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 綺麗な、満月の夜だった。

 大気は澄み、よく晴れて足元が明るい。静かで、風もない。

 けれど夜空の穏やかさに反して、飛刀を持つ手はみっともなく震えていた。手が汗ばむ。心臓は狂ったように脈打ち、呼気は浅く乱れたまま。


 ──なんて、酷い有様だろう。


 死を前にしたときですら見せることのなかった醜態に、黎珠レイジュは唇を噛んだ。


 いったい、いつの間に。絶望的な気持ちで思う。

 自制には自信がある方だと思っていた。なのに、何故。いったいいつから、こんな風になってしまったのだろう。感情を抑えられなくなってしまったのだろう。


 いつ? どの時点で?

 黎珠には思い出せなかった。

 いや、思い出してはいけないと思った。考えてはいけないと。


 ごくりと唾を呑み、寝室の扉に手をかける。開いてくれるなと切望した戸は、すんなりと黎珠を招き入れた。

 鍵すらなく、いとも簡単に。


 ──何故、施錠しない。


 こちらの考えなど、とうに知れているだろうに。

 何故、あらがわない。何故、逃げないのだ。

 わたしは龍討師なのに、どうして。


 ――何故、わたしを殺さない。


 それは最初に抱いていた、短絡的な疑問ではない。

 もう、わかる。今は気付いている。暗殺の知識は別として、里でつちかわれた思想、考え方には、整合性がないという事実に。


 そも、悪しき龍とは何なのか。その論拠は、判断基準はどこにあるのか。里長が『そう下した』という以外、黎珠は何も聞かされていない。

 さらに言えば、黎珠は里長の顔も気質もよく知らない。面と向かって話した記憶もない。その必要性すら感じなかった。

 よく知りもしない人物を盲目的に信じ、そのめいになんの疑問もなく従う。こんな不自然な状況にすら、つい最近まで気づかなかったのだ。


(里長の判断は、正しいのだと思う。思う、けれど……きっと夏楠カナンは、死ぬべきではない)


 何故なら彼には、能力がある。知恵がある。武勇がある。人望がある。

 彼は黎珠のように、持たざる者ではないのだ。その治世をして天下に並びなし、と称されるほどに。


(本来、こんなところでついえていい命ではない……)


 誰かに命じられたからではない。

 黎珠が、黎珠自身の判断でそう思っている。

 しかし、かける天秤の片方が──その輝かしい功績をもってしてもあがなえない。あまりにも罪深い。


(見過ごすことはできない。夏楠が、玄州の滅びを招くというならば──)


 討たねば、なるまい。

 この玄州を、滅ぼさんとする大罪。仔細もわからない、まるで絵空事のような話を、しかし黎珠は確信していた。実際に相対し、感じた息遣い、眼に宿る光の強さでわかった。……真実なのだと、わかってしまった。


 孝燕は嘘をついていない。

 そして、夏楠は必ずやる。

 だからこそ、抗わない。

 だからこそ、黎珠をここへ招いた。

 恐らくそこに、己が生かされた意味があったのだ。


(夏楠──)


 なまりのような身体を動かし、寝所に足を踏み入れる。夜のとばりが落ちたへやで、窓際に寄せた寝台は月の光を受け、ほの白く浮いて見えた。月光に吸い寄せられるように、はっきりと足音を立てて、黎珠はそのかたわらに立った。


 寝台で眠る夏楠に視線を落とす。

 その白い横顔を見ると、たまらなく胸に迫るものがあった。

 命を救われ、今日こんにちに至るまでの記憶が、めまぐるしく胸裏を駆け抜けてゆく。


 ――ああ、やはり。なんて、この龍は美しいのだろう。


 こんなにも綺麗なものが、この世界にはあるのだと。

 彼に逢うまで、黎珠はついぞ知らなかった。


 ――いけない。情に流されては。


 未練を断ち切るようにくびを振る。

 意を決し、手にした飛刀をのろのろと掲げた。


 刃が揺れる。

 狙いが定まらず、手の震えが止まらない。

 柄を握り込んだ手は、血の気が失せて蒼白だ。


 時間をかけて、ようやく刃先を夏楠の咽喉のどに突き付けて──そこで、黎珠の動きは完全に停止した。

 構えた飛刀ぶきを、下ろすことができなかった。


「討ちなさい」


 揺れる殺意を、優しい声がそっと後押しした。

 白いまぶたが持ち上がり、金色こんじき双眸そうぼうあらわになる。美貌の龍は寝台にしたまま、ふわりと淡く笑んだ。


「迷う必要はない。この玄州を滅ぼさんとする私は、間違いなく悪しき龍だ。それで良い。それで良いんだ。お前は正しい」

「正しさを、説くなら……何故……」


 血を吐く思いで告げた黎珠とは裏腹に、穏やかな夏楠が恨めしかった。

 本気で殺してやりたいほど、憎くもあった。

 けれど、身体が動かない。


 堂々巡りを続けるうち、ふ、と風が動いた。

 凍てついた夜闇に、夏楠の柔らかな呼気が溶ける。

 それは凍てついた場にそぐわない、酷く幸福な吐息だった。


「構わず討て、()()


