10
「黎珠様」
読書中、唐突に孝燕に話しかけられた。
彼は意味もなく、無粋に声をかけるような男ではない。むしろ逆だ。こと他者の機微を読むことにかけ、彼は卓越していると黎珠は評価している。
だから話す前から、孝燕の言いたいことはわかっていた。
「はい。何か?」
書物から顔も上げずに応える。
素っ気ない黎珠の返事に少し、孝燕が苦笑したような気配が伝わった。
「少し、塞いでらっしゃるようにお見受けしますが。私どもが、何か粗相をしてしまったでしょうか?」
「いいえ、何も」
「では、天麗公と何かございましたか?」
──来たか。
無言で面を上げる。
腹を据え、正面から孝燕の眼を見て黎珠は口を開いた。
「何故、そう思うのですか?」
「黎珠様が、御前を避けてらっしゃるからです」
真っ直ぐな、迷いのない金の眼で孝燕は断じる。
彼の言葉はやはり的確で、実直だ。夏楠の側近を務めるだけのことはある。
「『何か気に障ることをしただろうか』と。とても気に病んでおりましたよ」
「あれが癇に障るのは、今に始まったことではないでしょう。この期に及んで何を」
「けれど今までの黎珠様は、それでも御前に付き合っておられた。楽しげにお話されていたではないですか」
「楽しくなどありません。楽しいと感じたことなんか、一度もない。ただの一度も」
「ですが黎珠様、御前は――」
「しばらく独りにしてください」
みなまで言わせず、孝燕を遮る。
思いのほか短気な自分に、内心辟易した。我ながら堪え性がないとは思うが、それでも言わずにはおれなかった。
──もう、構いやしない。
居直り、語気を強めて黎珠は孝燕に命じた。
「聞こえませんか? 出て行けと言っているんです。二度、同じことを言わせないでください」
言い切った直後、しかし意に反して、孝燕は満面の笑みを黎珠に返した。これは予想外の反応で、すぐに二の句が継げない。
黎珠が内心戸惑っているうちに、孝燕は視線を外へ向け、こう告げた。
「一刻ほどしてから、書庫へお行きください」
「はい?」
「天麗公の方から、いらっしゃいます」
ああ、とようやく理解する。
彼にはもう、とっくに悟られていたのだ、こちらの心情が。
どうやら完全な道化だったらしい。空恐ろしい限りだ。有能過ぎるのも考えものである。これでは夏楠も、孝燕に強く出られないわけだ。
「御前がいらっしゃるまでの間、お話しておきたいことがあります。少々御足労いただけますか?」
「生憎、そんな気分ではありませんので」
「『黎珠』様のもとへご案内しましょう」
これ以上ないほど、的確な殺し文句。
最後の抵抗すら、いとも容易く絡め取られてしまう。
ものが言えなくなった黎珠に、孝燕は「おや」と素知らぬ顔で頸をかしげた。
「違いましたか? 私はてっきり、それをお知りになりたいのだと」
「あなた、玃の化物ですね……」
「お褒めにあずかり光栄です。それでは、参りましょうか」
そう言い、軽やかに歩き出した孝燕を黎珠は追った。
業腹だが、彼の指摘は正しい。その話題こそ、黎珠が求めていたものなのだ。こちらに随行する以外の選択肢がないことも、計算のうちなのだろう。
孝燕に続き、室から廊下に出る。しばらく歩くと、孝燕は回廊を外れて庭園の中に足を踏み入れた。そのまま奥へと、無言のまま二名で細い石畳をたどる。
道は狭いが、見上げれば空の青さは健在だ。風も爽やかで、この季節にしては気温も高めである。こんな木々の間をどこまで進むのだろう──と黎珠が思い始めた矢先、急に視界の開けた場所に出た。
「広いですね」
まず、素直な感想が口をついた。
手入れが行き届いた層雲宮とは対照的に、そこは閑散とした広さを誇る空間だった。広場のようなそこには一面、正方形の石が敷かれ、それが朽ちた門を戴く大階段まで続いている。古びた門扉は閉ざされ、その奥は見えない。だが残された門の意匠には、過去の栄華のなごりが感じられた。
長期にわたって放置されたのだろう。ひび割れ、褪色した石の隙間に生えた雑草が、場にのどかな緑を添えていた。
遺跡、というのが、印象としては一番近い。
