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『武邑県の層雲宮は、今から三十年くらい前の名前と聞いています。今は洛邑らくゆうと言います。室郡(しつぐん)洛邑県(らくゆうけん)斜陽宮しゃようきゅうです。名前が変わったんです』


 洛邑県の斜陽宮?

 三十年前? 名前が変わった?

 断片的な文字の羅列が、まるで理解を得られぬまま空転する。


「で、では、夏楠……天麗公という名に聞き覚えはないですか?」


 たどたどしい黎珠の問いに、李は少し考える素振りを見せてから答えた。


『〝カナ〟も〝テンレイコウ〟も、ぼくは知りません。でも、もしかしたらテンレイコウは、天武さまのことじゃないでしょうか? あの方は天河てんがさまとか天理てんりさまとか、呼び名がいっぱいあったから』


 それだ。

 テンブコウの〝テンブ〟は、やはり〝天武〟と書くようだ。


「そうです、天武様です! その方は、今どこに!?」

『天武さまは、二十年ほど前にお亡くなりになりました』


 瞬間、目の前が真っ暗になった。

 比喩ではなくつかの間、本当にそう感じたのだ。


「亡く、なった……? 二十年前に?」


 愕然がくぜんと呟く。

 李は躊躇ためらいがちに、こくりと頷いた。

 まさか。信じられない。だが、李が嘘をついているようにはとても見えない。


「そんな……でも……ついさっきまで、わたし──」


 舌が回らない。

 そんな莫迦ばかな、と思う。

 しかし、この状況は、()()()()()()()()()()()

 心当たりは、層雲宮で崖から落ちたとき──恐らく、黎宝珠が引き金だろう。しかしそんな超常的なことが、たかが頸飾くびかざり一つで起こるだろうか。


 いや、決めつけるのはまだ早い。

 それに夏楠が不在なら、頼れる者はもう一名、いるではないか。


「では、孝燕という名に憶えは? 彼は、天武公とともにいたはずです」


 黎珠がくと、李は見るからに硬く表情をこわばらせた。筆を持った手がかすかに震えている。


 ……何か、まずいことを聞いてしまっただろうか。


 黎珠は声をかけようとしたが、李が先に筆を滑らせた。

 先ほどよりも少し、乱れた字で、


『その龍も、五年前に死にました』


 絶望的な返答がなされた。

 かすかな希望の糸が、音を立てて引き千切れる。

 これで本当に、独りきりになってしまった。


(これからどうする? どうすればいい?)


 精神に起因した息苦しさが込み上げてくる。

 頼れる者はいない。見知った者もいない。訳のわからない場所に、単身取り残されて。


 そこまで考えて、唐突に思い至った。

 自分は今まで、独力ひとりで生きた経験がない事実に。


 獄法山では、里の方針に従うだけで暮らすことができた。層雲宮では、夏楠や孝燕にずっと守られていた。

 引き離され、追いやられ、初めてそのありがたみを自覚できたのだ。


(気づけたのなら、もう、頼ることから脱却しなければ)


 気持ちを奮い立たせる。

 誰かに依存しなければ生きられないなど、まるで小童こどもではないか。情けない。

 自分の足で、きちんと立たなければ。考えなければ。自分はもう、里の傀儡かいらいではないのだから。


 息を吸い、心を落ち着ける。思考を総動員する。

 急変した世界と、語られた話から推測するに──信じがたいことだが、『黎珠の時代から二十年以上(のち)の世に移動してしまった』と仮定し、動くしかないだろう。原理はわからないが、恐らく黎宝珠の頸飾くびかざりの力で飛ばされたのだと思う。


「すみません、天武公や孝燕殿が亡くなった経緯について、詳しく聞いても?」

『ごめんなさい。詳細はあまり』

「そうですか、わかりました。教えてくれてありがとうございます、李君」


 ぎこちないながらも礼を述べる。

 すると、李はまた何かを書き付けて黎珠に見せた。


『天武さまについて調べてるなら、まずは洛邑の邑城ゆうじょうに入ったらどうでしょう? 洛邑は天武さまが治めてた地ですし、このあたりは危ないから、離れた方がいいです。おねえさん、龍のあるじの方は近くにいませんか?』

あるじですか」


 どうやら李は、黎珠を龍付きの従者と勘違いしているらしい。しかし結局のところ、今の黎珠に主君は不在だ。色々な意味で。


「主はいませんが……」


 言いつつかぶりを振ると、少し考えてから李は筆を走らせた。


『だったら、塀の中までぼくがご案内します。邑城の中は龍のみやこだから、主のいない人間は中に入れないんですけど。ぼくの通行手形があれば、おねえさんは身なりがいいから、いっしょに関門を通れます』

