上陸
修正しました。
二百年と少しぶりの地上世界への”帰郷”。しかしエニシダの胸には何の感慨も湧かない。
頬を撫でる清廉な夜風。徐々に闇にも目が慣れてきた。
開けた場所に出たらしい。頭上に瞬く星明かりの他に光源はない。
背の低い木々がまばらに点在するなだらかな斜面。
彼らがいるのは小高い丘のようだった。
「うわ、瘴気うっす!」
エニシダの主が愚痴を言った。
その土地に暮らす者の悪意や負の感情が凝って、瘴気が生まれるのだという。
人間であるエニシダの五官が瘴気を感じ取ることはないが、濃厚な悪意に満ちている魔界と比べてもこの丘の瘴気は薄そうだ。
人の営みがないのだから。
「周囲に村落はおろか人家も見当たりませんね」
「こんな所にいたら息が詰まっちまう」
「呼吸、必要ないでしょう」
「いや一応してるよ?」
アケイロンが挙手した。
「なんだ」
「はっ。丘を下り、川を探すことを提言いたします!」
「川ね。その心は?」
「人間は水場の近くにて群れ、居を構えるものと聞き及んでおります!」
「いい考えだ。俺もそうしようと思ってた」
「はっ。光栄の至り!聡明なるわが主におかれまし――」
ギジッツがパンと手を叩く。
アケイロンは物言わぬ彫像になった。
「とりあえず人間のいそうな場所を探すか。接触には慎重を期したい。川か、街道か何か見つかったらそれ伝いに進もう」
よく晴れた夜で、幸い見晴らしは良かった。先頭と後ろに魔族、間に女一人の三人連れが丘を下る。
「で、アケイロンの今後のことだが」
アケイロンがこくこくと頷く。黙っているのは発言を許可されていないためだ。
犬のようだとエニシダは思った。尻尾があったら今にも振り出しそうだ。
「エニシダの部下に付ける。決定ね」
「はい?」
耳は遠くない。彼女の気のせいでなければ、確かに彼女の部下に付けると言った。
「お前は戦闘力は無いに等しいからな。何かあれば当然俺が守るけど、一応、念のためな。保険だよ。便利に使ってやれ」
「いえ、お気遣いは有り難いのですが」
全然ありがたくない。
「身を守る術でしたら、護衛人形があります」
風が起こりエニシダの周囲で白い煙が渦を巻いた。見る間に煙が固まって足、胴、腕の形をとっていく。
たちまち護衛人形が二体生み出された。
つるりとした陶器のような質感だが、その硬度は陶器の比ではない。
彼女に近づく者は敵とみなし、矢や投石といった飛来物からの盾にもなる。そう命令している。
護衛人形たちはアケイロンに目鼻のない白い顔を向けると、きびきびとした動きで近寄って殴り始めた。
ドカッ、ゴンッと鈍い打撃音が鳴る。アケイロンは手出しできない。
「それは、いいわ」
新しい命令を付け加えると護衛人形は即座に殴打をやめた。跪いてエニシダの傍に控える。
しこたま殴られたアケイロンの顔は変形していたが、ほどなくして元に戻りはじめた。
「まあたしかにソレ便利だけどな」
エニシダが念じると、護衛人形たちは白い煙になって霧散した。
アケイロンは鬱陶しいが、ギジッツとしてはそれだけで遠ざけるのは少し勿体ないと思い始めていた。
聞けばアケイロンは大魔公レビーテの下から独り立ちし地上を目指していたのだという。
その力は上級魔族の中位に相当する子爵級。地上での手駒の一つとしては申し分ない。
ただし、その忠誠が自分とエニシダに向けられているかどうかを見極める必要があった。
「いいからとっとけ。あんまり使えないようだったら考える」
エニシダが項垂れた。
彼女が歓迎していないのを承知で、今度はアケイロンに向き直る。
「わかってるとは思うがエニシダに手ぇ出したら潰す。
守らなかったら潰す。逆らっても潰す」
アケイロンは真剣そのものの表情で頷く。
「あと、俺は当然としてエニシダの命令にも絶対服従な。理解したら返事」
「御意!!」
ギジッツの拳がアケイロンの鳩尾に突き刺さった。
「ウゴォフッ!」
「俺はうるさいのが嫌いだ。よく覚えておくように」
「(御意…)」
蚊の鳴くような声。
「返事が聞こえん!」
ダメ押しにもう一発殴った。
「ゴッフォッ…!御意に…。わが主」
「お前の主はこっちな」
適切な声量を確認すると、エニシダの方を見やる。
諦めとか通り越して思いっきりドン引きした様子だった。
兎人という種族は何といっても耳がいい。
その兎人は生来の耳の良さに加えてよく訓練されており、三里先の地面に硬貨が落ちた音でも聞き取れる自信を持っていた。
無人の丘。静かな夜。
物音といえばかすかな葉擦れの音だけ。
話し声がするなど考えられなかった。しかし、彼の耳はそれをとらえたのだ。
(三人だな…。どこの言葉だ?)
