16
「誰だ? お前」
鋭い眼光に射竦められる。
その顔立ちは、記憶にある夏楠そのものだ。金の瞳も、背格好も、齢の頃も同じ。
ただ、髪の色だけが違う。
夏楠は白銀。
彼は漆黒だ。
「…………かな、ん? わたし、は──」
声が出ない。舌がもつれる。
続けようとした言葉も、放たれる凄まじい殺気によって阻まれた。
臆病な心が怯む。
現実を直視できない。
彼の眼が、声が、身に纏う空気が、雄弁に語るのだ。
いまだかつてない、鮮烈で明確な殺意を。
ほかでもない、夏楠の姿かたちで。
いや、彼は──夏楠ではない。
「あ……わ、わたし……」
このままではいけないと本能が告げる。しかし、何を言えばいいのか。頭の中は真っ白で、弁明の一つも思い浮かばない。
数歩、後退る。
いつの間にか、黎珠の周囲は潮が引くように民衆が消えていた。起立しているのは、黎珠のみだ。ほかの者は皆、同胞である龍ですら跪拝の礼を取っている。遠巻きに黎珠を囲み、まるで異物を見るかのような視線が注がれていた。
──怖い、と思う。
前後左右から突き刺さる、民の視線が怖い。不気味で、恐ろしい。
この段になって、黎珠は自身の置かれた状況を理解した。
ここは、街の大通りだ。
黎珠以外の者は、その全員が跪いている。
護衛と思しき龍兵すら、牛車へ向けてかしずいている。
黎珠だけだ。
黎珠だけが、直立不動。
これから果し合いでもするかのように、夏楠に似た龍と対峙していた。
「ホクガク様、ご無礼つかまつります!」
朗々とした声が、凍結していた大気を割った。
大柄な影が、その体躯に反してするりと両者の間に滑り込む。
褐色の肌というものを、黎珠は生まれて初めて目の当たりにした。赤みがかった黒髪に、金の瞳。その身には白の戎装。顔は鼻頭を横切るように、刀剣の傷痕が走っている。そのせいか、無骨で精悍な印象を受けた。肩幅が広く、筋肉質で上背もある男は、人の齢で三十後半ほどか。
端的に言えば、夏楠と対極の龍だった。
黎珠の知る、あの、優しい夏楠と。
(このままでは、いけない)
殺気を呼び水として、徐々にいつもの判断力が戻った。
褐色の龍はこちらに敵意を向けるものの、すぐに何かをする気配はない。黎珠は改めて、黒髪の夏楠──ホクガク、と呼ばれた龍に意識を向けた。
(ホクガク……聞き憶えが……)
──これで北嶽様の宮に帰れます。
そうだ、ホクガク──北嶽。
あのとき李が綴っていた呼称。彼が、北嶽公なのだ。
そうしてよくよく見れば、瓜二つに見えた北嶽は髪の色だけでなく、その長さや服装など、要所に夏楠と差異があった。
夏楠は短髪だったが、彼は長髪だ。北嶽は腰まで届く長い黒髪を編んで、背に垂らしている。衣装も古式ゆかしい、豪奢な黒の戎装だった。夏楠は当世風な軽装を好んでいたので、この点も異なる。
顔が酷似していたとはいえ、何故、彼を夏楠と思い込んでしまったのか。
少なくとも、髪色は夏楠と明らかに違っていたはずなのに。
「控えよ、そこな人の娘! 頭が高いわ!」
褐色の肌の龍に雷のような怒号を落とされ、黎珠は身をすくませた。
「黙っておれば、見るに耐えぬ無礼の数々! 貴様、こちらにおわす御方をどなたか知っての所業か!? 北方玄州を賜りし、北天北嶽公にあらせられるぞ!」
「も、申し訳ありません。わたし、夏楠という名のよく似た龍と、見間違いをしてしまいまして……」
恐る恐る、弁明を試みる。
すると、黎珠の発言を耳にした者は皆、愕然とした表情を露わにした。
また、何かまずいことをしたらしい。だが、今の会話の何がいけなかったのか、わからない。
こちらが動揺しているうち、堪忍袋の緒が切れたとばかりに、褐色の龍の恫喝が降り注いだ。
「もっとましなしらを切れんのか、この無礼者めが!」
「莫迦か? こいつ」
怒る褐色の龍に対し、あきれたように北嶽が鼻を鳴らした。
侮蔑しか見いだせない怜悧な声に、夏楠の面影はない。
誰だと問われたときよりも、この蔑みの方が黎珠には深く突き刺さった。
「なぁんか面白いことになってるじゃないか。ねえ、僕にも見せておくれよ」
さらに続けて、場の空気に不釣合いな明るい声が響く。
直後、純白の長袍に大きな丸眼鏡をかけた少年が、牛車の奥からひょこりと顔を出した。
金の眼で、彼も龍だ。先の大柄な龍と同じく、髪は焦茶で肌は褐色。外見は黎珠より一つか二つ年下に見える、華奢な少年だ。やや大きめの眼鏡が、整った顔立ちによく似合っていた。
