8
──それは、常夜の龍だった。
光を知らず、日輪を知らない。
漆黒の闇の中、我が身一つが頼み。
ゆえに、龍は孤独だった。
生けるものは皆、常夜の龍を忌む。
そして龍も、生けるものたちを憎んだ。
憎悪は争いを生み、争いは屍を生む。
それを嘆いた天帝は、龍を滅することにした。
〝龍よ、常夜の龍よ〟
〝汝、業火に巻かれ、灼け死ぬが良い〟
それを聞いた、天帝の娘は言った。
〝父上、かの龍に今一度の猶予を〟
〝寛大なるお慈悲をお与えください〟
だが、天帝は娘の願いを聞き入れない。
娘は、龍の暮らす地上へ降り立った。
〝ご覧ください、龍の君〟
宵に煌く光を指し、娘は月と星の在り処を説いた。
常夜の龍は娘を気に入った。
娘も常夜の龍を愛おしんだ。
やがて、龍の死期が訪れた。
しかし娘は、それを良しとしなかった。
我が身と引き換えに、娘は龍の天命を退ける。
娘を灼く業火の先に、まばゆい一条の光が差した。
娘は、龍に夜明けをもたらした。
龍は、娘に恋をした。
娘を失い、はじめて。
龍は、人に、恋をした。
*
──思いのほか、陳腐な物語だ。
常夜の龍も天帝の娘も愚かだとしか思えない。
読み終えた書物を膝に置き、黎珠は背後を振り返った。
見えるのは白い雲と青空と、窓辺で木の実を啄む小鳥のみ。世界は平和そのものだ。
(また、気のせいか)
ふう、と浅く息を吐いた。
最近ふとしたとき、視線を感じることがある。
なんとはなしに気配を感じ、顔を上げたときには綺麗さっぱり何もない。そんなことが何度か続いていた。
索敵は得意な方だったが、こうも空振りが続くと自信がなくなってくる。鈍っている自覚はあるので、当然の結果かもしれない。
「いかがなさいました、黎珠様?」
無言で窓を凝視する黎珠を不審に思ったのだろう。
コウエン──もとい、『孝燕』が訊ねた。
「大したことではないのですが。近頃、視線を感じませんか?」
「いいえ、私は何も」
「そうですか」
「念のため、警備を強化しましょう。御前には私からご報告いたします」
黎珠のあやふやな感覚をもとに即決した孝燕を、少し意外に思う。彼はもっと思慮深い官吏だと思っていた。
「大袈裟では? わたしの気のせいかもしれませんよ?」
「とんでもございません。私は黎珠様と違って、音や気配に鈍いんです。用心するに越したことはございません。天麗公がここにいらっしゃれば、また話は違ったんですが……あいにく、今日もお為事に出ておられますからね」
こんな何気ない孝燕との会話も、その気になれば今は大部分を字に起こすことができるようになった。黎珠がしぶしぶ文字を習い始めてから、はや一ヶ月が経過していた。
あれから、周囲の者の字はほとんど憶えた。例えば、黒き剣と書いて『黒影』。それに『天麗公』。天の麗しい公とは良く言ったものだ。名付け親は、あの見てくれに騙されてしまったのだろう。
そういえば、『テンブコウ』の方はまだ字を確認していない。夏楠の強さと、『天』を多用する龍の嗜好から察するに、『天武公』だろうか。
別の字を当てるなら、あるいは──。
「黎珠様?」
「えっ、はい。何か?」
「はい。以前、寝間着で御前に会いに行かれたでしょう? その節は外出着もご用意せず、大変な失礼をしたと猛省いたしまして」
「いえでも、外出用の羽織はすでにもらいましたが」
椅子の背にかけた緋色の羽織を指したが、孝燕は力強く拳を握り、黎珠の言葉を否定した。
「いいえ、ほかならぬ黎珠様のお召し物ですから! よりいっそう可憐に、かつ優雅、かつ美しく清楚な、我が君渾身のお召し物をご用意させていただきました」
どうやら、一から縫い上げていたらしい。あれからだいぶ経つにもかかわらず、今日まで服が完成しなかった理由はそれか。
「そのいかがわしい服、着なきゃ駄目ですか? 恐怖しか感じないのですが」
「ご安心ください。あの御方は阿保でも、感性は悪くありません」
「考えておきますので、とりあえずそこに置いといてください……」
またぞろ金を湯水のように突っ込んだとしか思えない服を睥睨しつつ、孝燕に指示する。
気は向かないが、服に罪はない。あとで着られそうなら着よう。もったいない。
「そうそう黎珠様、本日の昼餉ですが」
くるりと微笑して振り返ると、孝燕は食卓をさえぎっていた衝立を取り払う。黎珠が読書に勤しんでいる間、匂いが漂っていたので、そろそろだと思った。
本を閉じ、食卓に視線を移す。平素と変わらず、そこには豪勢な料理の数々が所狭しと並んでいた。当初こそ食事を控えていたものの、最近はこの量でも完食してしまう。本当に慣れとは恐ろしい。しばらく鏡を見ていないので、豚になってやしないか心配だ。
