13
「私は、天命を覆す。この玄州と引き換えにしてもだ」
一点の迷いもなく、翳りもなく。
厳かに決然と、夏楠は告げた。
黎珠が夜通し泣き連ね、一夜明けた翌朝のことだった。
夏楠を見上げ、諦念に近い心情で黎珠は微笑んだ。
「そうですか」
と、それだけ口にする。
決して、承服したわけではなかった。納得したわけでは。
整合することのない不条理と不合理は、今も胸の奥で渦巻いている。
だがそれを押してでも、夏楠が『黎珠』を望むことはわかった。あらゆる罪を、犠牲を払い、なお成し遂げたい願いがあるということは。
声にならない黎珠の想いは、それでもあやまたず夏楠に伝わったようだった。このときばかりは長い年月を感じさせる面持ちで、ほのかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。だが黎珠。我々とて、何もせず手をこまねいていたわけではない」
「と、申しますと?」
〈ハクロウシがお見えになる〉
黎珠の問いには、帯剣されていた黒影が答えた。
「ハク、老師?」
訊ねると、夏楠は首肯する。
「ああ。あの方は白州におわすため、そのまま白老師と」
「白老師──以前、孝燕殿と話していた方ですか?」
「ああ、その白老師だ。さすがは黎珠、物覚えが良い」
顔をほころばせ、夏楠が手放しで褒める。
黎珠にしてみれば、肥溜めに三日三晩漬ける刑に笑顔で賛同する、という忘れようにも忘れられない存在だ。夏楠同様、性格に一癖ある者であることは、想像に難い。
「黎珠が層雲宮へきた直後に、老師には文を送っていてね。あの御仁ならばあるいは、良い知恵をお貸しくださるやもしれん。我が国の生き字引のような龍だからな。……一応、私の師でもあるし」
「その方なら、玄州を消さずにすむ方法が?」
期待に声が弾んでしまうが、夏楠は予想に反して苦い笑みを返した。
「不遜を承知で言わせてもらえば、これは私の最後の悪足搔きだ。白老師がいらしたことで、事態が好転する確証はない。だがそれでも──何もせずには、いられなかった」
そう言い、瞳を伏せる夏楠に黎珠は口を開きかけたが、夏楠が言を継ぐ方が早かった。
打って変わって明るい声音で、
「本当は早々に玄州へお越しいただきたかったのだがね。延びに延びて、今日までずれ込んでしまった」
〈なにぶん、ご高齢の身だ。致し方あるまい。黎珠殿、老師は本日いらっしゃる手はずとなっている。恐らく昼餉には面会できるだろう〉
そう黒影が補足すると、夏楠は改めて黎珠に向き直った。はるかに年少である黎珠に対し深く頭を下げ、丁寧に謝意を示した。
「今まで何も告げず、はぐらかしてばかりで本当にすまなかった。白老師がいらしたのち、黎珠には事の仔細をすべて話そう。俄かには信じ難いやもしれんが──」
「信じます」
語尾を奪うように即答する。
面喰らう夏楠を真っ直ぐに見据え、黎珠は言葉を重ねた。
「あなたを信じます。ですからわたしに、すべてを教えてください、夏楠」
そう伝えると、久方ぶりの彼らしい笑顔が返された。
「承知した。私は孝燕とともに、白老師を迎える支度をする。到着にはまだ間があるから、黎珠はここで休んでおいで。昨夜は泣いて一睡もしていないだろう?」
「一日ぐらい平気です。わたしより、あなたの方がお疲れでしょう?」
「『夏楠』だよ、私の名は」
すかさず言われてしまう。
そうだった。彼は名で呼ばれることが、本当に好きなのだ。
「そうでした。失礼、夏楠」
「あとで頃合いをみて、私も休むさ。ではな」
「はい」
夏楠を見送ると、黎珠はぽつんと一人寝室に残された。窓から見える空は今日も快晴だ。長椅子で仮眠を取ろうかとも思ったが、妙に眼が冴えてしまっている。暇潰しに室内を眺めつつ、黎珠はこれからのことに思いを馳せた。
これでついに、謎が解ける。長かったと言うべきなのだろうが、今となっては、本当にあっという間だ。
苦笑まじりに、黎珠は傍らの書宅に眼を落とした。
卓上には手習いに使った文箱と、何やら走り書きされた紙の束、それに万年筆が転がっている。効率を考えて、筆と使い分けているのだろう。寝台横に置きっぱなしの茶は、おそらく蜜蘭香だ。
夏楠の飲みかけだろう。蜜蘭香の澄んだ液色を見ているうち、くすりと笑みがこぼれた。