頭上にいただく冠と、ひときわ豪華な白い衣装。品の良い物腰を見る限り、彼も相当身分が高いように思える。
「わーお、直立不動だよ。玄州って、人に寛大な州なんだねぇ」
「違ぇよ、あの人間が発狂れてんだ」
少年の無邪気な言葉を、北嶽がすげなく否定する。
しかしその会話で、彼らの出自が知れた。褐色の肌の龍たちは、玄州を訪れた他州の龍なのだ。だから髪と、肌の色が異なるのだろう。
少年は好奇心丸出しの笑顔で黎珠を指差し、北嶽に訊ねた。
「ねえ北嶽、ほんとにあの人間に憶えはないの?」
「ねぇよ。ただの気狂いだ。大方、阿片かなんかで飛んじまったんだろ」
気がふれていると思われているらしい。
黎珠は慌てて、釈明のために声を上げた。
「ち、違います、誤解です! わたしはただ、夏楠という名の龍を──」
「救いようがないな。これまでか。セイガクコウ?」
大柄な褐色の龍が、主君と思しき眼鏡の龍に伺いを立てる。
この少年は、セイガクコウというらしい。
その音で、李の記した文字を思い出した。
──今は白州の西嶽公との会合で、洛邑にいらしてるんです。
彼が、西嶽公。
はるばる白州から玄州を訪れた、白州龍なのだ。
「ウンショウ、ここは玄州だぞ? 了承を得るなら僕じゃなくて、北嶽だ。ということで、いいかい北嶽?」
大柄な龍改め、ウンショウをたしなめて、西嶽は北嶽に問う。
夏楠と似て非なる声音は、すぐさま命を下した。
「頸を刎ねろ」
即断で、即答だった。
ひっ捕らえろ、などという境界を、とうに自分は越えてしまったのだ。
西嶽は「あ、そう? やっぱり」とあっけらかんと納得し、ウンショウに顎をしゃくった。
「じゃ、そーゆうわけで。ウン、よろしく」
「御意」
西嶽に起礼すると、ウンショウは改めて黎珠に向き直った。
直後、制止する間もなく剣を抜かれ、横薙ぎの斬撃に見舞われる。
(速い!)
が、これならまだ対処できる。
黎珠は紙一重で躱し、間合いを取った。
やや大振りだが、堅実な太刀筋である。
逃げ遅れた髪が数本、ふわりと宙を舞った。
「その身ごなし──貴様、ただの奴婢ではないな? どこの手の者だ。何故、北嶽様を辱めた?」
服装のせいだろう、彼も黎珠を、どこぞの龍の僕と判断したらしい。
「そんなつもりは毛頭ございません! 先ほどから何度も申し上げています! わたしはただ、夏楠という名の龍を捜しているだけで──」
「ちっ。やはり埒はあかんか」
おかしい。
会話がまったく噛み合わない。
このままでは、本当に殺されてしまう。
「往生するがいい、人の娘。全なる龍を侮辱したこと、死して償え」
もう、覚悟を決めるしかない。
腹を括り、黎珠は懐から飛刀を取り出して構えた。
「ふっ。そんな玩具で龍に対抗する気か? 小娘の力では、皮膚を裂くこともかなわんぞ」
「それは、やってみなければ、わかりません」
「ふん。弱い犬ほどなんとやらとは、よく言ったものだ」
完全に見くびられているが、かえって好都合だ。
多勢に無勢のこの状況ではむしろ、警戒される方が厄介である。
手柄をウンショウに譲るためか、いつの間にか黎珠を囲んでいた他の龍兵に、動く気配はない。面白半分な様子で、事態を傍観している。
ここまで包囲されて気づかないとは、自分は相当に動転していたのだな、と改めて猛省した。
(悔やんでも仕方ない。この機に乗じ、血路を開くしか──)
その前にもう一度だけ、と自分に言い聞かせて、黎珠は北嶽を盗み見た。
彼は不機嫌そうに腕を組み、冷ややかにこちらを睥睨している。
ちくり、とまた胸の奥が痛んだ。
「どこを見ている。行くぞ」
ウンショウの斬撃が迫る。
一撃目は回避し、二撃目はいなした。
やはり龍だ、力が凄まじい。
剣筋を逸らすだけで精一杯だ。
華奢な飛刀では、まともに受けられない。
武器ごと斬られかねないし、腕力に差があり過ぎる。
「おのれ、ちょこざいな!」
剛剣が唸りを上げる。
素早さは黎珠が上だが、腕力や体力はウンショウが上だ。
黎珠の疲労が足に届けば、即座に敗北してしまう。
その前に、手を打つしかない。
考えるそばから、袈裟懸けに剣が振り下ろされた。
軌道を読んで逸らした剣の切っ先が、頬をかすめる。
一息つく間もなく、返し刃が頸を襲う。
それを、ぎりぎりで避けてやり過ごした。
予想以上に、技の切れが良い。
深く思考を巡らす暇がない。
(ここは、開眼を!)
