14
──際限なく、落ちる。
永遠のような落下の中、肌に触れる空気が明らかに変わった。
視力はまだ戻らない。
眩んだ眼を瞬かせていると、尻で板を何枚か突き破った。
さらに藁のようなものの上に叩きつけられ、黎珠の落下はようやく止まる。
土嚢を全力で投げ捨てたような濁音が、あたりに響いた。
「痛ッ!?」
驚きに声が漏れた。
身を捩ろうとした瞬間、尻から背中にかけて鋭い痛みが走る。
痛い──かなり痛い。
だが、死ぬほどではない。
呻きつつ黎珠は大の字になり、瞳を開いた。
──視える。古びた屋根のど真ん中を、歪な楕円でくり抜いた空が青い。
(…………いい天気ですね)
飽和しきった頭で、そんなどうでも良いことを考える。
大量の藁にまみれ、見知らぬ小屋の中で、黎珠はひっくり返って倒れていた。
その体勢のまま、しばし青空と見つめ合う。
──いったい、何が起こった?
上体を起こし、黎珠はおっかなびっくり左右を見回した。
薄暗い、粗末な納屋のようだ。無人である。放置された大量の藁と、濃厚な家畜の臭いが鼻を突く。黎珠が開けた大穴から差す光が、屋内に舞う無数の埃と、大きな蜘蛛の巣を照らしていた。
もとは厩舎か何かだったのだろう。
(とりあえず、手首の縛めを……)
なんにせよ、両手が自由にならないことには始まらない。身を捻り、下着の中に隠していた飛刀を探す。腿に付けていた方は外されていたが、こちらは無事だ。刃を逆手に持ち、まずは縄を解いた。
立ち上がり、全身に付いた藁を払う。黎宝珠の頸飾りを手に、黎珠は鈍い足取りで納屋の外へ出た。
「ここ、は……?」
開口一番、黎珠は呆然と呟いた。
突如現れた、古い納屋。その外の景観は、黎珠が知る層雲宮の景色から一変していた。
まず、遺跡がない。石で舗装されていた地面が消え、土になっている。崖もない。周囲の地形は平坦で、みすぼらしい家屋がいくつも軒を連ねていた。
それも、里の古びた建物に輪をかけて貧相な民家だ。立てつけが見るからに悪く、数世代前に建てられたような造りの家が、大半を占めていた。これで玄州の冬越しは大変だろう。
そこまで観察したところで、黎珠は周囲から向けられる視線に気づいた。
何事かと、ちらほら人が集まりつつある。龍はおらず、人ばかりだ。
ふと、近くの老人と眼が合った。黎珠が獄法山で着ていた襤褸に近い、布切れと化した服を纏った老爺だった。薄汚れた肌を晒し、落ち窪んだ眼窩で、こちらを凝視している。
ほかにも似たような恰好の老若男女が、飢えた獣のような眼で黎珠を──正確には黎珠の衣服や、手にした黎宝珠の頸飾りを見つめていた。
ぞっとして、一歩後ずさる。
今、黎珠が身に着けている衣装は、夏楠があつらえたものだ。黎珠の瞳の色に合わせ、鮮やかな紅を基調としている。生地は当然のように絹で、要所には緻密な花の刺繍、裾は動き易いよう、たっぷりとひだを取った逸品だった。
少し汚れてしまったが、値打ち物であることに変わりはない。黄金の頸飾りは言わずもがなだ。
黎珠は人目を避けるように、その場を離れた。
しかし行く当てもない。自分でもわけがわからないのだ。焦燥に駆られるまま、我武者羅に入り組んだ路地を走った。
(何か──明らかに、おかしい)
見知らぬ土地と建物に、人々。少なくとも、ここは層雲宮ではない。それだけは自信を持って断言できる。
しかし、ならば、ここはどこだ?
