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――炎が舞い上がる。
吹きつける熱風に逆らい、彼女は食い入るように宙を見つめた。
炙られた眼球がひりつく。煙で呼吸が詰まる。
激しく咳き込みながら、彼女は膝を折った。
瞼の裏がいやに明るい。まるで大気が汚染されているようだ。煤臭く、息苦しく、そして恐ろしく熱い。近くで、何かが爆ぜる音がする。
ふわりと鼻先を過ぎる火の粉を追い、彼女は頭を持ち上げた。
――朱い。ただ、ひたすらに。
仰いだ空は、炎の天井に覆われていた。
霊廟に似た、装飾のなされた広い室。四方は火の海に囲まれ、明らかに生存を許すような環境ではない。まばゆいまでの世界は、地獄のような荘厳さに満ちていた。
追手の姿は見えない。場所も激変した。どうやら目論見どおり、自分はあの場から逃げおおせたようだ。
しかし、ここはどこだろう。
自分のほかに誰もいない。ただ独り。
まさか、本当に地獄に堕ちてしまったのだろうか?
唇を開こうとすると、炎を孕んだ風が咽喉を灼いた。瞼を上げれば急な眩暈。四肢に力は入らず、手足は泥のように重い。動けない。
――宝珠を酷使した反動?
――ここで死ぬ?
――いいや、まだだ。
諦念を振り払う。気力をかき集めて、奥歯を噛んだ。
正常な思考はまだ残されている。状況は理解した。ならば、ここからだ。ここから、策を導かねば。
意識を奮い立たせ、彼女は深く息を吐いた。
考える──いま一度、宝珠を遣うか否か。
だが、果たして今の自分に扱えるだろうか。身体はろくに動かず、気を抜けば昏倒しかねない、この状態で。発動すら怪しいものだ。次はどのような辺境に飛ばされるか、知れたものではない。
だが、遣わなければ、確実に死ぬ。
忌々しい。足元を見られたものだ。賭けにしても、酷く分が悪いではないか。
悪態をつきながら、ふと思ってしまう。
もしも今ここで、自分が死んだら。
そのあとは、どうなるか。
霞む頭で考える。
──ああ。嗤えるほど、救いがない。
苦笑しようとして、彼女はまた咳き込んだ。
思考は刻々と削がれてゆくのに、苦痛は健在だ。溺れるように空気を求めて、地べたに膝をついた。
熱くて、痛くて、苦しい。
でも顔を床に近づけると、ほんの少しだけ息が楽になる。
ぐっと身体を二つ折りにすると、鈍い音とともに背後の支柱がへし折れ、煙と轟音を撒き散らした。
濃厚な、死の気配がする。
血とも唾液ともつかぬものを嚥下して思う。
自分は本当に、天に見放されたのではないのか、と。
諦めが再び頭をもたげる。悔しさに涙が浮かんだ。不条理に殺意が湧く。
「なぜ……」
怨嗟の声が漏れた。
理不尽に、虫唾が走る。
あれほどの犠牲を払い、健気に紡いだ希望の末路が、こんな結末なのかと。
天は、悲劇を好むと云う。
ああ、確かにそのとおり。身をもって知っているとも。
だが、安易に許容はできない。できるものか──断じて。
拳を握り、嗚咽を必死で堪える。
煙を避けて眼を閉じ、今さらながらに思った。
──ああ、言伝えは正しかった、と。
宝珠の加護は、その主にしか及ばない。
二名では駄目なのだ。常に一名でなければ。
赤子だろうとなんだろうと、先んじてあの子を逃すべきだった。我が身なぞ捨て置いて、あの子だけを。あの子に宝珠を託していれば……。
いや──いいや、違う。
逃げるためとは言え、そも、宝珠を遣うべきではなかったのだ。
宝珠さえ遣わなければ。
あの子を手放さなければ。
あの子が……もし。どこかで死んで、しまったら。
嫌な仮定ばかりが脳裏を過る。
取り返しのつかない現実に、気がふれそうになる。
最期の言葉一つかけられず、自分だけ最悪の場所に飛ばされて。そして今、すべての成果が無に帰そうとしている。
ここへ至るまでに潰えた命、すべてを無為にして。
――なんてざまだ。
咽喉が震える。心が決壊する。
みっともなく喘ぎ、彼女は地面に伏せた。
爪先が朱い。磨き抜かれた床石が、嘲る炎を映している。嗤いながら、彼女の決意を平らげてゆく。
ふと、視界の隅に光が視えた。火炎とは違う、黄金の光だ。
顔を上げる。炎の熱で見る影もなくただれているが、金の台座に乗った像は、まだそれとわかる程度に原型をとどめている。
王母の像だ。
あまねく死を司る女神。祀れば、非業の死を免れると云う。
迷信だ。ただの気休め。よく知っている。
