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「すまん、黎珠。怪我はなかったかね? 痛みは?」
そう言って身をかがめる夏楠から顔を背け、黎珠は答えた。
「い、いえ。特には」
「そうか? 何やら元気がないように見えるが」
「気のせいです」
「だがなぁ……何か、無理をしていないかね?」
「無理なんかしていません!」
瞬間、かっとなる。
反射的に言い返してから、咄嗟に口を噤んだ。
何をむきになっているのだろう。
これではまるで、図星を刺されたようではないか。
「すまん、黎珠。私の早とちりだったな」
夏楠は反論せず、身を引いて謝罪する。
この龍はいつもそうだ。決して怒らず、逆らわず、こちらの非を指摘しない。さも当然のように、理不尽を呑むのだ。この柔和な微笑みで。
ああ──本当に。
本当に、この龍が憎い。
憎くて、憎くて、どうしようもなく腹が立つ。
「まったく、何が楽しいのだか! 毎日へらへらと、おめでたいにもほどがある。不愉快です」
「そうだな。黎珠の言うとおり、私は果報者だ。なのに毎度不快な思いばかりさせて、本当にすまない」
「……何が『すまない』のですか?」
問えば、夏楠は思いがけない様子で黎珠を見返した。
ああ、その顔だ。悪意の欠片すら見いだせないその顔が、たまらなく厭なのだ。
「あなたは何故、いつも謝るんですか? 違うでしょう? 悪いのはわたしでしょう? 何故、笑うんです。なんですか、それ。意味が──」
意味が、わからない。
もう何も見たくない。
一歩、下がる。
それを契機に反転し、踵を返す。
夏楠を置いて、逃げるように自室へ戻った。室に入るなり、戸を力任せに閉める。外界が遮断されると、急に力が抜けた。みっともなく、ずるずるとその場にへたり込む。
いつの間にか、肩で息をしている。
それでようよう、自分が全力で走っていたことに気づいた。
苦しい。咽喉がつかえて、胸に込み上げるものがある。
──自分はいったい、どうなってしまったのか。
これは、なんなのか。
わけのわからないものに、押し潰されそうになる。
ただ嵐が過ぎるのを待つように、黎珠はその感情をやり過ごした。
✳︎
層雲宮での暮らしは、まもなく三ヵ月に差しかかろうとしていた。
文字を大方教わってから、黎珠は書庫に籠ることが多くなった。あの不可解な視線もいつの間にか感じなくなり、最近は日がな一日、この書庫で過ごしている。
理由は簡単だ。
層雲宮でここが一番、居心地が良かったからだ。
書には、果てがない。ひとつ手に取れば、そのすぐ横に関連する別の書物があり、そのとなりにも近しい書物が並んでいる。数珠繋ぎに、知識を無限に得られるのだ。
疑問があれば、書庫のどこかに必ず答えがある。
不明な言葉は字典を、歴史は史書を、星は天文書を。地理学、数学、文学──あらゆる分野が網羅されたこの空間にいる限り、全能の神になったような万能感すら味わえる。
壁面にみっしりと敷き詰められた書を好きなだけ引き抜き、興味の赴くまま片っ端から読み漁る作業は、本当に楽しかった。こんなにも心躍る経験は、生まれて初めてかもしれない。
そして書籍に没頭することと引き換えに、夏楠や黒影、孝燕と対面する機会は減っていった。
いや、この言い方には語弊がある。
正確には、黎珠が彼らを避けていたのだ。
手にした書を閉じ、黎珠は椅子の背もたれに体重を預けた。両脇に積み上げた書物の山から視線を上げ、薄暗い天井を見上げる。
聞くところによると、書庫は夏楠が私的にあつらえた室らしい。「読書家の天麗公へ」と、蔵書は寄贈も多いと孝燕が言っていた。中には夏楠を題材にした自叙伝もあるそうで、大変な人気だという。よほど民に好かれているのだろう。
首府にはさらに膨大な書をおさめた宮殿があるから、いつかそこへ連れて行ってやろう──そんな話を聞いたのは、七日前だったか。
それ以来、夏楠とは顔を合わせていない。
いつか、などと。
そんな日は、訪れるのだろうか。
読み止しの書を棚に戻し、黎珠は廊下の方へ身体を向けた。
層雲宮の書庫は構造上、日があまり射さない。光を室内に入れるため、出入り口の扉には玻璃が嵌め込まれている。扉越しに覗いた空はとっぷりと日が暮れ、暗くなっていた。
と、ふいに人影が過ぎる。
よくよく見ると、それは玻璃に映った自分の姿だった。
正体が知れたところで視線を外しかけ、黎珠は唐突にその場で立ち上がった。ひっくり返る椅子も無視し、玻璃戸に駆け寄る。そこに映し出された我が身を、改めて凝視した。
そこには貧相な顔立ちをした、かつての老婆は存在しなかった。年相応の若さと健やかさを備え、夏楠に贈られた紅色の衣装を纏った、少女が立っていた。
変わりように驚いた。本気で眼を疑う。
だが思い返せば、自室の鏡はろくすっぽ見ていない。髪は断る黎珠を無視して、夏楠や孝燕がよく梳っていた。
害でもないと判断し、好きにさせていたことを思い出す。頭の中は常に彼らを出し抜くことばかりで、気にもかけていなかった。
──ほら、こんなに綺麗になった。
そう喜ぶ夏楠を、見もせずに。
「いつの間に、こんなに……」
玻璃の上で、透けた自分の輪郭をなぞる。
