15
『武邑県の層雲宮は、今から三十年くらい前の名前と聞いています。今は洛邑と言います。室郡洛邑県の斜陽宮です。名前が変わったんです』
洛邑県の斜陽宮?
三十年前? 名前が変わった?
断片的な文字の羅列が、まるで理解を得られぬまま空転する。
「で、では、夏楠……天麗公という名に聞き覚えはないですか?」
たどたどしい黎珠の問いに、李は少し考える素振りを見せてから答えた。
『〝カナ〟も〝テンレイコウ〟も、ぼくは知りません。でも、もしかしたらテンレイコウは、天武さまのことじゃないでしょうか? あの方は天河さまとか天理さまとか、呼び名がいっぱいあったから』
それだ。
テンブコウの〝テンブ〟は、やはり〝天武〟と書くようだ。
「そうです、天武様です! その方は、今どこに!?」
『天武さまは、二十年ほど前にお亡くなりになりました』
瞬間、目の前が真っ暗になった。
比喩ではなくつかの間、本当にそう感じたのだ。
「亡く、なった……? 二十年前に?」
愕然と呟く。
李は躊躇いがちに、こくりと頷いた。
まさか。信じられない。だが、李が嘘をついているようにはとても見えない。
「そんな……でも……ついさっきまで、わたし──」
舌が回らない。
そんな莫迦な、と思う。
しかし、この状況は、そうとしか考えられない。
心当たりは、層雲宮で崖から落ちたとき──恐らく、黎宝珠が引き金だろう。しかしそんな超常的なことが、たかが頸飾り一つで起こるだろうか。
いや、決めつけるのはまだ早い。
それに夏楠が不在なら、頼れる者はもう一名、いるではないか。
「では、孝燕という名に憶えは? 彼は、天武公とともにいたはずです」
黎珠が訊くと、李は見るからに硬く表情をこわばらせた。筆を持った手がかすかに震えている。
……何か、まずいことを聞いてしまっただろうか。
黎珠は声をかけようとしたが、李が先に筆を滑らせた。
先ほどよりも少し、乱れた字で、
『その龍も、五年前に死にました』
絶望的な返答がなされた。
かすかな希望の糸が、音を立てて引き千切れる。
これで本当に、独りきりになってしまった。
(これからどうする? どうすればいい?)
精神に起因した息苦しさが込み上げてくる。
頼れる者はいない。見知った者もいない。訳のわからない場所に、単身取り残されて。
そこまで考えて、唐突に思い至った。
自分は今まで、独力で生きた経験がない事実に。
獄法山では、里の方針に従うだけで暮らすことができた。層雲宮では、夏楠や孝燕にずっと守られていた。
引き離され、追いやられ、初めてそのありがたみを自覚できたのだ。
(気づけたのなら、もう、頼ることから脱却しなければ)
気持ちを奮い立たせる。
誰かに依存しなければ生きられないなど、まるで小童ではないか。情けない。
自分の足で、きちんと立たなければ。考えなければ。自分はもう、里の傀儡ではないのだから。
息を吸い、心を落ち着ける。思考を総動員する。
急変した世界と、語られた話から推測するに──信じがたいことだが、『黎珠の時代から二十年以上後の世に移動してしまった』と仮定し、動くしかないだろう。原理はわからないが、恐らく黎宝珠の頸飾りの力で飛ばされたのだと思う。
「すみません、天武公や孝燕殿が亡くなった経緯について、詳しく聞いても?」
『ごめんなさい。詳細はあまり』
「そうですか、わかりました。教えてくれてありがとうございます、李君」
ぎこちないながらも礼を述べる。
すると、李はまた何かを書き付けて黎珠に見せた。
『天武さまについて調べてるなら、まずは洛邑の邑城に入ったらどうでしょう? 洛邑は天武さまが治めてた地ですし、このあたりは危ないから、離れた方がいいです。おねえさん、龍の主の方は近くにいませんか?』
「主ですか」
どうやら李は、黎珠を龍付きの従者と勘違いしているらしい。しかし結局のところ、今の黎珠に主君は不在だ。色々な意味で。
「主はいませんが……」
言いつつかぶりを振ると、少し考えてから李は筆を走らせた。
『だったら、塀の中までぼくがご案内します。邑城の中は龍の都だから、主のいない人間は中に入れないんですけど。ぼくの通行手形があれば、おねえさんは身なりがいいから、いっしょに関門を通れます』
