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 ──そして、着衣後。


「ああ、たまげた、たまげた」


 すこぶる軽やかに告げるカナンに対し、この世の怨嗟えんさを凝縮したような声で、レイジュは言い返した。


「それは、こちらの台詞です……」


 椅子に腰かけたまま、脱力して円卓に突っ伏す。さすがに、このような事態は想定していなかった。とんでもない目に遭ったものだ。


 ちなみに、飛刀はもう手放している。今日の暗殺は断念した。

 なんというか精神的に、もう無理だ。


「まったく、心臓が止まるかと思いました……」

「おかしいな。ふだは下げておいたはずだが」

「札?」


 問い返すと、カナンは湯呑ゆのみにこぽこぽと茶を注ぎながら首肯した。


「うん、『入浴中』と。私は趣味でへやに露天風呂をしつらえているからな。うっかり女官が入ってしまわぬよう、戸口に札を下げたのだが。なかったかね?」

「あ……」


 あった。あの板切れか!

 何かしら意味はあるとは思ったが、入浴という発想はなかった。だいたい、普通はへやに露天風呂など思い浮かばないだろう。


「その様子ではあったのか。ならば、何故?」

「そ、それは、無防備な入浴中を狙おうと……」

〈だが、悲鳴を上げたのはレイジュ殿だろう? 入浴を狙ったならば、裸であることも予測できたのでは?〉


 墓穴を掘った。

 咄嗟とっさに言いつくろうも、コクエイに穴を指摘されてしまう。上手い言い訳も浮かばず押し黙っていると、とうとうカナンに言い当てられてしまった。


「もしや、字が読めんのか?」

「だったら、どうだと言うのです」


 居直ると、何故かカナンはぱっと表情かおを輝かせて席を立った。


「なんだ、水臭い! それならそうと早く言ってくれ!」

「はい?」


 訊き返すレイジュに構わず、カナンはいそいそと文机に向かい、抽斗ひきだしの中を探り始める。


「ちょ、なんです突然ごそごそと。なんですか、その文箱ふばこは?」


 こまやかな螺鈿細工らでんざいくがほどこされた、見るからに高級な文箱を手にカナンが言うことには、


「レイジュ、今日からそなたは字を習いなさい。私の手が外せないときは、コウエンに任せよう。あとで伝えておく」

「はあ? 勝手に話を進めないでください! 何故、私が字など!」

「憶えなさい。決して無駄にはならん。どうせ傷が癒えるまで、レイジュはひまだろう? 身体に負担もかからんし、まさに打ってつけだ」


 冗談ではない。以前まえから莫迦だ莫迦だと思ってはいたが、これほど頭がおかしいとは思わなかった。


「お断りします! いずれ殺す相手に教えを乞うなど!」

「では、読み書きを習得したあかつきには、そなたに私の頸級くびをやろう。頑張れば怪我の完治を待たずして、私を討ち取ることができるぞ、レイジュ?」


 カナンは嬉々とした様子で茶器を卓のはしに寄せ、墨壺すみつぼや筆、万年筆など筆記具を並べながら言う。


 ──なんだ、その条件は。ますます意味がわからない。


「話になりません。自分から敵にくびを差し出す愚か者が、どこにいます?」

「ここに。私の言葉が信じられぬと言うなら、()()()()()()()誓約しよう」

「莫迦莫迦しい。口先だけの約定など、誰が信じますか」

〈いや、レイジュ殿〉


 言い捨てて終わりにするつもりが、横からコクエイが否定を口にした。


〈龍は、自らの名に誓った約定は決してたがえん。龍にとり、名は身の証であると同時にくびきなのだ。ゆえに龍は、本名を忌むべき名、『いみな』と言う〉

「カナンは純血ではありません。約定を破らない保障が、どこに?」

〈なれば、御自分で確かめるが良かろう〉


 ほう。そこまで言うなら、話に乗ってやろうではないか。

 たとえ嘘だとしても、現状が維持されるだけでレイジュに害はない。文字を習うのは面倒だが、確かにカナンの言うとおり、無駄にはならない。

 鋭くカナンを見据え、レイジュは言い放った。


