7
──そして、着衣後。
「ああ、たまげた、たまげた」
すこぶる軽やかに告げるカナンに対し、この世の怨嗟を凝縮したような声で、レイジュは言い返した。
「それは、こちらの台詞です……」
椅子に腰かけたまま、脱力して円卓に突っ伏す。さすがに、このような事態は想定していなかった。とんでもない目に遭ったものだ。
ちなみに、飛刀はもう手放している。今日の暗殺は断念した。
なんというか精神的に、もう無理だ。
「まったく、心臓が止まるかと思いました……」
「おかしいな。札は下げておいたはずだが」
「札?」
問い返すと、カナンは湯呑にこぽこぽと茶を注ぎながら首肯した。
「うん、『入浴中』と。私は趣味で室に露天風呂をしつらえているからな。うっかり女官が入ってしまわぬよう、戸口に札を下げたのだが。なかったかね?」
「あ……」
あった。あの板切れか!
何かしら意味はあるとは思ったが、入浴という発想はなかった。だいたい、普通は室に露天風呂など思い浮かばないだろう。
「その様子ではあったのか。ならば、何故?」
「そ、それは、無防備な入浴中を狙おうと……」
〈だが、悲鳴を上げたのはレイジュ殿だろう? 入浴を狙ったならば、裸であることも予測できたのでは?〉
墓穴を掘った。
咄嗟に言い繕うも、コクエイに穴を指摘されてしまう。上手い言い訳も浮かばず押し黙っていると、とうとうカナンに言い当てられてしまった。
「もしや、字が読めんのか?」
「だったら、どうだと言うのです」
居直ると、何故かカナンはぱっと表情を輝かせて席を立った。
「なんだ、水臭い! それならそうと早く言ってくれ!」
「はい?」
訊き返すレイジュに構わず、カナンはいそいそと文机に向かい、抽斗の中を探り始める。
「ちょ、なんです突然ごそごそと。なんですか、その文箱は?」
こまやかな螺鈿細工がほどこされた、見るからに高級な文箱を手にカナンが言うことには、
「レイジュ、今日からそなたは字を習いなさい。私の手が外せないときは、コウエンに任せよう。あとで伝えておく」
「はあ? 勝手に話を進めないでください! 何故、私が字など!」
「憶えなさい。決して無駄にはならん。どうせ傷が癒えるまで、レイジュは暇だろう? 身体に負担もかからんし、まさに打ってつけだ」
冗談ではない。以前から莫迦だ莫迦だと思ってはいたが、これほど頭がおかしいとは思わなかった。
「お断りします! いずれ殺す相手に教えを乞うなど!」
「では、読み書きを習得した暁には、そなたに私の頸級をやろう。頑張れば怪我の完治を待たずして、私を討ち取ることができるぞ、レイジュ?」
カナンは嬉々とした様子で茶器を卓の端に寄せ、墨壺や筆、万年筆など筆記具を並べながら言う。
──なんだ、その条件は。ますます意味がわからない。
「話になりません。自分から敵に頸を差し出す愚か者が、どこにいます?」
「ここに。私の言葉が信じられぬと言うなら、我が名において誓約しよう」
「莫迦莫迦しい。口先だけの約定など、誰が信じますか」
〈いや、レイジュ殿〉
言い捨てて終わりにするつもりが、横からコクエイが否定を口にした。
〈龍は、自らの名に誓った約定は決して違えん。龍にとり、名は身の証であると同時に軛なのだ。ゆえに龍は、本名を忌むべき名、『諱』と言う〉
「カナンは純血ではありません。約定を破らない保障が、どこに?」
〈なれば、御自分で確かめるが良かろう〉
ほう。そこまで言うなら、話に乗ってやろうではないか。
