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 ──際限なく、落ちる。


 永遠のような落下の中、肌に触れる空気が明らかに変わった。

 視力はまだ戻らない。

 くらんだ眼をしばたたかせていると、尻で板を何枚か突き破った。

 さらにわらのようなものの上に叩きつけられ、黎珠の落下はようやく止まる。

 土嚢どのうを全力で投げ捨てたような濁音おとが、あたりに響いた。


ッ!?」  


 驚きに声が漏れた。

 身をよじろうとした瞬間、尻から背中にかけて鋭い痛みが走る。

 痛い──かなり痛い。

 だが、()()()()()()()()


 呻きつつ黎珠は大の字になり、瞳を開いた。

 ──視える。古びた屋根のど真ん中を、歪な楕円でくり抜いた空が青い。


(…………いい天気ですね)


 飽和しきった頭で、そんなどうでも良いことを考える。

 大量のわらにまみれ、見知らぬ小屋の中で、黎珠はひっくり返って倒れていた。

 その体勢のまま、しばし青空と見つめ合う。


 ──いったい、何が起こった?


 上体を起こし、黎珠はおっかなびっくり左右を見回した。


 薄暗い、粗末な納屋のようだ。無人である。放置された大量の藁と、濃厚な家畜の臭いが鼻を突く。黎珠が開けた大穴から差す光が、屋内に舞う無数のほこりと、大きな蜘蛛の巣を照らしていた。

 もとは厩舎きゅうしゃか何かだったのだろう。


(とりあえず、手首の縛めを……)


 なんにせよ、両手が自由にならないことには始まらない。身をひねり、下着の中に隠していた飛刀を探す。ももに付けていた方は外されていたが、こちらは無事だ。刃を逆手に持ち、まずは縄を解いた。


 立ち上がり、全身に付いた藁を払う。黎宝珠の頸飾くびかざりを手に、黎珠は鈍い足取りで納屋の外へ出た。


「ここ、は……?」


 開口一番、黎珠は呆然と呟いた。

 突如現れた、古い納屋。その外の景観は、黎珠が知る層雲宮の景色から一変していた。


 まず、遺跡がない。石で舗装されていた地面が消え、土になっている。崖もない。周囲の地形は平坦で、みすぼらしい家屋がいくつも軒を連ねていた。

 それも、里の古びた建物に輪をかけて貧相な民家だ。立てつけが見るからに悪く、数世代前に建てられたような造りの家が、大半を占めていた。これで玄州の冬越しは大変だろう。


 そこまで観察したところで、黎珠は周囲から向けられる視線に気づいた。

 何事かと、ちらほら人が集まりつつある。龍はおらず、人ばかりだ。


 ふと、近くの老人と眼が合った。黎珠が獄法山で着ていた襤褸ぼろに近い、布切れと化した服をまとった老爺だった。薄汚れた肌をさらし、落ちくぼんだ眼窩がんかで、こちらを凝視している。


 ほかにも似たような恰好の老若男女が、飢えた獣のような眼で黎珠を──正確には黎珠の衣服ふくや、手にした黎宝珠の頸飾くびかざりを見つめていた。


 ぞっとして、一歩後ずさる。

 今、黎珠が身に着けている衣装は、夏楠があつらえたものだ。黎珠の瞳の色に合わせ、鮮やかなあかを基調としている。生地きじは当然のように絹で、要所には緻密な花の刺繍ししゅうすそは動き易いよう、たっぷりとひだを取った逸品だった。


 少し汚れてしまったが、値打ち物であることに変わりはない。黄金おうごん頸飾くびかざりは言わずもがなだ。


 黎珠は人目を避けるように、その場を離れた。

 しかし行く当てもない。自分でもわけがわからないのだ。焦燥に駆られるまま、我武者羅がむしゃらに入り組んだ路地を走った。


(何か──明らかに、おかしい)


 見知らぬ土地と建物に、人々。少なくとも、ここは層雲宮ではない。それだけは自信を持って断言できる。


 しかし、ならば、()()()()()()

 行けども行けども、貧しいむらの風景しかない。層雲宮はおろか、黎珠が落ちた崖すらない。ただ一人残された不安が、心中で急速に膨れ上がってゆく。


 何か憶えのあるものはないかと、夢中で走り回った。

 しゃらん、しゃらん、しゃらん。

 足取りに合わせ、手元で涼やかなが聞こえる。

 黎宝珠の組紐くみひもを握ったまま走っていたことに気づいた。


 この黎宝珠の頸飾くびかざりが、黎珠の願いを聞き届けてくれたのだろうか。落下を防いでくれたのだろうか。しかしそれなら、場所が変わってしまった理由がわからない。


 ──いいや。

 場所が変わったのではなく、自分が移動したのではないだろうか。

 あの、光の洪水こうずいに流されて。見知らぬ土地に。


(落ち着け、落ち着け。まずは夏楠カナンか、孝燕コウエン殿と合流しなければ……)