「いいでしょう。けれどもし、約定をたがえたときは覚悟しなさい」

「ああ。ありがとう、レイジュ」

「礼を言われる筋合いはありません」


 本当になんなのだ、この男は。度し難いにもほどがある。

 されど元凶の龍はこちらの気も知らず、ふわふわとゆるい笑みを浮かべて筆を手に取った。


「ふふふ、今日は初日だからなぁ。ここは筆で……やはり、最初は自分の名からかな?」

「なんでも結構ですから、さっさと始めてください」

「承知した。ではレイジュ、ご覧。そなたの名は、黎明れいめいに──」


 黎明、とカナンは書き記す。


「宝珠、と書く」


 その横に宝珠と。

 そして最後に、黎珠と連ねた。


「すなわち、『黎珠レイジュ』だ」


 記された己の名を、レイジュ──『黎珠』は生まれて初めて見下ろし、眼をすがめて凝視した。


「画数が多い。面倒な名前ですね」

「ははは。だが、良い名だよ。是非、憶えてくれ。さあ」


 筆を手渡し、カナンは新しい紙を黎珠の前に滑らせる。書け、ということだろう。仕方がないので、一行繰り返し書いてみる。

 黎珠、黎珠、黎珠、黎珠、黎珠。

 憶えた。


「憶えました。次」

「おお、さすが黎珠だ。筋がいい」

「こんなもの普通です」

「そうでもないさ。字を憶えてしまうとね、書き付けておけば良いという安心感からか、とんと物憶えが悪くなるのだよ。私も字を習う前は、一度見たものは忘れなかったのだがなぁ」

「昔話はいいですから、次」


 さっさと終わらせたい一心で先をうながす。

 カナンは腕を組むと目線を上にやり、考え込むように少し頭を傾けた。


「そうだなぁ。本格的な手習いは明日、教本を用意してからにするとして……今日は黎珠の好きな言葉を憶えようか」

「好きな言葉? ないですね」

「では、好きない物は?」

「別に。毎日食事にありつけること自体、恵まれたことですから」

「では、黎珠の好きな植物は──」

「ですから、特にありません。なんでも構いませんから、適当にみつくろってください」

「そうか? では手始めに『我愛你あいしてる』──」

「絶対やめてくださいッ!」


 両手を卓に叩きつけて拒否する。

 何が手始めだ。書かずに一生を終えそうな文字を率先して教え込むな。


〈黎珠殿。多少面倒であっても、御自身の要望を述べることをお勧めする〉

「ご忠告感謝します、コクエイ殿」

「黎珠は、コクエイばかり名で呼ぶのだな」


 不服そうに口を尖らせる、頭のおかしい龍などに構っていられない。

 無視だ、無視無視。


「して、黎珠。どのような文字を知りたい?」

「そうですね、では」


 何にしようか。

 適当に好きなもの、と思いを巡らせて、しかし何一つ胸に去来しない自分に気づく。そもそも自分は何を思い、何を考え、風花かざはなの里で暮らしていたのか。


(……上手く、思い出せない?)


 今度は意識して、沈んだ記憶を丹念に掘り起こす。

 門戸の雪をいた。武具の手入れをした。皆で雑魚寝した──そんな断片的な記憶ものは思い出せる。だが、その前後がはっきりしない。一連のものとして記憶が成立しないのだ。

 一緒に寝起きしたはずの、仲間の顔すら……思い起こせない。


 どくん、と心臓が大きく跳ねる。冷汗が流れた。

 何故、今まで気づかなかった?

 いつから憶えていない? 

 いつ、こうなった?


 ──わからない。

 ならば、確たる記憶があるのはどこからだ?


 ──はっきりとした記憶は……層雲宮ここに来てから、だ。

 カナンに出会い、コクエイに会い、コウエンに会った。

 そこからしか、()()()()()()()()


 ──  ロセ、── コ ────。


「黎珠?」


 呼びかけられ、はっとして顔を上げた。


「どうかしたか?」


 間近には眉をひそめ、こちらを見つめるカナンがいる。


「いえ、なんでも」


 かぶりを振って、視線を紙の上に戻した。

 一瞬だけ、湧いた疑念を必死で打ち消す。


(何を疑問に思う必要がある。カナンは敵。……悪しき龍)