「層雲宮には、こんな場所があったのですね」
「はい。ここは少し奥まっていますから、黎珠様がご存じなくとも無理はありません。御前も、こちらへはほとんど足を向けませんし」
「……違います」
堪え切れずに否定すると、孝燕にしてはかなり貴重な、訝りの表情がこちらに向けられた。
彼でも心が読めないときがあるのか、と安堵に似た気持ちが広がる。
薄く苦笑いを浮かべ、黎珠は続けた。
「違うでしょう。それは、わたしの名ではありません。……だってわたしには、名がないのですから」
「恐れながら、私にとって今、黎珠様はあなたです」
「それでも、これは夏楠が付けた名です。わたしに、わたしではない『誰か』の。教えてください。この『黎珠』は、いったい何者なのですか?」
「『黎珠』様は――」
わずかに言い淀んでから、孝燕はその問いに答えた。
「『黎珠』様は、天麗公の想い人です」
──ああ、やっぱり。
ずっと胸にわだかまっていたものが、ようやく腑に落ちた気がした。
「そうですか。そうではないかと、薄々思っていました」
「ですが、黎珠様──」
何か言おうと口を開きかけた孝燕を制し、さらに黎珠は問いを重ねた。
「彼女は人なのですか? 龍ではなく?」
「おかしいですか? 人と龍が想いを通じ合うのは」
「いえ。ただ人と龍はあまり、そういった深い関係にならないものだと思っていました。漠然とですが」
「その感覚は一般的なものですので、間違いではありませんよ。かと言って、正しいとも言えませんが。まずは、少し歩きましょう。どうぞこちらへ。ご安心ください、疑問には順を追ってお答えしますから」
抜け目なく先手を打ち、孝燕は奥の閉ざされた門扉を示す。
彼は有能で手際の良い龍だ。その孝燕が、これほど回りくどい言動を取るのである。よほど込み入った内容なのだろう。
ひとまず孝燕の勧めに従い、歩きながら黎珠は別の話題を振った。
「ここは、何かの遺跡ですか?」
大階段を上がり、頭上の門を仰ぐ。古びた門扉の両端には、三本爪の精緻な龍の彫刻が彫られていた。人型ではない、顕現した龍の姿だ。風雨に晒され、ところどころ角や鱗が欠けている。もとは立派なものだったのだろう。
「そうですね、人からすれば遺跡でしょう。この門も、二百年以上前のものになります。ご覧になってるその龍、三本爪でしょ? 五本爪は不遜ということで、あえて三本に減らしてるんですよ。顕現した龍は五本ですから」
「なるほど、勉強になります。それで、この門の先には何が?」
「ご期待のところ申し訳ありませんが、実はなんにもありません。むしろこの門の先には、あまりお近づきになりませんよう。少し歩くと柵もなく、いきなり崖になっておりますので」
どこか力ない笑みを浮かべ、孝燕は朽ちかけた門を見上げる。
つられて、黎珠も彼に倣った。青く晴れた空と並び、焦茶にくすんだ門扉の対比がうら哀しい。
不意に、孝燕が龍の彫刻に腕を伸ばす。軽く指で触れただけで龍の塗装は剥がれ、ぼろぼろと地面に落ちた。
「昔、この門の向こうには塔がありましてね。とても大きくて立派で、内部には王母様を祀った霊廟もあったんです。もう全部焼けてしまって、今は何もありませんが」
「層雲宮はどこも手入れが行き届いて綺麗ですが、ここは手つかずなのですね」
「はい。ここはどうしても昔のことが思い出されてしまって、踏み込むことができませんでした」
「孝燕殿が?」
「私も、天麗公も、です」
そう言うと孝燕は再び、ゆるやかに空を仰いだ。しばし、両者に沈黙が流れる。
その間、余計な口を挟むことなく、黎珠は孝燕の反応を待った。
「……『黎珠』様、は」
かすかな緊張が伝わる。
いつも以上に慎重な口振りで、孝燕は語り始めた。
「正確に言うと、天麗公と同じ混血でいらっしゃいました。ただ、龍の血が強い天麗公と違い、『黎珠』様は少し、人の血が勝っていたようでした」
「その言い回しは──」
「今もここに、『黎珠』様はいらっしゃいます」
「ここ、ですか?」
「はい。ここのどこかに。……眠っておられます」
沈痛なその面持ちを見ていると、それ以上、孝燕に訊くことは躊躇われた。