 あとのことは、合流してから考えればいい。それで万事解決する。

 自身に繰り返しそう言い聞かせ、黎珠は路地の突き当りで足を止めた。行く手を阻むように、左右に高い塀が伸びている。


 呼吸を落ち着けるため、黎珠は塀に背中を預けた。外から見えないよう、黎宝珠をふところへしまい込む。誰かに盗まれては大変だ。


 塀にもたれかかったまま、空を見上げた。

 刻限は、昼過ぎといったところか。相変わらず場所の見当はつかない。ここが何処どこか知れない以上、誰かに道をたずねるしかない。問題は、誰にくかだが──。


 思案していると、何かを地面に引き倒す音を耳が拾った。

 そう遠くない距離だ。音のした路地をのぞくと、二名の男の足もとに、小柄な少年が横たわっていた。


 男の方は、どちらも金の瞳──見るからに品性がらの悪い龍だ。二名でそろいの黒装束を身に着け、剣をいている。で立ちから察するに、階級の低い龍兵だろう。男たちは口に下卑た笑みを浮かべ、長靴ちょうかの先で少年を小突いていた。


 対する少年は瞳を閉じ、龍か人かわからない。小さな身体からだを地面の上で丸め、ひたすら暴行に耐えていた。


 これは元龍討師としても、黎珠個人としても看過できない。

 小童こども相手に龍が力などふるえば、はずみで死にかねない。


「小さな小童こども相手に、何をしているのですか?」


 とげを含んだ声で詰問すると、二名の龍兵は同時に黎珠を見、嘲笑を浮かべた。


雌猿めすざるがなんの用だ?」

「つうか、猿ごときがおれらに口()いてんじゃねぇよ、糞が」


 龍兵の発言には一瞬、面喰(めんくら)った。

 知らぬ間に、層雲宮での生活に慣れ切っていたのだろう。人が下位に見られていることは知っていたが、まさか猿呼ばわりされるとは思わなかった。


 認識を改めなければいけない。

 龍とは本来、こういうものなのだ。


「猿の分際で、めかし込みやがって。猿は猿らしく、素っ裸で歩け! おら、とっとと着てるモン脱げよぉ! ひゃははッ!」


 龍兵の一方が、赤らんだ顔で大笑する。酒臭い息だ。この昼日中ひるひなかから酔っているらしい。


 取り合わず、黎珠は彼我の力量を測った。

 動きを見る限り、さほど強くもない龍だ。しかも、酒がだいぶ回っている。二名とも舌だけでなく、足ももつれ気味だ。


 唯一、気がかりなのは、顕現けんげんして本来の姿に化けられることだが──まさかこの状況で、寿命を縮めてまで戦おうとはしないだろう。これならば、龍脈を突かずに追い払えそうだ。


「退きなさい。このまま去るなら良し。害を為すなら、反撃します」


 一応の礼儀として、忠告はする。


「つけ上がんじゃねぇぞ、糞猿がぁ!」


 警告は聞き届けられず、龍兵は戦闘態勢へ移行する。

 腰の剣を抜く様子はない。抜くまでもなく倒せると思っているのだろう。


「ぶっ殺すっ!」


 ひねりのない罵倒を聞きながら、黎珠は敵を見据えた。

 敵は二名。だが、この狭い路地だ。左右から挟撃されることはない。

 二名同時でも応戦は可能だろうが、一名ずつが相手であれば、さらに難易度は下がる。


「死ねやぁっ‼」


 黎珠に近い位置の龍兵が、こぶしを繰り出した。

 龍の膂力りょりょくは凄まじいものがある。

 直撃すれば即死か、致命傷は確実。

 だが、それはあくまで当たった場合の話だ。


 半身を開いて拳撃をかわし、黎珠は足払いをかけた。

 尻餅をついた龍兵に、渾身の力で足を踏み下ろす。

 その、股間に。


「────────────っっ‼」


 聞き取り不能な大声を上げ、最初の龍兵は戦線離脱した。

 あと、一名。


「てめえっ!」


 脅威を感じたのか、もう一方の龍兵が剣を抜く。

 心臓狙いの突きが出されるが、欠伸あくびが出るほど遅かった。


「ぬるい」


 低く言い捨てる。

 先手を取ったのは黎珠だ。


 一足飛びに間合いを詰め、飛刀を抜きざま、手首の腱を断つ。

 人ならこれで手が駄目になるが、頑健な龍なら、なんとかなるだろう。

 まあ、完治しても多少、後遺症は残るだろうが。


「い、痛ぇ……痛ぇ……くそっ! たかが雌猿めすざるが、なんでこんな強ぇんだよ……」


 音を立てて剣が落ち、負傷した龍兵がうずくまる。


「その服装なり……てめえ、まさかカンヌヒか……?」

「カンヌヒ?」


 新たな単語に黎珠は眉を寄せるが、龍兵の方はそれで得心がいったらしい。片腕で倒れた仲間の龍をかかえ、汚い捨て台詞を吐いて逃走した。


 腑に落ちない点はあるものの、これでひと段落ついた。

 黎珠は振り返ると、倒れた少年に向かいたずねた。


「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」


 間近で見れば、少年はかなり裕福なで立ちをしていた。

 身に着けた刺繍入りの黒い帽子と、古風な黒いほうはどれも一級品だ。としは人間で言うところの、とおを少し超えたくらいだろう。ぱちりと開いた瞳の色は、澄んだ金色こんじきをしていた。