──眼を開く。
色が落ち単色となった視界に、金の龍脈が出現した。
もっとも輝きの濃い場所は右上腕部だが、この部位を突けばウンショウは即死してしまうはずだ。
(無益な殺生はしたくない。足止めができればいい)
急所を避け、もっとも龍脈が薄い箇所へ飛刀を打ち込んだ。
通常は人の、それも女の攻撃などで、龍は負傷しない。
ゆえにウンショウは躱しもせず、黎珠に肉薄し、
──びしゃ、と顔面に鮮血が飛び散った。
開眼が解ける。
「────え?」
黎珠はその場で立ち尽くしたまま、眼前で傾いてゆく巨体を眺めた。
どす、という重量感ある音とともに見晴らしが良くなり、視線の先に牛車が見えた。
眼を落とすと、両手が血で赤い。
足元に伏すウンショウの白い戎衣が、みるみるうちに朱く染まってゆく。
「────……がはッ……」
地面に鮮やかな血の塊が吐き出される。
青褪めた西嶽が叫んだ。
「ウンショウッ‼」
「はッ! あの女、やるじゃねぇか。面白い!」
鋭い殺意を全身から放ち、牛車から跳び降りた北嶽が剣を抜く。
その剣身は漆黒ではなく、ごく普通の銀色だった。
「ひっ……う、ウンショウ様が……ッ」
黎珠を囲む龍兵はこちらに襲いかかるどころか、戦意を失い後退する。
──違う、と。
黎珠はゆるゆるとかぶりを振り、一歩龍兵に近づいた。
「ち、ちがッ……わ、わたしは、そんなつもりでは――」
「ひぃっ! くっ、来るな! まだ死にたくないッ‼」
龍兵の命乞いを機に、場は騒然となった。
黎珠を中心として、ざあっと人龍が慄き、離れる。
血塗れの黎珠と血に染まるウンショウを残し、囲む輪が広がる。
ただただ、怖かった。
血に染まる白い戎衣から、眼が離せない。
あんなに血が出ている、早く手当てしなければと思うのに、身体が動かない。
全身に突き刺さる、恐怖に見開かれた視線に足が凍る。
それはもはや、人を見る眼ではなかった。
──足止め、などと。
甘い考えにもほどがある。
龍討師が持つ力は、そんな生易しいものではなかったのだ。
「どけッ、邪魔だ! 使えねぇ腰抜けどもが!」
突き抜けるような怒声が、黎珠を覚醒させた。
見れば北嶽が、逃げ惑う龍兵を押しのけ、近づいてくる。
彼は──彼だけは、駄目だ。
戦えない。絶対に。
脇目も振らず、黎珠は大通りから逃げ出した。
全速力で駆けながら、龍討師という存在について思った。
ほんのわずか。
龍脈をかすっただけで、あの殺傷力。
あれほど容易に、命を奪えるものなのだ。
あんな、赤子の手をひねるような、容易さで。
涙がこぼれる。
泣きながら、本当に今さらながら、黎珠は過去の言動を悔やんだ。
(なんて……なんてわたしは、安易に命を扱っていたのだろう)
終わらせてしまう罪深さを、知りもせずに。
ああ、だからだ。
だからあのとき、夏楠は手を上げなかった。
考えを改めるよう、何度も黎珠を説き伏せたのだ。
だから、だから、あんなにも──。
「往生しろ、女」
憶えのある、美しい声に呼び止められた。
行く手は高い壁に囲まれている。気づけば、黎珠は袋小路に迷い込んでいた。
繰り人形のように、ぎこちなく背後を振り返る。
悪夢のような光景がそこにはあった。