少し前まで、こんなにも穏やかな気持ちで夏楠と話す日がこようとは、夢にも思わなかった。当初はあれほど反発していたのに、振り回され、なだめすかされて。気づいたときには情にほだされていたのだから、人生何があるかわからない。
──この気持ちは、恋と呼ぶには淡過ぎるだろう。
郷愁にも似たような心で、そんなことを思う。
夏楠は、本当の意味で黎珠を見てはいない。その双眸に姿を映しながらも、その実、見つめているのは『黎珠』なのだ。
愛すべき存在ではあっても、黎珠は愛の対象ではない。そのことにきっと、最初から自分は気付いていた。だからこそあんなにも腹立たしく、憎らしく、哀しかったのだ。
力なく笑い、黎珠は席を立った。
夏楠には眠るよう指示を受けたが、眠気がないものは仕方ない。ちょうど、孝燕に勧められた小説が読みかけのままだ。
あれの続きを読もう、と自室へ足を向けたとき、それは起こった。
がん、と後頭部に衝撃。
眼底で火花が散り、視野が唐突にぶつりと切れる。
それでも黎珠は、自分が何者かに殴打されたことを知覚し、意識を手放した。
*
……少し、寒い。
眼を覚ますと、黎珠は野外に転がされていた。
視界がちらついている。どくどくと脈打つように、後頭部が痛みを訴えた。
「気づきましたか」
落ちてきた平坦な声に顔を上げる。
すると、かつての同胞が冷ややかな眼で黎珠を見下ろしていた。
見慣れた粗末な衣服に、手には短銃。その顔立ちは──。
「姐姐様……」
風花の里の先達たる、龍討師。
準討師である黎珠とは異なる、指南役の正討師だ。彼女の名は、なんといったか。昔耳にした気がするのに、どうしても思い出せない。
話をしようと立ち上がろうとして、突き出した腕がもつれた。結果、派手に地面に突っ伏してしまう。視線を巡らし手元を確認すると、手首を縄で一つに括られていた。
後ろ手にされていないのが、せめてもの救いか。だがこれは縄抜けを懸念して、黎珠の両手を視界に収めるためだろう。こちらの反撃を警戒しているのだ。
痛む頭を必死で回転させた。
改めて周囲の状況を確認する。一見して、閑散とした場所だった。ところどころ野放図に生えた雑草と、奥には鬱蒼とした草叢。ひび割れ褪色した石畳からは、放置された年月の長さがうかがえる。繰り返し風雨に晒され続けたらしい建造物は、土台だけをかろうじて残し、存続していた。
うらさびれたこの風景を、黎珠は知っている。孝燕に連れてこられた、あの遺跡だ。大階段の門を抜けた先の、昔火災があった跡地。
本物の『黎珠』が、死んだ場所だ。
身を捻り、黎珠は空を仰いだ。まだ日は高く、青い。近くで小鳥のさえずりが聞こえる。それほど長い間、気絶していたわけではないようだ。
「動かないように。大人しくなさい」
命じられ、黎珠は敵意を込めた眼を姐姐に向けた。
「真昼間に人攫いとは豪胆ですね。里の者は皆、自害したのでは?」
「ええ、そのようですね」
「何故、あなたは生きているのです?」
「無論、私の『お役目』を果たすためです」
その回答に、はっとする。
恐ろしく既視感のある応えに、黎珠は息を呑んだ。
思慮が浅く、短絡的。論理は破綻し、主義主張は殺すことばかり。そんな龍討師と、粘り強く対話を重ねた夏楠との決定的な違いが、今ならはっきりとわかる。
討師は常に道具としてしか扱われず、道具としてしか生きてこなかった。そこに個人の意思や尊厳はなく、討師自身も疑問を持たなかった。
だからこそ、夏楠は黎珠に気づきをうながしたのだ。一から苗を育てるように手をかけ、根気強く。丹念に水をやり続けたのだ。
自らの思考を放棄すること。
それが、龍討師の過ちだった。
「何故わたしは、いいえ我々は、夏楠を討たねばならないのですか?」
黎珠の問いに、姐姐は無造作に返答した。
「あれが『悪しき龍』だからです。あの龍は昇山しました」
「理由はそれだけですか? では、和解の道はないのでしょうか。そもそも何故、昇山したことが罪に問われるのですか? それは、どのような理由で下された判断でしょう?」
「里長がおっしゃった。それが理由です」
「それだけですか? ではもし、長のご判断が間違っていたらどうしますか?」
