眺めながら、九歳になる小柄な少年は一人頷くとほくそ笑んでいた。

 だが、次には漆黒の幼い瞳が、素早く四方を滑る。

 辺りに誰もいない事を確認すると、少年はすぐさま目の前のサザンカの茂みに潜り込んでいた。

 濃い緑色の葉陰に身を潜めると、もう一度そっと外を窺ってみる。誰の気配も感じられない事を再度確認すると、彼の頬には満足そうな笑みが浮かび、その瞳にはこれから挑戦してみることへの期待が正直に映し出されていた。

 そう、今日、彼は全力で『飛んで』みるつもりなのだ。

 思わず笑い声が零れそうになっている自分に気付き、少年は慌てて口許を押さえていた。

 そんな彼をからかうように、風が一筋舞い込むと、その栗色の短髪を微かに揺らす。だがその愛撫と共に、白銀の乙女達は優しい励ましも囁いてくれていた。

 幾分寒さの和らいだそれら美しい精霊達の姿を見送りながら、少年はにこりと微笑むとそっと囁きを返していた。

「有り難う。でも、『飛べる』かどうかは、まだ分からないんだけどね」

 自分自身にも、言い聞かせておく。

 もっとも、そんな言葉で今日の楽しみを先に伸ばすつもりは毛頭無い。

 ずっと、このチャンスを待っていたのだ。

 やがて……少年はその幼い瞳を軽く閉じてしまった。

 全身から、力を抜いていく……

 地面に触れている足の裏の感触や、周囲の葉擦れの音が遠退いていく。

 呼吸の規則正しい旋律すらも心の中から排除した彼は、ただ《自分》の奥底に沈み込んでいる『何か』だけを感じ取っていた。

 刹那、少年の姿が、誰の目にも見える目映い黄金色の光に包まれる。

 彼は、この《自分》の中から迸る、厳しく張り詰めた…でも温かい流れを、生まれた時からずっと身近に感じてきた。

 この『力』の温もりに、どれだけ助けられてきたことだろう…

 だが、これが『何』であるのかは、少年には分かっていなかった。それに、別に知る必要も無い…いや、名を与える必要も無いではないか。それは確かに、そこに当然のものとして存在しているのだから。

 深い静けさが胸中に充ちる。

 少年は漸く充分だと判断すると、ただ一つの目的だけを組み立てた。

 心の何処かで、純白の敷布が、すぐさま反応して黄金色に輝き出す…

 同時に、彼を覆い隠していた優しい光の揺らめきが、大きく弾け………

 ……次には、少年の小さな姿は公園の中から消えてしまっていた…

 まるで、何一つ変わった事など無かったかのように、夕陽がその美しい指先を草陰に伸ばしてくる。清らな光は、サザンカの緑も含めた《全て》を等しくそっと愛撫しては、鮮やかな朱に染め上げていた。


「…あれ?」

 不意に、頓狂な声が響く。

「きゃっ…!」

 独りで重い悲しみに塞いでいたあいは、突然少年が空中に現れたのを見て、思わずブランコの揺れを止めてしまった。

 その栗色の髪の少年は、次には目の前の砂場へと頭から飛び込んでいる。

 つい先程まで彼女の幼い心を憂鬱にしていた心配事も忘れ、曖は慌ててその少年を助けようと駆け出していた。

「うう……んっ」

 だが、すぐにその少年は砂にまみれた顔を上げると、愉しそうに笑い出している。そんな少年の姿に、曖はびくっと体を震わせると、その場に立ち止まってしまった。

 自分よりも、二つくらい年上だろうか…

 曖は黙ったまま、少年を見詰め続けていた。そんな彼女に気付くと、少年は人懐っこい笑顔でにこにこと話しかけてきた。

「やっぱり、行き先がはっきりしないと危ないんだね」

 どんな返事をすればいいのか分からない……

 曖は逃げ出したくなるのを必死に我慢しながら、次々と話しかけてくれる少年を大きな瞳でただ見詰めるだけだった。

 怖い…そう思うと同時に、曖には、この少年が不思議で仕方なかった。

 …どうして……この人は…初めて逢ったのに……

 どうして…こんなに簡単にお話出来るのかしら……?