たとえ嘘だとしても、現状が維持されるだけでレイジュに害はない。文字を習うのは面倒だが、確かにカナンの言うとおり、無駄にはならない。
鋭くカナンを見据え、レイジュは言い放った。
「いいでしょう。けれどもし、約定を違えたときは覚悟しなさい」
「ああ。ありがとう、レイジュ」
「礼を言われる筋合いはありません」
本当になんなのだ、この男は。度し難いにもほどがある。
されど元凶の龍はこちらの気も知らず、ふわふわと緩い笑みを浮かべて筆を手に取った。
「ふふふ、今日は初日だからなぁ。ここは筆で……やはり、最初は自分の名からかな?」
「なんでも結構ですから、さっさと始めてください」
「承知した。ではレイジュ、ご覧。そなたの名は、黎明に──」
黎明、とカナンは書き記す。
「宝珠、と書く」
その横に宝珠と。
そして最後に、黎珠と連ねた。
「すなわち、『黎珠』だ」
記された己の名を、レイジュ──『黎珠』は生まれて初めて見下ろし、眼を眇めて凝視した。
「画数が多い。面倒な名前ですね」
「ははは。だが、良い名だよ。是非、憶えてくれ。さあ」
筆を手渡し、カナンは新しい紙を黎珠の前に滑らせる。書け、ということだろう。仕方がないので、一行繰り返し書いてみる。
黎珠、黎珠、黎珠、黎珠、黎珠。
憶えた。
「憶えました。次」
「おお、さすが黎珠だ。筋がいい」
「こんなもの普通です」
「そうでもないさ。字を憶えてしまうとね、書き付けておけば良いという安心感からか、とんと物憶えが悪くなるのだよ。私も字を習う前は、一度見たものは忘れなかったのだがなぁ」
「昔話はいいですから、次」
さっさと終わらせたい一心で先をうながす。
カナンは腕を組むと目線を上にやり、考え込むように少し頭を傾けた。
「そうだなぁ。本格的な手習いは明日、教本を用意してからにするとして……今日は黎珠の好きな言葉を憶えようか」
「好きな言葉? ないですね」
「では、好きな食い物は?」
「別に。毎日食事にありつけること自体、恵まれたことですから」
「では、黎珠の好きな植物は──」
「ですから、特にありません。なんでも構いませんから、適当にみつくろってください」
「そうか? では手始めに『我愛你』──」
「絶対やめてくださいッ!」
両手を卓に叩きつけて拒否する。
何が手始めだ。書かずに一生を終えそうな文字を率先して教え込むな。
〈黎珠殿。多少面倒であっても、御自身の要望を述べることをお勧めする〉
「ご忠告感謝します、コクエイ殿」
「黎珠は、コクエイばかり名で呼ぶのだな」
不服そうに口を尖らせる、頭のおかしい龍などに構っていられない。
無視だ、無視無視。
「して、黎珠。どのような文字を知りたい?」
「そうですね、では」
何にしようか。
適当に好きなもの、と思いを巡らせて、しかし何一つ胸に去来しない自分に気づく。そもそも自分は何を思い、何を考え、風花の里で暮らしていたのか。
(……上手く、思い出せない?)
今度は意識して、沈んだ記憶を丹念に掘り起こす。
門戸の雪を搔いた。武具の手入れをした。皆で雑魚寝した──そんな断片的な記憶は思い出せる。だが、その前後がはっきりしない。一連のものとして記憶が成立しないのだ。
一緒に寝起きしたはずの、仲間の顔すら……思い起こせない。
どくん、と心臓が大きく跳ねる。冷汗が流れた。
何故、今まで気づかなかった?
いつから憶えていない?
いつ、こうなった?
──わからない。
ならば、確たる記憶があるのはどこからだ?
