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「このおれから逃げられるとでも思ったか? 莫迦ばかが」


 漆黒の鬼神がいる。

 美しく妖艶な、夜を思わせる死の化身が。

 その死神は金色こんじきの瞳で黎珠を見下ろし、酷くたのしげにわらっていた。


「舐めんなよ。おれを誰だと思っていやがる」

「ほ……ほくがく、さま……」

「ずっとおれの命を付け狙ってたのは、お前か」

「ち、違います。わ、わたしは北嶽様を、存じ上げません、でした……」


 恐怖で呂律が回らない。

 助けを求めて周囲を見回すが、近くには誰もいない。

 北嶽は汚物でも見るかのように眼をすがめ、くびをかしげた。


「ウンショウも言ってたが、もう少しましな嘘つけねぇのかよ、お前は?」

「う、嘘なんて……決して、ついては……」

「あー、面倒臭めんどうくせぇ。もうこの際なんだっていい。どっちみちお前、長かねぇしな」


 にい、と艶めかしく口角を上げて、北嶽は剣を構えた。


「死ね、女」


 そこから先は、まさに神業だった。

 速い、などというものではない。

 気づけば、眼前にいた。

 銀のが迫ってきた。

 そんな次元の話だ。


 黎珠にとっては、取り返しがつかないほどの後手。

 一寸の躊躇いなく、剣が振り抜かれる。

 本来であれば、必殺の一撃。


 しかし、無防備であったことが逆に黎珠を救った。

 直前の殺意に気圧けおされ、足が後ろにもつれて、尻餅をついていた。

 結果として黎珠の頭上、ちょうどくびがあった位置を剣は通過してゆく。


「ちッ!」


 運のいい奴が。

 そんな苛立ちが聞こえてくる。

 この頃には、さすがに黎珠も復帰していた。

 全神経を足に込め、無我夢中で真横に跳ぶ。

 着地点は考えない。

 とにかく一瞬でも早く、北嶽の剣域を離脱せねば。


「痛ッ」


 左足に痛みが走った。

 足を落とされたか、と刹那の恐怖が湧く。

 それほど、鋭い。


 一瞥した足は予想に反して、まだついていた。

 胸を撫でおろす間もなく、さらなる追撃が迫る。

 逃げきれない。

 飛刀ぶきで応戦するしかない。

 仕方なく飛刀を三本打つが、足止めにもならず剣尖けんさきが黎珠に肉薄した。


「くッ!」


 さばき切れず、苦悶が漏れた。

 急所を守るため、手にした飛刀が弾かれる。


 ──圧倒的な力の差。

 それでも黎珠が生き長らえているのは、ひとえに北嶽の太刀筋が単純だからだった。


 剣術に暗い黎珠が見ても、基本がまるでなっていない。

 明らかに剣の技がつたなく、無駄が多いのだ。

 だから、次の攻撃が簡単に読める。

 にもかかわらず、強い。


(夏楠──)


 祈るような気持ちで北嶽を見る。

 殺意をき出しにした瞳は、まるで羅刹のようだ。

 優しい夏楠の面差しが、見る影もない。


(いけない、この考えは捨てねば。彼は違う。彼は夏楠ではない!)


 奮起し、黎珠は両手に持てるだけの飛刀を北嶽に放った。

 その数、計八本。


「ふん」


 歯牙にもかけぬ顔で、北嶽は息を吐く。

 直後、無造作な刃の軌跡が宙に描かれた。

 幼く粗削りで、技巧の欠片かけらも感じられない。

 だが、黎珠の飛刀はことごとく地面へ叩きつけられた。


 その剣筋を見て、黎珠は彼の強さの根源を理解した。

 北嶽かれは、やはり剣を学んでいない。我流だ。技術だけならば、ウンショウの方がはるかに上だろう。

 しかしその差を補い、凌駕し、君臨する彼の絶対的な強さは、その身体能力にあった。


 わずか数尺の至近距離で、黎珠が放った飛刀は八本。

 北嶽は投擲後の始動で、まるで塵を払うように、八方向からの攻撃を防いだのだ。


(これはきっと、努力ではない)


 直感的に、黎珠は見抜いた。

 生まれ持った資質、天賦てんぷの才だけで彼は戦っている。そして技量はなくとも、命のやり取りに関し、極めて慣れている。これは生きるために数多あまたの戦場を駆け、己の力のみで鍛えた剣。思考の前に、本能として身体に沁み込ませた動きなのだ。


 ──技巧なきゆえに、攻撃は読みやすい。


 にもかかわらず、戦況は極めて厳しかった。

 こちらが打つ手は回を重ねるごとにさばかれ、斬り込まれる。

 もはや、時間稼ぎもままならない状況だ。


 じくりと臓腑が収縮する。

 死が鮮やかに、脳裏をちらつく。

 それは彼と対峙した者だけが垣間見る、才華なのだろう。

 汗ばむ手で飛刀が滑り落ちそうになるのを、必死で耐えた。


(……やむを得ない)


 黎珠は再び、眼を開いた。

 視界から色が消え、濃淡のみの世界が誕生する。

 その中央で立ちはだかる北嶽を視て、黎珠は息を呑んだ。


(なんて強く、あでやかな龍脈……)