しかし、思いとは裏腹に自然と身体が動いた。
火傷もかえりみず、台座にかしずく。崩れた女神に向かい、彼女は深く頭を垂れた。流れた黒髪の先端と着物が焦げ、異臭が鼻に届く。
でも、構わない。
どれほど無残な死も受け入れる。
だから──だから、どうか。
歯を食いしばり、死に物狂いで、彼女は祈った。
ゆえに王母よ。
どうか慈悲を。
どうか。
「────……ッ」
愛しい、その名を叫ぶ。
涙のようにこぼれ落ちた言葉は、無慈悲な炎の中へと消えた。
*
厳しい、冬だった。
西の黄砂と双璧をなして、北の最果てとそこは呼ばれていた。
白雪の絶えぬ頂と、深い漆黒の森。幽玄白色の雲がたゆたう山嶺に、彼女の里はあった。
――北方玄州の果てに、死峰あり。
――かの山は、龍人の住まう地にあらず。
幼い頃から、幾度もそう聞かされて育った。人のみならず、龍も住めないと断言するのだ。この山はよほど、過酷な場所に違いない。
そのとき彼女は里を離れ、深い森の中にいた。
刻限は宵。風花の里と呼ばれる彼女の故郷は、ここから三里ほど後方に控えている。ぶ厚い雪に包まれ、極寒の夜の帳の中で、ひっそりと息を潜めているはずだ……今の、彼女のように。
――下山を許さず、また昇山も許さず。
それが、風花の里の掟だ。
里の存在は、決して外部に漏らしてはならない。ゆえに里の者総出で、こうして『敵』を迎え討とうとしている。
わずかに顎を引き、彼女は前方を睨んだ。
雪林の合間を縫い、ちらちらと多数の松明が行き交っている。本来、ありえない光景だった。
そもそもこの山は、俗世と完全に切り離されている。おとつい武具に混じって届いた地図にも、里の存在はおろか、近隣の山河すら怪しく描かれていた。それだけ秘境の地なのだ。
この霊峰は何者も寄せつけず、だからこそ至高たりえている。孤高の神域には、いかなる部外者の侵入も許さない。
たとえ、それが神代の龍でさえ。
そう、里は長らく平和だったのだ。
この山に、悪しき龍の一団が現れさえしなければ──。
「獄のごとき冬と、法が統べし山。ゆえに名を、獄法山とす」
ごく、小さな声。
白い吐息とともに彼女はつぶやいた。
周囲に潜む同胞から、殺気が放たれる。彼女のつぶやきに拠るものではない。敵に気取られるような声量でもなかった。
長い黒髪の向こう、半ば伏せていた瞼を持ち上げる。あらわになった紅眼で、彼女は濃紺の夜空を仰いだ。
出立時、あれほど酷かった吹雪は止んでいる。白い月が星屑を従え、凍えるような輝きを放っていた。
――さあ、開戦の刻だ。
大気が鋼を帯びる。
精神が研ぎ澄まされる。
感覚が消えた剥き出しの手に、刃を握った。
大丈夫だ、まだ動く。これなら充分戦える。
初撃で滑らないためか、周囲で雪を踏むかすかな音が聞こえた。
左右を一瞥する。討手は皆、女だ。中には年端もいかない童女もいる。龍を相手取った戦いでは大抵、女の方が有利だからだ。
不意に足元の影が消える。
折よく、頭上の月が翳った。
夜闇がぐっと深まり、落ちた樹陰の重みが増す。
――好都合だ。
天も我らに味方したのだろう。
先頭付近で、かすかに金属音がする。
眼を向けると、指南役の姐姐の手に短銃が握られていた。これは指南役の討師にのみ許される得物である。
ちらりと後方を一瞥すると、姐姐は空いた手を上空へ掲げた。
構え、の合図。
腹を据える。冷気を肺に送り、敵陣を睨まえた。
森の木々を伐採したのだろう、眼下の拓かれた空間には、頑丈そうな大ぶりの天幕が点在していた。その周囲には絶えず数名、不寝番の龍が金色の双眸を光らせている。
――神代の龍の子孫。人の姿をした龍。すなわち、人身の龍だ。
龍は皆、金の瞳を持つ。
どれだけ上手く人に化けようと、それだけは変わらない。
獄法山へ侵入した彼らはすべて、里を脅かす悪しき龍だ。
悪しき龍は、討たねばならない。
何故なら我々《わたし》は、龍討師なのだから。
――悪しき龍を、討つ。
決意を固めた時、姐姐の手が宙を切った。
勢いをつけ、雪面を蹴り上げる。
もう、樹陰に身を隠す必要はない。
こちらの手勢はわずか五十、敵は四倍だ。
一刻も早く龍の頭領を見つけ、頸級を刈らねば。
一直線に走る。
降り積もった雪は、急く足音を呑み込んでくれる。
慎重に、しかし迅速に。
月が地上に落とす影のように、不寝番の龍へ迫る。
狙いは見目の若い、男の龍だ。
祖先と比べれば貧弱だが、龍の末裔は異能を具えている。