──はっきりとした記憶は……層雲宮に来てから、だ。
カナンに出会い、コクエイに会い、コウエンに会った。
そこからしか、確かな記憶がない。
── ロセ、── コ ────。
「黎珠?」
呼びかけられ、はっとして顔を上げた。
「どうかしたか?」
間近には眉を顰め、こちらを見つめるカナンがいる。
「いえ、なんでも」
かぶりを振って、視線を紙の上に戻した。
一瞬だけ、湧いた疑念を必死で打ち消す。
(何を疑問に思う必要がある。カナンは敵。……悪しき龍)
それだけでいい、と自分を納得させる。
それだけでいいのだ。
それがすべてだ。
「黎珠、体調がすぐれないならば、今日はもう──」
「いいえ、問題ありません。それよりも、ありました。『夏』」
「ナツ?」
「四季の夏を」
黎珠が希望を伝えると、カナンは虚を衝かれたように一瞬押し黙った。
おかしな反応だ。別段、珍しい単語でもないと思うが。
「何か問題が?」
「いや。夏、か……」
「夏がどうかしましたか?」
〈黎珠殿は夏季がお好みか。玄州人にしては珍しいな〉
カナンの腰でコクエイが感想を漏らす。
そうだろうか。季節の好みなど、人それぞれだ。
疑問が顔に出たのだろう、わずかに苦笑してカナンは続けた。
「玄州の州季は冬だ。冬を誉れとする考えが根付いている。ゆえに対極の夏は、少々疎まれるな。玄州の夏は他州に比べ過ごしやすいが、それでも『暑い』『だるい』『寝苦しい』と三拍子そろっているだろう?」
「そうでしょうか」
否定されると、反論したくなるのが人の性である。
やや意地になっている自分を自覚しながらも、黎珠はカナンに異を唱えた。
「厳しい冬の寒さに比べれば、暑さなど苦になりません。夏なら凍死することもありませんし、食うにも困らない。わたしは、この季節が好きです。誰がなんと言おうと」
そうだ、冬なぞ糞くらえだ。むしろ大嫌いだ。
春は存在が疑わしいほど短いし、秋もすぐに肌寒くなって、気が滅入る。
けれど、夏は──。
「日は高く、空は青く、生命は活気づいている。この季節は何もかもが、絢爛豪華ですから」
「……ありがとう、黎珠」
「はいはい、どういたしまして。では字を書いてください」
だから、お前を褒めてはいないと思ったが、口は差し控える。ここは適当に流しておこう。いちいちカナンに突っかかっていては、日が暮れる。
「では、ご覧。夏はこう書く」
流れるように記された文字を眼で追い、その場で憶え込む。
「ああ、この形。これが夏だったのですね」
「どこぞで見かけたかね?」
「里の、書房の整理で」
「そうか、ならば憶えも早そうだ。後日、層雲宮の書庫を案内しよう。層雲宮の蔵書はなかなかのものだぞ。そうだ、折を見て一緒に算術も教えよう。金勘定は暮らしに必須だからな」
「勝手に内容を増やさないでください」
楽しげに語りかけるカナンを脇に退け、黎珠は紙面に意識を集中させた。カナンの手本を親の仇のように睨めつけ、筆を動かす。
夏、夏、夏──。
はらいの部分が納得いかず、三度書き直したところで紙に穴が開く。意外にも、画数のある文字の方が形が取りやすいことに気づいた。
カナンはすかさず替えの紙を差し出すと、筆を持った手を横から伸ばし、黎珠の前で記してみせた。
「もう少し、易しい字も憶えてみるか。黎珠、これは木だ」
「樹木の木ですか?」
「そうだ。これはよく他の字と組み合わせて用いられる。例えば、東西南北の『南』」
するすると記述される文字を、片っ端から暗記していく。
南、という字の形も知っていた。前に見た地図に書かれていた。
「そして、木に南と書いて、楠 となる。これは南方からもたらされた木だからな」
「へえ、面白いものですね」
「ふふ。それから、夏に楠。なんと読むか、わかるかね?」
「夏に楠? ナツクス、ナクス、ナクスノキ……」
どれもしっくりこない。
和訓読みではないのだろうか。では、玉音で読めばどうだろう。
つらつらと考え、結論が出る直前。
カナンが告げた。
「カナン」
「………………はい?」
今、なんと言った?
「夏に楠と書いて、『夏楠』。私の名だ」
「──────ッ!」
勢い、その場で立ち上がる。そんな黎珠を嘲笑うように、盛大な音を立てて椅子が後ろにひっくり返った。
〈夏が出た時点で、やると思った……〉
呆れた声で、コクエイがひっそりとつぶやく。
「だったら早く言ってください!」
「ははははは。だが夏を憶えたいと言ったのは、黎珠だぞ?」
もっともだ。もっともな意見であるがゆえに、余計腹が立つ。
特にこの『夏楠』が言うと、ことさらに。
「とっとと他の字も教えなさいッ!」
卓に拳を振り下ろし、黎珠は怒声を上げる。
「あいわかった。黎珠」
夏楠はただただ、変わらぬ笑顔をこぼしていた。
曇りのない綺麗な、それでいて、憂いのある金の瞳で。