「僕の名前は、川瀬 玲って言うんだ。君は?」

 突然の質問に、曖はこれ以上無いくらいに慌ててしまった。

 それでも、消え入りそうな声で答えている自分に気付いて驚いてしまう…

「え…? あっ…私は……紗雲さくも…曖……」

 玲は、この色が白くて大人しそうな曖と言う名の少女に向かって、もう一度にこりと笑いかけていた。

 実は、砂場に落ちる寸前、玲は彼女の姿を認めていたのだ。ブランコに座りながら、長い黒髪を背に揺らして俯いている曖を見て、すぐさま玲はこの子をこの自分が知らない町の一番最初の友達にしよう、そう決めていた。

 …そうだね、確かに曖ちゃんは僕よりも年下にしか見えないし、きっとサッカーなんて出来ないと思うけど…

 でも、僕にはここが何処か分からないんだし、まずは誰かを友達にしないとね。

「曖ちゃんって言うんだね。ねぇ、曖ちゃん。ここが何処なのか、教えてくれる?」

「え? あの…香笹かささ町……」

 曖は戸惑いながらも、きちんと応える事が出来ていた。

 そう…声に出して、自分できちんと答えていたのだ。その事実に一番驚いているのは、曖自身だった。

「香笹町?」

 突然の大声に、曖は大きく身を震わせてしまう。

 だが、逃げようとはしない。心の何処からか、留まるように『何か』が伝えてくれている気がするのだ。

 持っている全ての勇気を振り絞って、曖は玲の傍らに留まり続けていた。

「…じゃぁ、僕が住んでる宮木町のすぐ隣なんだね」

 あれだけの『力』を使ったのだ。もっと遠くまで来ているものと信じていたのに…電車の駅で、たった二つ分しか『飛べ』なかったのか…

 だが、初めての事だったのだ。くよくよしても仕方が無い。今度挑戦する時には、今以上に頑張ってみよう。

 再び笑みを頬に映すと、玲は勢いよく立ち上がっていた。

 その時ふと、曖が何も自分には話しかけてこないことに気付き、玲は不安で瞳を翳らせてしまった。

 …曖ちゃん…僕が、急に空から落ちてきたから…怖がってるのかな…

 今度新しく四年生になる玲にも、自分の持つ『力』がどれ程特殊なものであるかはよく分かっていた。今では、どんなに親しい人にも、この『力』のことを話題にすることは無い。まして、曖とは今日初めて逢ったのだ…信じてなどくれないだろう…

