表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/81

「すまん、黎珠。怪我はなかったかね? 痛みは?」


 そう言って身をかがめる夏楠から顔をそむけ、黎珠は答えた。


「い、いえ。特には」

「そうか? 何やら元気がないように見えるが」

「気のせいです」

「だがなぁ……何か、無理をしていないかね?」

「無理なんかしていません!」


 瞬間、かっとなる。

 反射的に言い返してから、咄嗟とっさに口をつぐんだ。


 何をむきになっているのだろう。

 これではまるで、図星を刺されたようではないか。


「すまん、黎珠。私の早とちりだったな」


 夏楠は反論せず、身を引いて謝罪する。

 この龍はいつもそうだ。決していからず、逆らわず、こちらの非を指摘しない。さも当然のように、理不尽を呑むのだ。この柔和な微笑ほほえみで。


 ああ──本当に。

 本当に、この龍が憎い。

 憎くて、憎くて、どうしようもなく腹が立つ。


「まったく、何が楽しいのだか! 毎日へらへらと、おめでたいにもほどがある。不愉快です」

「そうだな。黎珠の言うとおり、私は果報者かほうものだ。なのに毎度不快な思いばかりさせて、本当にすまない」

「……何が『すまない』のですか?」


 問えば、夏楠は思いがけない様子で黎珠を見返した。

 ああ、その顔だ。悪意の欠片かけらすら見いだせないその顔が、たまらなくいやなのだ。


「あなたは何故、いつも謝るんですか? 違うでしょう? 悪いのはわたしでしょう? 何故、笑うんです。なんですか、それ。意味が──」


 意味が、わからない。

 もう何も見たくない。


 一歩、下がる。

 それを契機に反転し、きびすを返す。

 夏楠を置いて、逃げるように自室へ戻った。へやに入るなり、戸を力任せに閉める。外界が遮断されると、急に力が抜けた。みっともなく、ずるずるとその場にへたり込む。


 いつの間にか、肩で息をしている。

 それでようよう、自分が全力で走っていたことに気づいた。

 苦しい。咽喉のどがつかえて、胸に込み上げるものがある。


 ──自分はいったい、どうなってしまったのか。


 これは、なんなのか。

 わけのわからないものに、押し潰されそうになる。

 ただ嵐が過ぎるのを待つように、黎珠はその感情をやり過ごした。



✳︎



 層雲宮での暮らしは、まもなく三ヵ月(みつき)に差しかかろうとしていた。


 文字を大方教わってから、黎珠は書庫にこもることが多くなった。あの不可解な視線もいつの間にか感じなくなり、最近は日がな一日、この書庫なかで過ごしている。


 理由は簡単だ。

 層雲宮でここが一番、居心地が良かったからだ。


 書には、果てがない。ひとつ手に取れば、そのすぐ横に関連する別の書物があり、そのとなりにも近しい書物が並んでいる。数珠じゅず繋ぎに、知識を無限に得られるのだ。


 疑問があれば、書庫のどこかに必ず答えがある。

 不明な言葉は字典を、歴史は史書を、星は天文書を。地理学、数学、文学──あらゆる分野が網羅されたこの空間にいる限り、全能の神になったような万能感すら味わえる。


 壁面にみっしりと敷き詰められた書を好きなだけ引き抜き、興味の赴くまま片っ端から読み漁る作業は、本当に楽しかった。こんなにも心躍る経験は、生まれて初めてかもしれない。


 そして書籍に没頭することと引き換えに、夏楠や黒影、孝燕と対面する機会は減っていった。


 いや、この言い方には語弊がある。

 正確には、黎珠が彼らを避けていたのだ。


 手にした書を閉じ、黎珠は椅子の背もたれに体重を預けた。両脇に積み上げた書物の山から視線を上げ、薄暗い天井を見上げる。


 聞くところによると、書庫ここは夏楠が私的にあつらえたへやらしい。「読書家の天麗公へ」と、蔵書は寄贈も多いと孝燕が言っていた。中には夏楠を題材にした自叙伝もあるそうで、大変な人気だという。よほど民に好かれているのだろう。