 その()()は、どちらのことを言っているのだろう。

 こんな彼に、なんと言って伝えれば良いのだろう。

 わからない。何もわからない、けれど。

 一つ口にできることがあるとすれば、それは死者は生き返らない、生き返らせるべきではない、ということだけだ。

 過去は覆せない。それは天が与えたもうた、真理だ。


「夏楠、死者は生き返りません。あなたの『黎珠』は、とうに死んだんです」

「何を言うんだ。黎珠は生きている。お前は、生きているじゃないか」


 ほがらかな声には知性が見える。その表情には生気がある。

 彼は現実を直視できず、逃げているわけではない。現実を見据えた上で、その延長で、会話をしている。

 あくまで正しく、狂っているのだ。


「わたしは『黎珠』ではありません。諦めましょう、夏楠。あなたの『黎珠』は、火災で亡くなった。もうこの世にはいないんです。そうでしょう?」


 こらえきれず、直截に告げても、夏楠は表情を変えなかった。

 ごくわずかに瞳を曇らせて、黎珠を見上げる。


 最初の夜を思わせる月明かりのもと、何かが壊れてしまったように、夏楠は言い連ねた。

 彼女は生きている、と。


ひどいことを言わないでくれ、黎珠。彼女は、お前は生きている。生きているじゃないか」

「いいえ、死にました」

「これではらちがあかないな。堂々巡りだ」


 困ったように笑う、その姿がやるせない。

 想いの深さは、まるで闇のようだ。

 彼はけっして激さない。揺るがない。あくまで静かに、かたくなに貫くのだ。結実することのない、見果てぬ夢をいだいて。

 その姿は、なんて、


「『黎珠』は、生きてる」


 なんて、美しいのだろう。

 そして切なく、かなしいのだろう。


「だから、黎珠。頼むからお前は、お前だけは否定しないでくれ」


 何故、こんなにも、いとおしいのだろう。


「否定しないでくれ、黎珠」


 こんなにも、この龍は残酷なのに。


「黎珠、お前に逢えてからの三ヵ月(みつき)は楽しかった。本当に、私には過ぎた幸せだった。だから、もういいんだ。最期は、お前がいい」

「……ッ!」


 一気に刃を振り上げる。

 限界まで振り上げて、そして、


 ──ああ、駄目だ、とわかった。


 甲高い音を立てて、飛刀が床に落ちる。その瞬間、自分は龍討師ではなくなったのだと黎珠は悟った。


 でも、ならば。

 今のわたしは、なんなのだろう。

 自分が何故ここにいるのか、わからない。

 存在意義がない。討師としての今までの生を、わたしは捨ててしまった。


 これから何を思い、何を指標とし、何をかてに生きてゆけば良いのか。

 何もわからず、ただ行き場のない感情があふれてこぼれた。


「……うっく……うぁっ…………」


 生まれて初めて、わらべのようなべそをかいた。

 泣きたくないのに、止め方がわからない。むせび泣く黎珠に、夏楠は身を起こしてこうべを垂れた。


「すまない、黎珠」

「っぐ、ううっ……うあああぁ……」

「すまない」


 すまない、とそれだけを夏楠は繰り返す。

 しかしそれでも、彼の決意は変わらないのだ。

 それがいっそう辛く、黎珠は泣きじゃくった。恥も外聞もかなぐり捨て、生まれて初めて、声を立てて泣いた。



 室内へやに嗚咽を響かせていると、やがて遠く、鳥の鳴き声が耳に届いた。

 どれほど泣き続けていたのだろう。外の景色がしらんできたころ、夏楠は不意に語調を変えて、黎珠を呼んだ。


「黎珠、ご覧」


 鼻をすすり、しゃくりあげながら、黎珠は夏楠を見た。

 彼が視線で示した窓には、ゆるやかに色を帯び始めた空がある。藍色から赤紫、薄紫に、最後が黄金色おうごんいろ。それは、見た者の心に寄り添うような──どこまでも柔らかな色でえがかれた、明けの空だった。


 寝台から天を仰ぎ、夏楠はまぶしげに眼を細めた。


「黎珠、夜が明けるよ」


 ささやくように言う。


「夜明け前が一番暗い。だが、陽光ひかりはすぐそこだ。どれほど辛いときがあろうとも、黎珠。夜は必ず明けるんだ。だからどうか、顔を上げておくれ」


 降り注ぐ明けの光を受け、夏楠は黎珠に語りかける。

 優しさばかりが満ちるその笑顔に、また涙が頬を伝った。


「黎珠。私の光、私の夜明け、私の『天黎てんれい』――」


 かけられた言葉のひつひとつが胸に沁みる。名も知らない感情に、心があたためられる。

 この夜明けを、自分は生涯忘れないと確信する。


 黎珠は再び、声を上げて泣いた。


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