 だが、例え相手が年下であり、一緒にはなかなか遊べないかも知れない少女だったとしても、玲はこの『力』や自分自身を怖がられたり、嫌われたくはなかった。

「ねぇ、…曖ちゃん、…僕のこと、嫌い?」

 漆黒の瞳を不安げに濡らしながら、胸元で細い指を絡めて緊張していた曖は、そんな玲の言葉に素直に驚いてしまった。

 大急ぎで、首を横に振る。

「…ううん! …そんなこと、ないの。…私、ただ…とても恥ずかしがり屋だから……」

「そうなんだ! よかった。嫌われたのかと思った」

 曖は、もう一度、大きく頭を振っていた。

 …本当に、不思議……私、…玲君と、きちんとお話をしてるの……

「ねぇ、曖ちゃん。たった一人で、何してたの?」

 すっかり安心して声を弾ませている玲の言葉に、曖は急に辛そうに俯いてしまった。

 その哀しそうな仕草に、慌てて玲は続けてしまう。

「あっ、ごめんね。そんなに悲しそうにしないで…僕、苦手なんだ」

 何か、変なことを訊いたのかな? 僕……

「…ありがとう」

 曖は、そんな玲の気遣いに小さく呟いていた。

 そして、物凄い決心と共に顔を上げると、彼に笑いかける。

「あの…その、…聞いて…くれる…?」

 …玲君になら、話せるかも知れない…断られるかも知れないけど……

 曖は、玲に嫌われることをとても恐れている自分に、大きな戸惑いと喜びを感じていた。

 …本当に、とっても不思議なの……

「うん!」

 だが、嫌われるどころか…玲は心から嬉しそうに頷いてくれた。

 曖は、強く両手を握り締めながら、言葉を纏めようとブランコの方へとゆっくり戻り始めた。

 玲も、黙ってその後をついていく。

 そのままブランコを囲む低い柵に寄りかかると、彼は静かに曖の言葉を待っていた。

 ゆっくりとブランコに腰掛ける曖を、夕陽が茜色に柔らかく染め上げている…

(………)

 何だか、見てはいけないものを見ている気がする。

 …なんて、曖ちゃんて可愛いんだろう! …でも……

 目の前で悩んでいる曖は、とても儚く、小さく思える。

 玲は優しい沈黙と共に、ずっとずっと…曖を見守り続けていた。

 玲が見守り続ける中、漸く曖はその愛らしい唇から微かな声を押し出していた。

「あのね…私……一昨日、この町に…引っ越してきた…ばかり、なの……だから…」

 きゅっと小さな手を胸に押し付けながら、絞り出すように曖は続けた。

「…ここの……新しい、学校の…二年生に…なるんだけど……その……」

 こんな話を、玲はきちんと聞いてくれているのだろうか…

 心配になって曖がチラッと目を上げると、玲は真剣な顔で耳を傾けてくれていた。

 そして、不安になって見上げている自分の視線に気付くと、彼は励ますようににっこりと微笑んでくれる。

 曖はどうしようもなく慌ててしまい、胸元まで真っ赤になると再び視線を地面に落としてしまった。

「…あの…私、…とっても臆病で……恥ずかしがり屋だから……その、…」

 少しだけ、息を吸い込む。

 掠れた声で、泣きそうに震えながら、それでも曖は最後まで話していた。

「……きっと……友達なんて……出来ない…と、…思う…の……」

「そんな事無いよ!」

 曖の言葉に、玲は思わず叫んでしまった。

 絶対、僕ならそんなことを心配したりしないんだけど…

 …でも、曖ちゃんにとっては『そんな事』じゃないんだ。

 そうは思うものの、やはり玲にとって曖の悩みは不思議なものだった。玲にとって、友達とは自然に出来るものだった。自分から先に声を掛けてしまえば、それで全てが上手く続いていくのだ。

「ううん! …そうなの……」

 曖は、玲の叫び声に精一杯反発していた。

 …いつもなら、…私、こんなことを言わないのに……

「だって…私、…あまり、お外で遊ばないし……運動も上手く出来ないし……」

 その幼い唇から流れ出す言葉が、一際大きく揺れる…

「その…玲君だって……そんな女の子と…友達になんて………」

 曖にとって、それは恐ろしい言葉に思えた。

「なるよ!」

 だが、力強い言葉が応えてくれる。

「僕なら、曖ちゃんと『友達』になるよ。だって、初めて見た時、そう決めたんだからね」

「……!」

 曖は驚いて玲の顔を真っ直ぐに見上げていた。

 胸中に、どっと大きな喜びが押し寄せてくる……

「有り難う…!」

 曖は瞳を濡らして微笑んでいた。

 玲の言葉に偽りや同情は無い。その《当然》の確信が、心の何処かにあったのだ。

「……私…教室で一人になるのが…恐かったの……でも…でも、ここの学校で一人になっても…玲君がそう言ってくれたから…私、きちんと学校に行くね……」

「うん!」

 その言葉は、玲にとっても嬉しいものだった。

 そうだよ。皆が学校に行って、愉しく遊ばないといけないんだ。

 曖は、ほっとして軽くブランコを漕いでいる。

 その優しい姿を見ながら、玲は小首を傾げると言った。

「でもね、大丈夫だよ、きっと。ここの小学校でだって、友達は出来ると思うよ」

「え…?」

 ブランコを止めてそっと見詰めてくる瞳に、玲は力強く頷いていた。

「そうだよ。だって、曖ちゃんがどんなに臆病で恥ずかしがり屋でも、教室の皆が全員曖ちゃんのことを嫌いになるなんて、そんなこと絶対に無いよ。何十人もいるんだから、きっと僕みたいに、曖ちゃんを嫌いになんてならない人だっているはずだよ」