行けども行けども、貧しい邑の風景しかない。層雲宮はおろか、黎珠が落ちた崖すらない。ただ一人残された不安が、心中で急速に膨れ上がってゆく。
何か憶えのあるものはないかと、夢中で走り回った。
しゃらん、しゃらん、しゃらん。
足取りに合わせ、手元で涼やかな音が聞こえる。
黎宝珠の組紐を握ったまま走っていたことに気づいた。
この黎宝珠の頸飾りが、黎珠の願いを聞き届けてくれたのだろうか。落下を防いでくれたのだろうか。しかしそれなら、場所が変わってしまった理由がわからない。
──いいや。
場所が変わったのではなく、自分が移動したのではないだろうか。
あの、光の洪水に流されて。見知らぬ土地に。
(落ち着け、落ち着け。まずは夏楠か、孝燕殿と合流しなければ……)
あとのことは、合流してから考えればいい。それで万事解決する。
自身に繰り返しそう言い聞かせ、黎珠は路地の突き当りで足を止めた。行く手を阻むように、左右に高い塀が伸びている。
呼吸を落ち着けるため、黎珠は塀に背中を預けた。外から見えないよう、黎宝珠を懐へしまい込む。誰かに盗まれては大変だ。
塀にもたれかかったまま、空を見上げた。
刻限は、昼過ぎといったところか。相変わらず場所の見当はつかない。ここが何処か知れない以上、誰かに道を訊ねるしかない。問題は、誰に訊くかだが──。
思案していると、何かを地面に引き倒す音を耳が拾った。
そう遠くない距離だ。音のした路地を覗くと、二名の男の足もとに、小柄な少年が横たわっていた。
男の方は、どちらも金の瞳──見るからに品性の悪い龍だ。二名で揃いの黒装束を身に着け、剣を佩いている。出で立ちから察するに、階級の低い龍兵だろう。男たちは口に下卑た笑みを浮かべ、長靴の先で少年を小突いていた。
対する少年は瞳を閉じ、龍か人かわからない。小さな身体を地面の上で丸め、ひたすら暴行に耐えていた。
これは元龍討師としても、黎珠個人としても看過できない。
小童相手に龍が力などふるえば、はずみで死にかねない。
「小さな小童相手に、何をしているのですか?」
棘を含んだ声で詰問すると、二名の龍兵は同時に黎珠を見、嘲笑を浮かべた。
「雌猿がなんの用だ?」
「つうか、猿ごときが龍らに口利いてんじゃねぇよ、糞が」
龍兵の発言には一瞬、面喰った。
知らぬ間に、層雲宮での生活に慣れ切っていたのだろう。人が下位に見られていることは知っていたが、まさか猿呼ばわりされるとは思わなかった。
認識を改めなければいけない。
龍とは本来、こういうものなのだ。
「猿の分際で、粧し込みやがって。猿は猿らしく、素っ裸で歩け! おら、とっとと着てるモン脱げよぉ! ひゃははッ!」
龍兵の一方が、赤らんだ顔で大笑する。酒臭い息だ。この昼日中から酔っているらしい。
取り合わず、黎珠は彼我の力量を測った。
動きを見る限り、さほど強くもない龍だ。しかも、酒がだいぶ回っている。二名とも舌だけでなく、足ももつれ気味だ。
唯一、気がかりなのは、顕現して本来の姿に化けられることだが──まさかこの状況で、寿命を縮めてまで戦おうとはしないだろう。これならば、龍脈を突かずに追い払えそうだ。
「退きなさい。このまま去るなら良し。害を為すなら、反撃します」
一応の礼儀として、忠告はする。
「つけ上がんじゃねぇぞ、糞猿がぁ!」
警告は聞き届けられず、龍兵は戦闘態勢へ移行する。
腰の剣を抜く様子はない。抜くまでもなく倒せると思っているのだろう。
「ぶっ殺すっ!」
捻りのない罵倒を聞きながら、黎珠は敵を見据えた。
敵は二名。だが、この狭い路地だ。左右から挟撃されることはない。
二名同時でも応戦は可能だろうが、一名ずつが相手であれば、さらに難易度は下がる。
「死ねやぁっ‼」
黎珠に近い位置の龍兵が、拳を繰り出した。
龍の膂力は凄まじいものがある。
直撃すれば即死か、致命傷は確実。
だが、それはあくまで当たった場合の話だ。
半身を開いて拳撃を躱し、黎珠は足払いをかけた。
尻餅をついた龍兵に、渾身の力で足を踏み下ろす。
その、股間に。
「────────────っっ‼」
聞き取り不能な大声を上げ、最初の龍兵は戦線離脱した。
あと、一名。
「てめえっ!」
脅威を感じたのか、もう一方の龍兵が剣を抜く。
心臓狙いの突きが出されるが、欠伸が出るほど遅かった。
「ぬるい」
低く言い捨てる。
先手を取ったのは黎珠だ。
一足飛びに間合いを詰め、飛刀を抜きざま、手首の腱を断つ。
人ならこれで手が駄目になるが、頑健な龍なら、なんとかなるだろう。
まあ、完治しても多少、後遺症は残るだろうが。
「い、痛ぇ……痛ぇ……くそっ! たかが雌猿が、なんでこんな強ぇんだよ……」
音を立てて剣が落ち、負傷した龍兵がうずくまる。