「そうなのですか! 大変助かります、ありがとうございます‼︎」
城内に入れば、詳しくこの状況について調べられるかもしれない。
猛烈な勢いで礼を言うと、李はにこりと満面の笑顔を黎珠に向けた。
ふとその顔に、既視感を覚える。
以前、似た者に、どこかで会ったような……。
「?」
不思議そうにこちらを見上げる李に、黎珠は笑みを返した。
すぐに思い出せないものは仕方ない。寝不足の頭で考えても、時間を浪費するだけだ。先を急ごう。
「いいえ、なんでもありません。入城の手続き、どうぞよろしくお願いします」
そう言って、黎珠は李に深々と頭を下げた。
*
ほどなく、黎珠と李は洛邑の関門に辿り着いた。
真新しい朱塗りの柱や緻密な彫刻など、周辺の貧しさが嘘のような、立派な門構えである。
ひと目見て、黎珠は気づいた。関門が層雲宮のはずれにあったあの門に、よく似ていることに。門扉に三本爪の龍の彫刻があるところなど、瓜二つだ。だが、こちらは門の大きさがやや小ぶりなので、あの門そのものではない。
関門には見るからに練度の低そうな龍兵が二名、番に着いている。欠伸を連発しているあたり、相当暇なのだろう。
手形を取り出すと、李は慣れた様子で門衛に歩み寄った。今回は別の龍だが先ほどの一件もあるため、やや緊張して黎珠は成り行きを見守った。
「ああ、お前か」
顔見知りらしく、門衛の龍は手形を受け取ると、ろくに見もせず李に押し返した。
「今回の物は?」
李は、懐から出した紙袋を門衛に差し出す。彼が身を丸めて守っていたのは、この袋だろう。門衛が中を改める。ちらりと背後から見ると、大ぶりの切干甘藷が入っていた。
「こんな豚の餌を喰うたぁ、さすが欠子だな」
門衛の嘲笑にも顔色を変えず、李は続けて黎珠を指し示す。門衛は「ああ」と気のない返事をして手招いた。
「そいつはヌヒか。入れ」
身元の確認も何もない。
そうして黎珠と李は、あっさりと関門をくぐり抜けた。黎珠としては願ったり叶ったりだが、あまりの笊具合に若干心配になる。
あの龍、後々叱責を受けるのではなかろうか。これが里なら、鞭百叩きの刑が確定だ。
黎珠が門衛の今後について考えていると、傍らの李に袖を引かれた。
『ここは洛邑のはしっこなので、大通りまでご案内します』
それはありがたい。李の申し出に甘えさせてもらおう。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
改めて周りを見ると、塀の中はさすがに環境が一変していた。まず、街道が清潔だ。塵がない。連なる建物も立派で、ときおり行き交う龍も皆、良い身なりをしている。人も少数だが、小綺麗な恰好で道を歩いていた。
連れ立って歩きながら、黎珠は先ほどの門衛の言葉を思い出し、李に訊ねた。
「李君、ヌヒとは何か教えてもらえますか?」
『奴婢は、龍の所有物として扱われる人間のことです。奴が男の人で、婢が女の人、合わせて奴婢と言います』
なるほど、奴隷のようなものか。
「では、カン奴婢は?」
『官奴婢は、一般の龍じゃなくて、官僚に使える奴婢のことです。仕えている龍が偉いほど、官奴婢の位も高くなります』
「そうなのですか。ありがとうございます、李君。大変勉強になりました」
黎珠が頭を下げると李は照れたように頬を赤らめて、顔を伏せた。照屋さんである。
黎珠としては、若干十二歳でこれだけ立派な立ち居振る舞いができる李は、かなり聡明な龍だと思うのだが。
大通りに出ると、黎珠は再び李に頭を下げ、感謝の意を伝えた。
「何から何まで、本当にありがとうございました」
『いいえ。助けていただいたのは、ぼくの方です。こちらこそありがとうございました。これで北嶽さまの宮に帰れます』
「北嶽様、ですか?」
『はい、北嶽公です。今は白州の西嶽公との会合で、洛邑にいらしてるんです。この時分なら、ここで待っていれば行列を見られると思いますよ。たくさん龍が集まりますから、何か情報が得られるかも』
「そうですか! では、ここで北嶽公を待ってみます。本当にありがとうございました、李君」
笑顔で李と別れたあと、黎珠は大通りに面した階段の端に腰を下ろした。
白い石畳を敷いた道には、ぽつぽつと露店も開かれている。李の言ったとおり、徐々に龍が集まってきているようだ。