「でも……」

 それでも、曖は心配だったのだ。勿論、今では玲が『友達』になってくれたので、その不安も随分と小さくなっているのだが…

 曖にとって、友達とはそれ程沢山いなくてもいいものだった。

 …でも……もう一人くらい…ここの小学校に、友達がいてくれてもいいかしら…

 だが、それは曖にしてみれば贅沢な望みだった。

「だって、曖ちゃんは可愛いし、優しいし…他にも僕の知らない良いところが、きっと沢山あるはずだからね。そんな曖ちゃんを『好き』になってくれる人は、絶対にいるはずだよ」

「…玲君……玲君は……その、…私を……」

 …少し、ドキドキする。

 そう…、私…きっと、玲君が……『好き』なの……? 『友達』じゃ…なくって…?

 不安と恐怖と、期待とが入り交じった心で、曖はただ言葉を待っていた。

 玲は、そんな曖に躊躇うことなく頷いている。

「うん! 僕は曖ちゃんのことが好きだよ」

 そう言った瞬間、玲は自分が本当にそう思っていることに気付いて驚いていた。

「だからね、きっと曖ちゃんのことを好きになってくれる人は、ここにも沢山いると思うよ。きっと、ね」

「うん…」

 曖はにっこりと微笑みながら、玲を見詰め続けていた。

 …凄い……私、今日初めて逢った玲君の顔を……ずっと、真っ直ぐに、見ていられるの……

 それは、曖にとっては随分と『凄いこと』だった。

 不意に、小鳥達の忙しい啼き声が聞こえてくる。銀の鈴が鳴っているかのような微かで愛らしいシジュウカラの声に包まれながら、曖は再びブランコを漕ぎ出そうとした。

 だが足を地面から離した瞬間、えも言われぬ不安が胸の中に溢れてくる。曖はすぐにブランコを止めると、確かめるようにそっと玲に尋ねていた。

「でも…友達が出来ても……その…逢いにきてくれる……?」

「うん! 勿論……」

 勢いよくそう言い掛けて、玲ははたと言葉を止めてしまった。

「でも、何処に来ればいいのかな? もう、砂場に頭から飛び込みたくはないからね!」

 愉しそうに片目を瞑る彼の言葉に、曖はくすくすと笑い出していた。

 玲も、大きな笑い声を上げている。

 数週間ぶりに、曖の体からは心からの笑い声が溢れ出していた…

「じゃぁ、…私のお家に…その…『飛んで』来てくれるの…?」

 玲の話を聞いても、曖には『飛ぶ』ということがあまりよく分からなかった。

「うん! 心配しなくても、大丈夫だよ。

 ここまで遠くに『飛んだ』のは今日が初めてなんだけどね。でも、近くにだったら今までもきちんと『飛べ』てるし…」

「初めて…だったの…?」

「こんなに遠くまで来たのは、ね」

 …良かった……玲君が、他の所に『飛んで』いかなくて……

 静かに喜んでいる曖を前に、もう一度心の中で確認すると、玲は一人頷いて言った。

「じゃぁ、家を教えてくれる? これくらいしか疲れないなら、春休みの間は毎日来れるよ」

「本当?」

 嬉しくなって、曖はブランコから飛び降りていた。

「うん! 明日も、今くらいの時間なら来れるからね」

 一日中、曖ちゃんといることは出来ないかも知れない…

 やっぱり、時々はサッカーや野球もしないといけないんだ。

 …だが、それでも、曖にとっては充分だった。

「うん。私、ずっとお家で待ってる……」

 そう言いながら、ふと残念なことに気付いてしまった。

 学校が始まったら…

 俯いて寂しそうに曖が呟くと、玲は暫く考え込んだ後で言った。

「仕方ないね。

 でも、水曜日だったら、夕方には来れると思うよ。それに、曖ちゃんだって、こっちの学校で出来た友達と、時々は遊ばないといけないからね」

 そんなこと……