「そうなのですか! 大変助かります、ありがとうございます‼︎」


 城内に入れば、詳しくこの状況について調べられるかもしれない。

 猛烈な勢いで礼を言うと、李はにこりと満面の笑顔を黎珠に向けた。


 ふとその顔に、既視感を覚える。

 以前、似た者に、どこかで会ったような……。


「?」


 不思議そうにこちらを見上げる李に、黎珠は笑みを返した。

 すぐに思い出せないものは仕方ない。寝不足の頭で考えても、時間を浪費するだけだ。先を急ごう。


「いいえ、なんでもありません。入城の手続き、どうぞよろしくお願いします」


 そう言って、黎珠は李に深々と頭を下げた。





 ほどなく、黎珠と李は洛邑の関門に辿り着いた。

 真新しい朱塗りの柱や緻密な彫刻など、周辺の貧しさが嘘のような、立派な門構えである。


 ひと目見て、黎珠は気づいた。関門が層雲宮のはずれにあったあの門に、よく似ていることに。門扉に三本爪の龍の彫刻があるところなど、瓜二つだ。だが、こちらは門の大きさがやや小ぶりなので、あの門そのものではない。


 関門には見るからに練度の低そうな龍兵が二名、番に着いている。欠伸あくびを連発しているあたり、相当暇なのだろう。


 手形を取り出すと、李は慣れた様子で門衛に歩み寄った。今回は別の龍だが先ほどの一件もあるため、やや緊張して黎珠は成り行きを見守った。


「ああ、お前か」


 顔見知りらしく、門衛の龍は手形を受け取ると、ろくに見もせず李に押し返した。


「今回の物は?」


 李は、ふところから出した紙袋を門衛に差し出す。彼が身を丸めて守っていたのは、この袋だろう。門衛が中を改める。ちらりと背後から見ると、大ぶりの切干甘藷ほしいもが入っていた。


「こんな豚の餌を喰うたぁ、さすが欠子だな」


 門衛の嘲笑にも顔色を変えず、李は続けて黎珠を指し示す。門衛は「ああ」と気のない返事をして手招いた。


「そいつはヌヒか。入れ」


 身元の確認も何もない。

 そうして黎珠と李は、あっさりと関門をくぐり抜けた。黎珠としては願ったり叶ったりだが、あまりのざる具合に若干心配になる。


 あの龍、後々叱責を受けるのではなかろうか。これが里なら、鞭百叩きの刑が確定だ。

 黎珠が門衛の今後について考えていると、かたわらの李にそでを引かれた。


『ここは洛邑のはしっこなので、大通りまでご案内します』


 それはありがたい。李の申し出に甘えさせてもらおう。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 改めて周りを見ると、塀の中はさすがに環境が一変していた。まず、街道が清潔だ。ごみがない。連なる建物も立派で、ときおり行き交う龍も皆、良い身なりをしている。人も少数だが、小綺麗な恰好で道を歩いていた。


 連れ立って歩きながら、黎珠は先ほどの門衛の言葉を思い出し、李にたずねた。


「李君、ヌヒとは何か教えてもらえますか?」

奴婢ぬひは、龍の所有物として扱われる人間のことです。が男の人で、が女の人、合わせて奴婢と言います』


 なるほど、奴隷のようなものか。


「では、カン奴婢は?」

官奴婢かんぬひは、一般の龍じゃなくて、官僚に使える奴婢のことです。つかえている龍が偉いほど、官奴婢の位も高くなります』

「そうなのですか。ありがとうございます、李君。大変勉強になりました」


 黎珠が頭を下げると李は照れたように頬を赤らめて、顔を伏せた。照屋てれやさんである。

 黎珠としては、若干十二歳でこれだけ立派な立ち居振る舞いができる李は、かなり聡明な龍だと思うのだが。


 大通りに出ると、黎珠は再び李に頭を下げ、感謝の意を伝えた。


「何から何まで、本当にありがとうございました」

『いいえ。助けていただいたのは、ぼくの方です。こちらこそありがとうございました。これで北嶽ほくがくさまの宮に帰れます』

「北嶽様、ですか?」

『はい、北嶽公ほくがくこうです。今は白州の西嶽公せいがくこうとの会合で、洛邑にいらしてるんです。この時分なら、ここで待っていれば行列を見られると思いますよ。たくさん龍が集まりますから、何か情報が得られるかも』

「そうですか! では、ここで北嶽公を待ってみます。本当にありがとうございました、李君」


 笑顔で李と別れたあと、黎珠は大通りに面した階段の端に腰を下ろした。

 白い石畳を敷いた道には、ぽつぽつと露店も開かれている。李の言ったとおり、徐々に龍が集まってきているようだ。


 飴細工あめざいくを手にした龍の小童こどもが、親に手を引かれて黎珠の前を過ぎて行った。幸せそうなその横顔を見ていると、〝外〟とのあまりの貧富の格差に、なんとも言えない気持ちになる。


 龍の親子から視線を外し、さらに通りを観察していると、そこかしこに黒い旗が掲げられていることに気づいた。


 ──黒い旗、で思い出す。


(李君に、黒影殿について訊き忘れた……)