「その服装……てめえ、まさかカンヌヒか……?」
「カンヌヒ?」
新たな単語に黎珠は眉を寄せるが、龍兵の方はそれで得心がいったらしい。片腕で倒れた仲間の龍を抱え、汚い捨て台詞を吐いて逃走した。
腑に落ちない点はあるものの、これでひと段落ついた。
黎珠は振り返ると、倒れた少年に向かい訊ねた。
「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」
間近で見れば、少年はかなり裕福な出で立ちをしていた。
身に着けた刺繍入りの黒い帽子と、古風な黒い袍はどれも一級品だ。齢は人間で言うところの、十を少し超えたくらいだろう。ぱちりと開いた瞳の色は、澄んだ金色をしていた。
紛うことなき、龍である。
「…………」
黎珠に気づくと少年は立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
ざっと見る限り、支障はなさそうだ。頬は腫れ、口に少し血が滲んでいるが、龍ならすぐに完治するだろう。
黎珠は少年に合わせて身をかがめると、笑顔で話しかけた。
「龍の御方でしたか。拝見したところ、大事ないようで良かったです」
なんとなく年下のような気はしたが、龍の外見はまちまちだ。年上かもしれないので念のため、片膝をついて略式の礼を取る。
少年は無言のまま黎珠を見つめたが、一拍置いてごそごそと懐を探り始めた。
何事かと黎珠が見守っていると、少年は片手に筆を取り出し、反対の手に帳面と墨壷を器用に持った。どちらも小ぶりな作りだ。すぐに携帯用の筆記具だとわかった。
少年は素早く筆を走らせると、手にした帳面を黎珠に見せた。
大人顔負けの達筆な字で、
『助けていただき、ありがとうございました。ぼくの名前は李といいます。まだ十二歳です。人間のおねえさん、字は読めますか?』
と、問いかける。
どうやら彼は、口が利けないらしい。
「はい、読めます。わたしの名は黎珠といいます」
名乗ると、李は明らかに表情を曇らせ、黎珠を見上げた。
『あの、失礼ですが、どういう字を書くんでしょうか?』
「黎明の『黎』に宝珠の『珠』です。まだお若いのに、字がお上手ですね、李殿」
黎珠が褒めると、李は可愛らしくはにかみながら頭を下げた。礼儀正しい少年だ。育ちが良いのだろう。
さらさらとまた帳面に書き付けると、李はそれをひっくり返して黎珠に見せた。
『おねえさんは人間ですよね? なのに、玉音読みの名を持ってるんですか?』
「────……え?」
かすれた声を出す黎珠の返答を待たず、李はさらに続けて、
『龍に名を賜ったのだと思いますけど、ここでは普通に和訓読みの方を名乗った方がいいです』
「和訓読み……人の名は、和訓読みなのですか?」
黎珠の問いに、李は困惑した瞳を向けた。
言っている意味がわからない、聞き間違えたのかな──そんな感じの表情だ。
この反応は恐らく、人の名が和訓読みであることは常識なのだ。
言われてみれば確かに、里で拝名した者の名は皆、和訓だった。初花とか、若菜だとか。思い出した。
「失礼しました! 私の名は、ええと、珠──珠音といいます!」
慌てて即席の名を名乗ると、李はぱっと愛らしい笑顔を浮かべた。
『字は、珠音おねえさんで合ってますか?』
「はい。合っています、李殿」
『こちらも素敵なお名前です。あと〝殿〟とか、龍だからってぼくに気をつかわないで大丈夫ですよ。ぼくは欠子だから、人と同格なんです』
自身を卑下する様子もなく、ごく自然に李は書き告げる。
欠子──その言葉を、黎珠は識っている。
──身体に何らかの欠損をかかえた龍のことだ。耳の聞こえぬ者、眼の視えぬ者、色素に異常をきたした者。
「身体に障害があるというだけで、人と同格に?」
あのときにも感じた違和感が、つい口をついて出てしまう。
李は黎珠に呟きにも、あっさり頷いた。
『はい。龍は完全じゃなきゃいけませんから。欠けてるぼくらは、人といっしょであたり前です』
かつての黎珠のように、さも当然とばかりに李は答えた。その反応にしこりを感じつつも、当初の目的を果たすため、黎珠は彼に別の問いを投げた。
「では、李君。あの、つかぬことをうかがいますが……ここは、室郡武邑県でしょうか?」
李は、頸を縦に振った。是だ。
良かった。だいぶ荒廃しているが、同じ武邑県だった。
「では、金郷の層雲宮という場所をご存知ですか?」
『字は、層雲宮ですか?』
「はい、そうです」
『だったら、それは〝ここ〟です』
「──────……え?」
半ば放心し、訊き返す。
黎珠の困惑を見て取り、李はさらに詳しく書き連ね、帳面を反転させた。差し出された紙面にははっきりと、武邑県、層雲宮と書かれていた。