 首府にはさらに膨大な書をおさめた宮殿があるから、いつかそこへ連れて行ってやろう──そんな話を聞いたのは、七日前だったか。

 それ以来、夏楠とは顔を合わせていない。


 いつか、などと。

 そんな日は、訪れるのだろうか。


 読みしの書を棚に戻し、黎珠は廊下の方へ身体からだを向けた。


 層雲宮の書庫は構造上、日があまり射さない。光を室内に入れるため、出入り口の扉には玻璃ガラスめ込まれている。扉越しに覗いた空はとっぷりと日が暮れ、暗くなっていた。


 と、ふいに人影が()ぎる。

 よくよく見ると、それは玻璃ガラスに映った自分の姿だった。


 正体が知れたところで視線を外しかけ、黎珠は唐突にその場で立ち上がった。ひっくり返る椅子も無視し、玻璃ガラスに駆け寄る。そこに映し出された我が身を、改めて凝視した。


 そこには貧相な顔立ちをした、かつての老婆は存在しなかった。年相応としそうおうの若さとすこやかさを備え、夏楠に贈られた紅色の衣装ふくまとった、少女が立っていた。


 変わりように驚いた。本気で眼を疑う。

 だが思い返せば、自室の鏡はろくすっぽ見ていない。髪は断る黎珠を無視して、夏楠や孝燕がよくくしけずっていた。


 害でもないと判断し、好きにさせていたことを思い出す。頭の中は常に彼らを出し抜くことばかりで、気にもかけていなかった。


 ──ほら、こんなに綺麗になった。

 そう喜ぶ夏楠を、見もせずに。


「いつの間に、こんなに……」


 玻璃ガラスの上で、透けた自分の輪郭りんかくをなぞる。

 血色の良いふっくらとした頬に、つややかな黒髪。常に青みを帯びていた唇は、べにを差したような朱に染まっていた。玻璃ガラスに触れる、その指先も白い。あれほど酷かったあかぎれは、嘘のように消えていた。