黎珠の杞憂をよそに、孝燕はもはやお馴染みとなった口上を喜々として披露した。
「本日の昼餉は山芋の炒飯に、蟹と帆立の水餃子など点心各種、青菜と鶏と人参の野菜炒めに、お茶は御前のお気に入り、蜜蘭香となっております」
「山芋の炒飯ですか。美味しそうですね」
「お褒めいただき光栄です。調子に乗ってお出ししたかいがありました」
「調子に乗って?」
復唱すると、手際よく蜜蘭香を注ぎながら孝燕は頷く。
「先日の夕餉、芋料理を平らげてらしたでしょう? 黎珠様はお芋がお好きなのだな、と思いまして」
まったく気づかなかった。特に意識したつもりもない。
夏楠もそうだが、彼もよくこちらを見ている。気をつけねば。
「そうですか? まんべんなく箸をつけているつもりでしたが」
「ふふ、ご安心を。気づいたのは私と、御前くらいですよ」
茶目っ気たっぷりに、悪戯っ子のような仕草で孝燕は言う。
「今日は間食もご用意しておりますので。楽しみにしていてくださいね」
「間食? 結構です。ただでさえ食べ過ぎなのに、この上──」
「左様でございますか。とっておきの紅甘藷を蒸かしてお持ちしようと思ったのですが」
「……今回はいただきましょう。今回だけは」
うっかり口をついてしまった。
紅甘藷は、田舎育ちの黎珠にも馴染みがある食材だ。あれは痩せた土地でも育つし、泥を残せば長期保存も利く。里でもふるまわれた懐かしい味なので、つい恋しくなってしまった。
「では、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
にっこりと笑顔で用意を済ませると、孝燕は早々に退室する。毎回そうだ。今日も何かしら彼の為事があるのだろう。
最近わかったのだが、なんだかんだで夏楠も孝燕も多忙だ。内容は不明だが、二名とも為事の合間を縫っては、わざわざ黎珠のもとを訪れているらしい。特に夏楠は、大量の紙束を抱えて黎珠と話すこともままあった。
寝床を離れて食卓に着き、まずは蜜蘭香を啜る。匙で粥をすくい、山芋のしゃりしゃりとした触感を楽しみながら、黎珠は今後の対策を考えた。
背中の傷は、もうだいぶ癒えた。あとは夏楠をどう始末するかだが、いまだに良い方策は浮かばない。時間ばかりが刻々と過ぎていく。
ふいに、考える。
以前は疑問にも思わなかったこと。何故……。
それを自覚した途端、ぴたりと箸を持つ手が止まった。
あまりにも素朴な疑念に、自分でも戸惑うほど狼狽する。
ここでの生活を続ければ、続けるほど。知識を得れば、得るほど。
ふとした拍子に、『それ』は耳元で囁くのだ。
何故、どうして?
わたしは――殺すのだろう、と。
箸を、叩きつけるように食卓へ戻した。
得体の知れない焦燥が、じりじりと頸筋を這い上がってくる。寒気がするのに、額にはうっすらと汗が浮いた。
話がおかしい。
根拠が欠落している。
龍殺の核心に、筋が見いだせない。
「違う。間違ってなどいない。わたしの『お役目』は──」
悪しき龍を、夏楠を討つことだ。
自分に言い聞かせるように唇を動かし、黎珠は席を立った。
乱暴に羽織を纏う。夏楠に教えられた抽斗から飛刀を取り出し、 懐 にしまう。
――……考えるな。
なかば呪詛のように繰り返す。
だが念じるほど裏腹に、思考は冴えてしまう。
今まで気づかなかったことに、気がついてしまう。
里にいたとき、自らの意思で何かを為したことがあっただろうか。
これほど深く悩み、戸惑い、思案に暮れた日が、たった一日でもあっただろうか。
――考えるな。考えるな。考えるな。
闇雲に回廊を行く。
怖じる両足を叱咤して、黎珠はひたすら歩を進めた。
主の意に沿い、栄養の行き届いた手足はすんなりと動く。その事実に、当の黎珠が驚きを禁じ得なかった。思った以上に力強く、軽やかに四肢は駆動する。
以前は……里では、違った。
あのときは、もっとふわふわとして、今ほど現実味がなかったように思う。記憶も曖昧で、断片的だ。まるで夢の中のような。
討師の里と、層雲宮でのこの違いは、いったい何に起因するのだろう。
(──……ッ、駄目!)
大きく頸を振る。考えてはいけない、と深く自戒する。
駄目だ。ただ『お役目』を、己が使命をまっとうするのだ。それだけでいい。それだけを信じていれば、それでいい。
それさえあれば、わたしはきっと生きていける。
大きく息を吐き出す。
服の上から飛刀を握り締める。
勢いにまかせ通路を曲がり、そこで思い切り、誰かにぶつかった。
一瞬、眉を顰めるも、見上げたその顔に、黎珠の頭は真っ白になった。
「おや?」
「あ……」
意味のない感嘆がこぼれる。
陽光を浴び、輝くばかりに美しい白銀の龍が、そこには立っていた。