突然だった。どこから現れたのだろう?この先には何もない。
彼、クラジは自分の潜んでいる断崖の縁から、眼下に広がる森の一点に改めて目を向けた。
クラジは斥候として雇われた。
森の一角が伐り拓かれている。そこが監視対象、獅子族の秘匿された軍事拠点の一つだと説明されていた。
どこまでが真実なのか。雇い主の本当の名も顔もわからない。
クラジはまとまった金を必要としている。それもできるだけ早く。
正規のルートを通さない、前金だけで300ジェムの依頼。成功報酬も含めれば相場の五倍。破格といえた。
怪しい話なのはわかっていたが、まごついていればチャンスは去ってしまう。彼は飛びついた。
(砦に動きがあれば詳細を記録し報告するように、つって今のところ何もないし)
日の昇る前から監視を続けていたが、砦は沈黙を貫いた。出入りする者もいなかった。
そこに、何者かが現れたのだ。まだ交代要員の来る時間ではない。
(オレの他の斥候?)
それにしてはあまりに不用心だった。素人丸出しだ。
思いついた他の可能性を一つ一つ、素早く吟味し除外していく。
もっとも蓋然性のある仮説は……
(ばれた。回り込まれている)
声は、歩くような速度でクラジの方に向かっている。
おそらくゆっくりと包囲されつつあるのだろうが、聞き取れたのは三人の声だけだ。
練度の低い兵なのだろう。その三人の私語に感謝しなければ。
距離はまだある。
オレの耳が欺かれるはずはないと思っていたが…
とにかく、声や足音のしない方へ。
クラジは依頼主の情報を持っていないが、捕縛されればそんな事は関係なくなる。
手早く痕跡を消す。荷をまとめて擬装を解くと崖から飛び出した。
その夜、砦に動きがあったが、クラジがそれを知ることはなかった。
アケイロンが挙手した。
………
……
あ、そうか。
「エニシダ、お前の部下だぞ」
「ええ~……」
エニシダが嫌々といった様子でアケイロンの発言を促した。
「報告致します。わが鼻が人の匂いをとらえました」
「人?」
「あちらから微かに、におったのです。おそらく潜伏していたものと」
「そんな便利能力持ってたのお前」
何もない丘。こんなとこで何してたんだ。
魔族が出てきたってバレると面倒くさそうだ。
「そこそこの速度で我々から遠ざかっていきます。我々の存在に気付いたのやもしれません」
バレとるんかい!
いや、なんで逃げるのかはわからないが、まだ俺達が魔族だという確証はないだろう。多分。さすがに。こちらから姿が見えない以上はこちらの姿も見られていないはずだ。
まずは情報の真偽を確かめよう。閃きがあった。
「エニシダ。逃げるヤツを上から確認したい。夜目の利く鳥みたいなの出せるか」
「仰せのままに」
上に向けたエニシダの掌から黒い水が染み出して闇に溶けていく。
空中に瞼が開いた。
「私と視覚を共有する"目"をつくりました」
エニシダは片目を瞑っている。"目"が音もなく遥か上空に移動した。
「暗視くん一号とでも名付けましょう。ついでに二号でこの辺りを探りますか」
最初からそうしてれば良かった。
「頼む」
よく見れば"暗視くん"からは細い、黒い糸のようなものが伸びており、エニシダの手と繋がっている。
どうでも良いけど暗視くんってネーミングはどうなの。
「いました。投影します」
黒い糸が布のように広がり、上空からの俯瞰視点らしい映像がうつる。
画面の中の草原を点が動いていた。他に動くものはない。
点が拡大され、頭から長い耳を生やした人であるらしいと判別できた。
「あれは兎人か?」
「そのようですね。彼らの耳は特別です」
音で俺達を探知したということだろう。兎人の耳と同じ程度の距離を嗅ぎ分けられるのならアケイロンの鼻も大したものである。
やっぱりコイツ、それなりに使えそうだ。たぶん叛意もなさそうだし。
「アケイロンのお手柄だな。エニシダ、褒めてやれ」
「えっ」
「お前の部下だから」
「……よ、よくできました」
たぶん褒める時にする表情じゃない。
後ろ手に直立不動を保っていたアケイロンがさらにピッと姿勢を正した。
エニシダと対照的に、その顔は輝いている。
「身に余る光栄です!」
自分で命じといてなんだけど、なんだこれ。
「あとなんかあるか?」
「丘の周辺には森があるだけですね。兎人の装備と足取りの迷いのなさから考えて、彼の行く先に人里があるのかもしれません」
森。虫がうじゃうじゃいて気持ち悪いし、何より瘴気も薄そうだ。
そっちは無視でいいだろう。
「じゃあ逃げた兎人の後を尾けるか。暗視くんはそのまま出しといて」
地上の情報はなんであれ欲しい。
可能なら逃げた理由まで突き止めたいところだ。