17
「このおれから逃げられるとでも思ったか? 莫迦が」
漆黒の鬼神がいる。
美しく妖艶な、夜を思わせる死の化身が。
その死神は金色の瞳で黎珠を見下ろし、酷く愉しげに嗤っていた。
「舐めんなよ。おれを誰だと思っていやがる」
「ほ……ほくがく、さま……」
「ずっとおれの命を付け狙ってたのは、お前か」
「ち、違います。わ、わたしは北嶽様を、存じ上げません、でした……」
恐怖で呂律が回らない。
助けを求めて周囲を見回すが、近くには誰もいない。
北嶽は汚物でも見るかのように眼を眇め、頸をかしげた。
「ウンショウも言ってたが、もう少しましな嘘つけねぇのかよ、お前は?」
「う、嘘なんて……決して、ついては……」
「あー、面倒臭ぇ。もうこの際なんだっていい。どっちみちお前、長かねぇしな」
にい、と艶めかしく口角を上げて、北嶽は剣を構えた。
「死ね、女」
そこから先は、まさに神業だった。
速い、などというものではない。
気づけば、眼前にいた。
銀の刃が迫ってきた。
そんな次元の話だ。
黎珠にとっては、取り返しがつかないほどの後手。
一寸の躊躇いなく、剣が振り抜かれる。
本来であれば、必殺の一撃。
しかし、無防備であったことが逆に黎珠を救った。
直前の殺意に気圧され、足が後ろにもつれて、尻餅をついていた。
結果として黎珠の頭上、ちょうど頸があった位置を剣は通過してゆく。
「ちッ!」
運のいい奴が。
そんな苛立ちが聞こえてくる。
この頃には、さすがに黎珠も復帰していた。
全神経を足に込め、無我夢中で真横に跳ぶ。
着地点は考えない。
とにかく一瞬でも早く、北嶽の剣域を離脱せねば。
「痛ッ」
左足に痛みが走った。
足を落とされたか、と刹那の恐怖が湧く。
それほど、鋭い。
一瞥した足は予想に反して、まだついていた。
胸を撫でおろす間もなく、さらなる追撃が迫る。
逃げきれない。
飛刀で応戦するしかない。
仕方なく飛刀を三本打つが、足止めにもならず剣尖が黎珠に肉薄した。
「くッ!」
捌き切れず、苦悶が漏れた。
急所を守るため、手にした飛刀が弾かれる。
──圧倒的な力の差。
それでも黎珠が生き長らえているのは、ひとえに北嶽の太刀筋が単純だからだった。
剣術に暗い黎珠が見ても、基本がまるでなっていない。
明らかに剣の技が拙く、無駄が多いのだ。
だから、次の攻撃が簡単に読める。
にもかかわらず、強い。
(夏楠──)
祈るような気持ちで北嶽を見る。
殺意を剥き出しにした瞳は、まるで羅刹のようだ。
優しい夏楠の面差しが、見る影もない。
(いけない、この考えは捨てねば。彼は違う。彼は夏楠ではない!)
奮起し、黎珠は両手に持てるだけの飛刀を北嶽に放った。
その数、計八本。
「ふん」
歯牙にもかけぬ顔で、北嶽は息を吐く。
直後、無造作な刃の軌跡が宙に描かれた。
幼く粗削りで、技巧の欠片も感じられない。
だが、黎珠の飛刀はことごとく地面へ叩きつけられた。
その剣筋を見て、黎珠は彼の強さの根源を理解した。
北嶽は、やはり剣を学んでいない。我流だ。技術だけならば、ウンショウの方がはるかに上だろう。
しかしその差を補い、凌駕し、君臨する彼の絶対的な強さは、その身体能力にあった。
わずか数尺の至近距離で、黎珠が放った飛刀は八本。
北嶽は投擲後の始動で、まるで塵を払うように、八方向からの攻撃を防いだのだ。
(これはきっと、努力ではない)
直感的に、黎珠は見抜いた。
生まれ持った資質、天賦の才だけで彼は戦っている。そして技量はなくとも、命のやり取りに関し、極めて慣れている。これは生きるために数多の戦場を駆け、己の力のみで鍛えた剣。思考の前に、本能として身体に沁み込ませた動きなのだ。
──技巧なきゆえに、攻撃は読み易い。
にもかかわらず、戦況は極めて厳しかった。
こちらが打つ手は回を重ねるごとに捌かれ、斬り込まれる。
もはや、時間稼ぎもままならない状況だ。
じくりと臓腑が収縮する。
死が鮮やかに、脳裏をちらつく。
それは彼と対峙した者だけが垣間見る、才華なのだろう。
汗ばむ手で飛刀が滑り落ちそうになるのを、必死で耐えた。
(……やむを得ない)
黎珠は再び、眼を開いた。
視界から色が消え、濃淡のみの世界が誕生する。
その中央で立ちはだかる北嶽を視て、黎珠は息を呑んだ。
(なんて強く、あでやかな龍脈……)