仔細は聞かずとも、先ほどの話でだいたい成り行きは想像できる。本物の『黎珠』は塔の火災に呑まれ、大昔に亡くなっていたのだ。
崩れかけた門扉に手をかけ、黎珠は孝燕に訊ねた。
「この扉、開けてみても?」
「御随意に」
許可を受けて扉を開けると、目の前は本当に更地だった。野晒しにされた黄土色の石段と、塔があったのだろう平らな地面。その後ろには野草にまみれ、生い繁る木々が続いている。視線を少し遠くに投げれば空で、その足元にはわずかに雲海が見えた。
荒廃したその景色に、疑問を覚える。想い人がここで眠ると言うならば、何故、夏楠はこのような状態で放置しているのだろう。
「『黎珠』の墓はないのですか?」
「はい、ございません。それだけは頑として、天麗公がお許しにならなかったものですから」
「夏楠が? どうして? 想い人なのでしょう?」
「だからこそですよ。だからこそ、死を認めるわけにはいかなかった。墓を建てれば、本当にあの方が亡くなったことを認めることになるでしょう?」
「でも……死んだのでしょう?」
「はい、それは事実です。そのときは」
──そのときは? 話が見えない。
とうに黎珠の疑念を察知しているだろうに、孝燕はそれには答えぬまま、瞼を伏せた。
「……『黎珠』様は、天帝の愛娘なんですよ。今の玄州を生み出した、起源となる御方。そして今の天麗公は、いわば滅私の具現です。だからあんなにも穏やかで、澄みわたっている。しかし、あの静けさが私は怖い」
「あの、話の意図が──」
「本心を晒すことなど、今日まで考えもしなかったはずです。ずっと頑なに、明主たろうとした方ですから。だから──」
瞼を上げ、あたたかな面差しをこちらに向けて、孝燕は破顔した。
「あなたに向けて惜しみなく、想いが流れてゆくそのさまが、私は嬉しかった」
「……わたしは、夏楠を殺そうとする者ですよ」
「存じています。ですがまあ、ぶっちゃけて申し上げますと、御前と黎珠様が幸せなら、私はそれで満足なんです」
「わたしに殺されてもですか?」
「殺せますか?」
間髪入れずに問い返される。
「ええ。それが、わたしの務めですから」
逡巡しかけた応えを、かろうじて切り返す。
しかし、
「では、御随意に」
頭痛がするほど、さっぱりとした物言いが返ってきた。
やはり、理解できない。淡白に身を引く孝燕に、黎珠は諦め半分、半眼のまま一瞥を送った。
「あきれて二の句がつげませんね。あなたはそれでも、夏楠の臣下ですか?」
「無論ですとも。こと天麗公にかけては、尭国一の側近であると自負しております」
「左様ですか」
「左様でございます」
言い切ると、孝燕はくるりと身体を反転させ、大階段を降り始めた。
「さて。こちらとは別にもう一つ、黎珠様に見ていただきたい場所があります。どうぞ、こちらへ」
「え? はい」
この上、どこへ案内するというのだろう。
孝燕の後をついて行くと、ほどなく敷地が変化した。具体的には、層雲宮らしく歩道が整備された区画に入った。欠けた石畳は新しくなり、周囲には灯籠や、小綺麗な庭園が出現する。通行者を招くように敷かれた小路を歩くと、やがてその先に立派な廟堂が出現した。
小ぶりながら、朱塗りの上品な霊廟だ。一直線に廟まで敷かれた白石が、その上に建つ朱色の建築をよく引き立てている。玄州の場合、屋根は黒色に近い色が多いが、この廟の屋根は落ち着いた黄色だ。そこはかとなく女性らしい、華やかな印象の廟である。
「この廟は、『黎珠』のものではないですよね?」
念のため確認すると、孝燕は力強く頷いてみせた。
「はい。ここに『黎珠』様の御霊は奉られていません。この廟、実は例の火災の首謀者のものなのですが……天麗公の計らいで、こうして弔いをしたんです。──そうする、と。罪は水に流すと、そう約束したから、と」
「それで火災の元凶には立派なお堂、かたや『黎珠』は野晒しですか」
皮肉を込めて話しかけるが、孝燕からはなんの返答もない。不思議に思い、黙りこくる孝燕の顔を覗き込む。
「孝燕殿?」
「お教えします。御前の真意を」
廟の手前で立ち止まり、出し抜けに孝燕は口火を切った。