「長の御言葉は絶対です。間違いなどありません」
「何故、そう言い切れるのですか。長とて人の子です。間違うことがあるかもしれません。事は生死にかかわるのですから、もっとよく吟味すべきではないでしょうか?」
「なるほど。やけに手間取っていると思えば……お前、毒されましたね。あの龍に何を吹き込まれましたか?」
深い嘆息が聞こえた。声にのみ侮蔑を滲ませ、無感情に姐姐は黎珠を見下ろす。
それを真っ向から跳ね返すように、腹に力を込めて黎珠は言った。
夏楠や孝燕に教わった、沢山のこと。
それは、
「物事の道理と知識を。優しさと忍耐を。ほかの誰でもない、己で選び取る善悪の判断を!」
「度し難い。お前は龍討師でしょう。何故、我らに反目するのです」
「里の考えに賛同しかねるからです。わたしもあなたに訊きたい。あなたは何故、長に従うのですか?」
「簡単なこと。それが私の『お役目』だからです」
「お役目ならば、何をしても良いのですか!? それが親しい者や、自らの死であっても!」
「無論です。長の命は絶対です。疑問を挟む余地はありません」
一切の思考を放棄した台詞に、絶句した。
拳を強く握る。行き場のない怒りが胸を突き上げる。
その思考はおかしい。承服できない。断固、従えないと思った。
「そんな理不尽、断じて認めるわけにはいきません!」
「お前の主張なぞ、私の知ったことではありません。──ああ、来ましたね」
討師が何を指してそう言ったのか、駆けつける足音で黎珠にもわかった。
もうそれだけで気づけてしまうほど、彼と長く共に居たのだと胸が熱くなる。
「黎珠!」
「夏楠!」
視界に見慣れた黒装束を認めて、黎珠はその名を呼んだ。
ほかに親兵は見えない。あの夏楠が単身ということは、そうしなければ黎珠を害すとでも脅したのだろう。
「こちらの要求どおり、兵はいないようですね。結構。そこで止まりなさい」
姐姐の短銃が、横たわる黎珠の額に向けられる。それでようやく、黎珠はこの討師の行動を理解した。
以前、頻繁に感じていたあの視線。あの正体が、彼女だったのだ。
生き延びた姐姐は黎珠同様、離れた場所から夏楠暗殺の機会をうかがっていた。最初は黎珠が役目を果たすことを期待したが、断念したことで、方針を転換した。つまり、夏楠が強い執着を抱く黎珠を餌とし、己が目的を果たそうとしたのだ。
「剣を捨てなさい。裏切者がどうなっても良いのですか?」
銃口を押し当て、姐姐は夏楠を見遣る。
黎珠が歯噛みする先で、夏楠は憎らしいほど素直に要求を呑んだ。
迷いもなく、腰に差した黒影を鞘ごと地面に投げ捨てる。躊躇というものがごっそり欠如した行動に、むしろ黎珠の血の気が引いた。
そうだ。これが夏楠の危うさなのだ。
「おや。正直、期待半分だったのですが。この出来損ないも、偶には役に立ちますね」
感心したように姐姐は言うが、あくまで銃口は離さない。
銃が夏楠に向けば即、黎珠が動くつもりだったが、さすがは指南役だ。そのあたりは抜かりがない。
このままでは共倒れだ。
多少の無茶をしても、夏楠に動いてもらうしかない。
「夏楠! わたしに構わず、この女を斬りなさい!」
「すまん、無理だ」
「即答してる場合ですか? 今は無理を通してください!」
「生憎、そう簡単に通せる無理は持ち合わせておらんのだよ」
「あなたの腕なら心配ありません! たとえ被弾しても、一度ぐらい耐えてみせます。わたしを信じてください!」
黎珠が叫ぶなり、夏楠は表情の一切を消した。
怜悧な声で、ただ一言。
「信じない」
決然と言い、直後に表情を反転させてふわりと笑う。
「それに、あなたではなく、私の名は『夏楠』だ。黎珠」
この龍は、この非常時に、いつもの訂正を突き返してみせた。
「この、わからず屋が!」
悪態をついても、夏楠が動く様子はまるでない。
黒影も何を考えてか、沈黙を貫いている。
「戯言は済みましたか?」
姐姐の平坦な呟きとともに、鋭い金属音が響いた。
銃を黎珠に向けたまま、空いた片手で飛刀を放つ。
三本打たれたそれを、夏楠は避けもせず受け止めた。
利き腕の肩、両足の腿に、ざくりと飛刀が突き刺さった。
「夏楠!」
「薄い……やはり、龍脈は突けませんか。これは骨が折れる。とりあえず、急所から潰していきますか」