それは、全身に黄金を纏ったかのような輝きだった。
この龍脈の鮮烈さは、他に類を見ない。
どこまでも生命力にあふれ、強く、しなやかで美しい。
それこそ──どこへ飛刀を打ち込んでも、急所を外さぬほどに。
先ほどの鮮血が、瞼に蘇る。
朱く染まった、白の戎装が。
──あれを、彼に対してやれというのか。
迷いが動作に伝播する。
それを逃さず、北嶽の剣が閃いた。
ぎりぎりまで龍脈を突くことを迷い──それで、時間切れになった。
思わず眼をつむる。
〈──よせ!〉
小さく、憶えのある声が聞こえた気がした。
直後、太い金属音が周囲に鳴り響く。
覚悟していた衝撃は、いっこうに訪れない。
黎珠が瞼を上げると開眼は解け、見上げた空には色彩が戻っていた。
青空の中、銀の刃が回転し、陽光を弾いている。
それが折れた剣尖だとわかるまで、少し時間がかかった。
ふと横を見ると、背にした石壁に大きな亀裂が走っている。
これに剣を打ちつけ、誤って折ってしまったらしい。
「チッ!」
北嶽は舌を打ちながら、折れた剣を捨てる。
続いて、別の剣を抜く音が聞こえた。
予備の剣だ。
顔を上げ、振り上げられた剣を見つめる。
そこで黎珠は、信じられないものを発見した。
「黒影殿!」
「なッ!?」
その呼びかけに北嶽が驚愕するが、黎珠はそれどころではない。
よく見ると北嶽の黒影は、記憶の黒影と少し、装飾が異なっていた。
柄に取り付けられた房──剣穂などが外され、簡素化してしまっている。全体として手入れもされておらず、色はくすみ、かなり汚れが目立っていた。
しかし、研ぎ澄まされた漆黒の剣身には、寸分の違いもない。
心が震えるほど鋭利で美しいその刃は、決して見間違えようがなかった。
「なッ、お前、今……」
「黒影殿、わたしです、黎珠です! お願いします、どうか北嶽様に、わたしのことを証言してください!」
〈────ッ!?〉
黎珠の懇願に、黒影が息を呑んだような気がした。
そこへ覆いかぶせるように、北嶽の罵声が飛ぶ。
「おい! たかが人間風情が、なんでこいつのことを知ってる! 『キキミミ』をお前に教えた奴は、どこのどいつだ!?」
「き、キキミミ……?」
「だから、なんでお前に、こいつの声が聞こえんだよ! 人間にキキミミの力があるわけ──」
「待て、北嶽!」
激高する北嶽に、背後から制止が飛ぶ。
声の主は、龍兵を多数引き連れて現れた、西嶽だった。驚くことに、彼は兵を置いて足早に近づくと、黎珠の前に立つ北嶽に耳打ちした。
「そこまでだ。ここは見物客が多い」
「西嶽、御託はあとだ。この女、こいつに向かって話しかけやがった!」
確かに、兵にほかにも野次馬が集まっている。だが戦闘で感情が昂ぶっているのか、北嶽が素直に応じる気配はない。
西嶽は後ろに視線をやりながら、さらに北嶽に言い連ねた。
「わかってる。僕も聞いたよ。まあ、そう急くな。この娘の頸を落とす機会なんて、あとで幾らでもあるだろ?」
「はん、冷静なこった。ウンショウを殺られて、その台詞かよ? あいつも浮かばれねぇな」
北嶽が茶化すと西嶽は打って変わり、鋭利な双眸を彼に向けた。若い容姿にそぐわぬ重厚な旋律で、北嶽の言を否定する。
「勝手に殺すな。死んでなぞおらん。医官に診せたが、あれは見ためほど深い傷じゃあない」
「ほー。そりゃ良かったな」
「良かった……」
北嶽のあとに呟いた黎珠に、西嶽は優しげな笑みを送った。
しかし、それは氷の微笑だ。彼の態度は一貫して柔和だが、どうしても安堵ができない。穏やかでありながら酷薄に見えるその笑みは、知性に裏打ちされているぶん、底の知れないものがあった。
「ウンのことより、自分の身を心配をすることだ。お前には色々と訊きたいことがあるからね」
西嶽が片手で合図すると、一団から数名の兵が前に歩み出た。そこに動揺は見られない。立て直しの早さが、指揮官の優秀さを示している。恐らく、西嶽の采配だろう。
ざっと見渡しただけでもそれなりの数を割き、慎重に対応しているのが見て取れる。集まった兵の練度も高い。さすがにこの包囲網は突破できない。
うなだれる黎珠に、もはや脅威なしと判断した北嶽が剣を収める。
龍兵と入れ替わるように西嶽は後退し、
「衛兵、この女を捕らえよ。だが決して殺すな。我が名においた命だ」
少年のものとは思えない、酷く威厳に満ちた声が命じた。