 曖にしてみれば、どんな友達よりも玲と一緒にいられる方が嬉しかったのだが…ただ、これは仕方の無いことかも知れない。

「…じゃぁ…毎週、水曜日に来てくれる…?」

 曖は精一杯の期待を込めて、玲を見上げていた。

「いいよ」

「嬉しい…」

 自然と笑みが零れてしまう。

 にこにこしながら、曖は不意に玲の手を取ると走り出していた。

「お家はこっちなの…!」

 そんな事をしている自分に、曖は少しも気が付いていない…

 太陽はその身を半ば隠しながら、全てを紅に塗り替えている。その光の中で、二人の子どもは愉しい笑い声と共に、美しい煉瓦色のマンションに向かって駆け出していた。

 二人を追い越した風は、曖の幸せに包まれた笑顔に驚きかつ喜びながら、その出来事を伝えるために地平へと旅を急ぎ、去っていった。


「凄く高いところだね」

 玲は廊下の手摺りから身をのりだすと、地面を見下ろしていた。

 五階って、こんなに高いんだ…

「気を付けてね…」

 心配で心配で…

 曖自身はもう恐くなくなったのだが、下を覗き込んでいる玲を黙って後ろから見ていると、どうしてもどきどきしてしまう。

「うん。大丈夫だよ」

 にっこり笑うと、それでも曖を安心させるために玲は手摺りから身を引いた。

「お家は、こっちなの」

 また覗いたりする前に…曖は急いで玲を階の奥へと案内すると、一つの扉の前で立ち止まった。

 ポケットから、鍵を大事そうにそっと取り出す。その様子に、玲は不思議になって尋ねていた。

「誰もいないの?」

「…うん」

 曖が不意にうなだれてしまう。鍵を差し込もうとしていた細い腕も、力無く垂れ下がってしまった。

「あの、ごめんね。…そんなに、悲しまないで」

 どうして、それほどまで悲しくなるのかは分からなかったが、曖の寂しげな顔は見たくない…

 慌てている玲に、曖は精一杯の笑顔を向けようとした。

「ううん…私がいけないの…ごめんなさい……」

 大きく、息を吸い込む…

「…私、…ママがいないの…私が生まれた時…すぐに、…死んじゃった、って……パパが…」

「そうなんだ、…ごめんね…」

「ううん…」

 普段は明るい玲までが、何も言えなくなってしまった。

 まだ、彼には本当の《死》がどんなものかは分かっていない。

 …だって…僕にはお父さんもお母さんもいるから……もしも、お母さんがいなくなったら…

 玲はその想像に嫌悪を感じ、急いで考える事を止めてしまった。

 そして、黙ってしまった曖に励ますように笑顔を向けると、明るい声を出していた。

「さぁ、曖ちゃん! 中に入ろうよ」

「…うん…」

 曖はほっとしたように、ゆっくりと鍵を回していた。

 曖は玲を自分の部屋に通すと、ちょっと待ってて…そう言って、隣室のベランダに干してあった洗濯物を、手際よく取り込み始めた。

 その間、玲は少し窮屈そうに曖の部屋で待っていた。

 綺麗に整えられたベッドや机。本棚には青や黄の背をした本達が、几帳面に並べられている。

 でも…漫画は少ないみたいだね。

 そんなことを考えている玲自身も、漫画を読むよりも外で遊ぶ方が多かった。ゲームも、あまりしないのだ。

 曖の部屋を見ていると、どうしても散らかしたまま家で待っている自分の部屋と比べてしまう。何だか、居心地が悪い。

 …とても、曖ちゃんには僕の部屋を見せられないね。

 よし! 今日は帰ったら、一番に部屋を片付けよう…

「ごめんなさい…待たせてしまって…」

 ジュースが入ったグラスとお菓子を並べた盆を持って、曖が部屋に戻ってくる。

 今まで、遊びに行った先で、年下の女の子にこんなことをされた経験が無い玲は、更に窮屈そうに身を縮めてしまった。