 物ということで、すっかり失念していた。彼も喋れるのだから、再会できれば現状を打破できたはずなのに。駄目だ、完全に頭が回っていない。


 己の間抜け具合にげんなりしながら、黎珠は風になびく黒旗を眺めた。

 黒地に、金の刺繍ししゅうで龍が描かれた旗だ。

 龍の御旗みはた龍旗りゅうきである。


 直後、雷に打たれたように、突然記憶がよみがえった。


 ──ほう、気になるか。お前でも。


 昔、里長と交わした会話を思い出す。

 そう、あれは、龍旗りゅうきだった。


 数年前の、寒い冬の日。黎珠は、龍旗を里長のもとへ届ける任を受けた。

 そのとき、()()()()()()()()

 御簾みすごしに、長が黎珠に声をかけたのだ。


 ──意思なき人形よ。


 酷くしわがれた声で、長はそう告げた。


 ──それは我が玄州の龍旗。龍の御旗みはただ。本来、軽々しく人が手にして良い物ではない。龍旗は全なる龍の証。不出来な人の手には余るものだ。ゆえに、光栄なことと思わねばならぬ。


 そう言い含めると、長は御簾みすを払い、じっと黎珠の顔を覗き込んだ。

 あんなに間近で見たというのに、浮かぶ長の相貌はおぼろげだ。顔立ちや表情が思い出せない。ただ、言われた内容は鮮明に憶えている。


 ──人形には、わしのげんも今宵の限りのもの。夢幻ゆめまぼろしの記憶だ。ゆえに教えてやろう、我ら龍討師の真実を。


 無言のまま耳を傾ける黎珠に、長は告げた。


 ──我ら龍討師は、人のために在るのではない。全なる龍、真なるあるじのために在る。人はやはり、龍に屈するしかないのさ。


 あのときは意味がわからなかった。しかし、今なら理解わかる。

 あれは自嘲だった。龍への強烈な羨望と嫉妬。諦めと絶望。


 龍討師は、龍の抑止力。人のために在るもののはずだ。にもかかわらず、討師の長たる人物がそれを否定するのは、道理に合わない。


(実際の龍討師には、もっと別の側面が……?)


 そこまで考えたとき、突如響きわたったがくに、黎珠は意識を引き戻された。

 ゆったりと奏でられながら、どこか張り詰めたような音色があたりに響く。先刻までの喧騒は消え、いつの間にか民衆は静まり返っていた。


 李が言っていた、北嶽公の行列が始まったのだろう。

 黎珠は音を立てて両頬を叩き、己に喝を入れた。


 龍討師のことについても、所詮は仮定に過ぎない。里長の言葉は気になるが、今は目の前のことから始めるべきだ。


 夏楠にもう一度、逢う。

 そして、きちんと謝る。


 思い返せば、夏楠も孝燕も黒影にも、恩を仇で返すようなことしかしていない。礼の一つも言わず、酷い言葉を吐いて、あげく命まで狙った。最低だ。


 ごめんなさい夏楠、孝燕殿、黒影殿、と心で謝る。

 弱った心と呼応するように、じわりと視界が歪んだ。黎珠は慌てて、ごしごしと両眼を手でこすった。


 心細いせいか、どうも情緒が不安定だ。

 李と別れ、また不安の虫が顔を出したに違いない。

 初めての孤独は予想以上に心細く、涙で滲んだ視界は少し、悪かった。


 ──()()()

 ぼやけた視界の中で、見知った後姿を見つけて。

 その漆黒の戎装じゅうそうを認めた黎珠は、一目散に駆け出していた。


 名で呼んでくれ、と彼はあんなに言っていたのに。

 ずっと意地悪をして、ずっと名前を呼ばずにいた。


 そんな後悔があったから。

 咽喉のどが裂けんばかりの大声で、黎珠はその名を叫んだ。


「夏楠ッ‼」


 行列の、先頭。

 きらびやかな牛車ぎっしゃの上で、夏楠は振り返る。

 そして、


「──……誰だ?」


 やいばの切っ先のような金の双眸そうぼうが、黎珠を貫いた。


「え?」


 ぽろ、と瞳に溜まっていた涙がこぼれて落ちた。

 蒼穹の空の下、()()()()()()()()()、夏楠は黎珠を睥睨へいげいしている。




 ソノ姿、鮮烈ニシテ艶美。流麗ニシテ荘厳。

 至美しびノ極ミナリ──。




「誰だ? お前」


 あの懐かしく優しい、白銀ではない。

 黒色こくしょくの髪をした夏楠は、重ねて厳しく誰何すいかする。


「…………かな、ん?」


 精彩をいちじるしく欠いた、黎珠の言の葉が風に乗って消えた。 




 ときハ来タリ。

 イザ、物語ハ始マラン──。

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