 それは、全身に黄金を纏ったかのような輝きだった。

 この龍脈の鮮烈さは、他に類を見ない。

 どこまでも生命力にあふれ、強く、しなやかで美しい。

 それこそ──どこへ飛刀を打ち込んでも、急所を外さぬほどに。


 先ほどの鮮血が、まぶたに蘇る。

 朱く染まった、白の戎装じゅうそうが。


 ──()()を、彼に対してやれというのか。


 迷いが動作に伝播する。

 それを逃さず、北嶽の剣が閃いた。

 ぎりぎりまで龍脈を突くことを迷い──それで、時間切れになった。

 思わず眼をつむる。


〈──よせ!〉


 小さく、憶えのある声が聞こえた気がした。

 直後、太い金属音が周囲に鳴り響く。

 覚悟していた衝撃は、いっこうに訪れない。

 黎珠がまぶたを上げると開眼は解け、見上げた空には色彩が戻っていた。


 青空の中、銀のが回転し、陽光を弾いている。

 それが折れた剣尖けんさきだとわかるまで、少し時間がかかった。

 ふと横を見ると、背にした石壁に大きな亀裂が走っている。

 これに剣を打ちつけ、誤って折ってしまったらしい。


「チッ!」


 北嶽は舌を打ちながら、折れた剣を捨てる。

 続いて、別の剣を抜く音が聞こえた。

 予備のつるぎだ。

 顔を上げ、振り上げられた剣を見つめる。

 そこで黎珠は、信じられないものを発見した。


「黒影殿!」

「なッ!?」


 その呼びかけに北嶽が驚愕するが、黎珠はそれどころではない。

 よく見ると北嶽の黒影は、記憶の黒影と少し、装飾が異なっていた。

 つかに取り付けられた房──剣穂けんすいなどが外され、簡素化してしまっている。全体として手入れもされておらず、色はくすみ、かなり汚れが目立っていた。


 しかし、研ぎ澄まされた漆黒の剣身には、寸分の違いもない。

 心が震えるほど鋭利で美しいその刃は、決して見間違えようがなかった。


「なッ、お前、今……」

「黒影殿、わたしです、黎珠です! お願いします、どうか北嶽様に、わたしのことを証言してください!」

〈────ッ!?〉


 黎珠の懇願に、黒影が息を呑んだような気がした。

 そこへ覆いかぶせるように、北嶽の罵声が飛ぶ。


「おい! たかが人間風情が、なんでこいつのことを知ってる! 『キキミミ』をお前に教えた奴は、どこのどいつだ!?」

「き、キキミミ……?」

「だから、なんでお前に、こいつの声が聞こえんだよ! 人間にキキミミの力があるわけ──」

「待て、北嶽!」


 激高する北嶽に、背後から制止が飛ぶ。

 声の主は、龍兵を多数引き連れて現れた、西嶽だった。驚くことに、彼は兵を置いて足早に近づくと、黎珠の前に立つ北嶽に耳打ちした。


「そこまでだ。ここは見物客が多い」

「西嶽、御託はあとだ。この女、こいつに向かって話しかけやがった!」


 確かに、兵にほかにも野次馬が集まっている。だが戦闘で感情が昂ぶっているのか、北嶽が素直に応じる気配はない。

 西嶽は後ろに視線をやりながら、さらに北嶽に言い連ねた。


「わかってる。僕も聞いたよ。まあ、そうくな。この娘のくびを落とす機会なんて、あとでいくらでもあるだろ?」

「はん、冷静なこった。ウンショウをられて、その台詞かよ? あいつも浮かばれねぇな」


 北嶽が茶化すと西嶽は打って変わり、鋭利な双眸を彼に向けた。若い容姿にそぐわぬ重厚な旋律で、北嶽のげんを否定する。


「勝手に殺すな。死んでなぞおらん。医官いしゃに診せたが、あれは見ためほど深い傷じゃあない」

「ほー。そりゃ良かったな」

「良かった……」


 北嶽のあとに呟いた黎珠に、西嶽は優しげな笑みを送った。

 しかし、それは氷の微笑だ。彼の態度は一貫して柔和だが、どうしても安堵ができない。穏やかでありながら酷薄に見えるその笑みは、知性に裏打ちされているぶん、底の知れないものがあった。


「ウンのことより、自分の身を心配をすることだ。お前には色々ときたいことがあるからね」


 西嶽が片手で合図すると、一団から数名の兵が前に歩み出た。そこに動揺は見られない。立て直しの早さが、指揮官の優秀さを示している。恐らく、西嶽の采配だろう。


 ざっと見渡しただけでもそれなりの数を割き、慎重に対応しているのが見て取れる。集まった兵の練度も高い。さすがにこの包囲網は突破できない。


 うなだれる黎珠に、もはや脅威なしと判断した北嶽が剣を収める。

 龍兵と入れ替わるように西嶽は後退し、


「衛兵、この女を捕らえよ。だが決して殺すな。我が名においた命だ」


 少年のものとは思えない、酷く威厳に満ちた声がめいじた。


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