 …曖ちゃんには、きっと、色々教えられてしまうんだろうね。

 玲は、今度四年生になると言うのに、曖には敵わないものがこれほどもある自分に、少し恥じ入っていた。

「どうしたの…?」

 先程までと違って何も言わなくなってしまった玲を見て、曖は不思議そうに尋ねていた。

「ううん、あのね…」

「……?」

「僕、曖ちゃんには色々と教えてもらわなくちゃいけないみたいなんだ。僕が知らないことを、曖ちゃんは沢山知ってるからね」

「私が…?」

 まるで分からずに、小首を傾げてしまう。

 …玲君こそ、私の知らないことをいっぱい知っているはずなの…

「うん。例えば、その…」

 珍しく、玲は真っ赤になって言い淀んでいた。

「どうやったら…いつも、部屋が綺麗になるのか、とか…」

 その言葉に、曖はくすくすと笑い出していた。

 優しく愛くるしい笑い声は、恥ずかしがっている玲の心をそっと包み込んでくれる…

「…簡単なの…」

 曖は微笑みながら、本棚に目を向けた。釣られて、玲も綺麗に並ぶ背表紙を見つめる。

「あのね…ここに並んでるご本には…」

 細く、透き通るような白い指先が、本棚の上を緩やかに滑っていく。

「…みんな、お家が決まってるの。…だから、私が読みたくなってご本を連れ出してしまったら…後で、きちんとお家まで連れて行ってあげないといけないでしょう…?」

「う〜ん、それが難しいんだ。すぐに、連れて行ってあげる所を、忘れてしまうからね」

 曖が再びくすくすと笑い始める。玲もその笑い声に和して、愉しそうに声を上げた。

 その笑い声が落ち着いた頃には…最早、玲は窮屈さを忘れてしまっていた。

 曖が用意してくれたジュースを飲みながら、玲は今迄知らなかった曖の事を、随分と教えてもらっていた。

 生まれてから数ヶ月の間、曖はこの香笹町で暮らしていたそうだ。だが、勿論、そんな頃の記憶など無い。

「でも…少しだけ…」

 何となく…身近に感じる事が出来る。

 …だから、引っ越しも頑張る事が出来たのだ。

「パパは…私に、一つだけ…お約束させたの」

「何を?」

 じっと、曖から目を離さずに玲は尋ねていた。

 すっかり陽も落ちてしまい、辺りは薄暗い青闇に覆われ始めているのだが…まるで、気付いてもいない。

「あのね…」

 それは、曖も同じだった。

「この町には、本当に素敵な薫りがする、笹の群生があるんだって…そこには、澄んだ湧き水があるそうなの…

 でも、絶対に、曖はそこには行ってはいけないよ、って…」

「ふ〜ん…危ないんだろうね」

「うん…」

 隣町に住んでいるのだが、玲はそんな不思議な笹の話を聞いた事が無かった。

 本当に…世の中には、知らない事が一杯あるんだね…

 曖がその小さな口を閉ざすと、替わりに玲は自分の事を話し始めていた。

 宮木町で、生まれた時から一度も引っ越しなどせずに暮らしていること。

 祖父母はもういないが、両親は元気で一緒に暮らしていること。

 姉も一人いること。

 それと、従兄弟の赤ちゃんが近くに住んでいること。

 自分の『力』は、気が付いた時には使えていたこと。

 その『力』が役に立った、色々な出来事のこと……

 曖は、玲が話す全てのことを、まるで疑おうとはしなかった。中には、とても不思議な話もある。よく分からないこともある。

 でも…玲君には、その力があるんだもの……

 …「ただ、それだけ」のことだった。


 黄金色に煌く、楽しい一時が流れていく。

 ふと白い壁に掛かった時計が視野に入り、その針が示している時刻に気付くと、玲は思わず「わっ!」と叫び声を上げていた。