いざとなれば古の姿に変化し、空を舞い、ときには気象を繰るのだ。
ゆえに、討師が龍を討たねばならない。
彼女が、龍殺を成さねばならなかった。
――、セ、――コ ロセ ――……。
脳裏に響く声に従い、飛刀を三本引き抜く。
柳の葉に似た小さく薄い刃で、複数投擲して使うことができる。
持ち手に凍傷と滑り止めの布を巻き付けたそれを、彼女は利き手に握りしめた。
不寝番の龍は、間近で見れば随分と着膨れていた。
対してこちらの武器は、飛刀のみ。携帯には良いが刃は小ぶりで、殺傷力も低い。斬りつけても衣服に阻まれるだろう。
そうでなくとも、龍は頑健だ。咽喉に刃を突き立てでもしない限り、まず致命傷には至らない。
そう即断し、彼女は息を吸った。
呼気を整える。
見開いた双眸に意識を集中する。
ざわりと全身の皮膚が泡立ち、鼓動が早鐘を打つ。
杯が満たされるような感覚とともに、視界から一切の色彩が消えた。
味気ない墨色の世界で、龍の身体に黄金の光が灯る。綺羅星のような輝きの金糸は瞬きごとに位置を変え、龍の体躯をゆらゆらと漂っていた。
この金色の糸、龍脈こそが龍の弱点。
唯一にして最大の急所だった。
(一撃で仕留めてみせる)
脈を突くため、飛刀を構える。
すると、狙いをつけた不寝番の龍が振り返った。
人にはない金色の眼が、驚愕に見開かれている。
龍は慌てて腰の剣に手をかけようとするが、手遅れだ。
──遅い。勝った。
唇の端が釣り上がる。
暗い愉悦をたたえた刹那、しかし、彼女の足は凍りついた。
寒さで感覚が失せたはずの身体を、鋭い悪寒が駆け抜ける。
ぞくり、と。
頸筋に、生命を脅かす冷気。
龍脈に刃を立てる寸前、彼女は大きく身を翻した。
意志によるものではなく、限りなく反射に近い回避。
ほぼ同時に、鋭く風を裂く音が鼓膜に届いた。
顎下をかすめて刃が過ぎる。
短刀だ。
存外、ぬるい。
回避を見越した投げ方に思える。
──牽制か。
見慣れぬ柄だ、里の短刀ではない。
龍の仲間が、手持ちの武器で妨害を試みたのだろう。
くるりと体転し、雪面に着地する。
集中が途切れ、藍色の夜空に月の光が戻った。風に吹かれ、身に纏った濃茶の古い外套がはためいている。
色彩が識別るということは、開眼が解けた証だ。
この状態で龍脈は視えない。
もう一度、眼を開くか。
わずかな逡巡のうち、ぴりりと頸筋に痛みが走った。
軽く指先を添えて返せば、わずかに血が付着している。
苛立ちから舌を打った。
短刀をかわし損ねたか。
しかし、患部に痺れや違和感はない。この感覚なら毒刃ではないだろう。
戦闘に支障はない。
まだ自分は戦える。
この短刀を投げた龍はどこだ。
新たな敵を求めて彼女は背後を振り返り──そこで、動きを止めた。
──夜の似合う、龍だった。
月がまぶしい。
存外明るい、天を仰ぐ。
月光を弾き、金色の瞳が煌めいている。
眼前に広がる光景に、呼吸も忘れて彼女は魅入った。
銀の髪に、金の瞳。抜けるような白い肌。当世風な欧風の黒い外套に身を包み、人の姿をしたその龍は、月下にたたずんでいた。
知らず、口から小さな吐息がこぼれる。
この光景を。この存在を。
どう表せば、正しく伝わるだろう。
穏やかに地上を照らす、月のような。あるいは輝く星空の下、ひっそりと眠る森のような。白雪のような清らかさと、静謐さを閉じ込めた──誰もいない、夜明けの空のような。
ただただ、胸が震えるほどに美しい。
あれは、
「…………龍?」
つぶやきには疑問符がついた。
月下に浮かぶその姿から、視線を逸らせない。
これは龍だ。金の双眸は龍の証。
常軌を逸した美貌、稀有な銀の髪ではあるが、間違いなく龍である。そして龍討師である彼女にとって、龍殺は容易い。
なのに、畏れを抱くのは何故だろう。
儚く麗しい、そのたたずまいに心が怯んだ。
この龍に、大切な何かをごっそりと持って行かれそうな、そんな莫迦な予感が脳裏を過ぎる。
だが、だから、なんだというのだ……?
…… セ ―― 殺セ、 悪シき 龍 ヲ !
ああ、そうだ、と彼女は思い直した。
あれは悪しき龍だ。
悪しき龍は災いをもたらす。だから殺す。
それは自分に与えられた、大切な『お役目』だ。
(そう、『お役目』を果たさなければ――)
心が定まる。
長い刹那の逡巡が終わる。
飛刀を片手に、彼女は白銀の龍に嗤いかけた。
「こんばんは、龍の御方。貴殿の頸級を頂戴に参上しました」