 ──夏楠に、逢わないと。


 脈絡もなく、そう思った。

 はやる気持ちのまま回廊に出て、速足で寝殿へと向かう。

 刻限は夜だ。夏楠はもう就寝しているかもしれない。運良く起きていたとしても、そのあと何をするかまでは考えていなかった。


 ただ、無性に逢いたかった。

 とても。どうしようもなく。


 外に出ると、夜空そらには満天の星が輝いていた。

 思ったほど寒さも感じない。武邑ぶゆうの山は地熱の影響で温泉が湧き、冬でも温暖なのだと書にはあった。


 ──そう、今では理由がわかるのだ。明確に。


 石灯籠とうろうだいだいに照らされた蓮池を過ぎ、寝殿を訪れる。やはり今日も、門番は不在だ。

 殿内を進み、夏楠の寝室からあかりが漏れているのを見て取り、黎珠は足を止めた。


 話し声が、聞こえる。

 回廊に差すほのかな光をたどり、黎珠はへやの扉に近づいた。わずかに逡巡したのち、向きを変えて中庭に回る。


 特に、これといった理由はなかった。ただ、いざ対面となると気が引けたのだ。まず、室内なかの様子を確認してから入ろうと思った。


 壁を伝ってゆくと、窓から光のおびが伸びている。しゃらん、というあの特徴的な、黎宝珠れいほうじゅ頸飾くびかざりのが聞こえた。細く窓が開いているようだ。


 音を立てないように近づき、黎珠は窓玻璃まどガラス越しに室内を覗き込んだ。


「こうしてお前と話すのも、久方ぶりだな」


 気安い口調が聞こえた。

 椅子に深く腰掛け、黎宝珠の頸飾りを手に、普段よりもくつろいだ様子の夏楠が見えた。


「昔はかかさず、毎夜話しかけたものだが。近頃はそんな余裕もなかったしな」


 嬉しそうに夏楠は語るが、円卓を挟んだ彼の真向いは空席からだ。室内には、ほかに誰かがいるようには見ない。


 最初は黒影コクエイに話しているのかと思ったが、それも違った。いらえがないのだ。黒影は先ほどからずっと、沈黙を守っている。


 それに誰かとの会話としては、夏楠の応答の間が短いように思えた。問答する口調を取りながらも、返事を期待しているわけではないのだ。


 夏楠は一方的に語りかけている。

 黎宝珠と──話をしている。


 黎宝珠を通して、親しい『誰か』に。

 そんな印象を持った。


 今夜の夏楠は、どことなく陽気だ。ほんのり染まった頬と酒杯から察するに、したたか酔っているらしい。さとい彼にしては珍しく、黎珠こちらには気づいていないようだった。


 あの月夜に対峙して以降、黎珠が初めて見る夏楠が、そこにはいた。


「黎珠が、元気になったよ」


 唐突に名を呼ばれ、肩が跳ねる。

 夏楠は構わず、言葉を重ねた。


「立って、歩いて、息をして。私と話をしてくれるんだ。仏頂面で」


 ころころと、男の癖に鈴を転がすような声で笑う。

 いつもの彼であれば、文句の一つも垂れたかもしれない。だが今宵に限り、黎珠は沈黙を貫いた。そうさせる響きがあったのだ。


 まるで、とても大切な宝箱をそっと開くような。形容しがた静謐せいひつさが、今の夏楠にはあった。


「可愛いんだ、とても。あまりにもいとけないもんだから、甘やかしてやりたくってしょうがない。でも、黎珠はちっとも甘やかさせてくれないんだ、お前と一緒で。ああ──いや」


 まるで、春から冬へ逆行するように。急激に喜色が失せてゆく。

 軽やかで優しげだった笑みが、こごえて憂いを帯びたものに変わる。夏楠のものとは思えぬほど、弱くか細い声が告げた。


「いや、違うな。こちらが甘えるばかりで……あのときの私にできることなぞ、何一つなかったな。私は、何もできなかった」


 そう独白し、夏楠は手中の黎宝珠に視線を落とす。長い睫毛まつげを伏せたその横顔は、どこか泣いているようにも見えた。


「なあ、私は上手くやれているだろうか。お前は喜んでくれるか? 黎珠は滅多に笑わないんだ。お前は、あんなによく笑っていたのに」


 黎宝珠を握り、そのままひたいに寄せる。

 祈るような声で、彼は続く言葉をつむいだ。


「……あいたいな」


 思わず、といったていだった。

 自分でもそうと知らず、口から滑り出た。

 本音がこぼれてしまった。そんな音感だった。


 だからなおさら、続けられた言葉は、黎珠にこたえた。


「ただ一度でいい。もう一度、お前に逢いたいよ──『()()』」


 その一言で、世界が反転した。

 この『黎珠』は、黎珠わたしではない。

 注がれる想いは、黎珠わたしに対してではない。


「『黎珠』、お前に逢いたい」


 黎珠わたしではない、別の──いとしい、誰か。


 息が詰まる。

 視界が歪み、ひざふるえる。

 溺れるような動作でみっともなく、必死で窓から離れた。幾度も転びそうになりながら、情けない足取りで夜道を走る。


「――――は、はあッ、はあッ」


 どうやって走ってきたか、記憶にない。

 真っ暗な自室に戻ってからも、呼吸いきがいっこうに整わない。

 酷く、咽喉のどが苦しい。何故だろう、視界がぼんやり滲んでいる。

 胸が痛い。痛くて痛くて、涙があふれて止まらない。


「わ、わたし……」


 口から、今まで聞いたことのないような声が出た。

 嗚咽おえつを押し殺し、自身の両肩を抱いてひざを折る。


 何故、このような状態ことになってしまったのか。

 いつの間にわたしは、変わってしまったのか。

 もうわからない。知らない。

 何も考えたくない。


「わたしは、莫迦だ……」


 ついえた声は、ふるえる吐息とともに闇夜に霧散した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