12
綺麗な、満月の夜だった。
大気は澄み、よく晴れて足元が明るい。静かで、風もない。
けれど夜空の穏やかさに反して、飛刀を持つ手はみっともなく震えていた。手が汗ばむ。心臓は狂ったように脈打ち、呼気は浅く乱れたまま。
──なんて、酷い有様だろう。
死を前にしたときですら見せることのなかった醜態に、黎珠は唇を噛んだ。
いったい、いつの間に。絶望的な気持ちで思う。
自制には自信がある方だと思っていた。なのに、何故。いったいいつから、こんな風になってしまったのだろう。感情を抑えられなくなってしまったのだろう。
いつ? どの時点で?
黎珠には思い出せなかった。
いや、思い出してはいけないと思った。考えてはいけないと。
ごくりと唾を呑み、寝室の扉に手をかける。開いてくれるなと切望した戸は、すんなりと黎珠を招き入れた。
鍵すらなく、いとも簡単に。
──何故、施錠しない。
こちらの考えなど、とうに知れているだろうに。
何故、抗わない。何故、逃げないのだ。
わたしは龍討師なのに、どうして。
――何故、わたしを殺さない。
それは最初に抱いていた、短絡的な疑問ではない。
もう、わかる。今は気付いている。暗殺の知識は別として、里で培われた思想、考え方には、整合性がないという事実に。
そも、悪しき龍とは何なのか。その論拠は、判断基準はどこにあるのか。里長が『そう下した』という以外、黎珠は何も聞かされていない。
さらに言えば、黎珠は里長の顔も気質もよく知らない。面と向かって話した記憶もない。その必要性すら感じなかった。
よく知りもしない人物を盲目的に信じ、その命になんの疑問もなく従う。こんな不自然な状況にすら、つい最近まで気づかなかったのだ。
(里長の判断は、正しいのだと思う。思う、けれど……きっと夏楠は、死ぬべきではない)
何故なら彼には、能力がある。知恵がある。武勇がある。人望がある。
彼は黎珠のように、持たざる者ではないのだ。その治世をして天下に並びなし、と称されるほどに。
(本来、こんなところで潰えていい命ではない……)
誰かに命じられたからではない。
黎珠が、黎珠自身の判断でそう思っている。
しかし、かける天秤の片方が──その輝かしい功績をもってしても贖えない。あまりにも罪深い。
(見過ごすことはできない。夏楠が、玄州の滅びを招くというならば──)
討たねば、なるまい。
この玄州を、滅ぼさんとする大罪。仔細もわからない、まるで絵空事のような話を、しかし黎珠は確信していた。実際に相対し、感じた息遣い、眼に宿る光の強さでわかった。……真実なのだと、わかってしまった。
孝燕は嘘をついていない。
そして、夏楠は必ずやる。
だからこそ、抗わない。
だからこそ、黎珠をここへ招いた。
恐らくそこに、己が生かされた意味があったのだ。
(夏楠──)
鉛のような身体を動かし、寝所に足を踏み入れる。夜の帳が落ちた室で、窓際に寄せた寝台は月の光を受け、ほの白く浮いて見えた。月光に吸い寄せられるように、はっきりと足音を立てて、黎珠はその傍らに立った。
寝台で眠る夏楠に視線を落とす。
その白い横顔を見ると、たまらなく胸に迫るものがあった。
命を救われ、今日に至るまでの記憶が、めまぐるしく胸裏を駆け抜けてゆく。
――ああ、やはり。なんて、この龍は美しいのだろう。
こんなにも綺麗なものが、この世界にはあるのだと。
彼に逢うまで、黎珠はついぞ知らなかった。
――いけない。情に流されては。
未練を断ち切るように頸を振る。
意を決し、手にした飛刀をのろのろと掲げた。
刃が揺れる。
狙いが定まらず、手の震えが止まらない。
柄を握り込んだ手は、血の気が失せて蒼白だ。
時間をかけて、ようやく刃先を夏楠の咽喉に突き付けて──そこで、黎珠の動きは完全に停止した。
構えた飛刀を、下ろすことができなかった。
「討ちなさい」
揺れる殺意を、優しい声がそっと後押しした。
白い瞼が持ち上がり、金色の双眸が顕わになる。美貌の龍は寝台に臥したまま、ふわりと淡く笑んだ。
「迷う必要はない。この玄州を滅ぼさんとする私は、間違いなく悪しき龍だ。それで良い。それで良いんだ。お前は正しい」
「正しさを、説くなら……何故……」
血を吐く思いで告げた黎珠とは裏腹に、穏やかな夏楠が恨めしかった。
本気で殺してやりたいほど、憎くもあった。
けれど、身体が動かない。