 それだけでいい、と自分を納得させる。

 それだけでいいのだ。

 それがすべてだ。


「黎珠、体調がすぐれないならば、今日はもう──」

「いいえ、問題ありません。それよりも、ありました。『夏』」

「ナツ?」

「四季の夏を」


 黎珠が希望を伝えると、カナンは虚をかれたように一瞬押し黙った。

 おかしな反応だ。別段、珍しい単語でもないと思うが。


「何か問題が?」

「いや。夏、か……」

「夏がどうかしましたか?」

〈黎珠殿は夏季がお好みか。玄州人にしては珍しいな〉


 カナンの腰でコクエイが感想を漏らす。

 そうだろうか。季節の好みなど、人それぞれだ。

 疑問が顔に出たのだろう、わずかに苦笑してカナンは続けた。


「玄州の州季は冬だ。冬を誉れとする考えが根付いている。ゆえに対極の夏は、少々(うと)まれるな。玄州の夏は他州に比べ過ごしやすいが、それでも『暑い』『だるい』『寝苦しい』と三拍子そろっているだろう?」

「そうでしょうか」


 否定されると、反論したくなるのが人のさがである。

 やや意地になっている自分を自覚しながらも、黎珠はカナンに異を唱えた。


「厳しい冬の寒さに比べれば、暑さなど苦になりません。夏なら凍死することもありませんし、食うにも困らない。わたしは、この季節が好きです。誰がなんと言おうと」


 そうだ、冬なぞ糞くらえだ。むしろ大嫌いだ。

 春は存在が疑わしいほど短いし、秋もすぐに肌寒くなって、気が滅入る。

 けれど、夏は──。


「日は高く、空は青く、生命は活気づいている。この季節は何もかもが、絢爛豪華けんらんごうかですから」

「……ありがとう、黎珠」

「はいはい、どういたしまして。では字を書いてください」


 だから、お前を褒めてはいないと思ったが、口は差し控える。ここは適当に流しておこう。いちいちカナンに突っかかっていては、日が暮れる。


「では、ご覧。夏はこう書く」


 流れるように記された文字を眼で追い、その場で憶え込む。


「ああ、この形。これが夏だったのですね」

「どこぞで見かけたかね?」

「里の、書房の整理で」

「そうか、ならば憶えも早そうだ。後日、層雲宮の書庫を案内あないしよう。層雲宮の蔵書はなかなかのものだぞ。そうだ、折を見て一緒に算術も教えよう。金勘定は暮らしに必須だからな」

「勝手に内容を増やさないでください」


 楽しげに語りかけるカナンを脇に退け、黎珠は紙面に意識を集中させた。カナンの手本を親のかたきのように睨めつけ、筆を動かす。


 夏、夏、夏──。

 はらいの部分が納得いかず、三度書き直したところで紙に穴が開く。意外にも、画数のある文字の方が形が取りやすいことに気づいた。

 カナンはすかさず替えの紙を差し出すと、筆を持った手を横から伸ばし、黎珠の前でしるしてみせた。


「もう少し、やさしい字も憶えてみるか。黎珠、これは木だ」

「樹木の木ですか?」

「そうだ。これはよく他の字と組み合わせて用いられる。例えば、東西南北の『南』」


 するすると記述される文字を、片っ端から暗記していく。

 南、という字の形も知っていた。前に見た地図に書かれていた。


「そして、木に南と書いて、くすのき となる。これは南方からもたらされた木だからな」

「へえ、面白いものですね」

「ふふ。それから、夏に楠。なんと読むか、わかるかね?」

「夏に楠? ナツクス、ナクス、ナクスノキ……」


 どれもしっくりこない。

 和訓わくん読みではないのだろうか。では、玉音ぎょくおんで読めばどうだろう。

 つらつらと考え、結論が出る直前。

 カナンが告げた。


「カナン」

「………………はい?」


 今、なんと言った?


「夏に楠と書いて、『夏楠カナン』。私の名だ」

「──────ッ!」


 勢い、その場で立ち上がる。そんな黎珠を嘲笑あざわらうように、盛大な音を立てて椅子が後ろにひっくり返った。


〈夏が出た時点で、やると思った……〉


 あきれた声で、コクエイがひっそりとつぶやく。


「だったら早く言ってください!」

「ははははは。だが夏を憶えたいと言ったのは、黎珠だぞ?」


 もっともだ。もっともな意見であるがゆえに、余計腹が立つ。

 特にこの『夏楠』が言うと、ことさらに。


「とっとと他の字も教えなさいッ!」


 卓にこぶしを振り下ろし、黎珠は怒声を上げる。


「あいわかった。黎珠」


 夏楠はただただ、変わらぬ笑顔をこぼしていた。

 曇りのない綺麗な、それでいて、憂いのある金の瞳で。

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