何気ない姐姐の独白に、黎珠は凍りついた。
急所──すなわち、眉間、咽喉、心臓、眼。
人なら即死確実の攻撃も、半分龍である夏楠なら、ある程度は耐えるだろう。だがいくら龍とて、眼球や肉の薄い部位への攻撃を受けて、無傷ではいられない。眼でも直撃すれば、失明は必須だ。
そして龍討師は、こと投擲技術にかけては、他の追随を許さない。百発百中といえる精度を、あたり前のように皆が持っている。
最悪の結末が、かつてない速度で脳裏を駆け抜けてゆく。
悠長に考えている暇はなかった。
「手を、離しなさい!」
人質である以上、姐姐は黎珠を殺せないはずだ。
腕や足の一、二本は駄目になるかもしれないが、構わない。上等だ。
夏楠が死ぬよりは、ずっといい。
銃口を無視して姐姐に体当たりを試みる。
が、あえなくそれは失敗に終わった。
「動くなと──言っているでしょうに!」
銃把の尻で横面を張られ、地面に叩き戻される。
だが、宝剣の遣い手たる夏楠には、それで十分だった。
驚異的な斬撃が閃いた。
黒影を拾う寸暇をものともせず、夏楠が跳躍する。
間近で、立て続けに銃声が鳴った。
弾丸は夏楠の肩をかすり、後ろへ抜けてゆく。
銃よりも、剣が速い。
神速で詰められた間合いで、黒影の剣が振り下ろされる。
姐姐が防護のために構えた銃は、その腕ごと夏楠によって分断された。
しかし、龍討師はその程度で怯まない。
表情も変えず、無事な方の手で飛刀を突き出す。
だがそれも、夏楠には届かない。
ただ、彼の胸元を浅く裂くのみだ。
返す漆黒の刃で、姐姐の胸に漆黒の剣が突き立てられた。
その間──。
黎珠の眼は夏楠ではなく、黄金の煌めきに縫い付けられていた。
突きを受けた夏楠の衣服がぱっくりと割れ、はだけている。
その割れ目から飛び出した黄金の頸飾りが、黎珠の鼻先を過った。
石畳に弾かれ、頸飾りが跳ねるように飛んでゆく。
大きく弧を描き、草叢へ、その奥へ。
遠くへ──見えなくなってしまう。
その先は、駄目だ。
──少し歩くと柵もなく、いきなり崖になっておりますので。
奥は崖だと、孝燕が言っていた。
駄目だ、落ちてしまう。
夏楠があんなにも、大切にしていたものなのに。
(失くすわけには──)
深く考える前に、身体が動いた。
地面を蹴り、縛られた両腕を伸ばす。
──届いた。
なんとか、紐の端を掴んだ。
安堵したのもつかの間、大地を踏みしめた足が、ずるりと滑った。
ぐらりと体勢が傾ぐ。
立て直そうとして、片足に力を込めて気づいた。
足場が、ない。
草叢の影に隠れて、見えなかった。
地面が途中で、不自然に途切れている。
雲が、森が、はるか眼下に見える。
まさか、これほど近いとは思わなかった。
青空と、崖。
断崖絶壁。
上体が宙を舞う。
絶望が全身を駆け抜けてゆく。
風の唸りが髪を巻き上げ、鼓膜を震わせる。
不自由な体勢の黎珠を、吹きすさぶ冷風が谷底へ引きずり下ろそうとする。
身体を戻せない。
吸い込まれる。
落ちる。
「────」
ひゅう、と声にならない息を吐いた。
浮遊感が全身を覆い、腰にぞわりとした感覚が生まれる。
本能的に手が地面を求めて、視線が泳いだ。
こちらに気づいた夏楠と、眼が合う。
夏楠はすぐさま駆けつけようとし、直後、がくりとその膝が折れた。
口から血を流した姐姐が、ゆらりと黎珠に微笑みかける。
その手には、夏楠の外套が握られていた。
──死ぬ。
どこか切り離された思考で、冷静に分析する。
自分は死ぬと。
もう、助からないと。
しかしそれ以上に強い気持ちで、黎珠は渇望した。
──死にたくない。
──生きたい。
しゃらん。
願いに応じるように、黎宝珠の音が耳に届く。
刹那、膨大な光の奔流が黎珠を包み、上空へと突き抜けた。
光源は、黎宝珠の頸飾りだ。
眼を開けていられないほどの光があふれ、鳴り響く独特の音色に合わせ、その勢いは加速してゆく。
血相を変えた夏楠が、何事か黎珠に叫んだ。
「え?」
夏楠の声は黎宝珠の音に掻き消され、こちらに届かない。
その夏楠の姿すら、やがてまぶしさで視えなくなってしまう。
ひたすら暴力的な光の粒子が、周囲の景色を呑み込んでゆく。
迸る閃光が、黎珠の身体を奪い去った。