堂々巡りを続けるうち、ふ、と風が動いた。
凍てついた夜闇に、夏楠の柔らかな呼気が溶ける。
それは凍てついた場にそぐわない、酷く幸福な吐息だった。
「構わず討て、黎珠」
その黎珠は、どちらのことを言っているのだろう。
こんな彼に、なんと言って伝えれば良いのだろう。
わからない。何もわからない、けれど。
一つ口にできることがあるとすれば、それは死者は生き返らない、生き返らせるべきではない、ということだけだ。
過去は覆せない。それは天が与えたもうた、真理だ。
「夏楠、死者は生き返りません。あなたの『黎珠』は、とうに死んだんです」
「何を言うんだ。黎珠は生きている。お前は、生きているじゃないか」
ほがらかな声には知性が見える。その表情には生気がある。
彼は現実を直視できず、逃げているわけではない。現実を見据えた上で、その延長で、会話をしている。
あくまで正しく、狂っているのだ。
「わたしは『黎珠』ではありません。諦めましょう、夏楠。あなたの『黎珠』は、火災で亡くなった。もうこの世にはいないんです。そうでしょう?」
堪えきれず、直截に告げても、夏楠は表情を変えなかった。
ごくわずかに瞳を曇らせて、黎珠を見上げる。
最初の夜を思わせる月明かりの下、何かが壊れてしまったように、夏楠は言い連ねた。
彼女は生きている、と。
「酷いことを言わないでくれ、黎珠。彼女は、お前は生きている。生きているじゃないか」
「いいえ、死にました」
「これでは埒があかないな。堂々巡りだ」
困ったように笑う、その姿がやるせない。
想いの深さは、まるで闇のようだ。
彼はけっして激さない。揺るがない。あくまで静かに、頑なに貫くのだ。結実することのない、見果てぬ夢を抱いて。
その姿は、なんて、
「『黎珠』は、生きてる」
なんて、美しいのだろう。
そして切なく、哀しいのだろう。
「だから、黎珠。頼むからお前は、お前だけは否定しないでくれ」
何故、こんなにも、愛おしいのだろう。
「否定しないでくれ、黎珠」
こんなにも、この龍は残酷なのに。
「黎珠、お前に逢えてからの三ヵ月は楽しかった。本当に、私には過ぎた幸せだった。だから、もういいんだ。最期は、お前がいい」
「……ッ!」
一気に刃を振り上げる。
限界まで振り上げて、そして、
──ああ、駄目だ、とわかった。
甲高い音を立てて、飛刀が床に落ちる。その瞬間、自分は龍討師ではなくなったのだと黎珠は悟った。
でも、ならば。
今のわたしは、なんなのだろう。
自分が何故ここにいるのか、わからない。
存在意義がない。討師としての今までの生を、わたしは捨ててしまった。
これから何を思い、何を指標とし、何を糧に生きてゆけば良いのか。
何もわからず、ただ行き場のない感情が溢れてこぼれた。
「……うっく……うぁっ…………」
生まれて初めて、童のようなべそをかいた。
泣きたくないのに、止め方がわからない。咽び泣く黎珠に、夏楠は身を起こして頭を垂れた。
「すまない、黎珠」
「っぐ、ううっ……うあああぁ……」
「すまない」
すまない、とそれだけを夏楠は繰り返す。
しかしそれでも、彼の決意は変わらないのだ。
それがいっそう辛く、黎珠は泣きじゃくった。恥も外聞もかなぐり捨て、生まれて初めて、声を立てて泣いた。
室内に嗚咽を響かせていると、やがて遠く、鳥の鳴き声が耳に届いた。
どれほど泣き続けていたのだろう。外の景色が白んできたころ、夏楠は不意に語調を変えて、黎珠を呼んだ。
「黎珠、ご覧」
鼻をすすり、しゃくりあげながら、黎珠は夏楠を見た。
彼が視線で示した窓には、ゆるやかに色を帯び始めた空がある。藍色から赤紫、薄紫に、最後が黄金色。それは、見た者の心に寄り添うような──どこまでも柔らかな色で描かれた、明けの空だった。
寝台から天を仰ぎ、夏楠はまぶしげに眼を細めた。
「黎珠、夜が明けるよ」
囁くように言う。
「夜明け前が一番暗い。だが、陽光はすぐそこだ。どれほど辛いときがあろうとも、黎珠。夜は必ず明けるんだ。だからどうか、顔を上げておくれ」
降り注ぐ明けの光を受け、夏楠は黎珠に語りかける。
優しさばかりが満ちるその笑顔に、また涙が頬を伝った。
「黎珠。私の光、私の夜明け、私の『天黎』――」
かけられた言葉のひつひとつが胸に沁みる。名も知らない感情に、心があたためられる。
この夜明けを、自分は生涯忘れないと確信する。
黎珠は再び、声を上げて泣いた。