 その声に驚いて目を大きくしている曖に、玲は困ったような顔をする。

「もう、七時になっちゃった…」

 曖も慌てて時計を見上げる。

 大変…! もうすぐ、パパが帰ってくるのに…お夕飯の仕度も出来てないの…

 玲君だって、もうずっと前にお家に戻ってないといけないのに…

 まるで自分が叱られているかのように、曖はしょんぼりと身を小さくしてしまった。

「大丈夫だよ。曖ちゃんのせいじゃないからね」

 勿論、そうなのだ。

 今気付いてみれば、部屋の中もすっかり暗くなっている。改めて見れば、お互いの顔すらぼんやりとしているではないか。

 だが、…曖には、玲が元気に笑いかけてくれているのが分かっていた。

 …そうなの…私の為に、笑ってくれてるの……

 曖は、その事が本当に嬉しかった。


 玄関から出ると、廊下の灯りに照らされながら、玲は励ますように笑顔を向けた。

「ありがとう。もう寒くなってくるから、ここでいいよ」

「また…『飛ぶ』の?」

「うん! でも、今度は空を飛ぶことにするよ。一瞬で『飛んで』しまったら、疲れて明日来れないかも知れないからね」

 そうなの…明日も、来てくれるの……

 分かっていながらも、曖はやっぱり少し寂しくなっていた。

 ずっと、一緒にいたいのに…

 …でも、それは贅沢なのかしら…

「じゃぁね!」

 片手を上げると、玲は不意に灯りの下から飛び出していた。

 小さな体が、軽々と廊下の手摺りを飛び超える…

 玲の言葉を信じていながらも、曖は小さな悲鳴を上げずにはいられなかった。

 駆け寄って身を乗り出すと、じっと目を凝らす。

 いた! 波の上で穏やかにたゆたう小舟のように、薄い暗闇の中をゆるやかに滑りながら、遠くで大きく手を振ってくれている。

 …玲君って、本当に凄い…お空も飛べるんだもの…

 次第に消えていく玲に向かって、曖も元気に手を振り返していた。

 父親が帰ってくれば、朝までとは少しだけ変わってしまった曖の様子に、随分と驚かされることだろう。


 ……………………………………………………………………………………………


 曖の家が見えなくなると、縹渺たる青い波に身を委ねながら、玲は視線を前に向けていた。

「曖ちゃんって、とっても…」

 とっても…何なのかな?

 可愛いし、凄い事も出来るし、優しいし…

 だが、それだけでは足りないのだ。

 ぶつぶつと呟きながら、玲は全身に『力』を満たし、腕を組むと更に深く考え込もうとした。

(……!)

 次の瞬間、考え事など忘れ、真剣な目をすると玲は後ろを振り返っていた。

 今、通り過ぎた所…下の方から『何か』の不快な乱れが立ち昇ってきたのだ。

 夜空よりも暗い…漆黒に染まる低い山々が連なっている。丁度、宮木町と香笹町の境辺りだ。

 様々な木々が生い茂る山々の重なりを見ながら、玲は小さく呟いていた。

「何か…変、だね…」

 空気が、少し澱んでいる気がする。闇が歪むような…

 だが、改めて意識を集中させても、先程感じたような大きな『力』の揺らぎは、最早玲には捕えることが出来無かった。

 …まぁ、いいか。早く帰ろう。

 それ以上は深追いせずに、一路家に向かって速度を上げる。

 今日、素敵な友達を見付けることが出来たこと…その歓びに、胸を激しく躍らせながら……

                                                                     1 逢遇 おわり



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