血色の良いふっくらとした頬に、艶やかな黒髪。常に青みを帯びていた唇は、紅を差したような朱に染まっていた。玻璃に触れる、その指先も白い。あれほど酷かった皸は、嘘のように消えていた。
──夏楠に、逢わないと。
脈絡もなく、そう思った。
はやる気持ちのまま回廊に出て、速足で寝殿へと向かう。
刻限は夜だ。夏楠はもう就寝しているかもしれない。運良く起きていたとしても、そのあと何をするかまでは考えていなかった。
ただ、無性に逢いたかった。
とても。どうしようもなく。
外に出ると、夜空には満天の星が輝いていた。
思ったほど寒さも感じない。武邑の山は地熱の影響で温泉が湧き、冬でも温暖なのだと書にはあった。
──そう、今では理由が解るのだ。明確に。
石灯籠の橙に照らされた蓮池を過ぎ、寝殿を訪れる。やはり今日も、門番は不在だ。
殿内を進み、夏楠の寝室から灯りが漏れているのを見て取り、黎珠は足を止めた。
話し声が、聞こえる。
回廊に差すほのかな光をたどり、黎珠は室の扉に近づいた。わずかに逡巡したのち、向きを変えて中庭に回る。
特に、これといった理由はなかった。ただ、いざ対面となると気が引けたのだ。まず、室内の様子を確認してから入ろうと思った。
壁を伝ってゆくと、窓から光の帯が伸びている。しゃらん、というあの特徴的な、黎宝珠の頸飾りの音が聞こえた。細く窓が開いているようだ。
音を立てないように近づき、黎珠は窓玻璃越しに室内を覗き込んだ。
「こうしてお前と話すのも、久方ぶりだな」
気安い口調が聞こえた。
椅子に深く腰掛け、黎宝珠の頸飾りを手に、普段よりもくつろいだ様子の夏楠が見えた。
「昔はかかさず、毎夜話しかけたものだが。近頃はそんな余裕もなかったしな」
嬉しそうに夏楠は語るが、円卓を挟んだ彼の真向いは空席だ。室内には、ほかに誰かがいるようには見ない。
最初は黒影に話しているのかと思ったが、それも違った。応えがないのだ。黒影は先ほどからずっと、沈黙を守っている。
それに誰かとの会話としては、夏楠の応答の間が短いように思えた。問答する口調を取りながらも、返事を期待しているわけではないのだ。
夏楠は一方的に語りかけている。
黎宝珠と──話をしている。
黎宝珠を通して、親しい『誰か』に。
そんな印象を持った。
今夜の夏楠は、どことなく陽気だ。ほんのり染まった頬と酒杯から察するに、したたか酔っているらしい。敏い彼にしては珍しく、黎珠には気づいていないようだった。
あの月夜に対峙して以降、黎珠が初めて見る夏楠が、そこにはいた。
「黎珠が、元気になったよ」
唐突に名を呼ばれ、肩が跳ねる。
夏楠は構わず、言葉を重ねた。
「立って、歩いて、息をして。私と話をしてくれるんだ。仏頂面で」
ころころと、男の癖に鈴を転がすような声で笑う。
いつもの彼であれば、文句の一つも垂れたかもしれない。だが今宵に限り、黎珠は沈黙を貫いた。そうさせる響きがあったのだ。
まるで、とても大切な宝箱をそっと開くような。形容し難い静謐さが、今の夏楠にはあった。
「可愛いんだ、とても。あまりにも稚いもんだから、甘やかしてやりたくってしょうがない。でも、黎珠はちっとも甘やかさせてくれないんだ、お前と一緒で。ああ──いや」
まるで、春から冬へ逆行するように。急激に喜色が失せてゆく。
軽やかで優しげだった笑みが、凍えて憂いを帯びたものに変わる。夏楠のものとは思えぬほど、弱くか細い声が告げた。
「いや、違うな。こちらが甘えるばかりで……あのときの私にできることなぞ、何一つなかったな。私は、何もできなかった」
そう独白し、夏楠は手中の黎宝珠に視線を落とす。長い睫毛を伏せたその横顔は、どこか泣いているようにも見えた。
「なあ、私は上手くやれているだろうか。お前は喜んでくれるか? 黎珠は滅多に笑わないんだ。お前は、あんなによく笑っていたのに」
黎宝珠を握り、そのまま額に寄せる。
祈るような声で、彼は続く言葉を紡いだ。
「……あいたいな」
思わず、といった体だった。
自分でもそうと知らず、口から滑り出た。
本音がこぼれてしまった。そんな音感だった。
だからなおさら、続けられた言葉は、黎珠に堪えた。
「ただ一度でいい。もう一度、お前に逢いたいよ──『黎珠』」
その一言で、世界が反転した。
この『黎珠』は、黎珠ではない。
注がれる想いは、黎珠に対してではない。
「『黎珠』、お前に逢いたい」
黎珠ではない、別の──いとしい、誰か。
息が詰まる。
視界が歪み、膝が震える。
溺れるような動作でみっともなく、必死で窓から離れた。幾度も転びそうになりながら、情けない足取りで夜道を走る。
「――――は、はあッ、はあッ」
どうやって走ってきたか、記憶にない。
真っ暗な自室に戻ってからも、呼吸がいっこうに整わない。
酷く、咽喉が苦しい。何故だろう、視界がぼんやり滲んでいる。
胸が痛い。痛くて痛くて、涙があふれて止まらない。
「わ、わたし……」
口から、今まで聞いたことのないような声が出た。
嗚咽を押し殺し、自身の両肩を抱いて膝を折る。
何故、このような状態になってしまったのか。
いつの間にわたしは、変わってしまったのか。
もうわからない。知らない。
何も考えたくない。
「わたしは、莫迦だ……」
潰えた声は、震える吐息とともに闇夜に霧散した。