 まごうことなき、龍である。


「…………」


 黎珠に気づくと少年は立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。

 ざっと見る限り、支障はなさそうだ。ほおは腫れ、口に少し血が滲んでいるが、龍ならすぐに完治するだろう。

 黎珠は少年に合わせて身をかがめると、笑顔で話しかけた。


「龍の御方でしたか。拝見したところ、大事ないようで良かったです」


 なんとなく年下のような気はしたが、龍の外見はまちまちだ。年上かもしれないので念のため、片膝かたひざをついて略式の礼を取る。


 少年は無言のまま黎珠を見つめたが、一拍置いてごそごそとふところさぐり始めた。

 何事かと黎珠が見守っていると、少年は片手に筆を取り出し、反対の手に帳面と墨壷すみつぼを器用に持った。どちらも小ぶりな作りだ。すぐに携帯用の筆記具だとわかった。


 少年は素早く筆を走らせると、手にした帳面を黎珠に見せた。

 大人顔負けの達筆な字で、


『助けていただき、ありがとうございました。ぼくの名前はリィといいます。まだ十二歳です。人間のおねえさん、字は読めますか?』


 と、問いかける。

 どうやら彼は、口がけないらしい。


「はい、読めます。わたしの名は黎珠といいます」


 名乗ると、李は明らかに表情を曇らせ、黎珠を見上げた。


『あの、失礼ですが、どういう字を書くんでしょうか?』

「黎明の『黎』に宝珠の『珠』です。まだお若いのに、字がお上手ですね、李殿」


 黎珠が褒めると、李は可愛らしくはにかみながら頭を下げた。礼儀正しい少年だ。育ちが良いのだろう。

 さらさらとまた帳面に書き付けると、李はそれをひっくり返して黎珠に見せた。


『おねえさんは人間ですよね? なのに、()()()()()()()()()()()()()()()?』

「────……え?」


 かすれた声を出す黎珠の返答を待たず、李はさらに続けて、


『龍に名を賜ったのだと思いますけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「和訓読み……人の名は、和訓読みなのですか?」


 黎珠の問いに、李は困惑した瞳を向けた。

 言っている意味がわからない、聞き間違えたのかな──そんな感じの表情だ。


 この反応は恐らく、人の名が和訓読みであることは常識なのだ。

 言われてみれば確かに、里で拝名した者の名はみな、和訓だった。初花はつはなとか、若菜わかなだとか。思い出した。


「失礼しました! 私の名は、ええと、たま──珠音たまねといいます!」


 慌てて即席の名を名乗ると、李はぱっと愛らしい笑顔を浮かべた。


『字は、珠音おねえさんで合ってますか?』

「はい。合っています、李殿」

『こちらも素敵なお名前です。あと〝殿〟とか、龍だからってぼくに気をつかわないで大丈夫ですよ。ぼくは欠子けっしだから、人と同格なんです』


 自身を卑下する様子もなく、ごく自然に李は書き告げる。

 欠子──その言葉を、黎珠はっている。


 ──身体からだに何らかの欠損をかかえた龍のことだ。耳の聞こえぬ者、眼の視えぬ者、色素に異常をきたした者。


「身体に障害があるというだけで、人と同格に?」


 あのときにも感じた違和感が、つい口をついて出てしまう。

 李は黎珠に呟きにも、あっさり頷いた。


『はい。龍は完全じゃなきゃいけませんから。欠けてるぼくらは、人といっしょであたり前です』


 かつての黎珠のように、さも当然とばかりに李は答えた。その反応にしこりを感じつつも、当初の目的を果たすため、黎珠は彼に別の問いを投げた。


「では、李君。あの、つかぬことをうかがいますが……ここは、室郡武邑県でしょうか?」


 李は、くびを縦に振った。是だ。

 良かった。だいぶ荒廃しているが、同じ武邑県だった。


「では、金郷の層雲宮という場所をご存知ですか?」

『字は、層雲宮ですか?』

「はい、そうです」

『だったら、それは〝ここ〟です』

「──────……え?」


 半ば放心し、き返す。

 黎珠の困惑を見て取り、李はさらに詳しく書き連ね、帳面を反転させた。差し出された紙面にははっきりと、武邑県、層雲宮と書かれていた。


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