飴細工を手にした龍の小童が、親に手を引かれて黎珠の前を過ぎて行った。幸せそうなその横顔を見ていると、〝外〟とのあまりの貧富の格差に、なんとも言えない気持ちになる。
龍の親子から視線を外し、さらに通りを観察していると、そこかしこに黒い旗が掲げられていることに気づいた。
──黒い旗、で思い出す。
(李君に、黒影殿について訊き忘れた……)
物ということで、すっかり失念していた。彼も喋れるのだから、再会できれば現状を打破できたはずなのに。駄目だ、完全に頭が回っていない。
己の間抜け具合にげんなりしながら、黎珠は風になびく黒旗を眺めた。
黒地に、金の刺繍で龍が描かれた旗だ。
龍の御旗、龍旗である。
直後、雷に打たれたように、突然記憶が蘇った。
──ほう、気になるか。お前でも。
昔、里長と交わした会話を思い出す。
そう、あれは、龍旗だった。
数年前の、寒い冬の日。黎珠は、龍旗を里長のもとへ届ける任を受けた。
そのとき、長と直接話をした。
御簾ごしに、長が黎珠に声をかけたのだ。
──意思なき人形よ。
酷くしわがれた声で、長はそう告げた。
──それは我が玄州の龍旗。龍の御旗だ。本来、軽々しく人が手にして良い物ではない。龍旗は全なる龍の証。不出来な人の手には余るものだ。ゆえに、光栄なことと思わねばならぬ。
そう言い含めると、長は御簾を払い、じっと黎珠の顔を覗き込んだ。
あんなに間近で見たというのに、浮かぶ長の相貌はおぼろげだ。顔立ちや表情が思い出せない。ただ、言われた内容は鮮明に憶えている。
──人形には、わしの言も今宵の限りのもの。夢幻の記憶だ。ゆえに教えてやろう、我ら龍討師の真実を。
無言のまま耳を傾ける黎珠に、長は告げた。
──我ら龍討師は、人のために在るのではない。全なる龍、真なる主のために在る。人はやはり、龍に屈するしかないのさ。
あのときは意味がわからなかった。しかし、今なら理解る。
あれは自嘲だった。龍への強烈な羨望と嫉妬。諦めと絶望。
龍討師は、龍の抑止力。人のために在るもののはずだ。にもかかわらず、討師の長たる人物がそれを否定するのは、道理に合わない。
(実際の龍討師には、もっと別の側面が……?)
そこまで考えたとき、突如響きわたった楽の音に、黎珠は意識を引き戻された。
ゆったりと奏でられながら、どこか張り詰めたような音色があたりに響く。先刻までの喧騒は消え、いつの間にか民衆は静まり返っていた。
李が言っていた、北嶽公の行列が始まったのだろう。
黎珠は音を立てて両頬を叩き、己に喝を入れた。
龍討師のことについても、所詮は仮定に過ぎない。里長の言葉は気になるが、今は目の前のことから始めるべきだ。
夏楠にもう一度、逢う。
そして、きちんと謝る。
思い返せば、夏楠も孝燕も黒影にも、恩を仇で返すようなことしかしていない。礼の一つも言わず、酷い言葉を吐いて、あげく命まで狙った。最低だ。
ごめんなさい夏楠、孝燕殿、黒影殿、と心で謝る。
弱った心と呼応するように、じわりと視界が歪んだ。黎珠は慌てて、ごしごしと両眼を手で擦った。
心細いせいか、どうも情緒が不安定だ。
李と別れ、また不安の虫が顔を出したに違いない。
初めての孤独は予想以上に心細く、涙で滲んだ視界は少し、悪かった。
──だから。
ぼやけた視界の中で、見知った後姿を見つけて。
その漆黒の戎装を認めた黎珠は、一目散に駆け出していた。
名で呼んでくれ、と彼はあんなに言っていたのに。
ずっと意地悪をして、ずっと名前を呼ばずにいた。
そんな後悔があったから。
咽喉が裂けんばかりの大声で、黎珠はその名を叫んだ。
「夏楠ッ‼」
行列の、先頭。
きらびやかな牛車の上で、夏楠は振り返る。
そして、
「──……誰だ?」
刃の切っ先のような金の双眸が、黎珠を貫いた。
「え?」
ぽろ、と瞳に溜まっていた涙がこぼれて落ちた。
蒼穹の空の下、漆黒の髪の隙間から、夏楠は黎珠を睥睨している。
ソノ姿、鮮烈ニシテ艶美。流麗ニシテ荘厳。
至美ノ極ミナリ──。
「誰だ? お前」
あの懐かしく優しい、白銀ではない。
黒色の髪をした夏楠は、重ねて厳しく誰何する。
「…………かな、ん?」
精彩を著しく欠いた、黎珠の言の葉が風に乗って消えた。
刻ハ来タリ。
イザ、物語ハ始マラン──。